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    おさとう

    @sora_tobu_sato

    ジャンル自由雑食アカウント20↑
    官能小説が好物😋✨

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    おさとう

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    吸対課で出会う半サギョ健全小説です。
    以前(2023年2月)に公開していた小説の再掲載です。
    吸対課みんながメインの捏造高めな出会いのドタバタお話。
    オリキャラ(敵性吸血鬼)注意!

    いとしき翡翠の歌①その男の名は

     彼は街行く人が振り返るほどの美丈夫。
     背筋まっすぐな180センチの長身は鍛え上げられている。端正な顔立ちは、くっきりとした切れ長の目で、猫のような縦長瞳孔の金色の瞳をしている。
     真っ黒で癖ひとつないつややかな髪の毛だ。おまけに、安い愛想笑いなど浮かべないきりりとした近寄りがたい雰囲気をたたえている。
     その姿は彼が幼いころから警察組織を志して自ら培ったもので、今では念願かなって夢の職場の第一線に所属している。
     半田桃は新横浜署の吸血鬼対策課に入って今、二年目だ。

     夕暮れ時を迎えようとする古い警察署の建物の一角。
     暮れなずむ街の姿を背景に、吸対課ヒヨシ隊のデスクでは深刻な顔をした隊長が半田をにらみ上げている。
    「今度は一体何をした。また窓の請求書が来とる。これでもう何回目じゃ!」
     半田は毅然と答える。
    「十四回目です」
     隊長ヒヨシは、この青嵐のような部下を扱いかねて泣きたくなる。
    「俺は回数を聞いとるんじゃない!いつまで同じ真似を続けるのかと言っとる!」
     半田は敬礼して答えた。
    「器物損壊は猛省いたしております。しかし、これ自体は許可は取った上の調査で職務上、不備はありません!」
     勤務二年目の半田の正々堂々とした開き直りの返答で、ヒヨシはこれ以上しかりつける理由がなくなり、苦節二年、ついに諦めの境地が見えてきて、頭を抱えた。
     女の子を口説くためなら何でもやってのけてきた天才なのに、この部下の突拍子のなさときたら。なだめすかしてほめてしかって。相槌を打って何故ダメなのか説明し、時には悩みがあるのか聞きもした。されど彼はかたくなに聞かぬ。しれっとしてこちらが変なのだと言わんばかりの居直りぶり。なんと言う無念。なんと言う敗北感。
     しかし勝気な勝負師の性格は霧散する。と言うのもしかめ面で手にした彼の報告書である。
     もう一度めくって読んで、威厳ある渋面を崩さぬよう奥歯をかみしめる。そこには達者に暮らす弟の姿がいきいきと描写されていた。
    (……弟と思春期に気まずくなって以来じゃったが、こうして半田の奴がまめに報告を届けてくれて、ロナルドが元気な姿を知れるのは……)
     ヒヨシは半田の提出した報告書をデスクにそっと置き、ふうとため息をつく。
    「なんで上が許すのかわからんが、今度からおみゃあ、あいつの部屋に調査に入るときは窓は開けておけ。それと、割れた窓の弁償の手配は今度から全部自分でしろ」
    「はっ。かしこまりました」
     ヒヨシに背を向ける男は、ふたを開けてみると奇想天外な問題児。
     けれどヒヨシはよくわかっている。同時に彼は稀有な才能を必要とされ、それに応える結果をきちんと出して今ここにいる男であるのだと言うことを。彼が本当は心から友達想いな人情深い男である事も。

     リリリリリリリ!

     と、通報の電子音がデスクに響く。ヒナイチとにこやかに談笑していたルリがさっと仕事の顔に切り替わり電話を受信する。
    「下等吸血鬼らしきものが暴れているんですね」
     ルリは受電音声をスピーカーに切り替える。パトロール前にデスクワークをこなしていた吸対課一同の顔つきが変わる。事件発生だ。ルリは速やかに場所と規模、けが人の状況を確認する。
    「発生場所を教えてください」
    「吸血鬼の特徴は?」
     ルリはてきぱきとキーボードをたたいて聞き出した内容と登録データを照会する。
    「すぐに一番近くの退治人を向かわせます。安心して待っていて下さいね」
     彼女が電話を切ると、すでに全員が自身の武器を手に取り、出動の準備は済んでいた。
     ここシンヨコは吸血鬼退治を担うハンターが多くギルドまである。だがそれだけ吸血鬼の発生の頻度も高い。通報先としてより一般市民に分かりやすい吸血鬼対策課へも実は依頼が入ってくる。たいてい緊急性を要するものである。
     ヒヨシが威勢よく命令する。
    「今夜の事件もなかなかのおさわがせぶりのようだ。現場隊の出動じゃ!」
    「はい!」
     オペレーションのために残ったヒヨシとルリ以外はヒナイチ副隊長に率いられ、深い紺色に包まれようとする街まっしぐらに署を飛び出した。

     現場に向かうメンバーに無線通信で情報が飛んでくる。
     事件は小さな区画内だが、敵は一体ではなく同じ特徴を持つものの同時多発状態であること。
     最寄りの退治人の報告によると実は暴れているのは吸血鬼自身ではないようだ。眷属でもなく、グール(傀儡泥人形)たちらしいこと。つまり沢山の泥の塊を操って街を襲っている首謀者がいるらしい。
     ちなみにグールが暴れている内容とは、駅付近の繁華街で所かまわず上背ある体格で通行人を通せんぼしては、罰ゲームつきのなぞなぞを仕掛けているのだ。なぞなぞに答えなくても、間違えても、ついつい遊び心を刺激されるおもちゃを差し出されてしまう。ちょうど勤務帰りの時間、大きくおっかない外見のグールのいう事を聞いてしまい、駅前はゲームにはまる人が続出して渋滞していた。
    『敵の意図はわからんが、トリック好きな奴のようじゃ。我々まで遊び相手をさせられていてはらちがあかん。現場の指揮と本体探しの二手に分かれてくれ!』
     走る三人はうなずいた。ヒナイチが即座に答える。
    「私が現場へ行き、集まっているハンターを監督しつつ市民の誘導を担当する!その間、半田、モエギ、本体の退治を頼んだぞ!」
    「了解です!」
     二人は即座に足を止めた。そして半田はモエギが見守る中、ポケットから取り出した血液錠剤を1錠口内に放り込んでかみ砕く。
     半田の体を流れるダンピールの血がざわりと目を覚まし、第六感が研ぎ澄まされる。すると彼の鼻は吸血鬼の気配を強く感知し始める。シンヨコ中のたくさんの吸血鬼の匂いの中から、グールの香りと同じ吸血鬼の匂いを探しだす。それはまるで複雑に絡んだたくさんの細い糸をより分けるような、こまやかな仕事だ。
     と、急にまっすぐに顔を上げた半田に、静かに見守っていたモエギが短く声をかける。
    「いけるか」
    「うむ!さほど強い気配ではない上親分は一体だけだ。しかし…」
     半田はこれまで向かっていた街の中心部、駅前からはくるりと背を向ける。
    「場所は暴れるグールたちと真逆だ!居場所は直線距離5キロは先の郊外のようだ!」
    「よしまずは準備運動のランニングだ」
     頷いたモエギは走りながら半田の報告をヒヨシに無線で伝え直す。先回りできる人材はいないかを確認する。
     けれどやはり、大騒動が起きている中で新たな退治人はつかまりそうにはないとの返答だ。半田とモエギの二人に解決が託された中、時折、ヒナイチから状況報告が入ってくる。
     すまんが急いでくれ、と言われると。
    「こういう時はお前に頼りっぱなしだな。じれったいよな」
     急かされる半田の気持ちを代弁するようにモエギが言った。半田は応じる。
    「構わん、吸対は少数精鋭でさらに粒ぞろいだからな!」
     モエギは微笑む。彼はこの仕事が生来のこわもてと頑丈さとやさしさがまともに役に立つと言う理由で選んだだけなのだが、後輩の半田は違う。本当に、大物新人と呼ばれるだけの才覚を縦横無尽に使いこなし、言ったことを実現する稀有な男である。何より使命と職場に誇りを持っている。
    「そうだな」
     例え彼が署の裏にセロリ栽培用の畑を作る許可を取り付けてくる人物でも、そしてそれを許すと増長させ、自分にも余波が来るとわかっていてもついつい、ほだされてしまい、好きにさせてやりたくなってしまう。

     生真面目な警察官二人が郊外まで走り抜き、さらに小さな森を抜けると、そこには不気味な洋館が立っていた。屋敷は空き家として登録されており、持ち主の正体は不明である。
    「匂いの相手はこの中だ」
    「……罠だろうなぁ」
     気配は弱いが、トリックを使うこざかしい相手。人の集まるスポットを利用した大がかりな陽動作戦の影で別の不穏な企てを企んでいる可能性も考え得る。いったいこの先、どんなものが待ち受けているか分からない。特にモエギはトラップ系は真っ先に引っかかるのですっかり憂鬱気味だ。
    「フン!この俺がそんなものにはまる訳がない。ロナルドのトラップの参考にしてやる!」
     しかし半田は俄然やる気を失わず、むしろ威勢よく正面玄関の重い両開きの扉もやすやすと開け屋敷に飛び込んでいった。
    「お邪魔します!俺は吸血鬼対策課ヒヨシ隊所属の半田桃です!」
     するとバタンと背後のドアが閉まり、ガチャンと鍵がかけられ出られなくなる。そして、部屋を埋めつくす数字のパネルが現れたのだ。
    『世界の果てと果てを横断するいにしえから不変の掟に人類が気づいた時、運命は支配された。掟に従え』
    「なんだこりゃ」
    「暦の事だろう。面倒臭いことにパネルが三百台の数字が散りばめられているようだ」
    「じゃあ1から順に押すのかな」
    「うむ、押してみてくれ」
    半田が露骨にトラップの実験台にしようとするのでモエギは懸命に首を左右に振って拒否して頭をひねる。
    「い、嫌だっ!だって今日は一月一日じゃない。二月二十五日だ。本当に暦なら一から数えたら三十一足す二十五で、今日は五十六番目だって言えるだろうが!」
    「……」
    「さてはお前っ、俺が引っ掛かることでトラップの発動が見たいんだろう!だがな、お前だって巻き添えになる可能性はあるんだからな!」
    「では、五十六を押すぞ」
    半田がパネルを押した。すると、足元のパネルが一つ反転して、普通のレンガ床に戻ったのだ。どうやら正解だったらしい。けれども。
    『次の五十七のパネルはどこなんだ…!』
     少なくとも三百六十五枚はあるパネルから地道に正確に数字を探し出していくのは気が遠くなりそうな作業である。
     けれどもそんなこんなでモエギの頑丈さと半田の嗅覚を駆使しつつ、誠実な二人は、懇切真面目に丁寧に、現れる謎解きに取り組んで次の扉に進み、またその先に現れたトラップもこつこつ賢くクリアして進んでいった。疲れてくると回りくどい問題文にさえけちをつけたくなってくるのを二人は悪口を言わずに耐えた。
     そして、ようやくたどり着いた先に現れた、グール二体を従えるワイングラス片手の小さな仮面の男を思いっきり問答無用でぶん殴ったのだ。
    「ふぎゃあ!私はまだ何も言ってないのに!」
     殴った後で半田が叫ぶ。
    「匂いはこいつからする!こいつが事件の犯人だ!」
     こうしてついに二人は犯人を逮捕することが出来たのだった。

     固いげんこつを二つもくらった謎の仮面の吸血鬼。けれども彼は手錠をかけられてもなお嬉しそうである。
    「ああ、なんという快感……くせになる」
     彼は万感の思いだと言わんばかりに、一人うっとりとため息をつく。
     グールを駆使して街の中心を混乱に陥れる事ができた。さらにそれをフェイクを見抜き、見事に郊外の屋敷を見つけ出した連中がいてくれた。そしてわざわざここまで走ってやってきて、彼がお手製で一枚一枚作った建物中の仕掛けを懇切丁寧に解いてくれたのだ…!思った通りに上手く行った。おかげで夕暮れから夜明けまで、吸血鬼の許される時間の限り一晩中たっぷり町中をお騒がせして楽しめたのだ。
     この屋敷を作るのには三年もかかった。それが一夜で手下のグールは殲滅され、吸血鬼にとっては監獄ともいえるVRCへと連行される運命だ。
     それでも、今日という日は彼の吸血鬼生の中でもおそらく、記念に残すべき幸せと言えるひと時であったのではないか。
     フィアスコと名乗る彼は現行犯として護送車まで連行されて行くときも顔をあげ、乗車するための六十センチほどのステップの上で振り返ると、小柄なマント姿をなびかせて、集まった職員相手に高らかに笑ったのだ。
    「ああ実に愉快な気持ちだ!諸君!次はもっと難しく残酷な謎を用意して、君たちを恐怖でもてなす日を待っている!」
     その悪びれない堂々とした悪党ぶりに、シンヨコを誇る優秀な吸対の人々もさすがに息をのむ。
     また一人、面倒な愉快犯が現れてシンヨコになぜか、いついてしまったようだ…。けれど誇り高き吸対課職員は落胆などせず、気持ちを引き締め、去っていく護送車をにらみつけるように見送ったのである。

     朝日が差し込み始める中、署に戻った一同は半田を囲み、珍しくまともで非の打ち所のないお手柄だ、良くやったと褒めて労った。普段はロナルドと出くわすので、どんなに頑張ってもトータル的に呆れられてしまうのである。
    しかし半田は褒められても満足できなかった。
     既に日の登った時間、彼は署の隣の職員寮ではなく、住宅街の実家へとてくてく複雑な気持ちで歩いていた。
     ヒヨシの統率力、ルリのオペレーション、ヒナイチの戦闘力、モエギの耐久力。皆粒ぞろいだ。
     それでも今回、手間がかかって結局被害は拡大した。しかも本当はトリック屋敷での謎解きに半田は楽しくなってしまい、まんまとフィアスコの思い通りになってしてしまったのである。
     駅前は人生ゲーム、ルービックキューブ、ジェンカ、ウノ、ウォーリーを探せに魅せられ熱中する人々であふれかえってしまった。ヒナイチとハンター達は懸命に市民を誘導しグールを斬って回ったらしいが、捕まった人間自身はゲームが楽しくて特に嫌がっていなかったため、まずなんとか説得して同意を得てからグールを斬っても、泥人形なので彼女たちの前ですぐに再生してしまってきりがなく大変だったらしい。
    「……」
     履きなれたスニーカーにお気に入りのジャケット。半田は汚れてしまった制服をつめた鞄を肩に掛け、一人朝の風が吹き抜ける道をポケットに手を突っ込んで歩く。悔やむ気持ちを胸に、モエギの慰めの言葉を、囲んで半田の貢献をほめてくれたみんなを思い返す。
     全員が職務に燃えて生真面目に一生懸命頑張っている。なにも自分だけが歯がゆさを感じているわけではない。
     でも半田は大好きなトラップ相手に夢中になってしまった。モエギは奥手なのでペナルティを案じルールに従う。雪辱の失態でしかない。

     例えば、こんな男がいたらどうだろう。
     迷わず罠の部屋の扉などばしんと閉め、こんなのまともに相手せず、さっさと行きましょうと言って、火器でも使い、ためらわずトリックをぶち抜いてくれる達観した奴がいたら。
     しかしハンターならともかく、公務員でそんな奴がいたら狂気の沙汰である。
     
     それに何よりも…。

     半田は足をついに止めて空を見上げる。家族にはこんな顔をみせられない、とため息をついて手で覆う。

     …ああ、珍妙な騒動が多い街。それに応じてしまう、律儀で血気盛んな人間の集まる体力系の職場。そこにあとひとり、強い味方がいればな。

     この物足りなさは誰に言うことも出来はしない。
    小さな葛藤をため息で吐き出した半田は、毅然と固めていた髪の毛に手を差し入れ、くしゃりと崩す。降りてきた前髪に隠れた額でようやく家族の団らんに戻り休む気持ちになる。
    区画整備で急に生まれてまだどうやって成長したらよいのか自分ですらわかってないような、そんなとぼけた所のある街並みが、朝日に洗濯されたように輝く姿に視線を向ける。
     土手の築かれ整備された大きな川を渡る橋の上だった。川辺には芝で整備された公園が設けられている。そこで子供たちが野球の朝練をしているのが目に飛び込んできた。スポーツ少年団の朝練だろうか。
     そうだ今日は日曜日だったか。
     半田は何となく橋の欄干にもたれると野球着でランニングに励む子供たちを眺めた。朝の輝きの中でスポーツにいそしむ元気な子供たちの姿は良い未来を作りたいと思う大人の心を癒して鼓舞してくれる。
     
     どんなに半田が一人で焦っても、半田の吸血鬼感知能力に並ぶ特殊能力を持つ人材は到底現れはしないだろう。

     どんなに自分が一番に駆けつけたくても、車やバイクでは気配をよく嗅ぎ取れない。場所は分かっているけれど結局、吸対課は半田の後を地道に足でビルをよけて走っていくしかない。

     カキーン、というバッティングの音が響き始める。
     野球で活躍したい。そんな単純な理由だけで子供は無心に練習しめきめき伸びていく。まばゆいけれど、それを子供の特権だからなんて言いたくはない。
     子供の頃の夢をかなえた俺こそがもっといい仕事をしてやると一人、橋の上で意気込み直したのだ。
     
     そして欄干から体をあげようとした半田の視線の先に、小さなきらめきが横切った。動体視力は良いはずだが、とらえきれない翡翠色の何か。
     もう一度まばたきして目を凝らしても、その姿は二度と現れない。
    「かわせみ…かな」
     思い当たる動物の名前をつぶやくけれど、まさかなと笑う。こんな街中の川に警戒心の強い野鳥がいるわけがない。
     それでも水面に小さな波紋だけを残して過ぎ去った美しい翠色の流曲体は、半田の心になぜか鮮やかに残った。
     同時に橋の上を吹き抜ける冬風にぶるりと背中を震わせた半田は、川に背を向け、温かい家族の待つ家へ帰路を急ぐ。
     もうじき春がやってくる。


    ②期待の新人

     四月。
     門に咲いた桜も満開の新横署のあちこちで新人歓迎の声が上がる中、ヒヨシ隊もまた、一人の青年を囲んでいる。
     すらりとした若者は皆に囲まれて初々しく頬を火照らせ、名前を告げて頭を下げる。あげた顔はやる気に満ち、瞳をきらきら輝かせている。
    「ヒヨシ隊に配属になれた事を誇らしく思います。名に恥じないように精進しますので、先輩方よろしくお願いします」
     きちんとした挨拶にぱちぱちと拍手が起きる。歓迎されて照れくさそうにはにかむ澄み渡ったまなざしの好青年。早速ヒヨシたちが囲み話しかけるのを半田は一人で遠巻きに見ていた。
     三日前にわざわざ本部長とヤギヤマさんが直々に届けに来た、彼の履歴書。
     学歴から成績まで非の打ち所のないものだった。スキルは狙撃らしい。腕前はヒヨシ隊の前身、カズサ隊の狙撃主だったヤギヤマさんのお墨付きだそうだ。
     目の当たりにした彼は、写真以上に澄んだ緑色の髪の毛がまばゆい。
     逆を言えばそれ以外、とらえどころのないただの若者にしか半田には見えなかった。体格は吸対課の前線職員にしては小柄な方。態度ははきはき、物腰は素直で、ヒナイチやルリに好奇心満々に迫られても、格好つけることを知らない気さくな柔らかい受け答え。
     いくら頭の良さと狙撃能力はお墨付きでも、実戦となったらせいぜい半田の友達の超人的一般人の一人、週刊誌記者、カメヤ相手でさえ負けてしまうんじゃないだろうか。
     吸対課の仕事は甘くない。
     優等生には苦すぎる、汚いことや恥ずかしいこと、途方もない脱力感もたくさん味わうシビアな環境だ。
     彼の仕事への張り切りはいつか、生まれて初めての失望に変わるのではないか、そんな思いすらふとよぎる。

     頼もしい新人を期待していた。

     それが彼だという現実が、まだ半田には理解ができない。
     半田は賑わう人々にも混じらず黙って冷ややかに見守るばかりで、フンと鼻を鳴らした。

    「なんでじゃ。理由は聞いてはやるが、おそらくダメじゃ」
     即座に結論を下したヒヨシは、決定事項を覆す話を持ち掛けてきた半田を見上げる。
    「サギョウの教育はモエギに任せることになっとる。俺だって受け持ちたいのを我慢した」
     今度は半田が聞き返す。
    「何故俺が新人教育をしてはダメなのですか?俺はモエギさんに習ったし、モエギさんはヒナイチ副隊長に教わって、ヒナイチ副隊長はヒヨシ隊長に教わりました。入隊順に新人教育をしてきて次は俺の番ではないのですか」
     ヒヨシはマスクをして無表情に淡々と、しかし少しずつ着実に迫り来る部下に深呼吸する。なんとか気持ちを落ち着かせて笑顔を作ろうとする。
     ただただ、可愛いサギョウに辞められたくないのである。
    「…半田、お前の新しい後輩を指導したい熱意は素晴らしいぞ。しかしな?新横の吸対課は吸対組織の中でももっとも過酷とされる現場だ。サギョウには一日でも早く仕事を覚え、職務に励んでほしい。それには外勤内勤、ともにバランス良くこなし、署の事を熟知して、人当たりが温厚で丁寧なモエギに任せるのが一番なんじゃ。モエギに習ったお前なら一番指導の上手さが分かるはずじゃあ。それにあの二人、どっちも見るからにおしとやかで気が合いそうじゃしにゃ」
     女の子ならいちころのさわやかな笑顔を浮かべ、ヒヨシは穏便に理由を告げる。
     しかし半田は彼の甘い微笑みにごまかされてはくれない。猫のように聞こえてるのかも分からないすっとぼけた顔でヒヨシを見ているばかりだ。
    ちくしょう、吸対課は本当にくせ者揃いでチョロくない!可愛くない!お前、普段の自分の行動を考えてみれんのか嵐男!探知戦闘能力はずば抜けていて、ルーチンワークは早くても、手段を選ばずやりたい事を押し通す普段の素行は新人には見せられたもんじゃなかろう!ヒヨシは器用ににこにこしながら腹の中で思っていた。
     しかしすっとぼけ黒猫の耳には、隊長の説明も左から右に抜けるちくわ状態である。ちくわは淡々と言った。
    「隊長。俺だとサギョウの指導に値しないってどういうことです」
    「近い、近いって」
    「この俺が!ルーチンワークは秒でこなし、退治人の監督義務も怠らず、剣道四段、書道八段、優秀で有能なダンピールの半田桃が!新人教育して何故悪いのです!」
     一見すごそうな肩書を列挙されてついに零距離で頬をグリグリされたヒヨシは取れそうなつけ髭を抑え弱々しく呻く。
    「その自信過剰な所とか…顔が良いを分かってて敢えて近づいて上から凄むところとか…ほんと、ほんとに普通の人なら怯えて腰抜かすから…お前」
     するとモエギが言った。
    「半田でいいじゃないすか」
     ヒナイチもさっと駆け寄る。
    「そうだ、半田に耐えれなかったらどのみち吸対課は無理だ!逆を言えば半田に耐えれたらそこらの高等吸血鬼なんか屁でもないぞ」
    「フフンさすが先輩と副隊長。俺のことをよく分かってくれている」
    「どっか褒められとったか今」
    「サギョウ君の新人教育だけじゃありませんよ。半田君の後輩指導も皆でフォローしてあげれば良いじゃないですか。半田くん自身だって人に教えることで成長が出来る。そういうのが新人教育じゃないですか」
     ようやく出てきたルリのまともな意見。
     ヒヨシは改めて、まじまじと自信過剰な美男子を見上げふむと唸る。
     彼がこんなにだれかに関心を持ったのは、ロナルド以来初めてのことかもしれない。
     半田とサギョウ。二人は見るからに対照的。だが二人ともポテンシャルをきっと秘めている。彼らがコンビを組むことで相乗効果を生んだらどうなるのだろう。
     半田が自分の独特な能力に人一倍自負を持ちつつ一生懸命なあまり、孤立がちになる、そんな姿は気にはなっていたのだ。
     …ここは皆も乗り気であるし、偏見を捨てて部下たちを信じてみてはどうか。
    「では半田、部下の指導は周囲のアドバイスを取り入れながら行い、毎日俺に報告するようにの」
    「……!もちろんです」
     初めて後輩を持った彼は心なしか珍しく、子供のような無邪気さで顔をほころばせているようだ。
     ヒヨシもまた微笑んで思った。
    (サギョウくん、ヤギヤマさんとカズサ折り紙つきでやってきた君の力を、俺は信じとる!最初の試練が署内S級になってしまったが万全にフォローするから許せ!)
     ヒヨシだって、まだサギョウをふにゃふにゃのひよこで普通の好青年だと勘違いしている。


     半田が尊敬する母のあけみは、まだ幼い半田によく言って聞かせた。
    「知らない人のことを悪く言ってはなりませんよ」
     本当にそうだ。
    思い込みで決めつけて相手を見誤るなんて悲しすぎる。母の話してくれる道理はいつも半田の幼心を打った。
     サギョウの事がよく分からない。新人に期待していた分、落胆した自分がいるのなら。
     サギョウと言う青年に近づいて、本当の相手の姿を自分の目で知るべきである。

     初めての後輩。
     一度見たら忘れることの出来ない、心なごむ緑色の頭。
     素直そうな物腰。
     吸対に入れたことを誇る笑顔。

     本当は思い出すだけで、嬉しくなってくる。

    *

     サギョウは挨拶もまもなく行かされた三日間の県の合同研修から新横に帰ってきた。すると。
    「改めて、俺がお前の教育係となり、相棒となる半田桃だ。よろしくな、サギョウ」
     留守の間に決まったバディから自己紹介された彼は、とても驚き、同時にすっかり気後れしてしまった。
     金色の目をきらきら輝かせ、得意げに腕組みして名を名乗り、張り切っている超有能ダンピール。
     実は彼、半田桃の戦いぶりは研修時の動画資料になっていた。美形なだけではない。血液錠剤を口にしたとたん、爆発的に身体能力が増す姿。隠れた吸血鬼を正確に探り当てる探知能力。
     まるで実在する人物とは思えなくて映画俳優みたいだった。
     研修終わりの日にはダンピールに皆憧れを持つようになってしまい、サギョウを羨む声が上がり、男女問わずたくさんライン交換を申し込まれた。どうしてこんなに皆が自分に寄ってくるのか理解していた彼はスマホを眺めて舌打ちした。
    「馬鹿だな。僕と連絡先を交換したって無理だろ」
     雲の上の人なんだろうし、とばかり思っていたから、サギョウは本当に今の事態に気後れしている。
     改めて向き合った彼は、尖った耳、大きな牙、真っ白い肌。立派な体格に、威圧的な姿勢で放たれる物言いまで、お侍さんみたいでやっぱりかっこいい。
    「まずは俺の仕事を手伝って勤務の流れを知って貰う。これは署内での仕事の資料だ。パトロールの注意点を飲み込めてるかもう一度中のチェックシートで確認しておけ」
     彼のお手製だという分厚いファイルを渡される。
     かっこいいだけじゃない。指導方法まで、なんて丁寧親切な人なのだ…!
     まるで、急にサギョウの目の前に花畑の光景がきらきらと開かれたようではないか。誰からも憧れの的である先輩が相棒になるなんて、本当に夢じゃないだろうか。
     サギョウは返事に躊躇わない。貰った資料を大事にギュウと抱きしめて、顔を輝かせて答える。
    「はい!ありがとうございます!半田先輩、今日からよろしくお願いいたします!」
     サギョウ以上に大きな声が返ってくる。
    「よぉしサギョウ!いい返事だ!」
     彼は、やる気に満ち溢れた後輩に目を細め微笑んだ。
    「今日の二十二時、パトロールに出るから同行しろ。それまで基本的な事務手続きをルリから教わり、身の回りの整理整頓だ。わからないことがあれば隣にいる俺にすぐに言うように!」

     せっせと支度を進めるサギョウの横、半田はすっかり満足しうんうんと一人頷いていた。
     彼から浴びせられた包み隠さない憧れの眼差し。
     彼には何かした覚えは特にない筈だがかなり久しぶりに正当な評価を受けている気がする。
     なんかもういっそ彼が戦力になるかすらどうでも良い気がしてきた。だってそう言うのは事件に遭遇した時でいいし。事件だってどっちかというと、いたずら好きの変態相手が多いのだし。もうせっかく憧れの目で見てくれるのだから、本当に格好良い所を見せてはどうだろう?きっとますます喜んでくれるに違いない。
     こんなにも可愛らしく自分を信じ慕ってくれるなら、それで良いのではないだろうか…?

    (ばかもの!ちっとも良くないわ!)

     あやうく、サギョウの可愛さに流されそうになった自分の頭を思い切りテーブルにぶつけて叱咤する。
     俺は彼の本当の能力と職場適性をまっとうに見定める!可愛いからと言って、頼りにならない腑抜けだったら、俺がびしばし鍛えてやる!先輩になった俺にはその義務がある!というかそうしようと思って隊長にまた迫って無理やり取りつけた!
     おでこを赤くした半田は眉間にシワを寄せてもう一度椅子に背を預け腕組みする。
     けれども彼はスナイパー。
     実は勝手が分からない。近接戦ならばヒヨシ隊のお家芸だし、剣術の指南は何度もしてきた。
     しかしシンヨコ唯一の射手だったヤギヤマさんは半田がここに来た時はすでに本部へ出世済みだった。
     だがまぁ俺の手に掛かれば後輩のひとつやふたつ訳のない話だろう。きちんとこまごまと世話をしてやり、まずは後方支援に彼を置き、皆の戦う姿を見せ、一日も早く彼が隊の戦闘になじむように導いてやればいい。半田は一人、赤いおでこで座りなおしてフッと微笑みを浮かべた。

     ……と、ヒヨシは半田のさっきからの百面相の内容を、そんなところじゃろうなと何食わぬ顔で見守りながらアテレコして遊んでいた。
     サギョウはすっかり半田を虜にしてしまったらしい。日課のセロリ罠作りのことすら忘れている。無理もない。サギョウは優しくて気が利いて素直で、そして。

     彼が八百メートル先の的を前に、弾を一発たりとも外さなかった現場にヒヨシは立ち会っていた。
     一見ひ弱そうで、それでいて突出した才覚の持ち主である謎めいた男の実力を知りたくて一番ウズウズしているのは、元新横一のマグナムの腕を誇っていたヒヨシだったりする。

     コンビを組んで初日の二十一時半。
     二人はまず危険物保管庫へ向かう。
     吸対課専用のカードと指紋認証でようやく開く保管庫には、様々な吸血鬼退治のための特殊装置が保管されている。
     半田は一番奥のテーブルへ後輩を連れていった。
     そこには購入したばかりのM24SWSが青白い電灯を反射し、冷たい輝きをきらきらと放っている。
     無機質で凶悪なフォルムの真っ黒いそれは刀とはまた一味違う、冷酷な迫力をたたえていた。
     これは吸対課だけでなく自衛隊でも使われている標準的なスナイパーライフルだ。シンプルな構造ながら三百メートル先の車両さえ撃ちぬき一撃必殺を可能にする。さらに先人、ヤギヤマ上官の経験や、ヨモツザカの研究をもとにヒヨシ隊独自の特殊改造が施されているという超特別な代物である。
     すべての装備を引っくるめると重さ5キロにも達する。
    「これがお前の武器だ。使い方は分かるか?」
     すると半田が見守る中、サギョウは黙ってライフルに手を伸ばす。
     慣れた手付きで素早く点検していく。ネジ一つの締まり方から弾丸発射装置内部の点検。改造スコープの光学照準器を覗き込み、弾倉と弾丸チェック、支柱の高さの調節。最後にもう一度両手に抱えてみて、彼は満足したように答える。
    「僕も知らない新しい機能が追加されてますがいけそうです」
     真剣な面持ちで冷たい銃を抱える彼の頭は、しかしあまりにも真ん丸で、頬はふっくらふにふにで、頭のてっぺんにセロリの芽のような二筋の毛束がふさふさ揺れている。
    「重くはないのか。それともお前もハンマースペースがもう使いこなせるのか?」
    「僕はハンマースペースはまだ使いこなせませんが、新横に来るまでもこれ、ずっと担いでましたからね」
     平然と言った彼は腕時計を見ると、きびきび銃をケースに納めてしまい、ひょいと肩に担いで見せた。
    「もう僕の体の一部みたいなものです」
     時間だから行きましょう、と彼は告げる。その姿はもはや軍人めいたストイックささえあり、半田のまっすぐなはずの背筋がさらにぴんと伸びる。
     SSR人材集めが大好きで趣味すらそれに徹しているカズサさんが認めた男。サギョウとは一体……。
     抑えられない好奇心と期待感。やはり俺のお母さんは素晴らしい。知ろうとしたことは間違いではなかったようだ。
    「様になってるじゃないか!よし!では行くぞ!」
     ふつふつと湧いてきた希望に、半田は思わずサギョウの背中をパシンとたたく。大人しい後輩はぐえっと蛙がつぶれたような声を出してふぁいと答えた。

     ゴッホの絵の中のような、鮮やかな藍の夜空。黄色い店先のライトが煌々と照る道路。死と生をつなぐようにそびえる黒い街路樹。
     ほんの少しだけ何かがねじれた特殊な地。
     吸対課のパトロールにパトカーは使わない。車両の取り締まりよりも、歩道を行く人々の暮らしを守るのが大切だからだ。
     夜通しぶっつづけで歩き続ける。
     こんな時、半田は自分よりも小柄で装備の重い相手には、つい過保護になる。
     連れ立って歩道を歩きながら、疲れた様子があれば休憩を入れてやろう、と巡回ルートに公園を入れる。そしてしばらくは彼に吸対課のルーティンを見せるため、日課のセロリ畑の水やりをサギョウが帰宅した後に組み替えようとも決める。署の裏で土地の開墾から自分で手掛け、今では見事に茂るようになったセロリ畑のお手入れは半田の何よりの楽しみの一つだが、仕方ないだろう。

    「ここがシンヨコで一番の繁華街だな」
     半田が告げた先は昼間と変わらない人々の姿であふれている。
     夜更かし好きなスケボー少年たちはこれからだといわんばかりに夜の公園で自由に滑っている。
     仕事上がりの大人は居酒屋で笑い声を響かせ、連れだって歩く男女は細い曲がり角に消えていく。その全てに吸血鬼の香りが当たり前のように漂う。
     物々しいマスクをする半田にも笑顔で人々が声をかけていく。
    「どうもこんばんは。吸対課さん、パトロールをいつもありがとう」
    「いえいえ、今夜もいい夜ですね」
     すっかり吸血鬼に慣れた人々が白い制服姿を見ては温かい声援をかけてくれる。
    「吸対課はすっかりシンヨコの街の人に受け入れられてるんですね」
    しかしにこやかにやり取りする横をジト目でにらんで通り過ぎていく牙の生えた男もいる
    「今の方は吸血鬼ですか」
    「そうだ。彼はもめごとを起こして逮捕されてこってり絞られたはずなのに、結局シンヨコに住み着いてしまった」
    「もめごとを…何を起こしたんです」
    「ナタデココブームを流行らせようとしてあちこちにナタデココをあふれさせたのだ」
    「なんて迷惑極まりない奴なんだ」
    「結局それで話題になり、ナタデココ屋を始めることにして気が済んだらしいが、今度はタピオカブームが来てしまってな」
    「主義を貫くか時代に迎合するか、能力者の悩む所ですね」
     サギョウはシンヨコならではの珍事もしっかり予習しているのか、人が聞けば耳を疑うだろう話にも大して驚いた様子を見せない。しかし実物を目にしてもあきれて見せる余裕は肝が座っているのか、はたまた、まだ他人事気分なのか。
     首をかしげてサギョウを観察する半田は、彼が小さくため息をつくのを聞いた。
    「む、疲れたか?」
    「いえ大丈夫です」
     彼は首を左右に振ると、よいしょと銃を反対の肩に持ちかえて、乱れることなく歩いている。確かに彼は思ったよりも頑丈だ。
     半田は安堵しまたパトロールに戻った。明るいネオンの奥に潜む路地。たくさんの嗅ぎ慣れた高等吸血鬼の香りが漂う。

     そういえば半田のパトロール初日、モエギも半田の外見にも不思議な仕草にも何も言わず、見守っていてくれたっけ。
     目を細めて何も言わず、任せてくれた。
     懐深いというか、優しいというか、良い先輩に恵まれたものだった。
    サギョウもまた街を注意深く見守り、半田の事には特に何も言わない。そんな職務意識の高い彼につい、初めてのパトロールを懐かしく思い出す。

     繁華街は高等吸血鬼が大騒ぎをするのにうってつけで、ド派手な事件の最も起きやすいエリアだが、今日のパトロールは無事過ぎていった。
     半田は気持ちを切り替える。ここから先こそが彼にとっては本当の一仕事なのだ。
    「この区画は問題なし。ではいよいよ住宅街のほうへ向かう」
    「はい」
    「こちら側は高等吸血鬼よりも見えないところに潜みがちな下等吸血鬼のトラブルが増えるのだ。彼らは原始的な衝動に突き動かされて動く生物だから、小さくとも侮ってはいけない。見つけたら速やかに始末して、巨大化・狂暴化させない事が大切だぞ」
     一目で分かるとがった耳を持ち、派手で高度な能力を駆使する高等吸血鬼と違い、住宅街はひっそりと下等吸血鬼が隠れ住むのにちょうど良いエリアだ。小人数で住む戸建て住宅に組み込まれる上下水道。集合住宅の人目につかない暗い設備室。蜘蛛の巣のように張り巡らされた電線や電話線。植栽には虫型が住まう。空き家は小型動物やはぐれ吸血鬼の隠れ家にもってこいだ。
     ダンピールの半田の人間には備わらない、吸血鬼を感知せざるをえない第六感覚は、彼らの気配も嫌でも感じてしまう。
     この、人間の目には見えない危険を感知する力は半田しか持ちえなかった。だから半田は勤務中人一倍、気を張り詰めさせてしまうのだ。
     全ての匂いをくまなく確かめるわけにはいかない。けれどもし大きな気配があればできるだけ見落としたくないというジレンマも抱えている。匂いに気づくたびに足取りを緩めその方角に静かに目を凝らす。彼に感づかれた気配に、下水道深くへと戻っていく気配がある。
     たびたび足を止め、何もない方角を見つめる先輩に、やはりサギョウは不思議そうな顔をして見上げている。けれど半田には彼に説明する余裕はない。
     にらみにようやく去った気配にほうとため息をつくと、ようやく彼の視線を振り返る。すると、今度は何の思惑も敵意も感じられない、まん丸でまっすぐな真っ黒い瞳とかち合う。
     なんとなく黙って彼の瞳をまじまじと見つめ返す。
     次第に彼の大きな瞳に引き込まれていく。夜に金の輝きを放つ半田の瞳と真逆のその目は、まるでとわの闇のように、光も音も静かに全部優しく吸い込んでしまう。

     不思議な青年だ。

     半田は心が静まり、肩の力が抜けていくのを感じた。責任感で逆立った神経が落ち着いて、なぜかどうしようもない安らかささえこみあげて来て、半田は初めての経験に思わず目をぱちくりした。一体何が起きたのかよく分からない。
     すると、久しぶりにこちらを向いてくれた先輩に、後輩は嬉しそうに頬を赤くして彼の手元を覗き込んで来た。
    「先輩、研修資料の通りだ。本当に太刀持ってるんですね。それ、かっこいいですね」
     住宅街に入ってから自然、柄に手をかけていたから彼の目にもついたのだろう。笑顔で頷く。
    「ああ!かっこいいだろう」
    「はい!動画で先輩が刀を駆使して戦っている姿を見せてもらいました。みんな貴方に見惚れてましたよ」
    「ふふん、なるほど。それでお前は俺を出会う前から知っていたのだな。俺は撮影されても絵になる男だっただろう!」
    「はい!まるで映画を見せられてるみたいでした!」
     人間がまだまだ多い公務員社会で、半田はダンピールの能力を見せるのにもってこい扱いされている。目立つ事による弊害がないわけではないのだが、そんな事はおくびも出さず胸を張るのが半田である。
     誇らしげな彼にサギョウは感動して何度も頷く。けれど彼はしばらくすると、うつむいてしまって、再びライフルケースを反対の肩に担ぎなおした。
    「……実は対吸血鬼の近接戦の合同研修はあったんですが…僕の扱うスナイパーライフルは全く触れられなくて……」
     そんな事があったのか。
     予想外の言葉に半田は胸を張るのをやめた。実際、全国規模で吸対課の狙撃手は特殊任務扱いをされている。これは組織上の欠点で、日本では吸血鬼対策自体の取り組みがそもそも新しく、主となる組織である警察に比べまだまだ整備及ばずで、特殊任務だろうが巡査だろうが一緒くたで現場の裁量に一任されてしまっているためだ。
    吸対課警察学校では剣道、柔道、拳銃自体の取り扱いは古くからあったが、スナイパーの養成はなかった。取り入れられたのは異例で、半田憧れの神奈川県警吸対本部長カズサさんがヤギヤマさんと共に狙撃手探しに尽力しようやく配属されたばかりなのだ。
    だから特殊訓練の必要なスナイパーとなってくると例外扱いだった。だから半田はサギョウの目には自分の武器が門外に見え気落ちしてしまったのだろうかと心配した。そんな半田の目を、サギョウはまっすぐに見上げて淡々と言った。
    「だから今日までずっと考えてました。僕は射手が長年いなかったヒヨシ隊でどう動けばいいのかなって。それで…」
    「なんだ?」
    「特に半田先輩。聞いてください。僕と退治の仕事をこれから共にするなら」
     真剣な口調で次に告げられた言葉に半田は目を見張った。
    「射撃命令が下りた時は、僕にターゲットを譲って即座に標的から離れてくださいね。僕、間違って味方に当てる日が来てしまったら、たとえそれが弾道の間に割り込んできたケースであろうと、この仕事、やめるって決めれてやっと入隊できましたので」
    「な……!」
     彼の発言に驚き、半田は言葉を失った。
     まさかパトロール初日の新人が、実力で名をとどろかせた教育担当に、自分に獲物を譲れと言ってくるなどとは。
     でもそれは手柄を狙っての事ではない。彼は既にヒヨシ隊が近接戦に特化していて、スナイパーの扱いに特に不慣れで射撃命令の意味が浸透していない危惧から来る誤射を避けたいと分析し終えていたのだ。実際半田は同じ危惧を教育係の視点で抱えていた。彼の指摘通りなのは間違いない。
    同時に、彼は平然と、道さえ開ければ獲物に必ず当ててみせると言ってのけたのである。
     そして何よりも、そんな大胆な事を言い放った人物とは思えないほど、サギョウはほんわかした眠そうな顔で半田の返事をじっと待っている。
     ……半田は彼に感じた安らぎを少し理解できた気がした。
     なんとなく、返事代わりに手を伸ばす。揺れる頭のてっぺんの若葉にぽんと触れる。見た目以上にふんわりして温かい。伸びろ伸びろとわしわし撫でる。
     まだ彼の銃撃の腕前を見た訳ではない。その自信がどこからくるのかさっぱりわからない。
     けれど安易な気持ちではなく脅威を熟知した上でスナイパーライフルという暗器を握る決意をした男だという事はよくわかった。
     それにもしかすると今日の和気あいあいとしたパトロールのうちに、一撃必殺の自分の出番がかなり特殊であるのも悟ったのかもしれない。それでも道すがらいつか来る自分の出番をきちんとやりぬく事も考えていたのだろうか。

     こいつ…。

     何かあれば熱く飛び出す連中にはなかった冷静沈着さ。一人出過ぎようとしない謙虚さ。けれど出番はうかがう隠れた強靭な闘志。
     決して捨てられない責任感と良心。
     憧れの男から、急に頭を撫でられて固まる新人に構わず、笑顔で何度も何度もうなずく。本当は腕に頭をかいこんで、髪の毛がくしゃくしゃになるまでわしわしし、全力で褒めちぎりたい。よりによってこの俺の前で物おじせずに生意気を言うではないか!と笑いたい。けれど初日の今日はさすがに我慢だ。
    「わかったぞ!サギョウ、俺はお前にやめられては困る。しっかりお前に働いてもらいその時にはお前の腕に託すと約束しよう。だが必ず当ててくれるんだろうな!」
     それはこれまでの強面が一気に崩れ、子供のような純粋な笑顔。
     サギョウは、あれっ、急に距離の近い人だぞ、何かが違うぞと思いながら、それがちっとも悪くなくてむしろ余計、この先輩という人が好きになる。だがサギョウにとってもまだ初日だ。彼はもみくちゃになりながら困ったように笑った。
    「実戦もまだなのに生意気な話、聞いてくれて気が楽になりました」
     ありがとうございます。
     半田が誠実に耳を傾けてくれた喜びに、そして忌憚なく向けてくれる好意に、初日のサギョウは心幸せだった。


    ③竜巻誕生

     けれどもサギョウが来た見た勝ったと言えたのはほんの束の間に過ぎなかったのかもしれない。

     六月に入った吸対課の窓の外では、朝七時なのに横殴りの雨がたたきつけるように降っていて暗い。
     人の少ないオフィス。サギョウは一人、パソコンで作った提出期限ぎりぎりの書類の印刷ボタンを押す。
     大きなオフィス用複合機が後ろの方でごりごり音を立ててゆっくり目を覚ます。
     連日の出動で不慣れなデスクワークをためてしまい、家に帰るのが億劫になってしまった彼は申告して残業中だった。

     雨を嫌う高等吸血鬼の騒動は減ったが、湿気を好む微生物から生まれる下等吸血鬼は水の中で巨大化と活性化をするようになった。そのため戦闘は減ることはなく、ヒナイチ達はレインコートを羽織ってパトロールに出て、雨の中事件現場に駆け付ける。ヤツメヒルや、モウセンゴケ。グロテスクで巨大だが、単純な彼らはハンターや職員たちによってあっという間に駆除される。そんな中サギョウも市民の避難誘導に努める。背負う水気を吸ったライフルのバッグが重く感じる。けれどもサギョウが本当に疲れていたのは。

     コピーが終わったようなので刷り終えた紙束を抱え、再び席についた。
     印刷物を確認しようとすると、急に眠気がやってきて、つい用紙の山に埋もれるようにしてデスクに頬をこすりつける。すると周囲に人の気配が少ないのも手伝って気が抜けてしまって、ふと窓の外の滝のような雨を眺め一人呻く。
    「バカと天才は紙一重じゃないぞ。同居する」
    「夏目漱石じゃっけ?」
     サギョウの残業に付き合って居残りしてくれたヒヨシが、ゾンビのようになってしまった新人の独り言に相槌を打つ。
     気さくな童顔同士のどうでもいい話はお互い、心和む時間となっていた。
    「精神的に向上心のない者はばかだ、ってやつですね。あれも言葉が相当効いてましたよね」
     ヒヨシは苦笑した。梅雨の時期の新人。そろそろ音のひとつや二つ、上げてもいいころだ。すっかりとがりきっている。
    「では半田か?」
     その名前が出たとたん、新人は黙って、しかしはじかれたように起き上がった。
     そして雨にも劣らぬ涙を熱くあふれさせてヒヨシに怒涛の勢いで詰め寄ってきたのだ。
    「ひっ!」
     ヒヨシはサギョウの予想外な勢いにたまげて叫び声を漏らす。ただ椅子に座りつくして硬直するヒヨシに構わず、サギョウは泣くのをやめようとしない。
    「たった三日間の研修の先入観で鵜呑みにする僕も馬鹿でした!でもあのスライド、半田先輩の一面しかトリミングしてないの、マジでずるくないですか!僕、あの人に連れられて三日に一度ロナルドさんの家に留守なのにお邪魔させられてます!
     聞いたら、半田先輩、ロナルドおじさんって子供に名付けられてシンヨコの奇行子って呼ばれてるそうじゃないですか!奇行する子供ってどういう事ですか?!おまけに強烈なマザコンなのを包み隠さないじゃないですか!いくらあけみさんが美しくても、僕ぁ外の仕事を習うならモエギさんが良かった!変えてください!今すぐ変えて!だって彼、僕のことを本気で畑でとれたセロリを脇に抱えてるだけだと思ってるんだもの…!」
    「………!」
     温厚でおっとりさんだと思ってた可愛い子が、尋常ならざる勢いでキレてバーッてなっちゃった。どうしよう。
     急に発生した小さなトルネード。予想外過ぎてついてけない。
     ……いいや!大丈夫じゃ!これくらいの修羅場!若いころ遊びすぎがバレた時に直面した事があった気がする!俺はいつだって何でも潜り抜けてきた!
     人生経験豊かなヒヨシは頑張って、職場に生まれた新たな竜巻にも前向きに穏便にとりなすことを考える。
    「ストレスたまってたんじゃな。サギョウ、とりあえず俺の腕の中で泣くか?優しく慰めてやるぞ?」
    「するかよぉ!」
     弟と飲み屋のお姉ちゃんならいちころのテクは効かなかったようだ。さすが長男。手ごわいぞ。
     それでもヒヨシは背中に腕を回してポンポンたたいて、えぐえぐ言う青年を励ました。
    「あー、サギョウよ。俺も見守っていたつもりだったがフォローが足らんかったな。すまんかった。最近お前の目が死んどるとは思っておった。よしよし、お前は本当によく頑張っとる。みんなお前の苦労はちゃんとわかって見守っとる」
    「隊長ぉ……」
     ヒヨシに優しく背中をさすられれば、さすがの彼もひとしきり泣いてすっかり大人しくなってしまう。
     ようやく元の落ち着きが戻って来た彼がまだ赤い鼻をすすり上げているのはたいへん不憫だ。
     ヒヨシは彼を椅子に座らせると、つらい仕事も文句言わずこなしていること、与えられたライフルを肌身離さず大切に手入れして使っていること、呑み込みが早いことなど、良い所をいくつも褒めた。大人しく隊長のありがたいお言葉を聞いていた彼は、ズボンをぎゅうと掴む。
    「わ、わかってます…。本当は半田先輩が、セロリとロナルドさんとあけみさんが関わらなかったら、すごく優秀なの……でも実際にあの狂気を目の当たりにするとギャップが処理しきれなくなって、ばぁん!ってドア閉めて全部忘れたくなるんです。まぁ実際閉めますけど、開けてくるんで、あの人」
    「わかるよ。あいつに限らず俺も窓からバァンッ!て飛び出したくなる事がしょっちゅうある。一度くらい窓から半田を投げた事くらい気にせんでええんじゃ。大人の階段かもしれんよな」
     ヒヨシは微笑んで切ない相槌を打つ。
     どうやらサギョウの中で一度は途方もなく素敵に見えた半田の評価は、実態を知るにつれて落ちる所まで落ちてしまったらしい。わからいでか。ヒヨシも全く同じ道を通った。とても我慢強いモエギと、やはり規格外で天真爛漫なヒナイチは彼に甘いのだが、監督責任のあるヒヨシはそういう訳にはいかない。同じ葛藤を抱える若者に親近感すら覚えてしまう。
     けれども彼はやはり真面目だ。ちゃんと半田の優秀さは評価している。だからつらいのだと言っている。
    皆はほったらかしにした、彼のギャップ。優秀さとアホさ。それにたった一人、律儀に付き合い続けて注意してくれる青年。
    半田は良い後輩に恵まれたものである。
    この青年は手放せないのだ。憧れと現実のジレンマを。それをどうしても手放せない彼の気持ちはまるで恋の葛藤のようだ。治ることはないし、捨てることもできない。ただ続くだけの長い道。
    「ひょっとしてお前、だれかにそんなにまであこがれたのは初めてかの」
    「そういわれてみれば、ここまでなのは…」
     首をかしげているサギョウは、我に返ったように後頭部を搔いている。
    「それじゃあここまで失望するなんて気持ちを持ったのも、初めてというわけじゃにゃあ」
    「…………!」
     ニカッと笑ったヒヨシに、サギョウの顔がボッとゆでたように赤くなった。
     自分がどれだけあのダンピールにあこがれて心奪われて憧れていたのか、急に自覚させられたのだから。彼は真っ赤になった額を抑えて腰を浮かせる。
    「…すいません、慣れない仕事が溜まってるのを先輩のせいにして、うっぷんをぶつけちゃったみたいですよね…」
     恥ずかしそうに自分をごまかして切り上げようとする所を、少しだけあと押しする。
    「半田は優秀じゃ。だがな、もともと自尊心が高くて、人一倍任務に打ち込んで、他人に譲らない、馴れ合わない冷めた所もあったんじゃ。しかしお前と並ぶとよく満たされたみたいに笑うようになった。お前の話を自分の手柄みたいにしょっちゅう嬉しそうにみんなに聞かせてくれる。
    俺は半田も可愛いんじゃ。あいつを変えようとしてくれているお前に、ありがとうと言いたい。俺から見れば、あいつはお前の事を脇のセロリなんぞだの全く思ってはおらんように見えるんじゃ。……それにお前も知っとるじゃろうが、あいつがやたら気に掛けるロナルドは半田の同級生でな」
     照れて狼狽していたサギョウは顔を上げる。
    「二人は同級生。そう言えばスライドで見たような…真面目に見れたもんじゃなかったので覚えてないんですが、隊長の言葉で聞かされると違う感じがしますね」
    「うむ。退治人のロナルドは腕利きなんじゃが、昔から、どこか危なっかしい所があってのー」
     いつしかサギョウから弟へと思いをはせたヒヨシは、窓を見上げて空の向こうにつぶやく。
     ようやく和解できた愛しい弟は、体格こそ立派にはなっていたけれど、心は昔と変わらず、純粋無垢なおばかだった。いつの間にか本当に、家を無くしたおじさん吸血鬼にまで宿を貸していた。
    「……」
     そんな隊長の横顔を黙って見つめた彼は、何を思ったのか唇を突き出して、大きなため息をはぁーっとついた。
    「……わかりましたよ。そういう事なら僕、もう少し先輩と頑張りますよ」
    「おお!そうか!良かった。お前ならできる!頼んだぞ!」
     パーっと顔を輝かせて振り返り、嬉しそうにおだてまくるヒヨシを見下ろして、サギョウはムスッと言うのだった。
    「その代わり僕、もう少し好きにしていいですよね」
    「おう!もちろんじゃ!てっきりおみゃーが可愛いふにゃふにゃした奴かと思っとったが、ちょっと違うのはワシにもよくわかって来たぞ!」
    「なんですかそれ、もう。…僕おなかがすいてきちゃったんで今日は帰りますね。…だから、これからも頑張るから、隊長、僕に美味しい朝ごはんを食わせて下さいよ」
     ヒヨシは若者らしい元気で単純な和解の発言に、笑って頷く。
    「まぁ半田以上に厄介な男もそうはおらん。あいつの相手さえできればこの世の他に怖いものなどなかろう。順風満帆!」
     お前もまたひとつ、強くなったのーとからかいながら二人とも帰り支度を始める。
     署の玄関を出れば朝の嵐はいつしか優しい霧雨へと変わり、遠い雲の切れ目に光が差し込んでいる。
     ただ、それでもどこかで春の名残のような遠雷がごろごろと時折音を立てていたりもした。


    ④吸対課総員出動

     うだるように暑い八月がやってきた。

     サギョウはルーチンワークが得意になった。ゴビーという可愛い小さな家族も増えた。刀が持てなくても代わりにだれかがやらないといけない仕事はいくらでもある。時々、吸血鬼の眷属たちや下等吸血鬼退治の援護射撃も頼まれるようになって、外さない腕前にありがとうと声をかけてもらえるようになった。
     口達者で勝気な母や妹にさんざん鍛えてもらったおかげで、市民の皆さんから励ましの声をかけてもらえると、それだけでうれしくなって一週間は張り切れる。
     そして半田がみょうちくりんな事を始めるのを必死で止めたり注意したりする役目になっていた。吸対課の他の誰も半田には何も言わないでいるのだが、現場にさんざん立ち会わされるバディとしてやりすぎの現場を見過ごせない。ヒヨシ隊長の許可も下りている。
     そして半田も変わった。サギョウが何を言っても全く意に介さないでスルーして、無理矢理サギョウを引っ張り混むのは相変わらずだが、最近は休日も呼び出すようになり、サギョウの意見に素直に耳を傾けてくれたり、何気ない一言に喜ぶことも、逆になぜか知恵熱を出して呆然と立ち尽くすようにもなった。サギョウが同僚と雑談していると足をとめ、猫のように遠巻きながらも話題に聞き耳も立てるようになった。
     セロリ畑を耕しに行く彼の脇に抱えられて引きずられて行くのも、諦めがついた。
    まさか半田が無限に繰り出すセロリは彼が自分で育てて収穫し、自分でちゃんと食っているとは思わなかった。
    そして何より、そのセロリ料理消化の一環としてか、半田がちょくちょくサギョウに美味しいセロリ料理をわけてくれるのである。これにはすっかり胃袋を掴まれてしまった。栄養豊富で美味しくて、嬉しい。自炊が苦手で母の料理が恋しくなり始めていた所だったからありがたい。
    新しい寮で暮らし始め、まだ友達もいないサギョウに休日構わず呼び出しコールが掛かってくる。文句を言いながら、彼のいう場所へのこのこ出かけてしまう。

     一度諦めかけたけど、そこを越えて見えてきた景色は…。

     罪を憎むだけで、人は憎まない。やりたい放題に見えるけれど、ちゃんと最後のひと匙の気遣いを忘れない。大切な人は彼なりに過剰なほど大切にするし、無害な存在には公平に品行方正な心強い味方。そんな人だった。
     それにやっぱり、スライドで見たヒーローみたいな頼もしさはそっくりそのままだ。
    サギョウはやっと思うのだ。

     もしも彼が、本当に欠点のない完璧超人だったら、それこそ本当に側にいるのが耐えられなかったかもしれない。

     やっとコンビも悪くないとサギョウが思えるようになれた、そんなある一日の夕暮れ時、吸対課へ一件の通報の電子音が響いたのである。

     リリリリリリリリ。

    「高等吸血鬼による、オフィスの立てこもり事件…!現場は社長室、人質にされてしまったのは社長さんですね!」
     受電したルリの内容の険しさに、シャツをめくってうちわであおいでいた面々は顔つきを変える。
     ルリの手で通話がスピーカーに切り替わると、向こうから複数の涙混じりの震え声が聞こえてきた。
     滅多にない本当の「事件」が発生したのだ。
     ヒヨシは即座にルリと席を代わった。優しい声で通話が途切れないように話しかける。
    「私はシンヨコ吸血鬼対策課、課長のヒヨシです。通報者の身は安全ですか?……」

     事件は二十階建てオフィス用高層ビルにある弁護士事務所で起きた。

     立てこもり犯は高等吸血鬼。
     しかし彼は弁護士資格を持ったれっきとした弁護士であった。
     自分の勤める外資系弁護士事務所のオフィスの代表役を狙った犯行だ。
     皮肉なことに、彼の名前も能力も経歴も弁護士資格を取るために詳細に弁護士協会に残されている。おかげですぐに割れた素性は、彼が日本の司法試験を経て、いくつもの裁判で吸血鬼と人間の問題を和解をさせてきた輝かしい経歴の持ち主であるというもの。百歳を越えると言うのに犯罪歴もなく、人望厚く、何より高等吸血鬼だが特殊能力すら持ってはいない。
     青ざめてこそいるけれど、凛々しい立派な外国人紳士の顔写真がデータ登録されている。
     ヒヨシは胸が痛む。
     こんな人格者なのが一目で分かる男に心血注いだだろう仕事を捨てる決意をさせた動機がわからない。ただ確かなのは、これ以上彼に罪を重ねさせるわけにはいかない。
     そして同時に見抜く。能力がないとされているのに彼が事務所を占拠できているという事実に。

     吸血鬼の身に降りかかる試練。
     能力の急激な発露で起きるだれも望まない傷害事件の発生。
     これは、人間の身には決して起きない災難である。
     吸血鬼と身近に接するものには理解できて当然。しかし接点のない人間にとってはとうてい理解し得ない話なのだ。彼らや被害者からは、ただの高等吸血鬼による暴行事件にしか見えないのだ。
     吸血鬼を知るものと知らないものの間で、相互の認識にもっとも深刻なへだたりが生まれやすい事案の一つである。
     この事件について、もっとも深く理解することが出来、なおかつ解決を一人背負わねばならない立場であるヒヨシは時計を見上げた。二十時。
     立てこもり事件ならば吸対課だけではなく、人間の治安を守る古い組織、警察側にも連絡が行っている筈である。
     警察への通報を請け負ったのは新横署内にあるの刑事課特殊任務部となるだろう。彼らはテロや集団強盗などの高難度な非常事態に備える硬派な組織人たちだ。彼らがここに来るまで持って十分と言ったところか。
     彼らは立てこもり事件への対応は吸対課以上の腕前かもしれない。だが特殊能力を備え、通じる武器さえ個体差のある高等吸血鬼相手にはそれだけで追い付けない事が多々ある。なぜならば彼らの中に、吸血鬼の匂いをかぎ分ける力を持つ男がどれほど必要不可欠な人材か、という事を認められうるものは早々いない。ましてや音もたてず靴下だけをもぎ取る腕前がどれほど吸血鬼には脅威なのか、理解できる人間など決して存在しえないのだ。身内の考え違いで衝突し無駄に時間をつぶす気はない。
     迅速さが必要であるとヒヨシは考えをたちまち巡らせて、決意を固める。
    「半田、現場の地図と建物を調べてくれ」
    「モエギは全員の対催眠・吸血、防刃装備の準備、ヒナイチは署の特殊車両の鍵をくすねてこい」
    「ルリは先手を打って三階に内線じゃ。うまいこと奴らが上がってくるのを抑えつつ、向こうの最新状況を聞き出してくれ」
     そして最後にヒヨシは新人に向き直る。
    「サギョウ。お前は高等吸血鬼にスナイパーライフルを撃つ体勢に入れ」
     サギョウはごくりと生唾を飲み込み、手を軽く握った。
     ついに、命を左右する狙撃命令が下るのだろうか。
     彼らは生態こそ多少違えど、ここシンヨコにおいては、人と何ら変わらない存在である。いつもの微生物から派生した異形の下等吸血鬼や、本体に傷を与えることのない眷属への援護射撃とは訳が違う。考えがあり、気持ちがあり、事件を起こした背景があり、そして人質となった人間達の命もかかっている事態である。
     覚悟はできていたつもりだ。むしろこの日のために訓練を受け、入隊の決意をした。そのはずだ。サギョウは頷いた。
    「……了解です」

     十五分後。
     ルリの時間稼ぎで警察官たちと接触することなくヒヨシ隊は装備を整えて新横署を抜け出し、モエギの運転する特殊護送車で目標地点へと向かっていた。
     後部席のデスクに集った戦闘員はパソコンと地図を囲む。
     同時に備え付けのスピーカーからきれいな声が流れてくる。
    『では、犯人は今、シンヨコ署に電話中で、事務所内の人間の解放を条件に、逃走用のヘリと資金を要求しているんですか?一体何の目的でそんなことを』
     そんなぁ、とんでもありません、吸血鬼の個人情報を照合するのに重大事件かどうか判断を青いで、個人情報照会解除手続きが必要ですから、とルリが穏やかに言う。
     今、ルリは専用のオペレーションルームで一人、のらりくらりと強面警官たちの再三にわたる熾烈な吸血鬼逮捕の権限の譲渡要請をかわしながら、刻一刻と変わる状況をうまく聞き出してくれているのだ。
     ヒヨシは半田にパソコンを操作させながら皆に説明した。
    「今回はサクッと俺たち吸対課だけで行こう。ゴウセツさんに犯人の情報を開示し、ハンター達に犯人が立てこもるフロア以外のビル内の市民の避難を任せたところじゃ。半田、法律事務所のフロアの地図を頼む」
    「はい」
     たちまち皆の前に立てこもりの起きている十七階の間取りが映し出される。
    「今回の任務は、俺が高等吸血鬼に交渉し自らの意志で投降させることとする。なぜなら彼は社会貢献にいそしんでいた過去があり、説得次第では罪を重ねさせずに済むかもしれんからじゃ」
     ヒナイチが凛々しくうなずく。
    「ああ!私たちは兄さん直伝の隊長のたらしこみの腕を信じている!」
     ヒヨシは苦笑して頷く。
    「ありがとう。まず犯人の元へ会いに行かねばならんから、モエギとヒナイチと俺の三人行動でビルへと入る。幸いルリの告げてくれる様子からすると、何故か吸血鬼は俺たちではなく警察の方に関心を向けている。おそらく警官が集まり始め、派手にビルを取り囲んだりでもしとるんじゃろう。わしらはその隙をついて少人数で忍び込み、さらにフロアにちらばったハンターの手を借りて、吸血鬼を刺激しないように目的地まで近づければ行幸じゃ」
     サギョウは口をはさんだ。
    「半田先輩もいかなくていいんですか。先輩の感知能力と、ダンピールと言う立場は有利に働くんじゃないでしょうか」
     ヒヨシはサギョウの指摘にうなずく。
    「それも一理ある。だが今回はもう一つ有利な点がある」
     ヒヨシは事務所の社長室を指さした。
    「犯人が人質と立てこもったとされちょる社長室に大きな窓がある」
     そのままヒヨシの指はつーっと地図へ移動して、社長室と直線で向き合うビルに架空のラインを引いた。
    「高度な吸血鬼感知能力のある半田を狙撃アシストにつけるから、サギョウ。お前がその腕前でこの窓をぶち抜いて、俺たちに気を取られた吸血鬼に麻酔銃を撃ちこんでくれ。弱体化したところを確保する。…これは万一の時の予備の奥の手だがな」
    サギョウが半田を見上げる。半田は了承済みだと言わんばかりに黙って頷いて見せる。
     皆もサギョウを取り囲む。
    「お前になら当てられる!だが、まだお前は新人だ!あんまりあてにしてない。私たちで解決するから大丈夫だ!まずは仕事を学べ!」
    「もし本当に当てたら俺が一週間、半田のセロリの水やり相手を変わってやる」
     口ぐちに和ませてくれる仲間たちに肩をたたかれながら、サギョウはじっと図面を覗き込んでいた。
    「あのう、半田先輩」
     半田は頷き椅子から立ち上がる。
    「ほら、現在の天気と社長室の資料だ」
     サギョウはほっと笑った。
    「助かります。クラウドに入れといてもらえますか」
    「もう全員の端末とお前のライフルにまで登録済みだ。さあ狙撃ポイントを探すのだろう?」
    「はい」
     サギョウと席を代わってくれる。みんなは地図に集中し始めた彼からそっと離れると、もう一台の端末を囲み建物への侵入経路を話し合う。そこへモエギが呼びかける。
    「目的地まであと三分だ。用意はいいか」
     一瞬の打ち合わせだったが十分だ。全員、目くばせしてしっかり頷いた。

     現場ビル付近の木陰に車がつけられると装備を固めた彼らは静かに路地に降り立ちお互いが二手に分かれる。
    「健闘を祈るぞ」
    「隊長、どうかご無事で」
     相手チームと短い挨拶をかわしたサギョウと半田は共に走り出した。ルリから無線が入る。
    『サギョウくんが希望した狙撃スポット用の部屋の使用許可と市民への避難命令が出せました。そのまま警官バッジを見せて目的地まで通過できます』
    「ルリさん、ありがとう!」
    『いいえ。がんばってねサギョウ君』
    「はい…!」
     いつも新人にも区別なく優しい心強い人の声に、サギョウの頬はぽっと赤くなるも、そこでついに無線はプツンと途切れた。ルリは今度は警察とのやり取りに移ったのだ。

     とたんに、急に足取りが重くなる後輩に気づいた半田は足を止めて振り返った。彼は浮かない顔をしている。
    「サギョウ?どうした」
     半田は歩み寄り、彼の顔を覗き込む。けれども彼は顔をあげようとしない。とっさにその細い肩を抱き、しっかりしろと軽く揺する。
    「サギョウ、無線が切れて心細くなったのだな。だが安心しろ、ここからは俺が傍にいる。大丈夫だ」
     その言葉は嘘ではない。半田は今や、翠の頭の彼に全幅の信頼を寄せるようになっていた。実際この数か月、サギョウは驚異的な射撃の腕を披露し、戦闘時強力な味方になってくれた。そればかりではない。ロナルドにちょっかいを出しに行くとついてくるくせに必死で止めてくるし、半田が作るセロリ料理に喜んでくれるし、すっかり休日も一緒に過ごす機会が増え、今では内心、彼のことを同僚を越えて友達のように思っている。彼の実力も性格も、自分の目でしっかりと確かめて、彼がひよわな奴だろうという失礼だった先入観がどれほど間違っていたか、今ではようく分かっているのだ。
    半田とて本当はサギョウの精密な射撃のサポートがどこまで出来るのか本当には分からない。それでも二言なくヒヨシの命令を引き受けた。
     ただ彼を救いたいがために言い聞かせる。お前なら必ず当てられる。何を迷うのだ、と。
     すると一人で唇をかみしめていた後輩はゆっくり顔を上げ半田の目を見返した。彼は浅く速い呼吸を繰り返している。プレッシャーでパニックを起こしかけているのどと半田は悟る。
    けれども。
    彼が強い事は知っていた。半田は彼の背中に腕を回して励ますようにさすってやる。そして彼が落ち着くのを辛抱強く待つ。
     すると半田の瞳だけ見るようにしてサギョウは言った。
    「あんなに望んでた僕の仕事です。僕は、もう少しで…決心がつきそうなんです」
    「無理もない。初の対高等吸血鬼相手の狙撃指令なのだ」
     サギョウは呼吸を繰り返しながら、半田の襟を掴む。まるで自分に懸命に言い聞かせるように言う。
    「僕は、僕は、結局、先輩や皆みたいに、即断して飛び出せるような勇敢さもなくて、潔くなれなかった。でも…一つだけ分かります。僕は確信してます…。あんたが僕といてくれるならきっと上手く行く。うまく行くんだ。あんたの魂を信じてます。真っ白いあんたの制服姿。それが僕の救いです」
     半田は微笑んだ。
     彼は潔いどころか、即決速攻も躊躇ない、実に容赦ない男である。そして彼のライフルはまごうことなき神の域だ。
     そんな彼がここまで迷う姿に、一つの想いが胸に浮かぶ。
     誰かの命を奪うかもしれない。外せば次はないかもしれない。そんな、チーム起死回生の奥の手という役割をひとりで受け持とうとしている彼の助けになりたい。彼の真の力を支えたい。他でもない、持てる半田のありったけの力で。
    「ありがとう。それでいい。撃つのはお前だが、責任と判断は俺が引き受ける。お前は自分の仕事にいつも通り集中して、他は全部俺に任せればいいからな。お前の仕事振りは俺ももう、ようく知ってる。俺こそお前を認めて信じている」
    「……」
     いつになく真面目に告げる半田の言葉に、サギョウの呼吸は落ち着きを取り戻し、肌に次第に血の気が戻ってくる。その細い背中を抱き締めて、優しく何度もとんとん撫叩く。呼吸が落ち着いてくるのが半田にも分かる。
    「……具合はどうだ、行けそうか?」
    「はい…ありがとうございます…」
    「うむ!ここからも心配事があれば遠慮なく何でも言え!俺が全部解決してやる!」
     顔を上げた二人は目を合わせ頷き、今度こそ目標の建物めがけてしっかりとした足取りで走り出した。

     半田は感じる。いつか新人を待っていたころ、ひとり抱えていた胸のわだかまりが消えていくのを。
     そしてその時夢見た存在が今ここに現れたことを。
     今のヒヨシたちにとって、背中を預かってくれるサギョウの存在がどんなに心強いか。彼らはいつも以上にまっすぐに踏み込んでいこうとしている。
     そして。
     いつか物足りなさに悩みひとり見た、半田の瞳よりも疾くまっしぐらに獲物を捉える、美しい翡翠色の流線型。
     あの頃、半田の能力は、半田以外の誰もが持ちえない領域だと思って孤独だった。けれど今は違う。自分の吸血鬼感知の嗅覚に追い付き、さらにその距離をやすやすと飛び越えて獲物を捉えにいくことができる唯一のみどりの光がここに小さく力強く灯っている。
     ただ、天才的な狙撃の腕前だけではない。
     任務の意味に迷い抜きながらも自分で答えを導き出そうとする、誰にも敵わない力強い、健気な誠実さをたたえている。
     彼の弾丸はきっとまちがいなく、皆を一挙に救ってくれる。
     自分が助けに出る時は、相手がか弱いからだと思っていた。けれどこんなにも切実に他人の力を信じて支えたいと思ったのは初めてだ。それは彼が尊敬に値する、比類のない力を持つ男だから。

     サギョウは思う。
     自分が引き金を引く時が一瞬であることを。
     故郷の川で何度も見た、小さなカワセミ。
     川面に鱗が煌めく一瞬の魚影で彼は飛び立ち、光のように疾く美しく駆け抜けて、瞬く間に鮎を掬っていく。
     小さな鮎はカワセミの命を繋ぐ。
     けれどこの弾丸は何に繋がるのか。
     銃に仕込んだのは麻酔弾。しかし威力は高層ビル用ガラスをも貫通し得るものだ。
     人質優先で急所を狙えと言われる瞬間が来るのが本当は怖い。
     答えを示さねばならない時間と場所は刻一刻と迫り来る。
     けれどそんな躊躇いにゆらぐ道を半田がまっすぐに開いていく。サギョウの目にはもう半田の白い大きな背中しか見えない。懸命に追いかける。
     ヒヨシの判断に感謝する。自分たちの身を削っても彼を譲ってくれた。彼がいてくれて良かったと心から思う。
     副隊長でもモエギさんでも、隊長でもない。
     半田先輩で良かったと心底思う。

     僕はゼウスの雷を放てるようだ。
     けれどそんな僕だが、実態はただの人間でしかない。ましてやだれかの運命を翻弄していい存在じゃない。僕が放つ弾の理由。そして相手、タイミング。それら全てを決めるのは僕じゃない。僕はただ、執行係に過ぎない。それが苦しい。たまたまこの才能に恵まれてしまったが、僕はこんな時、ずっと考え続けるだろう。
     けれどそんな時、僕の傍に彼がいてくれた。半田桃。彼の判断は、事件に直面した時いつも、まるで正義の女神の天秤のように真摯だった。
     そんなことを思わせてくれる、全幅の信頼を寄せられる人に巡り合えたのだ。それはたぶん、とても幸福なことだ。
     役割を分かち合ってくれた彼が大好きだ。尊敬と、それ以上の気持ちで切なくて泣きたくなるほどに。


     ヒヨシ隊はぎこちなく動く警官隊にまぎれて裏口からビルに入る。ビル内では気心知れたシンヨコの退治人たちに上手く助けられ、無事に十七階の事務所までたどり着く。
     すると非常階段の先に見えた豪華な法律事務所の扉は、今、禍々しい紫色の煙におおわれ刃物型の眷属でびっしりと覆いつくされているではないか。
    「……やはり高等吸血鬼の能力が発露しておる!二人とも対吸血鬼装備に不備はないな!来るぞ…!」
     対催眠、防刃、抗吸血装備に身を固めた三人目掛け、ヒヨシ達に気づいた眷属が旋風のように渦をまきながら廊下を一直線に襲い掛かってきた。
    「私に任せろ!」
     すかさず刀を引き抜いて前に飛び出したヒナイチの圧倒的な斬撃に、たちまち刃物たちは薙ぎ払われ、触れたとたんにかき消えていく。ヒナイチは手ごたえが空振りに終わり二人を振り返る。
    「眷属ではない!実態のない映像のようなものだ!」
    「なるほど、相手に恐ろしいまやかしを見せる力があるんじゃな。その力で事務所を占拠しておるのかもしれん」
     ヒヨシは特に驚かない。これまでずっとシンヨコの吸血鬼たちの数々の能力を目の当たりにしてきたのだ。それでもヨモツザカ特性マスクごしにも映像を見せうる相手の力に気を引き締める。
     そのまま三人は廊下をまっすぐに歩き、扉を押し開け、荒れ果てた法律事務所に足を踏み入れる。
     すると床のあちこちに、人々が大勢倒れて呻いている。
     ヒナイチが敵の気配に気を配る中、ヒヨシとモエギで近場の人を抱き起し声をかけるも目を覚まさない。呼吸と脈は正常である。どうやら人々は吸血鬼の能力の支配下に置かれて昏倒させられているようだ。うなされて呻くのにどうにも出来ない人を抱えてヒヨシはつぶやく。
    「…犯人は一度にこれだけの人数を気絶させることで所内を一人で制圧し、人質にしとったんか…やるのう」

     相手は手ごわい。

     能力を駆使して敵意を見せている。もはや偶然の能力の暴走と言うには楽観が過ぎるだろう。
    「どうやら一筋縄でいかんな。モエギ、ヒナイチ、倒れている方々を起こさぬよう、簡易拘束してくれ。能力で操られるのを防ぎつつ自力歩行の能力は残すようにの。俺は彼が社長室から出ないうちに先を急ぐ」
    「了解です」
    「市民の安全確保を済ませたら、私たちもすぐ向かうからな!」
     二人ともヒヨシの指示に即座にハンマースペースから捕縛道具を取り出し仕事に取りかかる。
     ヒヨシは視界一面におそいかかってくる幻影を十手で薙ぎ払い、ついに一番奥にある不気味に静まり返った社長室の扉の前に立つ。
     ヒヨシは無線でチーム全員に呼びかけた。
    「これから俺は犯人との交渉に入る。ボタンに仕込んだ小型カメラを起動するぞ。特に半田チーム、参考にしてくれ」
    『了解です!』
     全員から諾の声が帰ってくると、ヒヨシは装備を説得用に切り替えた。
    「ではいくぞ」
     扉をノックした。
    「……」
     返事がない。
     そこへルリから無線が入る。
    『隊長、吸血鬼が警察官との電話回線を切った様子です…きゃあ!』
     悲鳴があがり音声が急に途絶える。そして急に男の胴間声がわりこんだのだ。
    『クソガキがよくもちょこざいに行動しやがって!木下!』
     ついにルリのオペレーションルームの守りは破られてしまったらしい。ルリから乱暴にマイクを奪った声の相手はおそらく三階特殊任務課の高ノ宮課長だ。公安から来た、高慢で威圧的な人物だ。高ノ宮はヒヨシの返事を待たず一方的に続ける。
    『いいか、ここだけの話、人質の社長はとある政治家のお抱え弁護士だ!不埒な吸血鬼はとっとと始末して社長を無傷で救助しろ!これは公安の要請だ!いいな!』
     大事な職員を傷つけられたヒヨシは胸糞悪い思いがこみあげて、落ち着くために吸対の証のバッジを撫でる。
     大嫌いな後ろめたいしがらみを権力の名前で脅してねじ込むような真似をして、このヒヨシが、頷くとでも思われたことが許しがたい。
     しかし感情のまま怒ってはいけない。目を閉じて息を吸い込み、脳裏に、自分のあこがれる自由な風雲児を思い浮かべる。
     するといつも背中を向けているはずの彼が今日はヒヨシをふりかえって、やってやれ!と豪気に笑うのだ。
     ヒヨシは微笑んで目を開き、無線に慇懃に答える。
    「おーその声は高ノ宮か。お前さんがあっさり重大な組織内の手の内をクソガキなんぞに漏らしたのを上にチクられるのと、何も聞かんかった忖度をしてやるのとどっちがええ?」
    『ふぐっ』
     無線はたちまち静かになる。やはり高ノ宮の独断で威張り散らしていただけだった。自由を愛するヒヨシには手に取るように分かる。おそらく組織人の彼は本部への返り咲きのための手柄欲しさに必死になってしまっている。彼は中央から変態吸血鬼の事件ばかり起こる地に島流しになり、特務課の隅っこの席で名ばかりの肩書を貰った男なのだ。吸血鬼に関して知るはずがあろうもない。事態を悪化させるだけの人間だ。
     組織人の横やりも石ころ一つで片付けたヒヨシは鼻息ひとつフンとならしてネクタイを締め直す。
     
    今度こそ扉の向こうに優しく呼び掛ける。
    「俺は新横浜署、吸血鬼対策課課長、木下ヒヨシじゃ。あんたから見れば子供みたいな存在かもしれんが、吸血鬼と人間の暮らしのために細心してきた。少しは話の分かる男だと思われたい。どうか、あんたと話をさせてくれんか?」
     しわがれたぞっとする笑い声が響く。
    『吸血鬼退治のプロから交渉人が来たのか。六十人の人質の命がどうなっても構わないなら良いだろう、入れ』
     ヒヨシはひるみもせずに社長室の扉を静かに開く。しかしさすがに驚いて息を飲む。
    「……ッ!」
     部屋の様相は彼の力によって光の一筋も差し込まない紫色のおどろおどろしい暗室に姿を変えていたのである。
     彼の姿が見て取れるのは、彼自身が能力発動中を示す、紫色の燐光をまとい放っているからだ。
     写真通りの男だ。撫でつけた艶やかな黒髪。彫りの深い欧風の顔立ち。くぼんだ眼窩には大きな青いひとみが。高い鼻梁。そして大きな牙。光沢のある黒スーツに紫のシャツと黒いタイを結んだ姿は、美しい悪魔のようだ。
     人質の男は床の上に転がされ、縛り付けられて彼の靴に踏まれている。うなっているのは床に倒れていた人々と同じ症状だろうか。少なくとも、生きていることに安堵しつつ、ヒヨシは内心頷く。

     そりゃあ、弁護士になれるほど賢い吸血鬼なら一番危険な窓をふさぐのは一番に考えるよなぁ。
     そしてまた一つ安堵する。
     あほで野心家な高ノ宮が死に物狂いで出てきたからには、せっかくの交渉中、特殊任務側の辣腕スナイパーや特殊部隊がどこからか攻撃してくる可能性もない訳ではない。
     しかしこの部屋なら。
     ヒヨシは室内を見渡すふりをして、カメラのついたバッジを室内に向ける。隊員たち…特にサギョウまで暗すぎるカメラ映像は届いただろうか。
     
     いかに優秀なテロ対策課といえど、ダンピールまではいない。
     
     吸血鬼の手で覆い隠され重要人物を人質に取られたこの絶壁の孤城で、犯人だけを正確に捉えて狙えるのは、吸対課の半田とサギョウのペアだけである。
     そしてその二人は今やスポットにつき、ヒヨシの指示を待つばかりの状態。階下からの警官隊の突入には、ちりばめたハンターとモエギとヒナイチが控えてくれている。つまりこれはヒヨシ以外の誰にも邪魔の出来ない二人きりの空間というわけだ。説得に時間が大いに稼げるのだ。
     そして、奥の手はサギョウに託した対吸血鬼用の麻酔弾。これには吸血鬼の能力を無効化し眠らせる力がある。靴の中に仕込んだ二人への特殊な通信スイッチの位置を今一度、ヒヨシは悟られないように確認した。
     もともと吸血鬼への恐怖はそんなにないほうだ。そこへ優秀過ぎる隊員たちの万全のサポート。
     スリルと会話が何より好きなヒヨシは、気楽な気持ちで足を踏み入れていった。

     ※

     サギョウが狙撃場に決めたのは直線距離百メートル、そして高さ五十メートルある現場の真向かいのビルの飾り屋根だ。
     無人の建物を駆けあがった二人は点検口から本来立ち入り禁止のルーフテラスに出て、夏の蒸し暑い夜、静かに狙撃待機していた。
     思った通り射程範囲も広く風速も穏やかである。
     しかし、銃をセットしコンクリート色のネット下に隠れたサギョウは、スコープから見える景色を皆に告げる。
    「窓が吸血鬼によると思しき遮蔽物にふさがれ、敵を目視できません」
     すると続けて半田が助け船を出す。
    「俺の嗅覚は高等吸血鬼が一体いるのを捉えている。射撃はヒヨシ隊長の映像と俺の感知で、敵と人質の位置を割り出しサギョウの精度が上がるよう誘導する」
     一度言葉を切ってから彼は続けた。
    「人質の安全を最優先じす。しかし突入班は狙撃命令が降りたら、サギョウの狙撃から退避行動の協力を要請します。万一彼の弾道を遮ってしまうリスクを避けるためです」
     無線は静かだ。しかし、これはみんなの異論のない肯定の静寂だ。
     やがて、シンヨコの夜空を背に姿をひそめる二人にもヒヨシによる説得が受信機を通じて聞こえ始める。
     
     ルーフに腹ばいになってスコープを覗いたまま、サギョウが会話を聞きながらつぶやく。
    「さすがヒヨシ隊長です。この状況にちっとも怯んでいない」
    「ああ。だが相手はいけ好かない耳障りな声だ。やけに落ち着き払ってもいる。不気味だな」
    「計算ずくの犯行でしょうか。ヒヨシ隊長を招き入れたのも何か思惑があるのかもしれませんね」
    「他に吸血鬼の気配はない。仲間の人間やダンピールが待機しているならば俺には感知は出来ないが…ただ自暴自棄なのかもしれない。追い詰められた命というのは、その先が絶望だと分かっていてもなりふり構わず飛び込む事がある。死を覚悟したものの攻撃には、死も刑罰も抑止をなさなくなる」
    「……先輩。もしヒヨシ隊長に狙撃命令が下せないまま人質の身が危険な状況が起きてしまったらどうしますか」
    「どんな時も指揮権には順番がある。ヒナイチ副隊長、モエギ先輩、そして俺の順だ。今回お前は皆が倒れた場合を除いて自分で判断するな。俺に任せろ。いいな」
     淀みなく受け応えてくれる半田に、サギョウはゆっくりと肺腑の二酸化炭素を全部絞り出した。新しい酸素を取り入れて、気持ちを引き締める。
    「はい」

     ※

     ヒヨシは吸血鬼から立てこもりの経緯を聞き出し終えた。
    「あんたが人質にとったその男。……お前さんはその男を恩人で仕事の共同経営者だと思っていたが、実はお前さんを隠れ蓑にした反吸血鬼組織の急先鋒だった。その動機がゆがんだエリート意識から来る根強い吸血鬼への差別意識。そしてついに、彼が政治にさえ口を出そうと企んでいたという事を知ってしまったと言う訳だったんじゃな?」
     つまり彼の犯行は、裏切られ悪事の隠れ蓑に利用された悲しみが怒りと絶望に変わった末で覚悟の上での、復讐が目的だというらしい。
     無線からは高ノ宮のいまいましげな呻き声が聞こえてくるので、どうやら、吸血鬼の言う裏話は嘘でもないようだ。
     けれどもヒヨシは抜かりなく聞く。
    「しかしフロア内の昏倒した人々は一体どうした。あんたの力なのか?弁護士資格のための届出を確認させてもらったがあんたの経歴に特別な能力の記載はなかった。あんたは自身を非能力者として登録して、日々吸血鬼と人間の和解に奔走しておった筈だ。一体どこでこんな力を手に入れたんじゃ」
     男はしゃがれた声で答えた。
    「登録した時に能力がなかったのは嘘じゃない。生まれてからこの百年、私は非能力の吸血鬼として生きてきた。日差しと雨を浴びればチリになる身では人間よりも虚弱に生まれたようなものだ。常に死を恐れて生きてきた。
     そんな私の人生の記憶の半分は鉄と血の臭い漂う暗く辛い戦ばかりだ。身内も戦で亡くしたが、今やっと平和になったと思っていた。これからはわずかながらも私も平和に身を捧げようと士業を志した。……けれどそれが!結局幻想だったと知った時、私の心は壊れてしまった。
     新たな火種を産もうとするこいつを止められるなら本望だ。そう思ったら私は今までにないほど暴力的な力に飢えてしまった。そして心から求めた瞬間、あっさりこの力を授けられた。数十メートル四方に自在に幻影を出し、さらに中にいるものには悪夢を見せる催眠の能力だ。悪夢の源は辛く苦しかった私の体験。
     とても悲しい恐ろしい力だ。ああ、この力を使うと私は全てを思い出す。そしてとても、とても嫌な気分になる。目の前の男を八つ裂きにしたい気持ちにかられる!私はどうしようもない身に堕ちた!気づくとここに立っていた!だがそれでも、こいつを地獄に共に連れ去る事ができるなら!」
     語りながらすっかり異形と化した男は激情をもて余したように、男を踏んでいた蹄の足を振り上げる。ヒヨシは負けじと気迫で怒鳴り返した。
    「待たんかこの馬鹿者が!!落ち着け!!」
     これまで真剣に聞く耳を持っていた彼が今度は厳しく叱責する。そんな声は吸対課の人間ですら聞いた事がない。彼の気迫が無線越しにすらびりびり伝わる。
     吸血鬼も驚きのあまり動きを止めた。
     ヒヨシは彼をしっかりにらみつけ、ゆっくりと歩み寄りながら、よどみなく続ける。
    「本当にええんか!このままではあんたのたくらみは不発に終わるんじゃないのか!あんた本当は、復讐だけが目標じゃなかろう!警察にヘリと資金なんて無茶なもんを要請したのは逃げ出すためじゃない。本当はこの事件が出来るだけ長引いて世間の注目を浴びるよう、時間を稼ぐのが狙いだったんじゃにゃあんか?高級オフィスを占拠した派手な事件、嫌でも話題は広まっていくに違いないと踏んだのじゃろう?
     しかしどうじゃ。実際は俺たちがすぐに突入してしもうた。このビルは既に戦闘のプロに囲まれておる。もしあんたがさらに過ちを犯して死んでしまえばあんたの知った全ては闇の中じゃ!あんたのたくらみはただ失敗に終わる!懸命に生きてきたあんたが、命をかけてまで晴らしたかった問題を、最後の最後に愚かな失敗で終わらせてしまっていいのか!」
     ヒヨシの指摘は的を射ていたらしい。吸血鬼が動揺して、部屋を覆っていた紫色の霧がゆらりと揺れて薄まる。
    「生きて四半世紀程度の子供に何がわかる」
     吸血鬼は絞り出すような声を出してよろめいた。
    「昼も水も、死すら受け入れられる人の強さに恐れながらもあこがれて、共にいるだけで満足していた私の人生。そこへ訪れた平和な安らかなひととき。これからは私も人の望みのために生きれる時が来たのだと、やっと希望の光を感じれたと思った後に嘗めた絶望の、何がわかるというのだ……」
    「……」
     ヒヨシは心情を打ち明けて、迷い始めた犯人に、ついに靴の中のスイッチを入れる。彼の能力はまだ生まれたばかりで本人すら使いこなせているか分からない。たとえ力が尽きても、さらに暴走したとしても危険である。これ以上彼が動揺すると危ないと判断したのだ。

    (彼はもう暴れない。麻酔を打ち込む用意に入れ)

    「なぁ、あんたの話が本当なら、この世を熟知したあんたはその男の所業を立証するだけの証拠を握っておるはずじゃ。微力ながら俺にも手伝わせてくれ。俺の管轄のシンヨコは新幹線が止まるだけの本当に小さな街だが、なぜか守ってやりたい吸血鬼がたくさんおる街なんじゃよ。きっと、ここで俺とあんたが出会えたのも、何かの縁じゃから。…あんたはしでかしてしまったし、苦しい未来が待っとるかもしれん。しかし俺はあんたのそばにずっとおる。あんたの話が本当なら俺は…新横の皆は必ずずっとあんたの友達で味方じゃ」

     するとまた無線が耳障りな音を立てて飛び込んでくる。
    『ヒヨシ!馬鹿野郎!話が違う!早くそいつを射殺…グフッ』
     高ノ宮課長の残忍な罵声はドゴン、という鈍い音と共に途中で急に途絶えてしまった。
     そして一呼吸おいて、ようやく穏やかなルリの声が戻って来る。
    『オペレーション室に雑音が入って申し訳ありませんでした。こちら異常ありません』
     皆は特捜部の高ノ宮課長を一撃で昏倒させたらしいルリが何をしたのか息を飲むしかない。優しい声は続いた。
    『課長の様子から、やはり近辺に事態をもみ消そうとする公安のスナイパーがいる可能性があります。地上部隊の突入コールはしばらく降りる予定はなくなりましたが、どうか窓辺には特にお気をつけて』

     ※

     夜風で涼しいはずなのに、体はじっとり汗ばんでいる。
     サギョウは自分の首筋に指を当て、心音に耳をすませる。心拍数はやはり百十を越えている。
     深く深呼吸をする。
     こういう時は脳裏に、どんな時だろうが沈着冷静で穏やかだった男を思い出す。激しい戦いを最前線で乗り越えてきたはずなのに、その苦労をみじんも感じさせないで、サギョウに銃撃を教え、未来への希望を託すと言ってくれた優しい人の存在を。

     心が静かになったその時、ひとつめの信号音が届いた。スコープに黄色い明かりが点る。
    「準備命令だ。行くぞ」
    「はい」
     今度は半田が血液錠剤を取り出すとかみ砕く。
     そして、吸血鬼探索能力を一直線、目標地点に絞って最大限に絞り込む。
    これまで範囲こそ広かった嗅覚だが、正直、ここまで場所を限定する方へ精度をあげた事は一度もない。だがやり遂げなければならない。自分のためじゃない。目的達成のためでもない。ただ、サギョウ自身の支えになるために。力が足りずに追加で錠剤を噛み砕く。脳に血液が集まり、頭が沸騰しそうで、目は赤黒く充血する。しかし優秀な彼は負荷をも力に変えてあらたな試みに挑みつづけるのだ。
     サギョウもスコープに目をあてがって態勢を整えた。
     紫色の闇の色が先ほどよりもかすかに薄れているが中は見えない。ヒヨシの送る暗い映像では、かろうじて吸血鬼が一番窓側でその足元に人質を踏みつけているのが途切れ途切れに確認できた。だがそれはあくまで室内側の視点だ。サギョウの力でも、確実に当てるにはあと一歩足りない。せめて窓のどの角度を狙えば良いのか、一人分の位置情報が必要だ。祈るような気持ちで半田の力の発現を待つ。
    「…見えた!」
     ついに半田の天才的に研ぎ澄まされた超感覚は相手の位置を、まるで大きな手の中に掴むように捉えたのだ。
     彼は今、社長室内の中央で、中央の窓に背を向け何かを踏みつけている。
     すかさず吸対課の端末で同期を取っている現場室内の見取り図を呼び出す。犯人の立ち位置をタッチする。するとサギョウの特殊スコープに部屋の透視図が浮かびあがった。そして半田の触れた部分に赤い柱がともったのだ。次いで半田から口頭の説明がさらに精度を上げていく。
    「敵は中央の窓から2メートルの位置に立っている。体格は資料の内容からさらに一回り大きく変貌している。人質をふみつけたまま隊長との口論に夢中になり、身振り手振りこそ激しいが、人質から離れる気こそなく、立ち位置は変えない気配だ」
    サポートはかなりの精度なのだろう。激昂して身振り手振りが激しくなったらしい吸血鬼の声に合わせて、赤い光はゆらゆらと揺れる。こんな力はおそらく軍隊にすらない。分厚いビル壁も透視して吸血鬼を捉えうる脅威の感知能力。なんてすさまじい力だ。半田にこんな力は備わっていなかった筈なのに……。
     感動に胸が熱くなってはいけない。半田が最大限に自身をバックアップしているからと言って、決して今はそれに情を感じてはならない。
     次の信号が黄色なら待機。赤なら射殺。そして緑ならば。
     決意を胸に息を吸う。
     ビル風、ガラスの硬度、資料で確認した男の体格。そしてライフルの癖に合わせサギョウは照準をしっかりと定め報告する。
    「射撃準備、整いました」
     すると。
     スコープに緑の明かりがともった。その意味は。

    (不殺で麻酔を打ちこめ)

     それを見た瞬間、闇の立ち込める部屋に、サギョウはためらわずに照準を合わせ天才の引き金を引いた。

     ただ、小さなビシッという音がしただけだった。

     男の脇腹に小さな黄色い麻酔弾が刺さる。彼は驚いた顔をして自分の腹部を見る。
    「お前!」
     強烈なしびれに襲われた吸血鬼が攻撃だと誤解し、能力を発動させようとする。ヒヨシは構わず倒れていく男を受け止めに走り寄り、かつぐと窓際から引きずり離す。
    「誤解じゃ。実はすまんがあんたはもう罪を悔やみ敵意がないと見て、麻酔を打ち込ませてもらったよ。この薬は能力を一時的に消せて、しびれて眠くなるだけじゃ。……あんたはただ、望んでもいない力に目覚めて悪い夢を見たんじゃ…。もう大丈夫。一度ゆっくりと休むとええ」
     男はしばりつけられたまま床の上で悪夢に魘されてもがくかつての相棒の姿に目を細める。
    「私はまだ死ねないかい?」
     ヒヨシはしっかり頷いた。
    「そうじゃ。あんたの人生はこれからじゃ。あんたには生まれつきの能力なんぞなくとも、自力で勝ち取った確実な力がある。その力でこれからこそ、やることがたくさんあるんじゃ。本当に守りたいものを助けるためにな。俺と男の約束じゃ」
     彼は嬉しそうに頷き返して目を閉じた。すると、フロアを包んでいた、不気味な紫色の霧がさぁっと消え去る。人々を悪夢で昏倒させていた結界が消滅したのだ。
     みるまに社長室内の暗幕も、人々に掛けられていた催眠も晴れていく。

     ヒヨシは無線に告げる。
    「犯人は睡眠状態で確保。フロアを覆う能力解除、催眠効果も消滅。人質全員の無事も確認。……任務完了じゃ!」

     踏み込むタイミングを見計らっていたモエギとヒナイチが社長室内に駆け込んでくる。ヒナイチが縛られていた男の縄をほどき、モエギがヒヨシに変わり犯人を担ぐ。
     各フロアにいた退治人とビルの下に待機していたVRCの職員が被害者たちの救助に入り始める。
     全ては通報が入ってから二時間と経たない出来事だった。

     ※

     風のはためく、高層ビルのルーフの上。
     吸血鬼の感知に全神経を尖らせていた半田はゆっくりと目を開く。
    「当たったようだ。標的の気配が大きく動いた」
     サギョウはすぐに弾丸を込めなおす。
    「二発目の準備出来ました」
    「うむ。だが今は映像では隊長が彼を窓際から庇っているようだ。撃つと当たってしまう。待機だ。万一、これから近接戦闘に入ってしまえば皆に任せるしかない」
    「はい」
     案じる二人の無線にヒヨシのやり取りが流れてくる。
     やがて彼からの報告で無線は歓声で埋まった。二人の目にも、部屋を覆いつくしていた暗闇が消え散るのを確認する。
     すかさず半田が言った。
    「次を狙え」
    「はい」
     サギョウは自身の真横に態勢を変えると、付近のビルにかくれていた相手にスコープなしで銃口を向ける。すかさず二発目と三発目が火を吹く。
     潜んでいた男たちの手から次々にライフルが吹っ飛ぶ影が見える。
     ヒヨシ達の射殺を狙っていた事件を隠ぺいするためのスナイパーだ。サギョウは彼が構えた銃を先に撃ち抜いたのだ。おそらく向こうは二人の存在など知らない。唐突な攻撃に肝の冷える思いをしただろうが銃は吹っ飛ばされ地上に吸い込まれるように消えていく。それを撃ちぬいた唯一の証拠の弾丸は細い銃身を引きちぎって虚空へ消えた。
     地に伏せたままほっと息をつくサギョウの目の前に半田が跪き、手を差し出す。サギョウも顔をあげ、彼を見つめ、しっかりと頷くとその手をぎゅっと握った。二人の任務はお互いの天才的な力が組み合わさって無事成功だ。二人は微笑んだ。
    「本当に任務完了だ。行くぞ。こういう時は現場からとっとと撤収だ!」
    「はい!」
     立ち上がったサギョウは銃を担ぎ、二人ルーフを駆けて音もなくビルの影に消えていく。

     非常口を滑り降り、無人のビル内を走る二人の無線に流れてくる音声は事後処理の指示に切り替わっている。どうやら現場では警察と吸対どっちが犯人の身柄を請け負うか揉めあいになってしまったようだ。彼らは警察の威信をかけて、立てこもり鎮圧の証拠となる犯人確保を自分たちの手柄にしたいのだ。見えてきたビルの玄関では、現行犯をかついでVRC車へと向かおうとする数少ない吸対のメンバーを、退治人たちが囲ってかばっている。
     そんな新たな混乱が生まれた場所に駆けつけた二人の前に、急に見覚えのある車が割り込んで止まる。
     後部座席から真っ白い外套を翻して峻厳に現れた長身の男。
     神奈川県警吸対課本部長カズサが右腕のヤギヤマを連れて到着したのだ。
     しかし二人ともなぜかただの白いコートに上等な黒スーツ姿だ。それでも胸には県警バッジが輝いている。
     一体彼らがこの事件についてどこから聞きつけたのか分からない。けれど本部からまっしぐらにここまでやって来て彼らが一番乗りな事は確実だ。
     これからヒヨシ達を助けに行くのだろう。
     堂々と進む二人の背中はただ格好いい。
     険しい顔で乗り込もうとする男は、ふと、通り道の向こうに、自分に見惚れてしまったように立ち尽くした若者二人に気づく。

     たちまち相好を崩してにかっと笑う。ずんずん歩いて二人に向かい、ルーフに横たわり続けて汚れてしまった二人をまとめてぎゅうと抱きしめる。

    「無線、聞いてたぞ。半田、サギョウ。良くやった。特に半田、お前、新しい力がついたじゃないか。さすが俺とヤギヤマの見込んだ優秀な人材たちだな」
     その背中に続いた言葉は、滅多に会えなくなってしまったサギョウの恩師の声である。
    「サギョウくん。君は本当にすごいね」
     今度僕の所においで、と声は呼びかけてくれる。サギョウは黙って頷いた。今回の出来事は、彼に聞いてほしい事が山ほどあった。
     憧れの人に褒められるのは最高の労いだ。
     声も出ない姿に笑った上司たちは、後は任せろとばかりに親指を立てて、威勢よく、むしろ楽しそうに警察官たちの中に乗り込んでいく。
     まるでヒーローに出くわした子供のように立ち尽くしていたサギョウがハッと気づく。
    「先輩、僕たちも皆の元へ行かなきゃ」
    「そうだな。行こう!」
     二人は駆け出す。するともみ合いの真ん中から威勢良い名古屋弁が聞こえてくる。
    「ええ加減にせえ!こいつは能力が芽生えたばかりの高等吸血鬼じゃ!おみゃーらが預かったら最後、目覚めたこいつの力で即座に昏倒させられ全部終わりになるんじゃ!わしらに預けるんじゃ!とっととVRC車まで道を…!お?」
     新たに姿をあらわした助っ人に、ヒヨシ達も険しい顔をほころばせてしまう。
    「頼もしい仲間が加勢に来てくれたようじゃにゃー」

    「諸君!」
     現れたカズサはまず、ヒヨシ隊ではなく警察官達を一斉に見渡し号令をかける。よく通る大きな声に、警察官たちは一斉に彼を振り返る。その視線を集めてから、カズサはビシッと敬礼を一つして見せた。
    「一同、任務ご苦労!俺は神奈川県警本部長カズサだ!犯人の身柄は物理的な危険度から、専用の備えがある神奈川県警本部吸血鬼対策課に引き渡しが決定した。警察官が一丸となり各々全力を尽くし、怪我人ゼロで立てこもり事件を見事に解決!実にあっぱれである!俺は諸君を誇らしく思う!」
     警官たちは所轄の名前を名乗らなかったカズサの堂々っぷりとほめちぎりに、すっかり自分たちの上司に労われたと勘違いしたらしい。
    『はっ!ありがとうございます!』
     これまでヒヨシたちにすごんで引き下がろうとしなかったのが、とたん、誇らしげに背筋をピンとしてかかとを鳴らし、威勢よく敬礼して、ヒヨシたちにVRC車までの道を開けてしまったのである。
     真剣な顔で敬礼を返すカズサの後ろでヤギヤマは、自分の良く知る各々の肩が必死に笑いを堪えて震えているのを捉えていた。
    「ああやっぱりここはシンヨコだなぁ」
     カズサが立場をごまかしてしまった後処理がこれから怒涛の勢いで押し寄せてくるのが手に取るように分かるのだが、ヤギヤマにとってはそれももうお手のものだ。何より、重大事件を起こした吸血鬼の身柄を預かるのは、カズサ本来の仕事で間違いないとヤギヤマも思う。それよりも、何度見ようが見飽きない、痛快で愉快な光景がまたひとつ見れて、彼は堪えきれずクスリと笑ってしまう。だからこの仕事が辞められない。


    ④始まりの終わり

     騒動が明けた翌日の朝。
     一日の勤務を終えた後、上る日差しの勢いで暑くなる予感しかない朝に、サギョウと半田はせっせとセロリ畑の水やりにいそしんでいた。
     結局、モエギが律儀に代わろうかと言ってくれたのをサギョウは断った。
     ホースでちょろちょろ水を撒き、水滴に驚いてちょこちょこ出てくるダンゴムツを見つけては、つついて丸め、ピンセットで摘まみ上げて腰に下げた瓶にコロンと落とす。一昨日の騒動も、何事もなかったように青空に雲は流れていく。
    「例の件、テレビの報道、すっかり書き換えられちゃってましたね」
     逆恨みによる犯行とだけ報道されて、あっという間に事件は人々の記憶を通り過ぎて行った。
    「犯人が吸血鬼だった事も伏せられていたな。不幸の中の幸いというべきなのか」
    「メディアの闇を目の当たりにしちゃったなぁ」
    「だが聞いたところでは、人質になった男は犯人の悪夢にうなされたのがきっかけで、自分の考えをかえたそうだ。弁護士なのに吸血鬼の男を訴えはしないらしいし、反組織も解体すると」
    「結局、事態は良い方に転びそうなんですね」
     二人はまた、仲直りできるかなぁとサギョウがのんびり言う。
     すくすくとみずみずしい葉っぱがてんこ盛りに育つ前で、まるで世間話のようにしみじみ事件の感想を語り合う二人だったが、そんな風にでも話さなければ…、どうにもこうにも面はゆくてしかたなかった。
     顔を合せるのさえ照れくさくてろくに出来てない。

    (君を好きになりそうだったなんて言えやしない)

     タオルを首にかけて、軍手でまめに雑草を抜いて回る半田が何やらへんてこな鼻歌を歌っている。
    「その歌、なんて歌ですか」
    「まだ名前は決めてない。歌詞も考え中だ」
    「先輩って音楽も作れちゃうんです?」
    「まぁな」
     らら、ら、ら、と歌われる鼻歌はどうやら元気なサンバのリズムにしたいらしい。メロディをひねっている彼のマイぺースにサギョウはただ苦笑するばかりである。
    「あっ、特大ダンゴムツ」
     嬉しそうなサギョウを後目に、半田は頭の中で歌詞を考えていた。

    (サギョウくんが好きだ。…ストレートすぎるだろうか)

     何か違うと考え直す。そういう一方的な言い方はきっと彼には伝わらない。

    (じゃあサギョウくんはすごい。これはどうだろう?)

     さっきより良い気がする。だってこれはまぎれもない事実だ。それを心から讃える賛歌だ。

     明るい鼻歌。少しずつ集まるダンゴムツ。すくすく伸びるセロリの苗たち。
     のどかすぎるひと時に、サギョウはなんとなくホースの切っ先を抑えて尖らせて上へと向けてみる。シャワーのように水滴が広がってあたり一面に降り注ぎ、きらきら太陽光を受けて光を乱反射させる。
    「わー、先輩、虹が出来ました」
     弾む声に半田は顔をあげる。するときらきらと七色の輪が確かに丸く輝いている。セロリを世話する手を止めて、目を細め輝く光に見惚れる。
    「きれいだな」
    と、二人の始まったばかりの新しい関係をかけ渡すような光の前に、翠の影がさっと駆け抜けていったような気がした。

    『あっ、…かわせみだ』

     二人は声をそろえ、想い浮かんだ名前を同時に告げる。
     思わず、顔を見合わせて笑いあった。


    2023.02.25初出
    2023.03.07改訂

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