滾る血潮に、魂が狂う夜がある。
その時の己を鏡で見た事もないが、もしかしたら『けだもの』と呼んでも差し支えないような、弧を描き開いた唇の中に潜む犬歯と犬歯の間に、抑えきれない涎が滴っているのかもしれないし、月だけがぽっかりと浮かぶ闇のとばりの中で爛々と輝く目は理性を失っているように見えるかもしれない。
勿論、そうであれと望んだ事はない。だが、身の裡に潜む衝動は否応なしにそのけだものを鞭打って目覚めさせようとしてくるのだ。
たとえば、そう、巨大な異形のものと対峙した時。自らが持つ神の目によってもたらされた、とめどない水流でかたどられた刃がきちきちと音を立てる。その音をどこか他人事のように聴くタルタリヤは、それを一瞬武者震いかと誤認した。
だがその疑いは一瞬にして晴れる、水流が軋む音がひときわ大きくなった瞬間に異形のものへと飛び出す瞬間、心の臓が歓喜にざわめくからだ。一太刀叩きこむ度に、激流の刃から跳ねた水がぱしゃりと踊る。異形の身体にぼんやりと刻まれた紋が、震える大気にぶつかる度に弾けるようにして水を勢いよく吐き出す。
「はあっ、……」
それでもなお、有効打には遠い。月を隠す群雲の下、異形の身体は禍々しく脈動していた。
斃れてくれるな、斃れてくれるな。一秒でも長く刃を振るわせろ。
激流の刃を一瞬にして消滅させたタルタリヤは、背中の弓を構え、矢をつがえる。抑えきれない衝動で零れそうになる笑い声を吐息で誤魔化して、喜悦に震える手でつがえた弓矢の照準を何とか合わせる。
引き延ばされた弦は、撃鉄が下ろされる瞬間を待ち侘びていた。異形がタルタリヤにじりじりと歩み寄る。涎を垂らすけだものが身動き一つせず、己にじっと弓の照準を合わせている現実を注意深く見張っている。
「はは……、用心深いな」
群雲の隙間をぬうように、夜の闇の中で星々がきらきらと明滅している。打算も計略もなにもなく、あえかな星明かりをふわりと纏ったけだものは、うっそりと微笑みながら呟く。
つがえた弓矢の行く先など、些事に過ぎない。軋む水流の刃も、撃鉄の鳴動を待つ弦もそうだ。ただ、待つのみだ。群雲の木陰に月がそろりと隠れ、璃月にしか根付かない青紫と純白の花びらが風のざわめきに荒らされる瞬間を。
「公子殿は、意外と堪え性がある」
タルタリヤと異形の間隙に佇む静寂を粉々に砕いたのは、瞬時に屹立した二本の岩柱。そのうち一本の柱の上には、長身の男が佇んでいた。細く長い得物を携えたその男は、それを霞で出来たものかのように軽快にくるりと回し、構えて見せる。驚いた異形が長身の男に向けて視線を泳がせる事が出来たのはほんの一瞬だった。夜に浮かぶ群雲が地面に暗がりの薄布をかけるやいなや、影を滲ませた男が柱から跳躍し、柄の長い槍を振り下ろし異形の頭蓋を叩き割ったからだ。異形が呻き地に伏す轟音が響くのと、タルタリヤは引き絞った弦から力を抜いたのはほぼ同時だった。
「美味しいところ、持ってかれたな」
「公子殿が手を下しても良かっただろうに」
「見惚れちゃったんだ、先生があんまりにも綺麗で」
「ほう、目の前の獲物をよそに?」
「らしくない?」
「普段の公子殿を思えば、些かそう思うのは不思議ではあるまい」
「そうかな。だってまだドキドキしてるよ、俺」
「そう言われて、悪い気分にはならないな」
「本当? あ、先生、返り血ついてる。似合うなあ、拭っちゃうのが惜しい」
「何処だ? 放っておくと張り付いてしまって後が面倒になる」
「ああ、じっとしてて。こすったから頬っぺたが赤くなっちゃってる」
「落ちたか」
「……んー、うまく落ちないな。ここからなら俺の家が近いね、湯でも浴びてく?」
「ふ、ふ。……まあ、悪くはないな」
「やった、じゃあ帰ろう先生。まだ俺、足りてなくって、さ」