月草の、籠を背負い、野道を行く。昨晩までの雨はもう止んだようで、黒い雲ははるか彼方。風の生ぬるさに眉を顰め、ああ、夕陽が落ちる頃にはまた一雨くるなと高坂は足を早めた。
緑が生い茂る土手の中に目当てのものがある。青く小さな花を咲かせるのは露草で、花の汁は口の中の腫れ物、目が赤くなった時、また尻が切れた時などに搾って塗ると良い。葉を乾燥させたものを煎じて飲めば、熱が出た時や腹を下した時に効く。
薬とは別に、露草はクセがなくて食べやすいから若芽を摘んでお浸しにすると美味しいのである。せっせと柔らかい葉を摘み、籠に入れた。この辺りは群生しているようで、沢山あるのが嬉しい。花芽は綿の布で作った袋に入れて、一通りを摘んだ。
はぁ、と立ち上がり腰を叩くと少し先の林道に入る手前、木陰になったところに薄紅色の可憐な花が咲いているのが目に入った。
「イチヤクソウ!」
ポツポツと野山に生えている花だが、生えているところが限られているためか中々数を採取することが難しい花である。葉の汁は打撲や切り傷に良く効く薬となり、煎じたものはむくみにも良い。風呂に入れれば保温も出来て便利な花は見つければ採取するが、全てを取ってしまうと次が無くなるので困ったものである。
「ほんの少しだが、雑渡様の湯に入れよう」
ついこの間までは清拭しか出来なかったようだが、傷口の容態が安定して、少しならば湯に浸かることも出来るようになったらしい。温かい内に布団に入れば良く眠れるだろうから。
起き上がり、もう歩き回れるようになったとも聞いたため、そろそろ鍛錬も始めるのだろうか。
諸泉の、尊奈門の父を助けに火の中へ入って行ったと聞いた時は高坂の心の臓が潰れるほどであった。看病をさせてほしい、側にと願ったが外から来る者は雑渡の身体に障るのだと拒まれてしまって、ただただ回復を願うことしか出来ない。
側にいられないのならば、雑渡のために出来ることは忍軍としてその責務を果たすことだけである。雑渡の代わりなど務められるわけがないことは誰もがわかっていて、それでもその姿がないことを敵国に気取られるわけにもいかない。タソガレドキ忍軍の強さは健在で、その脅威を誇示し続けるために。
「いつ雑渡様が戻って来られても大丈夫なように」
それは己に言い聞かせるように、何度も何度も呟いた。
高坂の名を名乗ってはいるが、勘当されておりその後ろ盾はない。山本が烏帽子親になってくれなければ、ただの左衛門である。そんな己を稚児として拾い上げてくださった雑渡に、恥じぬ己でありたい。例え、その役目を一度も賜っていないのだとしても、だ。
「稚児だと周りには言うが、ただの側仕えとしてだから気を張らなくてもいい」
「はい」
そう伝えられた時は、言われたことの半分も理解をしておらず、稚児の役目は他にあるのだと雑渡ではない大人にそれを聞いて頭が真っ白になったことは覚えている。
狼隊に受け入れて貰えたことが終わりではなく、ただの始まりであったことも理解せず、呑気にしていた己が恥ずかしくて堪らなかった。ここで強くなって、ざっとの役に立つのだと、愚かなことばかりを考えていた。
閨での作法は、隠れて書で読み、わからぬところは押都に訪ねた。教養や様々な作法、しきたりは押都が師となってくれていたからである。雑渡に聞けば教えてくれるだろうが、きっと続く言葉は「そんなことはしなくても良い」だとわかっていた。
終ぞ、雑渡の閨にあげられることは一度もなかったが。雑渡が火傷を負って、側にいることも許されない。一年と半年が経った今、もう既に背や手足は童とは到底呼べぬほど伸びた。声もすっかり低くなり、ここに来た面影は無くなってしまっただろう。もはや、己のことも、雑渡はわからなくなってしまったかもしれない。幼くて、小さな雑渡の陣左はもういない。
ツンと鼻の奥が痛くなり、啜る。雨の後だから、木陰で冷えただけだと言い聞かせてその場を後にした。
道中でカタバミを見つけて少しだけ千切って口に入れる。口に広がる酸味は歩き回って疲れた身体にちょうどよかった。沢山食べると石が出来るとか。たまにこうして口に放り込むくらいが良いのだと、山本が言っていた。
もぐもぐと口を動かして竹筒の水をひとくち。暑くなると食欲の落ちる小頭たちにも酸いものは良いのではないだろうか。そういえば少し前にカラモモが実をつけていたことを思い出した。食べ頃のものが多く、色付いていればよいのだけれど。
籠を背負い直し、山を登る。柑子や枇杷の木に混じって植っているカラモモの木は、押都から教わった場所で、疲れた時はこっそりとここで実をもいで食べたものだ。
「これくらい熟れていたら十分だ」
ひとつ手に取り装束の袖で軽く表面を擦って汚れを取り、齧った。柔らかな果肉から甘い汁が滴り、口の中いっぱいに広がる。今年は果実物も豊作なようで、枝がしなるほど実をつけていた。隣の枇杷は、少し摘果しないといけないなと。沢山実をつけるのは良いが、大きく育たないし、味も悪くなる。何事も欲張ってはいけないのだと、これも押都や山本の談であった。
カラモモを採るとかなり籠が重くなってしまったので、そろそろ頃合いかと山を降りる。その際に、ナルコユリを見つけてしまい、どうしようか迷ったものの、勿体無い精神でいくつかの花根を掘り返して、若芽と花は沢山摘んだ。露草もクセがなく美味しいが、ナルコユリは仄かな甘みがあってこれもまた美味しい。
ナルコユリの根茎は滋養強壮に良く、酒に漬けたものは精力剤として高く売れるのだ。一瞬精力剤と雑渡の顔が思い浮かんだが、あの方はきっとそういったものは求めていない。滋養強壮として、煎じられるだろうとぷるぷると頭を振り、今度こそ帰ろうと背負った籠を揺すって、山を駆けたのだった。
里に着く頃には黒い雲が山を覆い、遠くではもう降り出しているようである。間に合ってよかったと、厨に続く勝手から入れば、羽をむしった雉が押都の手に握られていた。
「お、押都様」
「高坂が今日の番か?」
週に一度は厨番が厨を空ける日となっており、今日がその日であった。隊毎に隔週で当番を回しているのだが、今週は高坂が担う。はい、と頷けば押都は手に持っていた雉を差し出した。
「帰り際に捕まえてな。こいつも頼めるか?」
ぱちぱちと目を瞬かせる。良いのだろうか。
「勿論構いませんが、皆で食べても良いのですか?」
少ないのだから黒鷲隊でと言外に尋ねれば、首を振られる。あれが食細りしておるだろう、精をつけさせねば。押都の言葉が誰を指しているかなど明確である。それならば喜んで、と笑顔で返事をすれば押都も雑面の下で笑う気配がした。
「俺も手伝おう」
「助かります」
手を洗った押都は高坂の隣で雉を解体にかかる。迷いなく包丁を関節に入れて部位毎に肉を骨から外し、並べていく。食べる部分が少ないため、叩いて細かくし、豆腐を混ぜてかさましをしたいと押都に言えば、手羽の骨も軟骨ごと肉を外してトトト、と軽快な音を立てながら叩き始めた。何もかもが早い。
慌てて鍋に水を張って湯を沸かし、骨と昆布を放り込む。老生姜は皮を剥いてすりおろし、酒と塩をひとつまみ、豆腐と共に鉢に入れて押都の叩いた肉を混ぜた。焼いてタレをかけるのも美味いが今日は汁物と決めているので、沸かした湯に匙で掬ってぽとんぽとんと落としていく。ある程度アクを掬い、臭みが出ないように骨と昆布は上げてしまう。醤油と酒、ほんの少し米飴を垂らして味見をすれば、雉の出汁が良く出ていて美味い。小皿に取って押都へ渡せば、雑面を捲り小皿のものを口に入れた。
「ちょうどよい」
「ありがとう存じます」
露草はサッと湯通しして、つみれ汁に放り込み、蓋をした。ナルコユリの葉も湯通しして水に取り絞り、からし粉をほんの少し水で練ったものを醤油と一緒に和える。からし粉はからし菜の種を搾油した後の物を乾燥させてからすって粉にしたものを使っているのだが、風で舞い上がり鼻や目に入ると染みるので、これはこれで火薬に混ぜてみたり敵に撒くのも効果的なように思う。今度山本に進言してみようかなどと。
姫飯はより柔らかめに蒸して仕上げたが、雑渡に合わせたため、好みではない者もいるかもしれない。少しだけ取り、押都に差し出せば意図を汲み取ってくれたようで、雑面を口元だけ晒すように捲り上げぱかりと開いた。
「失礼します」
「ん」
ひと匙分、口に吸い込まれた米はむぐむぐと咀嚼され飲み下された。柔らかすぎただろうか。
「ちと柔らかいが、こんなものだろう」
ぽんと頭に大きな手が乗り、そのままわしわしと撫でられる。くすぐったくて目を閉じて笑うと、頭上からも愉快そうな声が聞こえた。山本も押都も、こうして頭を撫でてくれるのだが、いつまでも幼いと思っているのだろうか。随分と背は伸びたが、相変わらず子どもだと言われているようで、頬を膨らませる。
「お前は変わらずあれのことばかりだから、面白くなってしまった」
「私の全てだと言っても過言ではございませぬ」
「うん、お前はそれでいい」
姿形が変わっても、変わらぬものがあるのだと教えてやってくれと、押都は続けた。勿論だと、己の心は変わらずあの人の元に。
雑渡への膳を整えて、決められた場所へ置く。尊奈門が取りに来て雑渡へと持って行くことになっているのだが、本当はこの手で持って行きたい。出来ることならば、この目でその姿を見たいのに、叶わない。
この膳が雑渡の身体を作るのだ、どうか血と肉となりますように。己の思いが少しでも伝わりますように。貴方様をここでずっとお待ちしております、と。
「さぁ、私たちも食べましょう!」
「……ああ」
***
「今日の膳は誰が?」
そう問わずにはいられない。ナルコユリのからし和えに、露草入りのつみれ汁。肉はつなぎのおかげかパサつきはなく、ふわふわとした口当たりだ。時折、舌に残るのは軟骨だろうか。不快さは一切無い。
粥ではなく姫飯だが、これもまた己の為であろう柔らかさに仕上げられていた。
「今日は高坂さんですよ」
陣左か、と思わず笑みが溢れた。己が抜けたため誰よりも任務に励んでいると報告を受けている。月輪の高坂からの預かり物だと頭の中では思いながらも、手放したのはそちらなのだからもう私のものだと私欲が溢れようとしているのは間違いなくて。山本に烏帽子親を任せたことも当てつけの一つではあったし、稚児だと周りに見せ付けたのは己の手付きだと知らしめたかったからでもある。実際は手付きどころか、口すらも吸っていないのだから、押都や山本という兄貴分たちには笑われてしまった。とんだ意気地なしだと。
「湯に入れる薬草も預かってますが、湯を使われますか?」
「うん、貰うよ」
料理も、湯に使う薬草も、任務があっただろうに手ひとつ抜かないその姿は相変わらずだ。そして小皿にころんとひとつだけ乗せられたカラモモの実は懐かしさすらあった。父に叱られて不貞腐れていた時に、押都がくれたこともあったっけと、ついつい笑ってしまう。きっと陣左も同じように慰めのひとつとして押都から教わったに違いない。私たちは似たもの同士だ。
「尊奈門、陣左には会ったかい?」
「高坂さんですか? ええ、先日も。急に背が伸びて節々が痛いと言ってました」
己にも同じ記憶がある。薬師曰く、急な骨の成長に筋肉がついて行かぬために痛むのだと言う。ああ、そうか、もうそんな歳になるのだと思い至り、その成長を側で見られないことが悔やまれた。あの子はひとり、痛みに耐えている。手足や背が伸びて、そうして声も変わり、あの子の細い顎にも髭が生えてくるのだろう。似合わないな、と髭が生えた陣左の顔を想像してまたひとつ笑い、憂いた。
「……陣左は泣いてやしないだろうか」
「私が言ってしまうのは簡単ですが、それは小頭がご自身で確かめるべきです」
この子は本当に幼子だろうか。実は山本が中に入っているんじゃないのかと疑ってしまいそうなほど、辛辣な言葉にギョッと目を剥く。
「尊奈門、厳しいね」
「そう思われるなら早く元気になってその顔を見せてあげてくださいね」
会えないと拒むたびに睨まれるのはもう御免ですよ、とぷりぷり怒っている尊奈門に、うんわかったよと力無く答えた。わかっているのだ、そんなこと。本当に。
カラモモを手に取り、ひと齧り。ああ、甘酸っぱい。
「紙と、墨を用意してくれる?」
「はい!」
「昆」
「何?」
「いや、お前にしては熱烈な歌を贈るのだと思ってな」
は? と言葉を返せばニヤニヤとした顔で、いや雑面でその顔は見えないはずだと言うのに間違いなくいやらしく歪んでいるのが手に取るようにわかる。一体何の話をしているのかと、問いただす前に押都からすらすらと諳んじられる一首。
「どうしてお前がそれを」
「どうして? 教養は誰が教えていると思ってる」
安心しろ、あれはお前の文を見せたりはしておらんから、と笑う。いや、それはもう見せたもの同義だと拳を握る。まさか、兄貴分に恋文の中身を知られるのがこんなにも恥ずかしいことだとは思わなかった。どうにも落ち着かなくなり、押都の前から走り去る。今は、陣左の顔が見たくて堪らない。
「……間違いなく狼だよ、お前も、あの子も」
誰に言うでもなく、囁かれたそれに押都はゆっくりと雑渡の跡を追うのだった。
百に千に 人は言ふとも 月草の うつろふ心 我れ持ためやも