雷鳴が消えた日一.雷鳴が消えた日
硝子の向こうに広がるのは、この国を象徴するような果てまで続く雨曇りであった。雨は未だ降らぬが、雷は激しく鳴り響いている。
閃光は薄墨に溶けかかった室内を刹那に照らし、ふたりの男の顔を浮かび上がらせた。一方は寝台に伏した死にゆく老躯の男。もう一方は、その間近に腰を下ろした若い男だ。遠くで雷鳴が響いたのを合図にして、寝台の男はおもむろに口を開いた。
「お前を置いていくのだけが……心残りだな」
男の声はいかにも頑健そうであった。声だけを聞けば、とても死にゆく男のものだとは思えないだろう。それでも、男はその赤に深い悔恨を滲ませながら若い男に視線を移す。
「俺は…………この国を……お前が『生きる』と決めたことを後悔しないような国に、できただろうか……ユリウス」
「当然だとも。親友殿」
ユリウスと呼ばれた若い男はすぐにいらえを返すが、寝台の男は不満そうに額を曇らせた。
「…………最期なんだ。名前を呼んでくれ。ユリウス」
「わかったよ。アルベール」
アルベールはユリウスに名前を呼ばれると、満足そうに頷いた。赤に鎖された後悔はふっと和らぎ、代わりに浮かんだのは慈愛のほむらだ。決して絶えることなく、ユリウスの生きるしるべとなった紅く熱い灯。ユリウスは見慣れたその色を捕らえて、やっと表情を和らげた。
空は変わらず鈍色の絨毯を敷き詰めている。ごろごろと天に響き渡る低音が鼓膜を揺らし、最期の時を過ごす彼らに静寂を与えはしない。
「なぁ、ユリウス」
「ん?」
「……俺は必ず生まれ変わって、またお前を見つけだす」
「くふふ……何だそれは?」
その言に、ユリウスは意外そうに眉を上げた。アルベールにしては随分とロマンシチズムなことを言うものだ、と考えたが、この男はおのれに対してはとりわけ直球な愛情表現を好む。先のまじないのような言葉だって、その内のひとつなのだろう。
「だから……それまで、この国で俺のことを待っていてくれ」
「……であれば、私は君が生まれ変わるまで、この国を護り続けなければならないねぇ」
「…………俺は、次も必ずお前を見つけ出す。……そしたら、次は一緒に死のう。俺と、お前で。共に」
続いた、おのれの死を希う言葉さえもだ。
先まで彼の瞳でゆらめいていた慈愛のほむらは、今やその身を激しく猛らせている。仁慈は燃え尽き、残ったのはぎらぎらとた情愛と執着。おのれを捕らえて離さない、真っ直ぐで千尋のような愛──或いは、独占欲に腕を掴まれ、ユリウスはぶわりと全身が粟立つのを感じた。息継ぎが上手くできなかった。このまま、今ここで彼と共に死ぬことこそが、私の人生の最大の幸福点ではないか。と確信してしまうほどに。
たまらず、ユリウスはアルベールの手を取った。深いしわが刻まれた彼の手はかさついていて、否が応でも、おのれとの違いを見せつけられる。
「フフ……それが『今』だって良いんだよ。私は君に殺されるのなら……」
そして、ユリウスは縋るようにその手にすり寄った。乾いた手の甲をおのれの額に押し当てると、アルベールがふっと笑うのが分かった。
「俺にそれができると思うか?」
「そうだねえ……出来ないだろうね」
「フッ、……俺のことはなんでもお見通しだな」
「当然だろう? 長い付き合いだ」
雷鳴は鳴り止まない。
彼らの会話が途切れることもない。
いつもは聞き手に回るユリウスも、このときばかりは言葉を紡ぐのを止めようとはしなかった。まるで、一分一秒でも長くこの時間が続くように、と。
それでも、時の翁は慈悲を持ち合わせず、その歩みを止めることはないのだ。刻一刻とアルベールの生命の終焉は近付いていく。
「……ユリウス。…………そろそろ、…………」
「……うん」
「約束……だぞ。我が親友殿。お前はこの国で……」
「そこは『ユリウス』だろう?」
「そう、だな……ユリウス…………また、会おう……」
そういって、アルベールは眠るようにまぶたを下ろした。
それが、レヴィオン王国にその名を轟かせた英雄──雷迅卿アルベールの最期であった。
ユリウスはしばらくの間、眠るように横たわるアルベールのことをじっと眺めていたが、不意に窓の外へと視線を移動させた。あぁ。この男は本当に雷の化身だったのかもしれない。と思ったのだ。
先まで激しく空を穿っていた雷たちは、彼の生命の灯火と共にぱたりと消え失せたのだから。世界に束の間の静寂が訪れる。しかし、それも長くは続かず、曇天は小さな雨粒を落とし始め、やがて篠突く雨へと姿を変えた。天さえもが英雄の死を悼んでいるのだ。大粒の雨は窓硝子を叩き、ばちばちと激しい音を鳴らす。
────雷鳴は、もう聞こえなかった。
***
雷鳴が消えた晩から数日後、レヴィオン王国の英雄──雷迅卿アルベールの葬礼は国を挙げて執り行われた。雷迅卿の名に相応しく、空は激しい雷雨に覆われているが、サントレザン城で行われた葬礼に参列者が途切れることは無かった。もちろん、過度な称賛を厭う彼は、もっとしめやかで小規模な見送りを好んだだろう。といえども、最期まで『国の英雄』として生きた彼に、その選択肢が与えられることはなかったのだ。
アルベールの葬礼には、当然、オードリックやヴィクトル、そして、三姉妹の姿が在った。老境に入って久しい彼らは、各々がユリウスを気遣いながら声を掛ける。あのヴィクトルさえもだ。無論、ユリウスはとうにアルベールとの別離を覚悟していた。彼らが思うほど、傷心しているわけではない。──もちろん、平然と振る舞えるわけでもないが── それでも、ユリウスの心は彼らと会う度に、重く、深く、沈んでいった。
ユリウスは、これから先、何度も訪れる離別を想ったのだ。彼らはおのれやアルベールと比べて幾分若いとはいえ、年の頃はそう変わらない。きっと、「それ」はそう遠くない未来に訪れるだろう。
これは星晶獣に寄生され、星晶獣と共生する道を選び、空の理から外れた存在の背負うべき業なのだ。握ったおのれの拳は青年のそれである。刻まれるべきしわは存在しない。この身体は星の流れの中に存在していた。
もちろん、ユリウスはこの事実を承知の上でデストルクティオとの共生を選んだわけではなかった。おのれの身体が老いていないことに気付いたのは、彼の寄生から十数年後が過ぎたころである。そのときには、既に手の打ちようがなかった。デストルクティオに寄主の本質的な性質を変える力は無いはずであるが────空の存在への寄生の例がないこと。ユリウスがデストルクティオの再生力を以て生き長らえたこと。その真因は杳として知れぬが、結果として、ユリウスは不老の身体を手に入れてしまった。デストルクティオと共生することを後悔したことはないが、この現実を受け入れられているかと問われれば、それは、否であった。
そうやって、ユリウスが葬列から離れ、ひとり思い悩んでいると、彼に近付く影があった。ユリウスが伏せたまつげを上げて視界を開けば、そこに居たのは、人並み外れた巨躯を持つ人狼──ジェノである。
「公の場でお前がそうした表情を浮かべるのは珍しいな」
「えぇ。……そう、ですね」
「…………儂は慣れたとはいえ、誰かに先立たれるのは、決して気持ちの良いものではないからな」
「…………」
ユリウスはジェノの言葉に応えなかった。めずらしく口を結び続け、会話を拒んでいる。普段では決して見られぬその振る舞いに、ジェノはユリウスの心境を慮った。いくら彼が我慢強い男といえども、片割れを喪った事実は相当堪えているに違いない。第一印象こそ良くなかったが、ジェノはユリウスの決して器用ではない生き方を案じているのだ。
「……お主は……これからどうするつもりだ?」
ジェノが再び問いかければ、ユリウスはゆるくかぶりを振って、いつもの腹の読めない微笑みで表情を繕った。どうやら、会話には応じてくれるらしい。
「……私はこれからも、この国のために尽くすつもりですよ。親友殿……いや。アルベールと約束をしたので」
そのいらえに、ジェノはアルベールの真意を訝った。傍目から見ても分かりやすくユリウスを愛していたあの男が、彼を祖国──王の落胤として彼を虐げていた国だ──のために生きるよう働きかけたとは思えなかったからだ。
「約束、か?」
「えぇ」
「アルベールがお主にこの国のために生きろと言ったのか?」
「いえ。そういうわけではありません」
「ならば何と?」
「……生まれ変わって、この国でまた私を見つけ出す、と。酔狂な男ですよ。あれは」
そう言うと、ユリウスはふっと相好を崩して息を付いた。そして、綻んだ彼の口元に、ようやくアルベールの真意を見て取った。
ユリウスがアルベールとの約束を果たすには、アルベールが生まれ変わるそのときまで、この国が在り続けなければならない。それは、長い時を生きねばならぬユリウスの生きるよすがと成り得るだろう。けれど、随分と酷なことをするものだ、とも思ったのだ。何一つ確かなことなど無いというのに。残されたユリウスに淡い期待だけを残して。────そこまで突き詰めて、ジェノは、英雄然としたアルベールの性を唐突に理解した。
おそらく、アルベールは故意にユリウスを「レヴィオン王国」に縛り付けたのである。自由に開かれた空への未来を封じてまで。彼が愛憎相半ばするレヴィオン王国に、だ。到底、優しさだけではない。そこには、英雄らしからぬ、どろどろとした執着の手が見えるようだった。いつ生まれ変わるのかも。どこで生まれ落ちるのかも。人として生まれるのかも。確証が無い中でただ一つ「誰にも渡さない」という彼の確固たる意思だけが浮かび上がる。無論、ユリウスはそれを理解しているのだろう。──理解したうえで、アルベールの最期の願いに首肯を示したはずだ。
ジェノは伊達に何百年も生きているわけではない。おのれの口出しが許される領分を弁えているつもりだ。ただ、それでも、この不器用な男の心が少しでも穏やかであれと願わずにはいられなかった。
「…………儂も居る」
その言葉に、ユリウスは少しだけ瞠目した。聡い男だ。彼はジェノの心配りを正しく受け取ったのだろう。そして、ユリウスはいつものように口元に微笑みを浮かべて、穏やかにいらえを返した。
「フフ、そうですね。心強いです」
その言葉が落ちると、途端に彼のマントの裾から顔を出す影があった。触手は自らの存在をアピールするように、ユリウスに身体を擦り付ける。
「そうだね。君も居る。心強いよ」
そう言って触手を撫でるユリウスの額はなめらかだ。もとより、彼は強く気高い男なのだ。おのれが心配するまでもなかったかもしれぬ。と、ジェノは安心したように息を付き「儂は陛下の護衛に戻る」と短く会話を切り上げてその場を後にしたのだった。