極道パロ雨に濡れたアスファルトを必死に蹴って走る。
革靴は時折滑り、足元をもたつかせるが、どうしても奴らから逃げ切らなければならなかった。
雨に打たれているせいで、奴らに殴られた頭の血が肌を伝って目にはいる。ガンガンと目の前が歪むような強い痛みがだんだんと私の意識を奪う。
この大きな橋を越えれば、あの組のシマだから奴らは手出ししてこないはず。
最後の力を振り絞って橋の近くに革靴を放り投げ、びしょびしょに濡れた靴下のまま、ふらつく足取りで大きな橋の角を曲がり、バランスを崩した体は倒れ込む。そこで私の意識は完全に途切れた。
震える瞼を閉じて、最後に聞こえたのは雨音と「死んだな」という奴らの一声だけだった。
*
目が覚めると、割れるような頭の痛みは随分と和らいでいた。
頭には氷嚢と包帯、服は綺麗な浴衣に着替えさせられていて、清潔な布団に寝かされていることは把握できた。
上半身を起こして、辺りを見回せば全く見覚えのない六畳ほどの和室で、文机のような背丈の低い机と床の間、朝ゆえに点灯されてはいないが和風のモダンなランプシェードが天井からぶら下がっていた。
作戦はうまくいったのだろうか、と思った時、廊下側の障子の向こうから二人分ほどの足音と話し声が聞こえてくる。
「若ァ!こんな何処の馬の骨ともわからねえやつを置いておくなんて正気ですか!?」
「俺はいたって正気さ。それに、この家のすぐそばに怪我人が倒れているのに放置しているなんてウチの評判が下がるじゃないか」
「で、でも…!」
「俺が少し話してみるから、下がって」
しばらくののち、スッと障子が開かれる。
若、と呼ばれた男は高級そうなスリーピースのスーツに身を包んだ長身の男だった。右目に残る大きな切り傷の痕が、彼が少なくともカタギではないことを理解させる。
「起きてたんだ、おはよう。気分はどうだい?」
「おはようございます。ええと、少し頭が痛むくらいで…失礼ですが、貴方は?」
「こういう時は自分から名乗るのが筋じゃないかい?」
ごもっともだ。
しかも、聞かなくても私は彼の名前を知っている。ここら一帯を牛耳る極道一家の長男であり若頭のメネラ。
私がいた組はどちらかといえば中華系のマフィアに近く、外国人名も不思議ではなかったが、彼は確か家系の問題だったような気がする。
しかし若頭ともあろう者が別の組とはいえ、同じく反社会性力及び暴力団の幹部をやっていた私の名前を知らないわけがない。
私は咄嗟に口から出まかせを紡いでいた。
「あ……その、お、思い出せないんです……あ,怪しいと思うのは当たり前だと思います、でも、昨日誰かに頭を強く殴られたこと以外は、記憶がぼやけていて…」
「ふぅん。そっか、一旦信じるよ。俺はメネラ、ウチの組知ってるかな?結構名前は有名だと思うんだけど」
覚えてないと言っているだろうが。
「……すみません、記憶が」
「ああ、そうだったね、ごめんごめん。まあこの辺を納めてる極道一家だよ。あなたが昨日ウチのすぐそこでびしょ濡れで倒れてたもんだからさ、拾って来たんだ」
「そうだったんですね、それはありがとうございます。見ず知らずの方に大変ご迷惑をおかけしました」
畳に胡座をかいて座り、ニコニコと胡散臭い笑顔を向けてくるメネラに不信感を抱かざるを得ないが、今のところこの男に媚を売っておかないとどうにもならない。
「あの」
「ん?なんだい?」
「助けていただいたところ重ねて申し訳ないのですけれど、もし可能でしたらしばらくこの家においてもらうことはできませんか?私にできることなら何でもしますから……!」
メネラは腕を組み、わざとらしくうーんと考え込むそぶりをする。記憶喪失の男ができることなどほぼないに等しいし、組の内部に得体の知れない男を置いておくのも問題になるだろう。
「どうしてもウチって部外者置くのに慎重でさ。記憶喪失ともあれば余計……」
「それは、そう、ですよね……」
「でも、気を悪くしたら悪いんだけど、イロ…情夫として居てくれたら俺の一存でどうにでもなるから、どうかな?」
「……は?」
悲壮感漂う哀れな記憶喪失の男を演じているところに、突然提案された情婦ならぬ情夫の提案に鳩が豆鉄砲をくらったような顔を曝け出してしまった。
実際に鉛玉をくらってもおかしくない世界にいるのでその程度であれば平和なものだが。
「すまない、言葉が足りなかったね。もちろん本気でそういう事してくれってわけじゃないさ」
「では、どういう…」
「組の人間を納得させるにはあなたを組に引き込むのが一番なんだけど、重要なポジションに置くわけにもいかないだろう?イロなら、俺が好みだからって理由で押し通せるかなって思って」
「な、なるほど…」
必死の思いで飛び込んだ組の若頭が男色家なのかと驚いたが、杞憂だったようだ。
確かに身元不明で行く当てもない記憶喪失の人間であればこの組を裏切って逃走する心配もかなり減る。イロであれば組の内部事情も知らせる必要はない、実に合理的である。
「貴方には助けてもらった恩がありますし、記憶がない私をこうして置いてくださるのであれば、肩書きが情夫であろうが何であろうがかまいません。必要であれば機密保持の念書に血判でも押しますか?」
「血判?あはは!必要ないよ、面白い人だね」
「極道ってそういうイメージなもので……」
「まあわかるよ、間違ってないしね。じゃあそういうことで、今話してくるからもう少し休んでて。朝ごはんは今持ってこさせるよ、食べられそう?」
ひとまず若頭に気に入られて組に潜り込むことができた安心感からか、からっぽの胃が朝ごはんという単語に反応したかのようにぐぅ、と空腹のサインを鳴らす。
「はは、素直だね!食欲に問題がないなら何よりさ」
「お恥ずかしい限りで…」
メネラはニコリと油断ならない笑みを残して、障子の向こうの廊下を渡って戻っていった。
まだ布団から立ち上がっていないため、屋敷の間取りはわからないがおそらくこの部屋は離れなのだろう。足音が長い。
ふう、とひとつ深い息をして起こしていた上半身を布団に戻す。
きっと今頃私のいた組では、幹部のリードが死んだと大騒ぎしているだろう。できる限り組を撹乱させてぐちゃぐちゃにした後に逃げ出して、死を偽装したためまだその真偽を確かめる余裕はないはずだ。
それに、メネラの組の敷地内にいる限りはある程度の安全は確保されている。
かなり運任せの作戦だったが、上手くメネラに拾ってもらえて良かったと眼を閉じた。
*
身元不明、財布なし、スマホ大破、おそらく三十代半ばの男を拾った。
泥まみれで雨に濡れているのに傘はおろか靴すら履いておらず、頭から血を流している様は生きているか不安になる程だったが、メネラとしてはそういう姿の人間は見慣れていた。
「若、どうしますか?」
「放ってもおけないだろう、離れに運んで手当てしてあげて」
「はいッ」
なんとなくカタギの人間だとは思えない、メネラの勘がそう訴えていた。
意識のない男性を着替えさせるのは大変だから、若衆に手伝ってもらいつつ、泥だらけのスーツを脱がせて体を拭き、浴衣に着替えさせる。
若衆は気がついていなかったが、胸元になにかのタトゥーを消した痕があったのが、メネラの勘の訴えを強くする。
まあ、今は一度考えないでおこう。
支度と治療が終わり、布団に寝かせるまで一度も眼を覚まさなかった彼をどうするか、メネラは頭の中で考えを巡らせた。
少し会話してみれば、記憶喪失であること以外聡明そうな男だった。態度はやや不安げではあるものの、極道の若頭相手でもはっきりとものを言う。怖気付いて何もいえない人よりよっぽど良い。
どうにかしてここにおいて欲しいと頼まれたから、俺のイロにしてあげると答えた以上、組に話を通しておかなければならないのだが、それはもう骨が折れた。
身元不明、記憶喪失の二重苦で怪しさ百点だった故に、上も下も素直に頷いてはくれなかったが、俺が相当気に入ったということにしておいた。
口から出まかせを言っていたわけではないが、上役を説得するのは肩が凝る。
はーあ、と深い息を吐きながら廊下を歩いていると、不安げな顔をした若衆が一人声をかけてくる。
「若、男をイロにしたって本気っすか?今まではみんな女だったのに」
「ん?まさか」
「ほ、本気じゃないのに押し通したんすか?!」
「うん、なんか面白そうだったから置いてるだけだよ。だから、あの人から眼を離さないように頼むよ」
「わ、若がそういうなら…了解したっす」
離れはほぼ二十四時間若衆のだれかに見張らせる予定だ。
とはいえ今の彼からは裏切るだとか、殺気の類は感じないから、多分大丈夫だと思うけれど。
時刻は十三時を回った頃、また彼のいる離れを訪れた。
「やあ、調子はどうだい?」
「おかげでだいぶ良くなりました。立派な昼食までいただいてしまって」
「いいんだ、大したもんじゃないよ。それで、さっきの話なんだけどね、なんとか通したよ」
「ええと、情夫になるという話ですよね?」
「うん、そう。でもやっぱり機密保持は念書にサインしろって言われちゃった」
メネラは懐から封筒を1枚取り出して文机の上に置いた。
彼は「拝見します」と一言かけてから中の文書を確かめた。
しばらく無言で読み進めたあと、彼は顔を上げる。
「承知しました」
「ありがとう。あ!でもサインしようにも名前を思い出せないんだよね?それ不便だなあ…」
「一応貴方が戻ってくるまで、色々思い出せるか頑張ってみたんです。畳んでおいてくれたスーツに身分証がないかさがしてみたのですが、スマートホンは壊れて使い物にならないし、財布もないし…ただ、一枚だけくしゃくしゃの名刺が入っていて」
「名前がわかったのかい?」
身分証の類はメネラも着替えさせる時にあらかた探したつもりだったが、まるでレシートのようにくしゃくしゃに丸められているとはいえ名刺が入っていたなんて気が付かなかった。
「正直、他の文字が滲み過ぎていて私のものかわからないんです。ただ、このリァンという名前に聞き覚えがある気がするんです」
「うーんそれを裏付けることも難しいし、あなたが良いなら仮の名前として使えば良いんじゃないかな?俺はそれで構わないよ」
「よろしいですか?では、この名前でサインさせてもらいますね」
彼は封筒と一緒に置いた万年筆を綺麗に待ち、印刷が滲んだ名刺からかろうじて読み取れる“Leang”という文字をサラサラと記入した。
インクの乾きを確認したあと、三つ折りにして封筒に戻してメネラに手渡した。
事務職でもしていたのか、妙に手慣れている気がする。
「うん、確かに。これであなた…あなたっていうのもなんか堅苦しいね。リァンさんって呼んでもいいかい?」
「若頭は貴方なのですから、どうかお好きに」
「じゃあそうさせてもらうよ。リァンさんは俺の情夫として認められた。一応監視付きではあるんだけど、世話係みたいなもんだから何かあったら外にいる若衆に声をかけて。
情夫の立場は若衆より下でも、俺のすぐそばにいる分やっかみとかもあるかもしれないから、そこは少し気をつけて。何かあったら俺に言ってくれたら良いから」
「はい」
一般人なら飲み込みきれないような極道の縦社会の仕組みを「はい」の一言で飲み込んでしまうのも、不思議な人である。
それとも無駄口を叩くと殺されるとでも思っているのだろうか。どちらにせよ、やはり懸命な判断ができる人だとメネラは思った。
「あ、あとこれ。新しいスマホ。俺と、外の監視員みたいな若衆の連絡先がいくつか入ってる。外の若衆は何人かで交代してるからね、もしタイミングが悪くていなかったら誰かに連絡するといいよ。元のスマホは処分してもいいかな?」
「こんなものまで用意してくださって……ありがとうございます、元のものは処分してくれてかまいません。どうせ壊れていますし」
「わかったよ、あとこのスーツもどうする?かなり泥だらけだけど」
「それも処分してもらえますか?」
「うん、それがいいと思う。じゃあそんな感じで、しばらくは頭の傷が治るまでゆっくりしてて」
「何から何までありがとうございます。これからご厄介になります」
ぺこりと頭を下げる彼はどこか寂しげで一見何かの事件に巻き込まれたサラリーマンのように見えるのに、メネラの極道としての勘がカタギの落ち着きようではないと警鐘を鳴らしている気がする。
記憶喪失ゆえの諦観なのかもしれないが、記憶を取り戻したいと思っているようにも見えないのが何とも不思議な男だと気になった。
とりあえず、自分の不利益にならなければ良いし、何か長所が見つかって利益にできれば万々歳だ。
リァンの離れを出て、母屋に戻る途中、幹部の一人が息を切らして走り寄ってくる。
「若!」
「どうした、そんなに急いで」
「中華街の奴ら、内部で派閥争いを始めたみたいで!幹部連中が何人か死んだらしいんです!」
「何だって?」
「情報を売りにしてる奴らが内部抗争なんて考えにくいですが、ウチがとばっちりを喰らう可能性はゼロじゃありません」
「わかった、対処を考えておく。引き続き動向を探ってくれ」
「わかりました」
中華街のマフィアが内部抗争を始めた時期に、ウチの前で倒れていた男。拾ってみれば名前と思われるものは中華名に近く、記憶喪失なのも相俟って謎が多いが、もしかしたら無関係ではないのかもしれない。
「対処かあ」
ひょっとしたら彼に聞いてみるのが一番早いのかもしれない。
*
メネラに拾われてから早数日。
頭の傷はほぼ塞がり、あとは食後に鎮痛剤を飲むだけで回復を待つばかりだ。
もらったスマートフォンは通話とSMSの他に動画閲覧アプリや、最新図書読み放題のサブスクリプションが入った読書アプリ、一応なのかWEBコミックが読めるアプリまで入っていた。
しかし、それ以外は情報制限なのかアプリを増やす権限は付与されていないようだった。
まあ居候の分際で寝食と暇つぶしが用意されているだけ十分快適である。
離れとはいえ風呂もトイレも備え付けられており、本当に母屋に向かう必要がない。
むしろ人嫌いな私に取ってはなかなか快適な空間である。
サブスクリプションのおかげで膨大な数ある本の中からさて何を読もうか、と画面をスクロールしようとしたところで、母屋につながる廊下からメネラの足音が聞こえてくる。
彼の足音に特徴があるわけではないが、足音で大体誰が来たのかを把握できるようになっていた。
浴衣の襟元を正して文机にスマートフォンを置いて迎え入れる。
「こんにちは、何か御用で?」
「やあ。用ってほどじゃないんだけど」
最近は彼が障子を開ける前に、こちらから開けて迎え入れるようにしている。
彼の目には心を許したように見えるのか、それとも単に誰かに開けてもらうことに慣れているのかそちらの方が気分が良さそうだったからそうしているだけだ。
「話し相手になってほしくてね」
「話し相手」
「そう。ちょっと考え事をしたいんだ」
「構いませんけれど、一体どんな?」
メネラはリァンが用意した座布団の上にいつものように胡座で座り、話始めを考えているようだった。
「お茶入 淹れましょうか」
「ああ、うん。ありがとう」
長くかかりそうだったので、部屋に備え付けられている電気ケトルでお湯を沸かして緑茶を入れる。たかだか情夫の隔離部屋だというのに、置いてある茶葉は一缶数千円の高級品だ。
そこまでするなら鉄瓶でも置いてくれたら良いのに。
ほかほかと湯気をたてる茶碗を茶托に乗せて、メネラに近い文机に置いた。
メネラは一瞥するが口をつける気配を見せなかったので「毒なんて入っていませんよ」と冗談を言っておいた。
「はは、毒入りを心配しているわけじゃないさ、ただ、どこから話したものかと思ってね」
「できれば冷めないうちに召し上がっていただきたいのですけれど」
「ごめんごめん、いただくよ」
冗談めかして急かせば一口飲んでは「あちっ」と口腔内を火傷してしまったようだ。
若頭だというのに、妙にそそっかしいところがあるのはやはりまだ年若い青年だからだろうか。
メネラが話し始めるまで、リァンも緑茶に口をつけながら無言で待った。
「隣のシマがね、中華系のヤクザ……マフィアって言った方がイメージつくかな。情報戦に長けた奴らの根城なんだけど、内部抗争を始めたらしくてね、うちにとばっちりが来るかもしれないから対処を考えろって」
「はあ」
リァンは一瞬湯呑みを持つ手に力が入ったが、どうやらメネラには気取られなかったらしい。
何を隠そう内部抗争を引き起こした張本人がリァンであるため、そんなのは言われなくともわかっていた。
とにかくしらを切り続ける他ない。
「対処、というのは?」
「巻き込まれないように、って感じかな。崩壊しそうなヤクザって何しでかすかわからなくて結構厄介だから」
「そういうものなんですね」
そういえば、若衆に買ってきてもらった和菓子があるのだった、と茶道具の入った箱を開ける。
最中は口の中の水分を奪うし、煎餅も何だか雰囲気が違う。しかし頭を使うなら甘いものが良いだろうし、ここは一つ情夫らしく演じてみせるか。
「あの。お茶菓子を、と思ったんですが」
「うん?」
「ここの苺大福、すごく美味しいんですよ。よければ半分こにして食べませんか?疲れている時は甘いものに限りますから」
メネラは眉間に皺を寄せた考え込んだ表情から一転キョトンとした年相応の顔になる。そういう顔をしている方が可愛げがあるのに、役職というのは重たくのしかかるものだ。
「苺大福、お嫌いですか?」
「ああ、いや。嫌いじゃないよ、食べる食べる」
「では、どうぞ」
浴衣の袂を持って茶碗に引っ掛けないように半分に切った大福の乗った皿を手渡す。
浴衣で生活するのは初めてだが、数日でコツは掴んだ。
メネラは受け取ったまま齧り付き、ほんの数口で食べ終える。
「ん、おいしいね」
「でしょう。……若頭、やはりお疲れなんじゃありませんか?」
「疲れてないってことはないけど、いつものことだよ」
「それに、部外者の私にそんな話をするのは初めてでしょう?」
「一応リァンさんももう組の人間ではあるけれど。うーん、第三者の意見も聞いてみたくてね」
そんなことだろうと思ったが、私とてそう易々と内部の人間しか知らない情報を漏らして身元をバラすわけにはいかない。
苺大福を食べながらおっぱじまる心理戦など初めてだ。
あんこの甘みといちごの酸味がちょうどよく、皮のもちもち度も申し分無く絶品だった。
「あくまで今伺った情報からですけれど、内部抗争の真っ只中であるなら、他所の組に迷惑をかけるのはむしろ避けようとするのではありませんか?内部がゴタついている時に、他所と対立して問題を増やすのは悪手でしょう」
「俺もそう言ってるんだけど、何かあってからじゃ遅いってみんな殺気だっててさ」
「若頭が落ち着きすぎているんじゃありませんか?」
「はは、そうだと嬉しいけどね。とにかく納得してくれないんだよ」
若頭は次期当主であるため、地位は高いが若頭であるうちはまだ上に頭やその補佐など上役が控えている。きっとその年配者が納得しないのだろう。
「では中華街で若衆をブラつかせてみる、とか」
「……どうしてだい?」
「内部抗争の情報が漏れているのであれば、その隙を突いてその組織を崩壊させようとしてくる組がいてもおかしくないでしょう?もし本当に内部抗争に巻き込まれて怪我をすれば中華街の奴が仕掛けてきた、とこちらの連盟の方々に連絡をして先に仕掛けてしまえばゴタついてる中華街の奴らは連携が取れずに…ね?」
「なるほど、なかなか良い策を考えるね」
「ふふ、最近権力争いが面白い小説を読んだんですよ。受け売りのようなものです」
メネラは入ってきた時の難しく考え込んだ顔から、すっきりとしたようないつもの表情に戻り、残りの緑茶をずずっと飲み干した。
「ん、ご馳走様。その案借りるよ、多分何とかなる」
「ええ、ご検討お祈りしていますよ。行ってらっしゃい」
最初聞かれた時はいよいよ身元が特定されたかと思ったが、これを逆手にとって組で有用なブレインとまではいかないが、アドバイザーの地位でももらえたら安泰だ。
まあ、今はただの肩書きだけの情夫なのだが。
それも気楽で悪くない。
メネラが出て行った後、すぐそばで待機している若衆に声をかける。
「山田屋の苺大福、大変美味しかったです。若頭もお気に召したようでした」
「それは何よりっす」
「よければ次は、カステラと小さめの6個入りほどのお饅頭を買って来ていただけますか?」
「了解っす」
ぶっきらぼうだが、私の要望によく答えてくれる若衆に優しい笑顔で「いつもありがとうございます」と答えれば、労われ慣れていないのか「っす」と控えめに返事をしてそっぽを向いてしまった。
やはり男の身で男を煽てるのは難しい。
2日ほど経った朝。
朝食とともにメネラはやって来て開口一番に「リァンさんの案が通ったよ!」と大層喜んでくれた。
尻尾があればブンブンと振っていそうなメネラを横目にお茶を淹れて朝ごはんを食べ始める。
「お力になれたなら何よりです」
「腕の立つ若衆に威嚇だけしておいでって何人か向かわせたよ」
「それで十分効果を発揮すると思いますよ、あまりやりすぎると内部抗争が止まって逆に団結しかねませんから」
「うん、その辺りは様子を見て引き上げる予定だよ。本当にありがとう、助かったよ!」
そりゃあ元幹部の情報もとい推察だから役立たないわけがない。
よしよし、これで私の価値も多少上がったことだろうと箸を進めていると、メネラからさらに提案が飛んでくる。
「あのさ、また難しい“対処”を求められたら、意見を聞きに来てもいいかな」
「情夫如きに?」
「そんな意地悪言わないでおくれよ、リァンさんの頭脳を買ってるんだ」
意地悪を言ったつもりはないが、たった一度の成功でそこまで信頼されると逆にメネラがチョロすぎて不安になる。とはいえここらではトップを争うほど大きな組だから大丈夫だろうとは思うが。
特に理由もなく少しもったいつけてみる。
「……世界堂のあんみつ」
「へ?」
「世界堂のあんみつ、そろそろ発売時期なんですよ」
「か、買ってくれば良いのかい?お安いご用だよ!」
「ではその話は買って来てもらってから、ということで」
「ありがとう!またくるよ!」
承諾したわけでもないのに、メネラは嬉しそうに母屋へ戻っていった。
世界堂のあんみつといえば、五月から八月までの期間限定な上に一日の数量限定で予約や取り寄せは不可のなかなかの入手難商品である。
廊下からあのよく働いてくれる若衆とメネラの声がする。
「若、買い物なら俺が」
「俺が頼まれたんだから俺が行くよ」
「でも」
「何、お前。変なこと考えてないよね」
「そんな、全然」
「じゃあリァンさんのこと任せたよ」
可哀想に。多分彼は私から労われたいだけなのに。また後で何か頼み事をしてあげようと思いながら、リァンは汁椀を手に取った。
ここの料理は誰が作っているのか知らないが、下手な料亭より美味しく、薄味でリァン好みだった。
朝食を平らげて、お盆を廊下に出しながら先ほどの若衆に「ごちそうさまでした」と微笑みかけておく。
相変わらず返事は「っす」だけだが、若頭にガンつけられて凹んでいた顔は分かりやすく嬉しそうに見えた。
*
それから数ヶ月、メネラからあの類の相談をされる機会は日に日に多くなり、いよいよただの情夫では厳しいだろうというレベルのご意見板になっているようだった。
今日はメネラに「朝ごはんを食べたらこれに着替えて」と紺色の羽織にみそら色が美しい着物を手渡された。
「時間になったら迎えにくるから」と詳細も聞かされず、とりあえずたっぷり1時間ほどかけて朝ごはんを食べ終え、さて着替えるかと和服を手に取った時再びメネラが現れる。
「準備はどうだい?」
「あ…ええと、着物は着たことがなくて……」
「そっか!ごめん、思いつかなかったよ。着せてあげるからあっち向いてくれる?」
「そんな、若頭自ら着付けしてくれなくとも」
「俺がしたいから良いんだ。すぐ終わるから」
テキパキと着付けを済ませたメネラの手際の良さにおお、と感心する。いつもスーツを身につけているからわからなかったが、この手捌きからして和服も着なれているのだろう。
「一体私はどこに連れて行かれるんですか?」
「ん?会合」
「かっ……」
何を考えてるんだこのバカは。
いくら提案した案が評判が良かったからと言っても、それはメネラが発案したことになっているからであって、一介の情夫なんかが上役が集まる会合に出席するなど前代未聞である。
「あ、いいのいいの。気にしないで、組長にはちゃんとリァンさんの今までの功績の話はしてあるし、上役連中も気になったみたいで。会って話を聞いてみたいって言うからさ」
「いや気にしますが」
今までの提案ぜんぶ情夫に考えてもらったと馬鹿正直に伝えたのかこの男は。
本当にこの男が若頭で大丈夫なのかこの組は。
上役はメネラより勘も鋭ければ持っている情報も多い、いくら私が元組織にいたとき極度に人との接触を避けていたとはいえ気が付かれないとは言い切れない。
できれば避けたい。
でもこうなってしまうと上役からの招集に応えない情夫など生意気だとなってしまいかねない。
してやられた。
退路などないじゃないか。
「安心して、俺もそばにいるからさ」
「は、はい……」
何も安心できない。
*
上役連中にあれやこれやと聞かれ気が気でなかった会合とは名ばかりの情夫お披露目会のようなものは特に疑いの目を向けられるでもなく、気の良い爺様達に「ほお君が」「何だ案外美形だな」「若頭も隅に置けんな」など言われる程度で無事に終わったのだが、残念なことにその後いわゆる本当の会合に若頭補佐のような形でお呼ばれするようになってしまって、正直悪目立ちしている。
今まで浴衣一枚で部屋でのんびりしていれば良かったのに、気がつけば桐箪笥には上質な着物が何セットも置かれているし、心なしか若衆の対応も格上の人間に向けたものになっている気がする。
確かに私の提案は解決策として一番合理的であり、時に大胆だが上役が納得してくれるほどの説得力も持ち合わせているため、重宝してくれるのは助かるし、最近はもっぱら私を殴りつけたあの中華マフィアの件が多いので奴らを少しずつ崩壊するように誘導するのは楽しくないわけではないのだけれど、メネラは最近そちらの話ばかり持ちかけてくるしその点に関してはあまり面白くない。
頭の中で名前を呼んだのがバレたのか、いつのまにか障子がスッと開かれる。
「やあ」
「ああ、すみません。お出迎えできず……こんにちは」
「出迎えなんて別に良いのに」
「そうはいきませんよ。それで今日は?」
「いや……様子を見に来ただけなんだけど、何か考え事してた?」
やはり腐っても若頭、人を見る洞察力は大したものだ。それにしたって毎日一回は情夫の様子を見にくる若頭って暇なのだろうか。
「ああ、いえ。最近会合だ何だと引っ張りだこで、少し疲れたみたいで」
「そっか、それは悪いことしたね。体調は大丈夫かい?」
「ええ、差し障りない程度ですので。でも、こうして若頭と組のこと以外で会話をするのは久しぶりですね」
にこ、と控えめに微笑んでおけばメネラはバツが悪そうに頬をかく。
引っ張り回していた自覚があるのだろう。
結果的にそれは私のポジションの安定につながるので構わないのだが、やはり面白くない。
この若頭が私に本気になったりしないだろうか。
会合でも人の目に触れさせるなんて嫌だと言い出してくれたら、私はまたこの六畳の離れであーだこーだ好き勝手意見を言って、メネラが通してメネラが賞賛される穏やかな生活に戻れそうだ。
うん、良いかもしれない。
若頭にハニートラップを仕掛けるのもどうかと思うが、引っかかる方もどうかと思うのでどうせなら暇つぶしがてらやってみようと思う。
本業は情夫なのだし。
「そうかも。今日はね、この前言ってた世界堂のあんみつ買ってきたんだ。二人で食べようと思って」
「あ、覚えててくださったんですね、嬉しいです」
手始めに微笑みに甘さを追加して、受け取る時に指先をすこし触れ合わせる。
流石にこの程度はキャバクラやクラブなどの接待に行ったことがないわけでもあるまいし、動揺は見られなかった。
「もちろん、約束だからね。でも近所の世界堂は取り扱ってないし二軒目三軒目もその後しばらくも売り切れで、結局本店まで行って来たよ」
「若衆に頼まれたら良かったのに……」
「俺が約束したから俺が行きたかったんだよ。こんなに入手困難だとは知らなかったけど、リァンさんさては知ってて言ったね?」
「ふふ、さて……なんのことやら」
「一本取られたよ」
いかにも高級な木箱に入ったあんみつは果物が惜しみなく使われ、透き通った寒天と色とりどりの求肥の色合いが美しい。
少し暑くなって来た今の時期にぴったりの涼やかさと甘さだった。
「若頭が頑張って買って来てくれたあんみつ、美味しいですよ」
「それなら良かったよ、危うく汗だくになるところだったからね」
「若頭、さくらんぼお好きですか?」
突然差し込まれた私の質問に、メネラはスプーンを動かす手を止めた。
「好きだけど……?」
「じゃあ、ほら。あーん」
ヘタを取り、ピンク色に染められた大きなさくらんぼを指で口元まで持っていく。
無邪気な微笑みを装ってみたが、当のメネラは些か急にハンドルを切った私について来れていないのか固まっている。
「あ……お手間をおかけしたので、ご褒美に、と思ったんですけれど。こういうのはお嫌でした?」
「そ、そんなことないよ!ごめん、びっくりしちゃって。もう一回お願い」
少ししょんぼりと寂しそうにして見せれば、やはり好意は無碍にできないのか、無事にさくらんぼを受け取ってくれた。
私の指先とメネラの唇が触れる。
心なしか、メネラの頬が少し赤くなった気がした。
「ふふ、どうです?」
「え、お、美味しい、よ?」
「ここのあんみつのさくらんぼは市販の缶詰ではなくて良いものを使っているので特別美味しいんですよ」
「へぇ…」
他にも食べながらつらつらと世界堂のあんみつの良さを語ってみたが、メネラは興味がないのかどこか上の空だった。
今日は本当に雑談しに来ただけらしい。
天高く広がる青空を見ながら長閑な時間に身を預けていると、メネラがうつらうつらし始める。
ひょっとして本当に朝から世界堂を駆けずり回ったのだろうか。車で移動したと思っていたけれど、その辺で売っているものだと思っていたのなら徒歩で向かっていてもおかしくはない。
「若頭、眠いのでしたら横になられては?」
「ん?んー…うん」
一生懸命眠さを我慢している子供のような返事が返って来て、くすりと笑みが溢れる。
残念ながら布団は片付けてしまっていたので、これも情夫の仕事か、と横になるメネラを引き寄せて膝を貸した。
しばらく動けなくなるが、15分もしたら起こせば良いだろう。
*
「……頭、若頭。メネラ、起きてください」
「ん、んん……何分くらい寝てた……?」
「15分ですよ」
微睡みから抜け出そうと目を開けて上体を起こしたメネラは、ようやくリァンに膝枕されていたことに気がついたらしい。
「あ、うわ、ご、ごめん。全然気が付かずに寝てたよ……」
「いえ、ちょっと痺れている程度ですから構いませんよ。よほどお疲れのようで」
「うーん、自覚はなかったんだけどなあ……」
目を逸らすメネラに「ちょっと失礼」と声をかけて、癖がついてしまった髪を解く。
自然な接近と意識させる接近を使い分ける。
「はい。寝癖、直りましたよ」
「あ、ありがとう。寝癖つけて寝るなんて恥ずかしいな」
「私の元で安心してくださってるなら嬉しいですよ。今日は久しぶりにゆっくりお話しできて楽しかったです」
「俺も。また来るね、次は何が良い?お菓子?本とか、なんでもいいよ」
んー、と考える素振りを見せておく。実際あまり不自由はしていないのだ。
欲しいものは都度若衆に頼んでいるし、元からあまり娯楽を求めるタイプでもない。
「思いついたら伝えるので、また早めに顔を見せに来てください。ところ構わず寝てはいけませんよ?」
「ね,寝ないよ!大丈夫!じゃあまた早めに来るよ」
「はい、行ってらっしゃい」
微笑んで手を振れば、先ほどとは違ってわかりやすく頬が赤くなった。彼は思ったより純情なのかもしれない。それか、単純に恥ずかしさが勝ってしまったのか。
私はスマートフォンを取り出して近くの老舗和菓子屋のおすすめ商品一覧を見る。
ああいや、ネットで話題の新刊も良いな。
メネラは自分で入手することにこだわっているようだから、入手が少し難しいものの方が面白い。
少しくらい困らせる方が可愛げがあるというものだろう。
*
最近のリァンさんが可愛く見えて困る。
最初は和服や浴衣に慣れて来た時のふとした所作が美しくて、綺麗だな〜なんて思ったのが始まりだった気がするけど、最近は俺に心を開いてくれたのか結構お茶目なところがあったり意地悪な所があったりして、元々のミステリアスさに上品さと可愛さが加わって一緒にいると目が釘付けになる。
気持ち早足で母屋を歩いていると、若衆がたむろしているのか見えた。庭の灰皿でタバコ休憩中らしい。
メネラもタバコでも吸って少し落ち着こうかと思った矢先、会話の一部が聞こえてくる。
「若頭の“オンナ”さあ、最近ちょっと色っぽくね?」
「わかる。男なんだけど上品なエロさっていうか。キャバにいないタイプ」
「最初若頭何考えてんのかわかんなかったけど、最近わかるようになったわ。良いオンナの趣味してる」
「離れの監視員とか窓際じゃん笑とか言ってたけどちょっと羨ましいもんな」
若衆の言いたいことはわからなくはなかったが、メネラの気分は落ち着くどころではなくなった。
とはいえ、言わせてばかりでもいられない。
タバコとライターを片手に「やあ」と若衆に挨拶をしてそのまま自分も混ざり始める。
「わ、若!」
「お疲れ様です!!!!」
「気にしないで、何の話してたんだい?」
「えっ……とぉ、最近キャバの女が可愛いなって」
「そうなんだ、どんな子?」
「どんなって、ふ、普通っすよ…でもだんだん可愛くなってるな〜って」
「わ、若のイロはどうなんすか?」
メネラの情夫に言及した若衆に、他の若衆がよってたかってコラ!バカ!言うな!死にてえのか!など小声で罵っている。
全部聞こえてたけど、聞かれたら殺されるって認識があるならまあ良いか。
「うーん、相変わらず聡明で面白い人だよ。でも今日はあんみつについて一生懸命語ってた」
「あんみつについて……っすか」
「俺が朝から五軒くらい梯子してやっと買えたあんみつなんだよ」
「そりゃ熱弁してくれないと割に合わないっすね!」
「うん。もし面白いお土産とか美味しいお菓子知ってたら教えてよ」
「うっす、思いついたらすぐ」
「助かるよ。でも変な気は起こさないでね」
「も、もちろんっす!!!」
「じゃ、邪魔したね」
メネラの牽制に震え上がった若衆は半ば悲鳴のように了承の返事を叫んでいた。
メネラはまだ半分ほど残っている煙草をもみ消してその場を去る。
今日のことを思い返してみると、大半は珍しいあんみつに珍しくテンションが上がっていたのかと思っていたが、やはり気のせいではなく物理的な距離が近かった。
離れる時も俺に会うのを楽しみにしてくれてるみたいな言い方をしていたし、ひょっとして。
「俺のこと好きなのかな」
いやいや、いくら情夫だからって肩書きだけだしあの人はそんなにチョロくはないでしょ、と思うけれど、今までお茶菓子を出してくれて半分こはあってもあーんはなかった!
しかもあんみつのさくらんぼはショートケーキのいちごくれるようなものだろう!?
最近の柔らかくなった微笑みと、ご褒美って響きがなんだか暖かくて幸せで良かった。
ぼんやりしてたけど、さくらんぼ食べた後指をちゅっと舐めてたのが色っぽかった。
ダメだ、俺も若衆と大して思考が変わらない。
強いていうなら俺のイロだから俺が考える分には全然問題ないってことくらいしか免罪符がない。
少し前の俺、よく冷静に着付けとかできてたな。
今煩悩まみれで無理かも。でも他の人に任せるのも無理だし、なんならリァンさんはもう自分で着付けできるし。賢すぎるのも問題かも。
あー膝枕の記憶ない。勿体なさすぎる。ガチ寝してた。頼んだらもう一回くらいしてくれないかな。でも俺から頼むと若頭の命令になっちゃうし、それはなんか違うんだよなあ。
会合だと上役顔負けで色んな策の話しててかっこいいのに、俺の前だと嬉しそうにあんみつの話するの可愛すぎない?
っていうかあれだけ甘いもの好きなら、だいぶ前に疲れてるからって苺大福半分わけてくれたのもかなり優しさだったんじゃ……頭良くて綺麗で可愛くて既に俺の物なの最高だ。
「これもう俺が好きじゃん……」
ビジネス情夫、無理かも。
*
この屋敷に厄介になり始めて早半年、季節は冬に差し掛かろうとしていた。
立場は依然として若頭の情夫だが、やはり特例として行き詰まった場合の会合などに呼ばれるのはしょっちゅうだ。
他の組の上役からアイツは誰だと聞かれて情夫だとも言えないため、私の肩書きは表向き『特別顧問』となっていた。
何の顧問かは誰も知らない。
つんと冷えはじめた空気の中、離れまでの道のりを早足で歩く足音に障子を開ける。
「こんにちは、そんなに急いで来なくても逃げませんよ」
「いやぁ、寒くって」
「そこは嘘でも早く会いたくて、とか言うべきではありませんか?」
「早く会いたかったのもあるよ!」
「後出しはダメです、ほら早く中に」
だめか〜と落胆してみせるメネラに自然と笑みが溢れる。
世界堂のあんみつの一件から少しずつハニートラップのレベルを上げていったところ、見事に落ちた。告白して来ないのは情夫を相手にしているというのを理解しているからだと思うが、まあ多分九九%落ちている。
出会った頃は飄々として見えた性格も、今では私にかまって欲しくて、褒めて欲しくて仕方がない大型犬のようで貢ぎ体質になってしまった。
若頭が情夫に貢ぎすぎるのもあまり体裁が良くない、と釘を刺してからは常識的な範囲に戻ったけれど。
離れにはエアコンが備え付けられているけれど、当初からお世話になっている若衆が「使ってないヒーターあったんで」と小型のハロゲンヒーターを持って来てくれた。
そのことをメネラに話したら「言ってくれたら俺がいくらでも用意したのに!」なんて言うから困ったものだった。
張り合って「こたつでも買おうか?」と言うので「狭くなるので必要ありません」と断れば今度は濡れて震える小型犬のようになるものだから笑ってしまう。
私は私でこの生活がそこそこ気に入っていた。
「今日は?」
「会いに来ただけ」
「暇なんですね」
「リァンさんに会うために忙しい間を縫って来てるんだよ」
「うーん、初動でコケると全部嘘くさいですね」
「だめかぁ、嘘じゃないんだけどな」
嘘じゃないのはわかっているが、きっとメネラは女の扱いは知っているが、口説き慣れていないんじゃないだろうか。私の推測に過ぎないが、若頭という立場もあってずっと口説かれる側だったのだろう。
「それはさておき、本題なんだけど。リァンさん母屋の部屋に移らないかい?」
「どうして?」
「リァンさんは親父たちの信頼もあるし、離れにいて襲われて失ったら逆に困るって話が出てきて」
「私のことを襲ってくる人間なんて……」
いないことはないな。ここ半年音沙汰がないが、元所属の組織が私を仕留め損ねたことに気がついていないわけがない。
だが、人の行き来が激しい母屋への移動はあまり気乗りはしない。
「私はここが気に入ってますから」
「そうなのかい?母屋の方が広いし便利だと思うけど」
「この絶妙な広さがちょうど良いんです」
「そっか、わかった。親父には断り入れておくよ」
「お願いします。お心遣いは嬉しいですとお伝えください」
それから流れる時間は静かなものだった。
シトシトと雨が降り始めた音をBGMに、私はメネラに買ってもらった話題のミステリー小説を読み進める。
メネラは上着を脱いで勝手に私の膝を枕に寝転んでいる。今回は足を伸ばしているので痺れる心配はない。
無言でも居心地が悪くならないと言うのは良い雰囲気だと思った。
しばらくそうして雨音と私のページを捲る音だけが聞こえる部屋の中、メネラが唐突に口を開いた。
「ねえリァンさん」
「はい?」
一応若頭の話を聞くのに本を読みながらでは失礼に当たるかと思い、これまたメネラがくれたステンドグラスのような美しい栞を挟んで本を脇に置く。
メネラも体を起こしてこちらを見つめていた。
「あのさ、俺……リァンさんのこと好きなんだ。ずっと前から思ってたけど、なかなか言えなくて」
乾燥した空気に反して緊張からか手汗でしっとりしたメネラの手が、膝に置いていた私の手を取る。
「うわべだけの情夫じゃなくて、ちゃんと恋人に」
なりたいんだ、と紡がれるであろう唇にピ、と人差し指をくっつけて遮った。
まさかそんな方法で遮られると思っていなかったメネラは驚いて身を引いていた。
「メネラ。貴方、ハニートラップって知ってますか?」
「そりゃもちろん、知ってるけど」
リァンはリァンでメネラは単に告白のタイミングを見計らい過ぎていただけでビジネス情夫であることで一線を引いていたわけではなかったらしいことを悟らざるを得なかった。
リァンは本の隣に膝掛けをたたみ、襟元を正して正座でメネラに向き直る。
「酷なことを言いますが、確かに貴方に捨てられまいと愛想は振りまいていたのは確かです。しかし本心でも本気でもありません。極道の次期組長ともあろう人間がそう簡単に騙されてはダメでしょうが!!」
「ええっ……」
私が捲し立てた真実とおそらく思いもよらない方向からの叱咤で唖然としていたメネラだったが、数秒後にはいつも通りの顔に戻って、アハハ!と声を出して笑っていた。
あ、なんか逆に嫌な予感する。
「ハハ、手厳しいなあ。まさか騙されてたなんて思わなかったけど、それ言っちゃうのかい?」
「まあ、言わないと貴方引かないでしょう」
「確かに。でもリァンさんってなんだかんだ俺のこと甘く見てるよね?」
「というと」
「一回振られたくらいで諦めるようなやわな精神してないってこと。リァンさんなりに俺のこと心配してこんな騙し討ちしてくれたって解釈して良い?」
「随分と都合の良い解釈ですね」
「だからさ、また引っかからない様にリァンさんが俺を見張っておいてよ。一番目の情夫がいるのに、知らない女とデキてたら情夫の名折れだよね?」
こいつ何言ってもダメだ。
確かに甘く見ていた。
メネラの言うとおり、若頭に情夫がいるのに他の女だろうが男だろうが畜生だろうがと若頭が本気でデキているなんて噂が広まったらメネラにも私にもダメージが大きすぎる。
「……怒らないんですか?」
「ん?うん。ハニートラップのおかげで可愛いリァンさんいっぱい見れたし」
「追い出さないんですか」
「うん。別に裏切られてないし、機密保持契約も守ってくれてるでしょ?それに俺はリァンさんのこと好きだから手放す気なんてないよ」
何を言っても諦めるつもりはないようだが、少なくとも私が猫をかぶる必要は無くなったらしい。
この半年取り繕っていた柔和な微笑みを捨てて、組にいたころの素の顔に戻す。
「わあ、今までずっと一生懸命にこやかでいてくれたの?でもその俺のこと面倒くさいって思ってる感じの鋭い目つきも素敵だよ」
「どうとでも言っていなさい。私が見張れるのはこの離れだけですから。あとはご自分で。今までの媚びた態度をお求めなら、追い出してもらって結構ですよ」
「アハハ、それでも追い出さなかったら見張っててくれるんだ。やっぱりリァンさんって優しいね、キスして良い?」
「いいわけないでしょ。“そういうこと”はしなくて良いんじゃなかったんですか?」
私がつれない態度を取れば取るほどアハハと楽しそうに声を上げて笑うメネラに、こちらは言い返すか、無視という形で抵抗するしか方法がなかった。
「覚えてたんだ。忘れててくれたらよかったのに。夜のはしないさ、じゃあハグとか膝枕とか普通のスキンシップもダメかい?」
「……情夫で良しとした手前、スキンシップくらいなら良しとします」
「やっぱり優しいよ!なんか逆にリァンさんの方が心配になっちゃうなあ。俺みたいなのに丸め込まれないようにね?」
「私を誰だと!」
思っているのか、と言おうと思ったが、一応記憶喪失だしメネラにはいまだに身元はバレていない。勘づかれているかもしれないが、言及してこないからバレていないのと同義だ。
「……そんな尻軽だと思われていたとは心外です」
「そういう意味じゃなくて、ごめん。なんでもするから機嫌直してくれないかい?」
「しばらくは無理ですね〜」
「そこをなんとか…!」
「どこかに岐阜県奥田農園の美人姫を山盛り買って来てくれるお金持ちがいたら乗り換えてやるのにな〜」
「なんかよくわかんないけど果物かな?まかせてよ!」
よーしと意気込み、横でスマートフォンで検索をかけたメネラは値段を見て苦い顔をしていた。
それもそうだろう、一粒数千円から高くて10万円の最高級品だ。しかも一粒ではなく山盛りと言ったし、私が数千円の低クラスで満足するとも思っていないからこその渋い顔だろう。
「一応聞くけど、何個くらい食べたい…?」
「山盛り」
「山盛りって…?これ1粒で桐箱に入ってるタイプだよね…?」
「美人姫で削りいちごとか作れたら夢がありますね」
「削りいちごってかき氷みたいなやつだよね?!大きい種類だとしても削りいちご作ろうとしたら少なくとも5粒は必要か…季節はちょうどこれからだし、農園に直にかけあってみるしか……」
「ふふっ」
「あ、今笑ったね?くそっ見てなかった!もう一回見せてくれないかい?絶対美人だった!」
「無理です」
一粒5万円を5つだとして25万円もするのに,私にそれだけの価値が本当にあるのだろうか。
メネラには本心でも本気でもない、とは言ったが、たかが半年、されど半年。
一番そばにいて、身内ですらなかなか信用できないこの世界で、私のことを勝手にすぐ信用して、家に引き入れて、気を引くために一生懸命金と愛想を振り撒いて、捨てられないようにしているのは一体どちらなのかわからないほど直接的な愛情表現を見せて来たメネラに、いくら私とて絆されないわけがなかったのだ。
まだしばらく。せめて美人姫が手に入るまでは教えてやらないけれど。
*
季節は巡って無事に春を迎え、新年お祝いムードも消え去った頃。
リァンは勝手知ったる離れの近くの庭に花を植えていた。
もちろん屋敷の主人と、庭を管理している庭師に承諾済みだ。
いくらあまり娯楽に興味がないリァンとはいえ、流石に1年も経つと新しいことがしたくなってくるわけで。
冬にメネラに無理やり買わせた美人姫があまりに美味しかったので、自分でもいちごを栽培してみようと思い立ったのだ。流石にど素人の栽培でいきなり美人姫クラスは無理なのは百も承知している。
苗を見繕って来てもらい、庭師の指導のもと土壌を整えて苗を移し替え、毎日懇切丁寧に水を与えている。庭師曰く、初めてだし実がなれば上々ではないかとのことだった。
現段階では実はおろか蕾しかないのでこれからが楽しみだ。
ひと段落ついて道具を片付けるために腰を上げた時、離れの部屋の方から「あれっ」という声が聞こえてくる。
「若頭、こちらですよ」
「ああ、庭にいたんだね。どう?」
「どうもなにも、まだ昨日移し替えたばかりですからそんな急に成長しませんよ」
「そうだよね、花のことなんてよくわかんなくって」
「まあ、貴方を待つ暇つぶしにはちょうど良いですね」
「え!それ無自覚で言ってる?もしかして俺が来るの待っ」
「道具を片付けて来ます」
「あ、うん、部屋で待ってるね……」
あの日以来メネラは私の言葉での一喜一憂を隠さなくなったし、より一層振れ幅が大きくなった気がする。
そんなことを考えながら、リァンは離れの裏の水道で道具についた土を洗い流し、所定の場所に戻す。ハンドソープで土のついた手を洗った後、ようやく部屋に戻れるのだ。
「お待たせしました」
「おかえり、まだ寒いし体冷えただろう?お茶淹れたよ」
「どうも」
メネラは私が庭に出るようになってから、こうして若頭自らお茶を淹れてくれるようになった。
慣れていないせいか、高級茶葉をうまく扱うことはできていないが、その不器用さが少し可愛らしくも感じられる。
茶碗を通して温かい熱が冷えた指先を温めてくれる。
「それで今日は?」
「えーっと……リァンさんに折り入ってお願いがあって」
茶托に茶碗を置く手が寒さのせいか思わず滑る。
かちゃり、と音が鳴った程度でこぼすことも割ることもなく済んでよかった。
メネラの家に厄介になって1年経つが、まだ明かしていない秘密はたくさんある。若頭が折り入ってお願いするほどの頼みとはなんなのか、緊張が走る。
「お願い、とは?」
「ちょっと待ってて」
メネラは一度部屋から出て、廊下の見張りにしばらく下がっているように伝えているようだった。人払いをしてまで頼むこととは一体。
お茶を嚥下するゴクリ、という音がリァンの中で大きく響く。
「お待たせ。それで、頼みなんだけど。リァンさんがここに来たばっかりの時になんでもするからって言ってたのってまだ有効?」
「……直接犯罪に加担するようなことでなければ有効ですね」
「律儀だね、そういうとこも好きだよ。あの、単刀直入に言うんだけど、今夜一度だけで良いから、イロとして寝てくれないかな……どうしてもこの頼み方しか思いつかなくて、恥ずかしい限りなんだけど」
全然組のこと関係なかった。よかった。
よくないかも。貞操の危機だな。とはいえ名ばかりでも一応情夫であるからして、数秒前になんでもするは有効と言ってしまった手前断るのもなんだか気が引ける。
「この前は夜のことはしないと言っていませんでした?」
「言ったよ、だから一度だけのお願い使ってるんじゃないか。でも本当に嫌なら断ってくれて構わないよ、それでリァンさんを追い出したりなんてしない」
「嫌か嫌でないかで言われたら嫌ではありませんが……貴方も相当律儀ですね、頼み方も何も若頭の命令と言われたら私は逆らえないのに」
「無理やりは嫌なんだよ。無茶なお願いだって承知ではあるけど、どうかな」
極道者とは思えない困った様な微笑みに毒気を抜かれてしまう。この笑顔もどこまで信用して良いのかはわかないけれど。
それと同時に、こんなに真摯に尽くしてくれているメネラに私はたくさんの隠し事をしていると思うと少し胸が痛む。
「い、一度だけなら……構いませんが」
「本当に?!ありがとう、無理な頼み事してごめんね、嬉しいよ」
「どこの若頭が情夫を抱くのにそんなにかしこまるんですか」
「だってほら、ウチは表面上だけって話だし。それ以外で役に立ってもらってる部分が大きいからね」
ふぅん、と聞き流すとメネラは部屋の時計を確認して「もう戻らなくちゃ」と席を立つ。
「夜、何時ごろに来られるんですか?」
「わからないけど、日付超える前には絶対に行くから、待ってて」
「はい、行ってらっしゃい」
「行ってきます」
ぎゅう、と大きく私を抱きしめて、一大決心をしたかのように名残惜しそうに母屋へ帰っていくメネラの背を見て、なんとなくこちらも寂しいような照れ臭い様ななんとも言い難い気持ちになる。
しばらく廊下に突っ立っていると、監視の若衆が戻ってこられたので「お疲れ様です」と一声かけてから部屋に戻った。
その日一日はやけに時間の経過がゆっくりだった。
ぼんやりと夕食を食べて、風呂に入る前に同性間での性行為についてあらかた調べて、決心がついたあといつもの倍の時間をかけて丁寧に風呂に入った。
準備するにあたってどちらがいわゆるネコなのかはわからなかったけれど、メネラの普段の雰囲気的に私を抱きたいのだろうなと思ったのでそちら側の準備を入念にしておいた。
時刻は二十三時ごろ。
そういえば、メネラが夜に訪ねてくるのは初めてな気がする。
それに気がついた途端、全身の体温が少し上がった様な気がした。風呂上がりだから、と言い訳をして、冷たい水をコップ一杯一気に煽る。
冷水が食道を通り過ぎていくのがわかって、すこし冷静になった。
いつも寝る時と変わらず真ん中に敷かれている布団に座って待つべきか、中に入って待つべきか、それとも座布団にでも座って待つべきかと頭を悩ませているところに、遠慮がちに砂壁を叩く音がする。
「リァンさん、開けても良い?」
「ええ、どうぞ」
緊張した面持ちでやって来たメネラは普段のスーツとは違い、私と同じく寝巻きがわりの浴衣だった。
「貴方、春先とはいえそんな姿でここまで来たんですか?寒かったでしょう、風邪を引いてしまいますよ」
「そう言われたらそうだね、でも風邪引いたらリァンさんに看病してもらえそうだ」
「しませんからね」
ほら早く入って、と程よくあたためてある室内に招き入れる。
ヒーターを強くしようかとメネラの元を離れようとした時、ぱちんと室内の電気は消され「暖ならリァンさんで取るから」と抱きしめらたまま、すとんと流れるように布団の上に座らされてしまった。
後ろから抱え込まれる様に抱き込まれると、ほんの十センチの体格差をまざまざと感じる。
密着した分メネラの鼓動の速さと体温、しっとりとした肌のぬくもりまで。
「リァンさんいい匂いするね。同じシャンプーのはずなのに」
「そ、そうなんですか?知りませんでした」
「お風呂上がったばっかり?」
「ばっかりというほどではありませんが……」
「最後に聞くけど、本当に嫌じゃない?」
ぎゅっと抱きしめる手に力が籠る。
彼のことだから、ここで実は嫌なんですと言えば本当に離してくれるのだろう。
しかし不思議なことに、緊張はすれど嫌悪感は一切なく、むしろ初めての経験に戸惑いが大きかった。
「嫌じゃない、ですから。逃げませんよ」
「ほんと?ふふ、嬉しいよ」
メネラは─ほんの少し予想していたけれど─慣れた手つきで私を組み敷いて、たくさんキスをして「好きだよ」「愛してる」とたくさん愛を囁いた。
ここで私もだと言えたらどれだけ幸せだっただろうか。
隠し事ばかりの私にはまだその資格がない。
とにかくメネラの愛の言葉を否定しないように、メネラを拒絶しないように、同じ言葉を返せないなりに出来るだけ長い時間彼の愛を受け止めた。
今までのイロにも同じ様にしていたのかと、頭の隅でひどいことを考えながら。
*
「リァンさん、もう一個だけお願いがあるんだ」
「……聞くだけ聞きましょう」
「今日はこの部屋に泊まってもいいかな」
「……体を重ねた直後に出て行けと言うほど薄情な情夫ではありませんよ」
「やった、断られたらどうしようかと」
冗談めかしく笑うメネラはとても満足そうだった。暗くてもわかる愛おしげな瞳に絆される。
その鍛え上げられて逞しい腕で、優しく「寒くない?」と上掛けをかけ直してくれる。
「寒い」と不機嫌そうに返せば「じゃあもっとくっつかないと」とより近く、より強く抱きしめる。
頭のすぐ背後から「好きだよ」と真剣な告白が降ってくる。
行為中の愛の囁きは信用するなとは言うものの、こればかりは嘘だと言うには酷なほどメネラの情がこもっていた。
私は、ついに黙っていることに耐えられなかった。
「貴方は……」
「ん?」
「貴方は、私に簡単好きというけれど、それが“情夫”に対するものなら私は受け入れます。もしそれが素の私に対するものなら…いけません」
「どうして?やっぱり嫌だった?……嫌になった?」
急に不安そうに変わるメネラの声色にズキズキと胸が痛む。
体を捻って体勢を変え、メネラに向き合うとその黄色の瞳は薄く涙の膜が月明かりを反射していた。
「素性も明かせない身ですから」
「秘密のままでもいいよ」
「それでは私が息苦しい」
「じゃあ教えてよ」
教えてよと言われてはいそうですねと教えられるのならここまでことは複雑にはなっていないのだ。
これに関してはメネラは一切悪くなく、最初からメネラを利用していた私が全て悪い。その報いを今受けているのだと思えば胸の鋭い痛みは耐えられた。
「たくさんあるんです」
「全部、リァンさんが苦しくなくなるまで教えて」
「実は記憶喪失ではない、とか」
「それはなんとなくわかってた」
でしょうね、と苦笑すれば「でも記憶あるでしょって言っても俺にはなんの得もないからさ。黙ってたんだ。指摘して出ていかれたら嫌だし」と子供がぐずるように嫌われたくないから言わなかったんだと主張する。
一つ露見させるごとに苦しみは消えるどころか増すばかりだった。
「他には?」
「名前は、一応本名。あの名刺はフェイクですけど」
「そうだったんだ。じゃあずっと本名で呼ばせてくれてたんだね」
「流れでそうなっただけですけれど……まあ、そうなります」
元々所属していた組織で使っていた名前の方が偽名だったのだ。きっとメネラはあの組織と私、偽名と私の本名を結びつけてはいたのだろうけれど、それも聞いてこなかった。
「嬉しいよ」と心底嬉しそうに頭を撫でられる。
本当に流れでそうなっただけなのだが、メネラにとってプラスに働いたならよかったと思う。
「他には…そうですね、メネラの、この一家の前で倒れていたのはわざと。命からがら逃げ出して貴方の組に拾ってもらおうと思っていましたが、まさか若頭直々に出てくるとは思わなくて」
「そうだったんだ。気が付かなかった」
「嘘、気がついてたと思います」
「気が付かなかったことにしておくよ、見つけたのが俺でよかった」
親父に見つかってたら親父のものになってたかもしれないと思うと嫌すぎるよ、と今度は拗ねてみせる。そればかりは運なので私はなんとも言えないけれど。
「そのくらいでしょうか」
「本当に?」
「今言えるのはね。こういうのは秘密が多い方が魅力的でしょう?」
「でも俺はリァンさんのこと全部知りたいよ」
メネラはまだ隠し事があることを知っている。知っているからこそ言えないのだけれど、いつもと違う声色でねだられると強く出られなかった。
メネラの唇にキスをして黙らせる。
その代わり、メネラの節くれだった大きな手を胸元に持っていき、今は消されたタトゥーに触れさせる。
「どうしても最後の秘密を明かして欲しかったら、そのあと必ず周りを説得して納得させると約束して」
「……ずるいね、こればっかりは今すぐ返事はできないや」
「返事をしたとしても、私は口約束は嫌いなんです」
「沢山教えてくれたからって、出ていかないよね?」
「追い出されない限りはいますよ」
「寝て起きていなくなってたら俺立ち直れないよ」
「貴方が起きるまでそばにいますから」
子供をなだめすかすように厚みのある背中を撫で、ふわ…とあくびが出たので「おやすみなさい」と声をかけて目を閉じた。
私だって目が覚めてこれが夢だったら立ち直れない。
*
「リァンさんおはよう、起きれるかい?」
「え?」
「朝ごはん……ってもう昼だけど、ごはん持って来たよ。食べられる?」
「あ、はい……」
寝入りぎわの私の記憶ではふにゃふにゃのメネラが起きるまでそばにいろと駄々を捏ねていた気がするのだが、私が目覚めて一発目に目にしたのはいつも通りピシッとスリーピースのスーツに身を包んではいるが、頬に大きなガーゼを貼ったメネラだった。
「え、いや。その頬どうしたんですか?」
「周りを納得させるために頑張ったら一悶着あって。でも切り傷の一つで親父の念書も手に入ったから安いもんだよ」
「こ、行動が早すぎる。一体何時から会議していたんですか」
「はは、まあその辺はちょっと内緒で……」
顔に切り傷ができるほどの騒動が母屋で起きていたというのに、私としたことが昼まで眠りこけていただなんて。
私の記憶が間違いでなければ、騒動の原因は私の素性に関することの話し合いだろうし、私が叩き起こされても良さそうなものだが、おそらくメネラが断固拒否して念書をもぎ取るまで私の安眠を守ったのだろう。
「とにかく、ご飯食べ終わったらこれの内容確認してくれる?ここに親父のサインと俺のサインね」
「わ、わかりました……」
しばらく急展開の現実に唖然としていたが、体力の消耗に加えて時間が昼なためお腹はぐうぐうと空腹を訴えていたため、朝食兼昼食に手をつける。
全てしっかり食べ終えて「ごちそうさまでした」と廊下にお盆を出した後。
文机の上に存在感強く置かれた封筒を手に取り、中身を改める。
「拝見します……」
内容は要約すれば、リァンが身元を洗いざらい全て教えるのであれば組での扱いを悪くすることはない、今まで通りを保つというものだった。
メネラをはじめ組長が私の素性に気がついているというのは薄々思っていたから驚きはしないが、敵対している組織の人間が自分の組に入って手腕を振るってくれるのならば組にとってはプラスが大きいのかもしれない。
きっと切り傷は私が裏切るか裏切らないかで揉めたのだろう。
「それでは、真相は組長の元でお話ししましょう」
「ちょっと待って、俺にだけ先に教えてくれない?リァンさんの秘密がみんなの前で暴かれるのちょっと,面白くないっていうか……」
「フフ、この念書に免じて特別にですよ?」
「ありがとう、リァンさん」
読み終えた念書を封筒に戻し、メネラは監視の若衆を払った。
向かい合ってさて話しますよとなると、どうしてか緊張する。
大きく息を吸って一呼吸おく。
「おそらくメネラや組長も勘付いてるとは思いますが、私は中華街を統括しているマフィアの元幹部です。やっていたことは今この組でやっていることと対して変わりません。いわゆる参謀ですね。その当時はあまり人目につかないよう、さらにはリード・ワイズミュラーの偽名で行動していました」
「リードって聞いたことあるよ、顔は知らなかったけど、まさかそんな有名人だったとは」
「有名だなんてとんでもない。とはいえ人数が多いだけの反社会組織ですから、こちらの組に比べて色々と雑で。見限って一抜けをしようとしたら、気がついたら内部抗争に発展していました」
「あれリァンさんが引き金だったの!?」
「おそらくね。私とて平和にさようならで済むとは思っていなかったので多少の争いは覚悟していたのですが、私が抜けるのを機に反旗を翻したのが大勢いたようで。いつの間にか大ごとになってしまいました」
メネラは途中から予想の範疇を越えたらしく、はあ〜…と聞き入っている。これは組長の前で発表する前に教えておいて良かったかもしれない。
少なくともメネラの間抜けヅラを組の上役に晒す痴態は避けられただろう。
「で、なぜか大規模謀反の責任を取らされそうになり、逃走中に頭を殴られつつも、命からがら貴方の家の前まで逃げてきたわけです。
奴らも流石に他所の組の本家の前で好き勝手できませんからね。
あの日は大雨で川の近くに靴も投げ捨てておいたので、短慮な捜索員は私が血迷って川に飛び込んだとでも思って死亡の報告をしたのでしょう」
「それであの日につながるわけか。納得はしたけど、本当にあの日もし発見が遅くなって病状が悪化してたら命が危なかったんだよ?」
「とはいえあの逃走劇がなくとも命の危険はありましたからね、一か八かに賭けただけですよ。
ちなみに、貴方に拾われてからはこの組の内情をどこかに漏らしたりそれに準ずる行為は一切していません。向こうの情報は少しずつ漏らしていましたがね」
「道理で……」
あらかた説明し終えたので「更なる詳細は組長の元で」とメネラに手を差し出す。
メネラがその手を取ろうとした瞬間に「ああしまった、流石に組長の元に行くのに浴衣では行けませんね。着替えますので少々お待ちを」とその手はメネラの手からすり抜けていった。
少し気落ちしているメネラにくすりと笑みが溢れる。
リァンはあの日メネラから手渡されたみそら色の着物を手に取り、スルスルと慣れた手つきで着替えていく。
「あの、予想なんですが」
「なんだい?」
「組長と若頭が同意したと言っても組内で反発は起きると思うんですよ」
「それは……そうだろうね、むしろ念書よりそっちの方が大変かもしれないね」
メネラが今後の苦労を想像して苦笑いする。
ただでさえ現状一介の情夫が特別顧問などと言われてチヤホヤされているだの陰口を叩いているのが聞こえてくるほどだ。裏切る裏切らない、信用できるできないの論争は長く続くだろう。
「若頭の腕の見せ所ですね。組の意見がまとまったら、私の事は情夫でも恋人でも極妻でも参謀でも好きにしてくださいな」
「それじゃあ話しが終わったらもう一回告白でもしようかな」
「おや、一度で良いのですか?また振られても知りませんよ?」
「断られても何度でも告白するさ」
着替え終えたタイミングで振り向き、メネラのガーゼのある頬と反対の頬にキスをする。
「期待してますよ、次期組長」
「ご期待に添えるよう頑張るよ。じゃあ行こうか」
*
その後、噂が広まりに広まり、とうとう離れに刺客がやってきたが、ガタンガタンと大きな音を聞きつけて監視の若衆と共にメネラが走ってきた頃には──
「リァンさん!なんか凄い音したけど大丈夫か…い、って大丈夫そうだね」
「これでも何回も命を狙われて来ましたからね。のしておきましたので処理はお任せします」
「フィジカル面でも優秀だなんて惚れ直しちゃうよ」
「発揮する機会がなかっただけですよ。これでも鈍りました」
「でも危ないな、やっぱり母屋に移らないかい?」
「離れを気に入ってるんですよねえ……」
「じゃあ俺も離れに」
「狭いでしょ」
─などと、数名の刺客を気絶させた上で呑気に会話している姿が見られたとか。