贖いに名はつかないキリオ・オルブライトは同僚兼恋人のチェキータ・ローランと出勤した際、署長直々に執務室まで来るようにと話しかけられた。
元からフランクに接してくれる署長ではあるが、出勤してすぐに説明も少なく執務室への呼び出しという流れに少しの違和感を抱いたのは確かだった。
「署長から呼び出しって珍しいっすね、先輩なんかやらかしちゃったとか…!?」
「思い当たる節はないけど、ゼロとも言い切れないな。とりあえず行ってくるから、今日のニュースでも確認しておいてくれ」
「了解っす!行ってらっしゃーい」
ニコニコといつも通り呑気に笑うチェキータに見送られ、所長の執務室のドアをノックする。
名前を告げると程なくして「入ってくれ」と返事があったので「失礼します」と声をかけてドアを潜った。
「少し長くなるからその椅子にでも座って、緊張しなくてもクビとかじゃないから安心してね」
「ハハ、それならよかったです。それで、要件は……?」
「うーん、本当は君に言うべきか迷ったんだが……」
署長は一枚の封筒を取り出した。
宛名はキリオ・オルブライト。
「差出人がね、気になったもので君に渡す前に中身を改めさせて貰ったんだ。すまないね、事後承諾になってしまって」
「いえ、構いません」
封が開けられたそれには二枚の便箋が入っており、お世辞にも綺麗とは言い難い文字で手紙が綴れていた。封筒の裏面を見れば、その名前はキリオの顔に消えない三本の傷を刻みこんだ、四年前に発狂して傷害事件を起こした彼からだった。
その名前を見た途端にぶわり、と全身の毛が逆立つような感覚が襲いくる。
封筒を持つ手にも少し汗が滲んできた。
小刻みに震える手を押さえて内容を読めば、服役を終えて出所したこと。
キリオのおかげで未来ある子供の命を奪わずに済んだことへの感謝、そして傷つけてしまったことへの謝罪。キリオさえよければ顔を見て改めて謝罪したいとのことだった。
確かにこの内容は署内とはいえ人通りのある場所で話すのは憚られるわけだ。
「ご配慮、ありがとうございます」
「いや、いいんだ。体調は大丈夫かい?」
「……ええ、今のところは。すこし、驚きましたが」
「君が嫌なら嫌だと返事を書くと良い。返事を書くのも辛いなら私が代筆しよう。無理はしなくて良いからね」
「ありがとうございます、とりあえずカウンセラーにも相談してみます」
「うん、それが良いと思うよ。要件はそれだけだ、特に質問等なければ職務に戻ってくれ」
「はい、では失礼します」
獣人の発狂は本人にも止められない、本能の暴走である。
獣人であれば誰にでも起こりうる、人生が一瞬で破壊されるあまりにも嬉しくないサプライズイベントだ。
獣人の発狂における傷害事件の数は多くないが、決して少なくもない。傷害事件に発展した中でも、防ぎようがないのだからどうしようもないと開き直る獣人もいる。
そう思えば、こうして律儀に謝罪の手紙をくれた彼はかなりまともな感性を持った人だったのだろう。
そんな彼が発狂することで社会的な地位を落とし、服役することになったのは非常に残念で、残酷で、理不尽だと思った。
この時点での俺は、正直直接彼に会うのは怖いが、怖がっていても前に進めないしこれは逆に乗り越えるチャンスだと思って、とにかく次のカウンセリングの日にカウンセラーに手紙を見せて判断を仰ごうと思い、手紙を封筒に戻して席についた。
署長の執務室から戻ってきた俺に気がついたチェキータは、心配と揶揄いが半々に混ざったような顔で声をかけてきた。
「署長の用事、なんだったんすか?先輩……まさか……ひょっとして、クビ!?まあ、ンな訳ないっすよね〜その手紙の件っすか?ラブレター?クレーム?」
「開口一番クビではないって言われたよ」
なぜ固定ブレイスかつ恋人の俺のクビをネタにしてくるのか、遊んでいるだけとわかりつつラブレターやクレームの手紙を疑うのにもやや反応に困るが、手紙について気軽に話すのも憚られる。
とはいえ、遅かれ早かれチェキータにも話す事になるのは間違いない。
遊びと揶揄いに紛れているが、俺の身に何が起きたのかを心配しているのは本心だろうから、余計な心配をかけないように遠ざけておきたい気持ちもあるし、ちゃんと打ち明けて安心させてやりたい気持ちもある。
逡巡ののち、俺は極めて軽く、重くならないように話す事に決めた。
「この手紙、この傷の事件の相手からでな。出所したって。詳細は省くけど、まあ用は直接あって謝罪したいって言うから、どうしようかなってさ」
俺はサングラスを頭の上に上げて、顔の左半分から右にかけて大きく抉るようにつけられた傷に軽く自分の指先を当てた。
今はほとんど完治していて、たまに汗で痒くなったり雨の日に痛む程度で問題はない。
「あー……それは………えと……ふざけてスンマセン……」
「え!?いいって、気にすんなよ。ただ、相手から手紙が来たってだけでちょっと手が震えるのに、直接会ったらどうなるんだろうって不安はあるから、カウンセラーに──」
──相談してから決めようと思って。
そう言おうとしたが、隣に立つチェキータの表情は、先ほどの揶揄い混じりのものから不安の表情へと変わっていた。
ああ、やっぱり軽く伝えてみてもチェキータにはしんどい話だったかな、と自分のことなのに他人事のような感覚に陥る。
そして俺の思考とは裏腹に、この空気をどうにかするべく焦った口は勝手に動いていた。
「そうだ、もしその人に会うときはチェキータも一緒に来てくれないか?」
「え、お、俺もっすか?!行く!!!行く行く!!!!たとえ場所が山の上でも海の中でも俺絶対ついていきますからね!!?!!!?」
山の上はともかく、海の中で面会するのは俺に逃げ場がなさすぎるな。
頭の中で一瞬想像して、無駄にゾッとした。
フンフンと鼻息荒く俺のお供をしてくれると意気込むチェキータを一旦そのままに、話を本筋に戻す。
「山の上と海の中で面会はありえないが、一応俺は会ってみようと思ってるんだ。その方がいろいろ前に進めるかと思って。
ただ、これは俺の自己判断だし、カウンセラーに相談してから決めるつもりだ。次のカウンセリングが三日後だから、その後にチェキータにも連絡するよ。
たぶん場所は病院になるんじゃないかな……」
俺の考えが間違ってなければ、カウンセラー立ち合いの元面会になるだろう。
俺自身、直接会うことで精神状態がどうなるかなんてある程度の予想はできても、予想外のことも起きると思う。
彼自身手紙に書いていたが、未来ある子供の命を守れたのはたとえ自分が傷ついても誉あることだと思うし、こうして手紙をくれている分彼は本当に発狂しなければ良い人なのだろうと思う。
きっと、直接会って正常な彼と話せば自分の中の恐怖も消えるんじゃないか。
この時の俺は自分の心の傷の深さを理解しきれていなかった。
とりあえずチェキータはさっきまでのどんより不安そうな表情からは一変して、なんとかして俺の力になろうと覚悟しているポジティブな顔に変わっていた。
チェキータには笑っていてほしい。
自分の過去のことに巻き込むのは心苦しいが、きっとチェキータは蚊帳の外の方が嫌うはずだ。
「あ、でも面会するときは外で待っててくれよ?」
「エェ!?あぁ、でも、そうっすよね……聞かれたくないこととか、ありますよね」
「ンー…うん、そんなとこ。正直俺が取り乱す可能性って低くはないし、あんまカッコ悪いとこ見せたくないからさ……」
「先輩がそう言うなら……え、病院まではついていけるんすよね!?家でお留守番とかイヤっすよ俺!!!!!」
「た、たぶん…!待合室とかあるだろうし…!知らないけど!その辺も聞いとくから!」
「頼みますよほんとに!!!!!!!!」
こうなったら何がなんでも限界まで近くで待機している気だな。
チェキータの気合いが入った前のめりなお願いに笑いつつ、手紙の入った封筒は丁寧に仕事カバンにしまっておいた。
「よし、じゃあ今日も頑張りますか」
「うお〜!何も起きないでほしい!!!!!」
「それはそうなんだよな……」
警察の仕事は暇なのが一番である。
*
三日後、某病院にて。
ことのあらましとその時の素直な自分の感情の機微を事細かにカウンセラーに話したところ「あなたがそう言うのであれば試してみる価値はある」という判断でカウンセラー立ち合いの元、出所して今は一般市民に戻った彼と面会をすることになった。
診察室を出て、ポケットからスマートフォンを取り出してメッセージアプリを開く。
チェキータに『面会することに決まった』『細かいことは後で話す』とだけ送って、さっさとチェキータが不安げに待っている俺の家に帰ることにした。
スマホをポケットにしまおうとした時にヴーッヴーッとバイブレーションの音が鳴り『先輩早く帰ってきて』という真剣なメッセージと共に涙目のキャラクターのスタンプが送られていた。
見て既読をつけてしまったからには返事をしないとさらに心配させてしまいそうなので『まっすぐ帰るよ』
と短く返信をして、今度こそポケットにスマホをしまった。
「ただいまー」と自宅のドアを開けると同時に鳩尾の辺りにドゥムッと衝撃を喰らう。
大砲の球のように飛んできたのはもちろん自宅待機していたチェキータその人である。
「おかえりなさいっす!病院、どうでした……?」
「そんな顔しなくてもいいよ。とりあえず会うのは決まった。相手にはカウンセラーから連絡してもらう形で日取りは追々決めるよ」
「そうなんすね、わかったっす。あーでも心配したー!!!!!!!」
「面会当日ならまだしも、今日は特に心配要素ないだろ……」
「だって、キリオ先輩ってなんかしれっと大事なこと隠すもん。言ってくれないときある……」
否定はできない。
隠すというか、わざわば言う必要もないかなと思ってるだけなんだけれど、それがチェキータに心配という不安の種を植え付けてしまうことは最近理解した。
「今日あったことはいま大体言ったよ。まあやっぱり面会は緊張するけど、何か変わるかもしれないし」
「……」
鳩尾に突き刺さったままの頭をポンポンと撫でてやれば、チェキータはぐずった子どものようにぐりぐりと頭を数回擦り付けてからようやく顔を上げてくれた。
「さて、チェキータは昼飯食ったか?」
「先輩のことが心配で心配でメシなんか喉通らないっすよ!!!!もう!!!!!」
「ンな大袈裟な……じゃあ今からなんか軽く作るか。サンドイッチでいい?」
「肉いっぱい入れて!!!!」
「サラミしかない。あとチーズとレタス、キャベツ、トマト」
チーズ以降の食材の名前を聞いた途端にチェキータの顔がシワだらけになる。
彼の野菜嫌いは相当なもので、逆ヴィーガンと言っても過言ではない。
別に野菜に温情をかけているわけではないから、逆ベジタリアンの方が適切かもしれない。
むしろ野菜にやたら厳しい。
適度に摂取する食物繊維は健康維持に大切だと言っても聞く耳も持ちすらしない。
「サラミとチーズで良いっす」
「“で良い”…?聞き間違いかなァ……」
「サラミとチーズだけが良いっす!!!!!!!!!!!」
「まったくさあ、野菜も食べろよな……冷蔵庫の肉と野菜の減り方がバランス狂うんだよ」
チェキータはシマウマの獣人なのに肉が大好きで大食いなので、肉の減り方が尋常ではない。
俺が草食動物なのかってくらい、冷蔵庫には野菜が残りがちだ。美味いから良いけど。
チェキータがいかに野菜を食わなくても生きていけるかを力説しているのを右から左へ聞き流して、俺はテキトーに相槌を打ちながら、食パンを切りサラミとチーズを山盛りにしたものと、余った野菜をギリギリまで詰め込んだ肉3割野菜7割みたいになったサンドイッチを完成させた。
なんか俺の分肉少なくないか?
「ほらよ、野菜抜き肉とチーズマシマシ」
「わーい!キリオ先輩と肉大好き♡」
「そこ同列なの?」
「必要不可欠という点では…????」
「そう……」
そう言われると悪い気はしない。
なんだか丸め込まれたような気分になりつつも、テーブルに座るチェキータに皿を渡して、俺は少し行儀が悪いがキッチンの天板に体重を預ける形で食べ始める。
「あ、飲み物忘れた。チェキータ、ミニ冷蔵庫からコーラとって」
「俺も飲む!!」
「お好きにどーぞ」
もとより、肉の次にコーラが好きなチェキータのために箱で買っておいたコーラ缶を入れておくためだけのミニ冷蔵庫だ。
通りすがりのガレージセールで三千ラル。
どうやら売り主は引っ越しが急に決まったらしく、ほぼ新品同様だがステッカーが貼ってあるからという理由で某通販サイトの半額以下になっていたからつい買ってしまった。
小さい缶が六本しか入らないミニ冷蔵庫だが、チェキータの血液といっても差し支えないコーラだけを冷やしている冷蔵庫なので、チェキータからは愛情を注がれてなんだか真っ赤なステッカーにまみれている。
テキトーに貼っているように見えて、案外オシャレになっているからチェキータのセンスはすごい……んだと思う。
チェキータから渡された缶を開けて、ゴクゴクと甘味の強い炭酸をあおる。
一口齧ったサンドイッチに持っていかれた口の中の水分を一気に回収した気分だった。
無自覚だったが、病院にいた時から喉が渇いていたのだろう。結構な勢いで飲んでしまった。
やはり面会の件は自分でも気がつかないくらい心の奥底では緊張しているのだろうか。
この話はたぶん考え始めると無限に考えては○○かもしれない、に苛まれるタイプのやつなので、一旦日取りが決まるまでは脳みその隅っこに追いやっておく。
「チェキータ、午後どうする?」
「気分転換にワンオンワンどっすか?」
「お、良いな。今日天気いいし」
「じゃあ決まりっすね!」
「負けた方が晩飯奢りな」
「ウオォッぜってー勝つッ!!!」
これもチェキータなりの気の使い方なのだろう。
身体を動かして楽しいことをすればきっとすぐ平気になる。
もしかしたらチェキータは本当にただ俺とバスケがしたかっただけかもしれないけれど、今の俺にはその“いつも通り”の姿が心地よかった。
*
面会当日。
俺は重い足取りをチェキータに支えられながら、通院している病院に向かった。
「先輩、大丈夫……じゃないっすよね、手とか繋ぐ…?」
「うん……」
病院のロビーですれ違う先祖返りの獣人を視線で追っては、彼ではないことに安心するのを繰り返して、チェキータの言葉には生返事を返した。
ぎゅっと俺の左手が、一回り小さいけれどがっしりとした温かい手に包まれる。
渇いたチェキータの手に触れて、ようやく自分が手汗をかいていたことに気がついた。
一度離して、雑にズボンで手汗を拭ってから繋ぎ直す。この際周りにどう見られていようがどうでも良い。
きっと不躾な視線は先祖返り獣人には不愉快だろうが、サングラス越しなので、相手が気がついていないのを祈るばかりだ。
普段はここまで神経質ではないのに今日だけはどうしてもダメだった。
カウンセリングの待合室に向かい、受付に内容を伝えれば、カウンセラーが俺とチェキータ用に部屋を用意してくれたらしいので、案内について行く。
カウンセリングのフロアは先ほどのロビーに比べて格段に人は減り、主にすれ違うのは看護師ばかりになって少し気分も落ち着いた。
白いリノリウムの床をスニーカーがキュッと擦る音が響く。
何度も訪れている施設なのに、今日ばかりは見知らぬ場所に感じてしまう。
ちらりと横並びで歩くチェキータを見れば、俺に負けず劣らず緊張した表情をしていて、その顔に少し笑みが溢れる。
「チェキータ、俺より緊張してないか?」
「キリオ先輩ほどじゃないっすけど、緊張しますよ……だって、トラウマの相手でしょ……?何があるかわからないし……」
「んー…まあな……」
他の患者の迷惑にならないように小さめな声で話していれば、案内してくれた看護師が「こちらでお待ちください」ととある一室のドアを開ける。
ドアの反対側、正面の壁には小さい窓があり、ローテーブルとソファセットが置いてある部屋だった。壁には小さなキャンバスの風景画が飾られている。
描かれているのは海中のようだった。
俺はとりあえずチェキータと繋いでいた手を離し、ソファに腰を下ろす。
チェキータは窓の外を軽く眺めたあと、隣に座った。
「大体一時間の予定だけど、長くなるかもしれないし、短くなるかもしれない。といっても枠は決まってるから最長一時間半だよ」
「一時間半も待つの、しんどいよ…でも、先輩が後悔しないように話してきて欲しい……」
「うん、もちろんそのつもり。良い子で待ってろよ」
「一時間半待って帰ってこなかったら暴れちゃうかも」
「それは困るな……」
安心させるようにチェキータの頭を撫でてやると、不思議と自分の緊張も和らいだ気がした。
ぺにょ…と垂れたチェキータの耳を見て本当に心配性だな、と思っていたところにノックの音と「オルブライトさん、応接室へどうぞ」と呼び出しの声がする。
チェキータの頭を撫でる手を止めた途端、やはり緊張は戻ってくる。
「じゃあ、行ってくる」
「早く帰ってきてね…」
「わかってるよ」
すでにソワソワと落ち着かない様子のチェキータに後ろ髪をひかれつつ、引き続き案内に従い、応接室へ向かった。
*
時刻はきっかり一時間半後。
俺は少し早足で来た道を戻り、チェキータの待つ部屋のドアを開けた。
あと一歩踏み出していれば確実にぶつかっていたであろう位置に、チェキータはいた。
「うぉっ……」
「せんぱぁい……どうだった……?」
今にも泣き出しそうな、迷子になった子供みたいな顔をしたチェキータを見たら、なんとか保っていた感情は栓を抜いたように溢れ出した。
答えるよりも先に、自分の代わりに泣きそうなチェキータをカタカタと震える手で抱きしめる。
「…許して、あげられなかった」
「うん…」
「謝られても、獣人の発狂なんて制御できないし仕方ないと思ってたけど、いざされてみたら相手が謝罪して反省するという責任を果たして、気が楽になりたいだけなんじゃないか…って、思っちゃって……」
彼は、すごく誠実な人間だった。
感情任せややたらめったらに謝るのではなく、俺とは一定の距離を保ったまま不用意に近づいたり触れたりせず、俺より高い位置にあった頭をできる限り低く下げて、本当に心から謝ってくれていた。
俺を傷つけてしまったけれど、殺人犯にならずに済んだ。
妻と娘を“殺人犯の妻と娘”にせずに済んだ。
本当にありがとう、そして大変申し訳ないことをしたと謝ってくれた。
それなのに、俺は、どうしてか、許してあげられなかった。
「発狂なんて避けられないから仕方ないって、踏ん反り返ってる奴よりよっぽど立派なのにな…」
「うん……」
彼は出所した後、しばらくしてちゃんとした職を見つけられたらしい。社長にも詳しく話して、理解してもらった上での雇用で上手くいっている、それも俺のおかげだと。
恵まれた体躯と獣人の力は求められる場所では求められる。彼が再び家族を養う術を手に入れられたのは良かったと思う。
しかし、驚いたのは彼の年季の入ってくたびれた鞄から分厚い茶封筒が出てきて机に置かれたことだ。
誰が見てもお金が入ったそれを、彼は俺の方にずい、と差し出した。
五十万ラル入っているから、いままでにかかった費用を賄う気持ちとして受け取ってくれと言うのだ。
大金を得たことに嬉しさなんてカケラもなかった。ただ、驚いて、無性に胸の奥がムカムカした。
彼が本当に真面目で誠実な人間であることは十分理解しているのに、全てが俺に許しを乞うための行動に見えて仕方なかった。
獣人、特に先祖返りは未だ差別する者も多く、定職につけるだけでも良い方と言われている。
どれだけの大企業でも人間、獣人、先祖返り獣人ならまっさきにクビを切られるのは先祖返り獣人だ。
そんな彼が、下町の工場で五十万ラルという大金を稼ぐのはどれだけ時間がかかって、どれだけ大変だったことだろうか。
その苦労は理解しているつもりだし、それを俺にいままでにかかった費用を負担すると差し出してくる人格を考えると許すべきだと、頭では理解していた。
だからこそ、受け取ることはできなかった。
彼は何度も気にしなくて良いと言ってくれたが「その金は家族に使うか、それでなければ獣人支援団体に寄付してください」といえば引き下がってくれた。
「……ただ、あの人律儀でさ!自分のせいで病院にかかってるからって、このくらいの封筒に『全然足りないけど』って五十万ラルくらい…渡してきて…そんな大金、受け取れるわけないのに……」
「ゔん………」
「でも許せなかった。あそこまで誠意を見せて謝っても許してもらえないって、獣人って本当に大変だな……」
もはや他人事のように呟いて、ソファに深く腰掛けた。
仕事の十倍くらいの疲労がドッと押し寄せてきたような疲れが今になって回ってきた。
チェキータも俺の横にちょこんと座る。
よくよく考えたらチェキータは先祖返りではないとはいえ、獣人である以上発狂はついて回る。
発狂にもおおまかに二種類あり、周りに加害するタイプと、自傷に走るタイプに分かれる。
詳細まで分けようとすると個人差のレベルだが、こんなことをチェキータに話しても明日は我が身かと怯えてしまうかもしれない。
自分でも抗えない本能的な行動で他人を傷つけてしまう可能性があるなんて、俺だったら耐えられないかもしれない。
そう思うとチェキータをはじめとした獣人の人たちはみんな強い。
そのままチェキータの方に倒れるように横になり、重たいだろうけどチェキータの膝を勝手に借りた。
「………無理に、許す必要ないと思いますよ。あんま、慰めにならないかもっすけど…」
横に向いていた体を仰向けにして、下から見上げたチェキータの瞳には涙の幕が張っていて、照明の光をキラキラ反射していた。
チェキータは感受性が豊かだなとか、共感力が強いとか、優しいなとか、泣かなくて良いぞとか、いろいろ言いたいことはあったが、口は動かなかった。
ただ、その代わり下から手を伸ばして、そのまろい頬を優しく撫でた。
「一つ、わかったことがあるんだ。俺は『誠心誠意謝ってくれたらどんな相手でも許せる“善い人間”』だと思ってたけど、違ったんだ。その理想と現実とのギャップに、ちょっと傷ついてる。チェキータは十分、慰めになってるよ」
チェキータは何か言おうとして、丁寧に言葉を探しては見つからなくて、はくはくと口を動かしたあと、一言「よかった」と呟いて、静かに口を閉じて、上半身で俺を覆い隠すように俺を抱きしめた。
「しばらく休んでて良いか?疲れちゃって……」
「…ぜんぜん、げんきになるまでずっとねてていいっすよ」
「ん、お言葉に甘えて」
目を閉じても、浮かんでくるのは必死に俺に許されようと謝罪をする彼の姿だ。
決して無理矢理ではなかった。強引に俺に許されようと、許させようとしたわけではない。
彼にできるすべての気遣いをした上での精一杯の謝罪も、受け取り手が“こう”では届かないのだ。
誰かを傷つけるとはそういうことなんだろう。
獣人の発狂はかくも世知辛いものなのか。
どこぞの製薬会社が発狂抑制剤を研究しているらしいが、本能を抑えるのは難しい。
人間には発狂は起こり得ないから、理解を示すことはできても、根本的な部分では分かり合えない。だから、恐怖から差別が生まれるのだ。
もしあの日、俺が休日ではなくて、銃を携帯していて、もっとちゃんとした判断ができていたら、彼に刑罰を処すことなく場を鎮圧できたのだろうか。
休んでて良いかと聞いてからどれだけ経ったのかわからない。そういえば一時間半が経ってから時計というものを確認していなかった。
窓から見える景色から、夕方であることだけは察せられる。
「……チェキータ、やっぱ静かにしてるとダメかも。帰ろうか」
「…わかったっす」
「そんな顔しなくてももう大丈夫だよ、ありがとな」
「どういたしまして!でも先輩は今日世界一頑張った!キリオ先輩が世界一頑張ってる、まぁーじで頑張ってる……」
チェキータは起き上がった俺をもう一回正面からギュッと抱きしめて、頑張ったと褒めて頭を撫でてくれた。
俺を励まして、手を離したチェキータはもうかなりいつも通りに戻っていた。
いや、多分、いつも通りに戻したのだろうが、やはりそのいつも通りが俺の安心につながっている。
一体今は何時なのかとスマホを出そうとして、ポケットを探った手にぶつかった紙きれを取り出した。
「あ。そうだった……チェキータ、今日はちょっと贅沢飯して帰るか。何が良い?やっぱ肉?」
「んぇ、嬉しいっすけど…なんで?」
「実は、無理矢理握らされたんだ。少しだけでも受け取ってくれって」
くしゃくしゃになった一万ラル紙幣を三枚、可能な限りシワを伸ばして、チェキータに手渡す。
彼にどうしても、このくらいだけは、と懇願されて受け取ったが、正直このお金はあまりずっと持っていたくなかった。
だから外食でぱーっと使ってしまおうと思った。
チェキータを元気付けるには肉が一番良いし、チェキータには笑っていてほしい。
「じゃあ、キリオ先輩の好きな料理食べましょうよ、美味しいの食べて、おなかいっぱいなって、帰って映画でも観ません?」
「ん、じゃあそうしよっかな。でも…そうだな……」
外食をするつもりだったが、よくよく考えれば今日の精神状況で人が集まる飲食店で落ち着いて飯を食えるとは思えなかった。
きっと周囲の獣人が気になって、チェキータにも心配をかけるし、美味しい肉もゴムのように感じてしまうだろう。
それは勿体無い。
「外食のつもりだったけど……自分人が多いの落ち着かないから、美味いピザでもテイクアウトして家でコーラとピザで映画見ながら夕飯にしようか」
「お、いいっすねぇピザパーティーだ!!!」
わーい!と子供のように喜んで見せるチェキータに釣られて自分にも自然と笑みが戻る。
やはり俺は静かにしているより、にぎやかな方が気がまぎれるらしい。
「コンビニ寄ってポップコーンとかドーナツとかアイスも買おう、今日はカロリーとか気にしない!」
「わはーッ!!良いんすかそんな贅沢!?でも今日は先輩は世界一頑張ったからな〜!許されちゃうか〜!!!!」
「世界一か、ハハ!世界一ならサイドメニューのポテトもフライドチキンも食べて良いな!」
最近は面会のことで胃の調子が良くなかったので油物やカフェインは避けていたため、久しぶりの油とカロリーの暴力に少し気分が上向いた。
サクサクカリカリのポテトとふわふわでジューシーなフライドチキン。メインのピザはチェキータと相談して決めたい。
「ソースたぁーっぷり付けて食べていいし〜コーラはいっちゃんでかいサイズでも良いし〜ピザのトッピング全部のせても良い!」
「スゲー贅沢してる気分になるな、ピザ屋で豪遊するのって結構ワクワクする。地味にやったことなかったよ」
なんとなく、チェキータは意図的にテンションを上げてくれているのは察知できた。それが意図的であれ、なんであれ俺の助けになっていることには変わりない。
彼との面会はいまだ記憶にしっかりと刻み込まれているけれど、チェキータの言う通り無理に許す必要はないのだと思うことができた。
それよりもどこのピザ屋で何のピザを何枚頼むかの方が大事な考え事になっている。
「よし、じゃあ行こうか。待っててくれてありがとなチェキータ」
「いつでも待ちますよ、先輩のためなら」
チェキータはニコ!と微笑んでピザや映画、コーラ、カロリー爆弾とこれから俺たちが享受する贅沢の数々を独特なメロディに乗せながら軽くスキップしていた。
その耳はもう垂れてはおらず、尻尾もいつも通りになっていて、俺はようやく何かから解放された気がした。
病院は傾いた日が変に差し込んで、やや薄暗いはずなのにやたらと明るく見えた。
夕方で人気のない院内は不気味に感じてもおかしくなかったが「早くいきましょーよ!」と俺の手を引っ張るチェキータのおかげか、そんなことは気にならなかった。
来た時とは違う軽い足取りで病院を出て、とりあえずピザ屋の密集している繁華街の方向へと歩いていく。
沈みゆくオレンジ色の夕日が眩しくて、そういえばサングラスを外していたことを思い出す。
そんなことすら忘れていた。
チェキータはニコニコと俺に話しかけ続けてくれる。
「映画は?何見るんすか?」
「んー…そうだなあ、特にないから、今日はチェキータが映画選んでくれよ」
今日はヒーローものを見る気分にはなれなかった。やっぱり俺はヒーローにはなれなくて、フィクションだと分かりつつもそのフィクションの完璧な存在と比べて陰鬱な気持ちになってしまいそうだったから。
「お、いんすか〜?俺のオススメ見ます〜?えっとね〜」
チェキータは様々な映画のタイトルをあげて、それに俺は「いいね、名前は聞いたことある」「悪くないけどちょっと違うかも」「それは見たことある」などとコメントして、さらに厳選をかけた結果、有名な恐竜映画を見ることにした。
その後もピザ屋で豪遊を目的として歩き始め俺たちの会話は途切れることなく、見たことある映画に加えて子供の頃に怖かった映画や、これから有名だけど見たことない映画を見る会を開催しようなど、チェキータのおかげでかなり前向きに、精神的にも深く沈み込みすぎることなく今日の出来事を消化できたと思う。
今日の面会は俺にとってポジティブな思い出になったとは言い難いが、苦々しくも自分のことを見つめ直す良い機会にはなった。
俺の先祖返り獣人への恐怖心は消えないけれど、少なくとも彼が本当の悪人ではなかったことに安堵した自分もいる。
彼のことは許せなくても、彼とその家族の生活を守れたことを「よかった」と思える自分もいる。
そして何より同僚として、恋人として、人種の違う人としていろんな角度から支えてくれるチェキータがいるタイミングだったことに何より助けられたかもしれない。