変化するもの3冬の国の上空数十メートル。
箒に乗って飛ぶ魔法使い二人が白い雪原に影を落としていた。
今日は生憎天気が悪く、日光はほとんどないに等しい。
ごうごうと吹く強風により叩きつけるような豪雪に加えてこれでもかと雷まで鳴っている。
視界はとっくにホワイトアウトしていた。
この状態でなぜ目的地まで進めているのかって?
私の記憶と方向感覚頼りに進んでいるから。
それにしてもあまりにも見えないな、と周囲を見回していると後ろからもはや叫び声に近い声量で声がかかる。
風がすごいから当たり前と言えば当たり前だ。
「リァンさん!!!この悪天候で進むのは自殺行為に等しいと思うんだが!?」
「この程度の雪中進行なら死にませんよ」
「言い方を変えるよ!!!俺が死にそうだから考え直してもらえないかい!!!!!!」
「自分からついてくると豪語したくせに軟弱ですね。仕方ない、南下すれば街があるはずですから宿でも探しましょう」
「た、助かったよ……」
渋々進路を南に変え、目的地までまっすぐ飛んでいたはずの私達は一度宿泊のために街へ降り立つことにした。
よくよく考えれば、メネラの魔力量では体温調節の魔法と視界の確保、防護壁、箒での飛行を同時に行うと魔力の消耗が激しく回復が追いつかないということを失念していた。
南の方に行くにつれて風と雪は徐々におさまっていき、さらに進めばチラホラと家の明かりが見え始める。
冬の国ではあまりに小さい村には宿はない。
少し遠いが、もう少し進めば見える大きめの街を目指して進む。
「この先の大きそうな街で休みましょう」
「それって後どのぐらいかかるんだい?」
「フルスピードなら10分程度じゃないでしょうか」
「ってことはあと20分ほどか。頑張るよ」
「鈍行で行けと」
今メネラに無理をさせても無駄に休む期間が伸びて宿泊日数が増えるだけだ。
私は冬の国の寒さには慣れているし、後20分程度たいしたことはない。
縦に二人並んで先導していた形から、横に並ぶように並列での飛行に切り替えた。
私の背中ばかりを追っていたメネラは、横に並んで少し目があっただけで嬉しそうに顔を緩めた。
*
数週間前。
雨の降っていた日だったと記憶している。
メネラが用意した紅茶とクッキーをテーブルに置いて一息つこうとしていた。
「なんで冬の国に行こうと決めたんだい?」
「所用で」
「所用って?」
しつこい。こういう時は大概全部話すまで解放されないパターンだ。最初から全て話してほしいと言えば良いのに。
私はテーブルの下でなんとなく足を組んだ。
「父の遺骨を探しに行きます。帰宅は…あー、何年後に戻るかは全く想像がつきません」
「いつ帰るかわからないのなら俺も行くよ」
帰宅が半年後だとしても絶対についてくる気だっただろうに。
私は紅茶で喉を潤し、ため息と頬杖をつく。
「正直1400年も前に雑に埋めた骨です。普通に考えて実物が残っているわけがないので、目印にと植えた植物でも見つかれば御の字程度なんですよ。特別危険な旅でもないし、面白くもない。貴方を付き合わせるほどではないんです」
「俺は意味とか必要とか関係なく、リァンさんと一緒にいたいだけだよ。それにリァンさんのことはなんでも知りたいしね」
「貴方、図太くなりましたね。いや、昔からか……どうせ良いと言うまで粘るのでしょう?」
「だってもし置いていかれたら、今度は俺が寂しくなってしまうよ」
そう言われると今の私は言い返す言葉を持っていない。
私が黙ったことで、メネラの同行が決定した。
私が彼と結婚の際に交わした呪いで差し出した父の遺骨は、指の骨を一本だけ持って来たのをひたすらに保護魔法をかけ続けて劣化しないようにしていたから無事だっただけで、本当に骨がそのまま残っているとは微塵も思っていない。本当についてきても何もないのに。
「面白さとかは期待しないでくださいよ」
「わかってるよ、俺のわがままだし」
「しょうがないですねぇ……出立は1週間後の朝を予定しています。それまでに間に合うよう荷造りしてください」
「もちろんさ。ティノはレイデに預けていくよ」
あのメガネの奥の目が嫌そうに歪むのが想像に容易い。きっとティノの世話には手を焼くことだろう。
そうして準備に時間を費やしていれば1週間はあっという間だった。
ワルプルギスの森から冬の国まではさして遠くないが、目的地までは冬の国の極寒の地を箒で直走る必要があるため、防寒をはじめとしたさまざまな対策は必要になる。
「いつでもいけるよ」
「では出発します」
ワルプルギスの森を抜けて国境を越え、冬の国に入った途端その名の通り冬の厳しい寒さと雪がその身を襲う。
冬の国でも街の中心部ではこんなに降雪も酷くはないのだろうが、森の方角から出て来ている以上覚悟はしていたが思っていたより荒れている。
「雪がひどいですが進めないほどではありませんね。進めるところまで進んで、無理そうであれば宿屋を探しましょう」
「しばらくして止むと良いね」
「多分止まないでしょうね…」
かくして私達は朝から箒に乗り続け、西の方角を目指していた。そして冒頭につながるのである。
進めば進むほど酷さを増す悪天候に体力と魔力を持っていかれてこのザマだ。
鈍行で20分ゆるゆると走り続け、なんとか大きな街に降り立った。
「そうか、ニッグスタウンがあった」
「し、知ってて南下したんじゃなかったのかい!?」
「いえ?大きい街が見えたのでそこで良いかと思って舵を切っていただけです」
「ニッグスタウンがあってよかったよ……」
いつぞやのクリスマスの時にニルルと回った覚えがある。確かにメネラが根を上げたあたりから南下すればニッグスタウンが目と鼻の先だった。
「貴方こそ理解していてあのポイントで提案したのではなかったのですか?」
「全くそれどころじゃなかったよ…」
「じゃあ運が良い。ニッグスタウンなら宿屋も飯屋も選び放題ですよ。どこにしますか?」
ニッグスタウンに入る手前で箒から飛び降り、空間収納にしまって人間に扮する厚着の服に着替える。
人間に紛れる必要などないと思ったのだが、冬の国には色々と因縁があるので厄介ごとを起こされてタイムロスはしたくなかった。
メネラも同じように着替え、街に入って宿屋を探す。
「あそこなんてどうだい?大きくて繁盛してそうだ。街の大通りに面してるし、便利そうじゃないかな?」
「あそこは立地とキャパシティでイベントごとの際に観光客をごっそり入れるスタイルなので閑散期の今なら確かに空いているでしょうね。でも確か寝具が私には硬すぎる」
「詳しいね」
「いつぞや貴方の弟にジャックフロスト狩りに駆り出された際に泊まりました。体を休めようにもベッドが安物で、まさに安かろう悪かろうの権化のような宿屋でしたね。それに食事もイマイチ」
「じゃあ……」
メネラは大きな宿屋は諦めて他の宿屋を探して歩く。それについていく形で私も街中を観察する。
冬季ではないため、比較的雪は少ないが積もっている形跡はある。大通りは飲食店や商店、宿屋が協力して除雪しているのだろう。
歩きやすく道が整頓されている。
イベントの時期ではないため、長期にわたって店を閉めている店舗もちらほら見受けられる。
もう少し中央に行けばやっている店も多いだろうか。
「あのお洒落な新築っぽい宿は?」
「恐らく民宿をリフォームしたものですね。前回見た時はあんな外観ではなかったはず。見た目は綺麗でもトイレやバスルームなど水回りが気になるところです」
「やっぱり詳しいね。俺じゃそういうのはわからないし、リァンさんが決めてくれないかい?」
「ではあの赤色の屋根の宿屋にしましょう」
「あそこも泊まったことあるのかい?」
「いいえ?泊まったことがないので泊まってみるのです」
「色々気にする割にチャレンジ精神強いね、そういうのも良いと思うよ」
数時間ぶりに雪に覆われてない煉瓦道を歩き、赤い屋根の宿の玄関扉をくぐると妙齢の女性が出迎えてくれる。
「あら、いらっしゃい」
「宿泊を2名、ツインで」
「今ならシングル二部屋もダブルも空いてるよ?」
「ツインで結構」
「はいよ」
「連泊の可能性も考えているのですが」
「構いやしないよ。どうせこの時期は外から人なんて入ってこないし」
私たちは人間ではないと見抜かれているのだろうか。閑散期だから、という意味なのは百も承知だが。
女性は宿帳を差し出し、名前を記入するように求める。ペンと宿帳を受け取り、滑らかに澱みなく偽名を記載していく。
メネラに渡す際に、本名を書くなと目配せをしたが紙面を見るに伝わったらしい。
「リード・ワイズミュラーさんと、メドニス・ワイズミュラー……なんだ、アンタたち夫夫かい!」
「えっ?」
「そうなんだよ、この前結婚したばかりでね」
そうなんだよ、じゃないが。
何を勝手にニコニコと同姓を名乗っているんだ、と思ったがそういえば結婚していたんだった。
それに私の虜囚としての身分を隠すなら結婚している方が都合が良いかもしれない。
でもその後の情報はいらないだろう。完全に女性の興味関心を惹きつけている。
興味関心を惹かないために偽名を名乗っているのに。
「へえ、じゃあこれは新婚旅行ってワケかい?」
「いいや、彼のお父さんに挨拶に行くためにね」
「ちょっと!!」
「それでこんな悪天候の中来たのかい、ご苦労なこって!それなのにこんな寂れた宿屋のツインで良いのかい?」
「彼がここにすると言ったから…寂れてるのかい?」
「新婚って聞いちゃあ普通の部屋じゃ可哀想だね、客も少ないし普通の値段で一番いい部屋貸してあげるよ。ただし、汚さないでくれよ」
「ははは、肝に銘じておくよ!」
私の待ったは完全に無視され、急に機嫌が良くなった女性に促されあれよあれよと四階建ての宿の最上階に案内された。
あの女性もよくこんな野郎二人にサービスする気になったものだ。メネラの話術のおかげなのだろうか。
まあ訂正する必要がないどころか助かる申し出ではあったのでそのまま乗っかっておく。
チップは少し弾んでおいた。
客室の中は最上階なだけあって広く、ドアの一直線上には二重構造になった窓が設置されていた。側にはテーブルと椅子が配置されている様子から、恐らくイベント時期はここに座るといい感じにイルミネーションが見えるのだろう。
ラグの上に荷物を置き、簡単に室内の設備を確認していく。
リビングルームにはL字型のソファとローテーブル、窓際には先ほどのテーブルと椅子が配置されている。
右手には寝室、左手には水回りが設置されているようだ。
お前にバストイレ別と来た。これで通常のツインと同じ値段は破格だ。
心配していたトイレやバスルームの蛇口も凍っておらず、水垢も殆どない。おいてあるタオル類にもシワやヨレがなく、防寒もしっかりしている。
全体的に非常に綺麗だ。
「シャワーカーテンのカビくらいは覚悟していましたが、思わぬ収穫ですね……珍しくあたり宿でした」
「水回りのカビは気になるよね。確かに、すごく綺麗にされてる。おまけにベッドも広いよ」
「へえ」
どれ、とその辺に置いた荷物を持ち寝室に向かうと真ん中にキングサイズはありそうなベッドが一台、ドンと鎮座していた。
「ツインって言ったのに!」
「まあまあ、すごく良い部屋にしてくれたんだし……新婚って言ったから気をきかせてくれたんだよきっと」
要らぬことを、と言いたかったが今となってはメネラと同じベッドで寝ることもさして珍しくはなくなった。
そこまで嫌がる必要もないのだった、と口に出してから気がついた。
汚すなと言っていたのはそういうことか、と納得すらした。
「汚すようなことしないでくださいよ」
「流石に弁えてるよ」
「どうだか」
「……どこまでなら良い?」
「ハグ」
キスもだめ!?と文句を垂れているメネラをよそに、荷物を片付けて貴重品のみを持ち外出の準備をする。
この雪では店を早仕舞いする飲食店もあるだろう。もうすでに時間は19時に差し掛かっていた。
メネラは慌てて同じように支度をしてついてくる。
「夕食の場所は貴方に任せます」
「リァンさんは何食べたい?」
「リード」
「え?」
「偽名、この宿の中くらいそう呼んでもらわないと困ります」
「あ、ああ……確かに。じゃあ、リードさんは何食べたい?」
「魚」
「即答するね。冬の国ならサーモンかタラかなあ」
偽名を使っていることで普段と違う特別感を感じたのか、メネラの口角が嬉しそうに上がる。
サバ、ニシン、クジラと一匹哺乳類を交えながら、魚の種類を楽しそうに挙げている。
「ニシンはハズレが多いのであまり好きません」
「そうか、じゃあニシンはなしだね」
「それと、クジラは哺乳類で魚ではありません」
「クジラもなしか」
「いえ、ありです。気になったので訂正しただけです。クジラ肉が食べられるならそこが良いですね」
「一箇所知ってるよ、行ってみようか!開店してて、クジラ肉があると良いんだが…」
まあ行ってみてなければ諦めよう。
部屋の鍵を閉め、受付に戻っていた先ほどの女性に手渡す。
「とても良い部屋をありがとうございます。出かけてきますので鍵を」
「どういたしまして。夕食かい?」
「そうなんだ、この通りの3ブロック先を少し左に曲がったレストランってまだやってるかい?」
「3ブロック先……ああ、やってるやってる。行って来なよ」
「ありがとう」
なんだ、メネラも結構詳しいんじゃないか。
旅先の食に関してはあまりこだわりがなかったため、目についた店に入っていたからどこが美味しかったなどをあまり覚えていない。
対するメネラは逆に飲食店の方が知っているようだった。
そういえば冬の国に自分の事業の店舗兼住居があるんだったか。それなら大きな街に飲み食いするためだけに出かけるなどもあり得るのだろう。
外に出て小粒の雪が降っているのをみながらほう、と白い息を吐く。
フードをかぶって、マフラーに鼻先まで顔を突っ込む。
メネラが「行こう」と手を引っ張って目的地のレストランまで連れて行こうとする。
「手を引っ張らなくても迷子になりませんよ。どこかのおチビさんとは違って」
「それ、ニルルさんのことかい?彼女なら迷子になっても平気そうだけどね。じゃなくて、手を繋ぎたいんだって」
「新婚だから?」
「新婚だから」
軽く周囲に目をやっても、この周囲で店を出している地元民程度しか目につかない。外に出ている人間が少ないからこちらに目をやりはするものの、すぐに興味をなくして各々の生活に勤しんでいる。
大きな街とはいえ、どこに何が潜んでいるかわからないと思っていたが、このぐらいの人の少なさなら手を繋ぐぐらい良いのかもしれない。
私は振り払うことなく、レストランに着くまでメネラの温かい右手に私の冷たい左手を預けたままでいた。
*
結果としてクジラ肉はあった。
むしろ魚は不漁だったが捕鯨船は大収穫だったらしい。
ステーキと油で揚げたフライに近いものを出してもらったが、どちらもおいしかった。
時間も進み気温はますます下がる一方だが、酒を飲んだのと胃を満たしたことで行きよりは寒さを感じずに済んだ気がする。
宿屋の客室に戻り、空間収納からいつも屋敷で着ている寝巻きとガウンを取り出す。
ここは宿屋に備え付けられている寝巻きもあるが、圧倒的に備え付けられていない宿の方が多いので長期間出かける際は空間収納に入れている。
「あれ、いつもの着るの?もう寝る?」
「あまり宿屋の寝巻きを信用していないので。もう少し腹が慣れたらシャワーを浴びて寝ますよ」
「そうなんだ、用意が良いね。俺はリァンさんが…リードさんがシャワー入るまで待ってるね」
客室にいる時くらいは本名でも構わないが、私が宿屋にいるときは偽名を呼べと言いつけたので黙っておく。なんとなく彼は偽名を気に入っているようだし。
「貴方は防寒魔法も薄れかかってて冷えてるんですから、早く湯船を溜めて入った方が良いですよ」
「一番風呂じゃなくても気にならないかい?」
「ええ、大丈夫ですから」
「それならお言葉に甘えて。リードさんも待ってる間冷えないようにね」
気にするな、と手を振ってバスルームに向かうメネラを見送った。
190cmの体格ではいくら最上階の広い客室とはいえ通常の規格で作られていては狭いだろう。
私は再び空間収納から読んでいる途中の本を取り出して、続きのページを開いてメネラを待った。
40ページほど読み進めた頃、メネラがバスルームから戻って来た。時間にしておよそ20分ほどだろうか。
乾かされているものの、少し湿気を含んだ前髪を邪魔にならないように分けている様はいつもより幼く見えた。
前髪を上げると弟と似てるな、と思ったのは顔にすら出さないでおく。
「上がったよ、一応髪の毛とか湯船とか綺麗に流しておいたけど、気になったらごめんね」
「お気遣いどうも」
私は相変わらず宿屋のアメニティも信用していないので、空間収納から長年愛用している一式を取り出してバスルームに向かった。
使いはしないものの、置いてある石鹸は見た感じ質は良さそうだった。
使わないけれど。
普段通り15分ほどでシャワーを終えて、髪の毛の水気を切り、タオルで体を拭きながら髪の毛を乾かしていく。
同時進行しなければとてもじゃないがシャワーを浴びている時間より髪の毛を乾かす時間のほうが長くなってしまうのだ。
なんとかシャワーを終えて、一日中汚れた膜をかぶっていたような感覚から解放される。
寝巻きを取り出した際にまとめて出しておいたルームシューズに履き替えてバスルームから出る。
「おかえり、水もらってきたけど飲むかい?」
「貴方、その格好で外に?」
「いや、流石に一旦着替えたよ。あ、ちゃんと飲料水だし一応浄化もかけておいた」
「いただきます」
全国スイーツ巡り及び魔獣調査の際や、ニルルと一緒に行った夏の国の旅行の際に覚えたのか、私がいかに高級ホテルだろうが水質は異常に気にするのを覚えているらしい。
あれからこうしてどこかに泊まった際、水を差し出されるたびに浄化済みであることを報告するようになった。
私がやる手間が省けて良いのだが。
「甲斐甲斐しいというか…よく覚えてますね」
「ん?ああ……言っただろう?リァンさんのことはなんでも知りたいし覚えてたいって」
「知りたい、までは聞いていました」
「知ったことは覚えてたいだろ?覚えてなかったら意味ないよ」
「まあ、助かります。でも、貴方はただでさえ長距離移動で魔力を消費しているのだから回復薬を飲んでおいたらどうですか?空間収納に入れてありますが」
「まだ大丈夫だよ。それに、この天気じゃ何日か滞在するだろ?その間に回復するよ」
ごもっともだ。
空間収納を開けるために空で構えていた左手を下ろす。
もらった水を飲み干して、グラスをテーブルに置く。シャワーに入る前に読んでいた本をベッドサイドに持っていき、ベッドのヘッドボードもたれ掛かるように積まれた枕の上に体を預ける。
あと少し読み終えたら丁度良い区切りまで読み終われるから、これを読み終えたら寝ることにしよう。
「何を読んでいるんだい?」
「この前買った推理小説です」
「おもしろい?」
「今のところはそこそこ」
「へえ、リァンさんが読み終わったら俺も読んでみようかな」
同じくベッドに入ったメネラが本を読むのに邪魔にならない形で抱きついてくる。
その巨躯ではどう抱きついてもある程度は邪魔になるのだが、配慮に免じて許してやる。
もう偽名で呼ぶのは良いのだろうか。
「あと一日もあれば読み終わりますよ。貴方も本を読むんですね」
「読むときは読むよ。それに、リァンさんと推理小説の感想を語るのは楽しそうだからね」
「そうですか、それでは楽しみにしていましょう」
「はは、あんまり期待はしないでくれ」
残り数ページを読み終え、しおりを挟み本を閉じる。
メネラは私が本を読んでいる間ずっと私を見つめていたらしい。
読み終えて振り向くと目が合った。
「何か?」
「いいや?本読んでる姿も様になるなと思ってね」
「いつも見ているでしょうに」
「いつも思ってるよ」
「はいはい、もう寝ますよ」
「おやすみのキスはダメかい?」
しばしの逡巡の後、彼の「弁えてるよ」の言葉を信じておやすみのキスの許可を出した。
メネラは唇の端に軽く吸い付くようにキスをして「おやすみ」と満足げに微笑んだ。
両サイドに置いてあるランプを消す。
真っ暗になった客室の窓から見える星が美しいことが少しだけ心に残った。
*
結局その宿には3日間滞在し、ようやく晴れと呼べるほど晴れた日に精算をして宿を離れた。
「いい宿だったね」
「ええ、中継地にはちょうど良い。帰りも覚えておきましょう」
私は地図を広げて現在地と目的地の位置を簡単に確認する。
ニッグスタウンからはそんなに遠くない。
むしろ、遠くないからこそ初日は突っ切ってしまいたかったのだ。
結果的に休んで正解だったと言えるから良しとする。
「5時間ほど飛べば目的地のおおよその範囲には到達できます」
「おおよその範囲ってどういうことだい?目的地は?」
「1400年前に植えた木ですよ、枯れているか森になっているか、切り倒されて村になっているかわかりません。多少地殻変動が起きていてもおかしくない。明確な目的地がないので、範囲で絞るしかないのです」
「なるほど、宝探しみたいだ」
ニルルも大概だが、彼もなかなか前向きな気質を持っている。
「とはいえ、私の魔力が残っていれば魔力探知に引っかかると思うので範囲に入ればすぐですよ」
「それじゃあ急いで探さないとね」
今度はニッグスタウンに降り立った場所から出発する。
スッと箒で空に登った景色は初日とは打って変わって一面真っ白で美しかった。
「一面の銀世界ってやつだね」
「そうですね、この国にとって雪自体は日常ですが、晴れてこんなに輝く風景はまさに銀に相当する価値だったのかもしれない」
「なかなか詩的だね、俺は好きだな。その感性」
「それはどうも。では出発しますよ」
冬の国でも珍しい晴れ間を堪能しながら目的地まで直走る。
1時間、2時間、3時間と走り続けたところで一度地面に降りて昼休憩を挟む。
降り立つ前に体が雪に沈まないよう魔法をかけてから、雪の積もった樹木の影を避けて開けた土地に落ち着いた。
持ってきていた昼食を食べながら周辺の様子を伺う。
「ヘラジカ通った後がありますね」
「どこ?」
「あそこ。ゴッソリ雪が退けられている。熊か何かに追われたのでしょうか。ヘラジカの足腰は強靭ですから、雪の中でも汽車のように素早く移動できるんです。その際の轍でしょうね」
「へえ、リァンさんって魔獣以外にも詳しいんだね」
「そうですね。動物は人間が勝手に研究してくれるので、わたしは研究があまり進んでいない魔獣をメインに動いていました。今では研究者も増えましたけど」
幼い頃、家から少し離れたところでヘラジカを見たことがある。父の家は山の方にあったので、野生動物の観察には事欠かなかった。
家にリスやイタチが豪雪を避けるために避難しにくることもあった。
ヘラジカの轍は市街地を離れて目的地に近づいている証拠だった。
「疲れましたか?」
「疲れてないって言ったら嘘になるかな。でもまだ大丈夫」
「でしたら30分ほど休んだら移動を再開しましょう」
「わかったよ」
また30分ほど周囲の野生動物の痕跡や、野鳥を見つけては「アレは何だい?」と聞いてくるメネラに逐一解説しながら体を休めた。
休憩を終えて再び移動を再開し、2時間。
おおよその範囲に入った時点で、なんとなくの場所は察せられた。
「あちらですね」
「え、もうわかるのかい?」
「私の魔力の痕跡が少しだけ残っていますから」
蜘蛛の糸のように細くて今にも切れてしまいそうな魔力の繋がりを辿ってぐんぐんと北上していく。
様々な木々が並ぶ山が見え始めた頃、少し高度を落としてより細かく目当ての魔力の源を探す。
流石に冬の国の北部となると、防寒魔法をかけていても箒のスピードを早めると頬が切れそうな空気の冷たさを感じる。
もう少し、もう直ぐそこに探していた場所がある。
さらに高度を下げて、森の中を突っ切って進んでいく。
「メネラ、もうすぐです」
「早いね、わかったよ」
森の中で一本の木を探すのは流石に苦労する。
魔力の繋がりがなければ、探すのに手間取りここで何泊も野営する覚悟をしなければならなかっただろう。
木漏れ日が差し込む冬の国の森は美しい。
その中を野生動物さながらのスピードで駆け抜けて行ったその際に、その木は聳え立っていた。
「これだ」
この森で唯一この木だけ樹種が違うのだ。
繁殖することができない中途半端なそれは、中途半端なりに立派に育って職務をまっとうしていた。
私は箒を捨てて木の根元に駆け寄った。
後ろでメネラが私の捨てた箒を拾って追いかけて来たが、私は服と手袋が汚れるのも構わずに膝をついてその木の根元を掘り始める。
手袋をしていては雪も土も掘れやしない。木を燃やさないように気をつけながら、炎魔法で表面の雪を溶かし、素手で露出した土を掘る。
爪の間に泥が入るのも気にせず、一心不乱に木の根元を掘り続ける姿はメネラには滑稽に映ったかもしれない。もしくは、気が狂ってしまったか。
しかし、彼は直ぐ横に二人分の箒を置いて近づいてきた。
「リァンさん、俺も手伝うよ。どれくらい掘る?」
どれくらい掘る、と言われてハッとした。
1400年も前の骨が手で掘れる範囲に埋まっているわけがない。
白い息を吐きながら腕まくりをするメネラを静止して、雪の上に座り込んだ。
「掘る必要なんて、なかったんです。土に触れてわかった。父の魔力はもうここにない」
「……そうか、残念だったね」
「わかっていたんです。でも体が勝手に動いていた」
メネラは捲った袖を元に戻し、座り込んだ私の肩を抱いた。
黙っていたのは言葉に迷っていたのか、彼なりの気遣いなのかはわからない。
どれくらい座り込んでいたかわからないけれど、ずっと座り込んでいても何にもならない。
手についた土を払って立ち上がり、立派に育った木を見上げる。
「この一本だけ樹種が違うでしょう。わかりにくいんですが冬の国では育たない樹木で、私の最初の品種改良です。……今見ると稚拙な術式ですが」
「そんな前から品種改良していたんだ」
メネラも私の話を聞いて同じように上を見上げる。私が間に合わせて作ったそれは種子をもてず、この木一本だけで他の樹木に負けず強かに私と同じ時を過ごしてきたのだ。
「正直切り倒されていてもおかしくありませんが、もはや森に溶け込んでいたので無事だったようですね。良かった……」
「本当に残ってて良かった」
骨がなくともこの木が残っていたことで、知らない間に積まれていたらしい肩の荷が少し降りた気がした。
メネラは私の手を取り、残った泥を払って私の両手を包むように自身の手で覆った。
不思議そうに見つめれば「冷たくなったから、温めてるんだよ」と微笑まれた。
はあ、と時折温かい息を吹きかけて体温を取り戻してくれている。
無我夢中で忘れていたが、そういえば雪で指先は冷えきっていた。防寒魔法で寒さを感じなかったのもあるけれど。
「本当にリァンさんは凄いね」
「別に……その時はまだ魔法も中途半端でしたから、植物魔法で生やせる植物の種類が少なかったんです。なんとか育つように間に合わせで色々魔法を重ねがけして…品種改良とは言い難い出来です。だからこの木は同種を増やせなかった。……こんな話聞いて楽しいですか?」
「リァンさんの話しはいつ聞いてても面白いよ?」
にこ、と人好きのする優しい笑みを浮かべて私を褒める。確かに、ここに辿り着くまで多種多様な蘊蓄を語った気がする。
彼は嫌がりもせず、いつも楽しそうに聞いていた。
メネラの前ではいらない話まで簡単に口から滑り出てしまう。
「……父は偉大でした。小さな村で数少ない魔法使いでありながら村人とも友好的だった。魔法使いだったが故に賢者と呼ぶ者もいた記憶があります。先日はできる限りの後悔をしましたが、今思えば彼が生きていたらきっとワルプルギスの虜囚を育てた男として蔑まれていた。それが避けられてよかったと思います。
でも、父の性格ではきっと魔法使い狩りを生き残れなかった。人種問わず優しい人でしたから、板挟みになって愚かな人間に殺される最期を迎えるよりは、私の手でその幕を閉じることができたのは良かったのかもしれません。全て都合の良い想像でしかありませんが」
メネラは特に何か言葉を返すわけでもなく「うん」と一言だけ、彼の温かさがこもった相槌を打った。
今の私にはそれだけで構わなかった。
私と父の話に介入しないのも彼の優しさなのだろう。
少なくとも私はそう受け取ることにした。
「よし、少し待っていてください。できればこの木から10mほど離れて」
「な、何をするんだい?」
メネラの問いかけに答える前に箒で木の上部まで上昇し、研ぎ澄ました氷の刃で枝を、幹を一刀両断して木材へと加工していく。
バサバサと落ちていく木の枝や木屑に、言いつけ通り10mほど離れていたメネラは唖然としていた。
「奇行じゃありませんよ。後で加工します」
「そ、そういうことか…びっくりしたよ」
「すみません。私一人で考えを完結させていました」
私は切り出した木材を丸太状にして、空間収納に放り込む。もちろん日用雑貨を入れている収納とは別口だ。
もう一度、木材を切り出したあたりまで上昇し、回復魔法と植物魔法を重ねがけしておく。
切った分がちゃんと修復されるように。
そして、この木がこの先もずっとあり続けるように。
「さて、帰りましょうか」
「うん、帰りもニッグスタウンに寄るんだよね?」
「寄りたいのなら寄りますよ」
「そうしてくれると嬉しいよ」
魔法で手の汚れと手袋の汚れをを綺麗に落として、もう一度つけ直す。
手で掘った穴も簡単に足で埋めておいた。
木の枝は放っておいてもそのうち土に帰るから問題ない。
準備を整えて、また5時間かけて、今度は違う道を通って観光がてらニッグスタウンへ戻ることにした。
*
その日の晩。
夕食のために行きにも寄ったメネラはイチオシのレストランに再度訪れていた。
人は少ないながらもそれなりに繁盛しており、やはりあの日は天候の影響で客が少なかったのだと認識を改めた。
前に食べたメニューとは違うものを頼み、レストランの調理テクニックに舌鼓を打つ。
店のおすすめであるタラのムニエルを食べようとナイフを構えた時に思い出した。
「今日って10月16日ですよね?」
「そうだね、明日で17日」
「私の誕生日、とされている日なんです。正確には父が私を引き取った日。そういえば伝えていなかったと思って。…もしかしたら昔聞かれていたのかもしれませんが、教えた記憶がなかったものですから」
「今日だったのかい?何も用意出来ていなくて言葉しか贈れないけど、リァンさん誕生日おめでとう」
久しぶりに誕生日なんて祝われて、なんと返せば良いのかすら一瞬わからなくなった。
突然誕生日だと告げられたメネラも驚いていたが、祝われると思っていなかった私も負けず劣らず驚いていた。
「あ、ありがとうございます……別に何か欲しかったわけではありませんから」
「それでも俺が何か贈りたかったんだよ。何か気に入りそうなもの、探してくるよ」
「……ええ、楽しみにしています」
ウェイターを呼び止め、グラスワインを追加でオーダーしたメネラは「リァンさんの誕生日に乾杯」とグラスを差し出したので、音が鳴らない程度にかざして受け取った。
間違いなくここ数百年で一番幸福を感じた誕生日だったと言えるだろう。
宿屋も行きと同じ赤い屋根の宿にした。
フロントの女性は「良い中継地点を見つけたね」とニヤリと笑った。
「挨拶は終わったのかい?」
「ああ、無事に。そうだ、一つ頼みたいんだが、最上階の部屋はまだ空いてるかい?彼が今日誕生日だったんだけど、俺今知ったんだ。もちろん料金はちゃんと払うよ」
「おやおや…夫夫なのに相手の誕生日も知らなかったのかい?部屋は空いてるし、前と同じ値段でいいさ」
「彼は秘密主義なんだ。じゃあ良いワインを一本おまかせで頼むよ」
「わかったよ、あとで持っていくから待ってな」
メネラと女性は声を顰めて話していたが、思いっきり聞こえていた。
ワインは美味しかったので良しとする。
その日はキス以上も少しだけ許してやった。
*
「メネラ、これ。差し上げます」
「わ、これあの木材でずっと作ってたやつかい?」
「それは墓標の方ですね。これは…まあ、そこそこ時間はかけましたが、ついでというか。貴方いつも同じタイピンばかりつけてるでしょう」
「確かにそうだね。すごく嬉しいよ!花と鳥の細工もすごく綺麗だし!っていうかリァンさんって物作りもできるの?」
「彫刻は暇つぶしに少々嗜んだ程度ですよ」
「彫刻は!?他にもできるのかい!?多才すぎないか!?というか俺まだ誕生日プレゼントあげてないのに貰っちゃって……」
「気に病まなくて結構ですよ。お揃いのものをティノにも用意したのでこれもどうぞ。ニルルには別のデザインのものを用意したので後々渡します」
「ティノにまで!?ニルルさんもきっと喜ぶだろうね、ニッグスタウンでオルゴールも買ってただろう?」
「み、見てたんですか……お土産の一つでもないとゴネるかと思ったんですよ」
「リァンさんてやっぱり良い人だよね」
「見る目が偏っていると思います」
「客観視できてるのもすごいと思うよ!」
「否定はしないんですね」
「まあ、ね」