「う」
丸い形の煎餅の縁に齧りついた姿勢のまま、スグリは呻いて固まった。食べる前にはまったく予想していなかった強い辛味が、ひと口めで舌の先を襲ってきたのだ。
「スグリ? どうしたの?」
「うぅ……辛……」
放課後の空き時間、遊びに来たハルトと並んで腰掛けている自室のベッドはすっかり、背もたれのないソファとして機能している。隣で顔を覗き込んでくるハルトに心配されて、スグリはひりひりと痛む舌を口から出し、外気に触れさせて冷やそうとした。涙まで勝手に滲んでくる。ハルトは「ああ……」と痛ましそうに眉を下げながら微笑んだ。
「だったらそれ、僕に任せて。僕が食べてるやつと交換しよう」
捨てるのも勿体ないでしょ? と、ハルトは手に持っていた揚げ餅の小袋をスグリにくれた。かわりに、ひと口ぶん欠けた辛い煎餅をスグリの手からひょいと取り上げて、なにも気にせず自分の口へ運ぶ。スグリが「あ」と言う暇もなかった。
煎餅というお菓子はハルトの故郷にはないものらしく、ハルトはキタカミの林間学校で初めて食べてみて以来ハマっているのだという。スグリも、こうして祖父母が詰め合わせのセットを箱で送ってきてくれたから久しぶりに食べる機会を得たのだが、久しぶりゆえに油断していて、色とりどりの小袋の中に時々、辛味の強い煎餅が混じっていることを完全に失念していた。
うん確かに辛いねと言いながら、ハルトはそれを平気な顔で食べ進めている。
「ハルトは、辛いの平気なんだ……」
舌に残る痛みをミックスオレで洗い流しながら、かっこいい……とひそかに尊敬の念を抱いて、スグリはハルトに交換してもらった、砂糖をまぶした甘じょっぱい揚げ餅をつまむ。
「前から思ってたけど、ハルトはなんでもよく食べるよな。嫌いな食べ物、ないの?」
「うーん、特に思いつかないなぁ……キタカミのご飯も、ブルーベリー学園のご飯も好きだし。スグリは?」
「俺は……うぅぅ、辛いのだけは、あんまり……。ねーちゃんには『お子ちゃま』ってよく言われる」
「辛いのがどれくらい得意かは人それぞれだよ。でも、スグリが僕にくれたカジッチュと一緒だね。あの子も辛い味が苦手みたいなんだけど、前に一回、間違えてフィラの実を食べちゃったことがあって……」
今のスグリみたいに、ミックスオレでなんとかしたんだ。でもあのときは暫く涙目になっててかわいそうだったなぁ。……そんな風に語るハルトの愛情深い口ぶりから、ハルトがポケモン交換の後もあのカジッチュと仲良くしてくれている様子が察せられて、スグリはなんだかホッとする。
「そういえば、俺のカジッチュ……手持ちに入れてくれてる?」
ずっと気になっていたことをスグリが思いきって口に出してみると、訊かれたハルトはにんまりとした。出ておいで、と呼びかけながら、制服のポケットの中からモンスターボールをひとつ取り出してみせる。
「わぁ……!」
ボールの中から現れたのは、見事な色ツヤをした立派なカミツオロチだった。先程までのハルトたちの会話が聞こえていたのか、頭に角の生えた司令塔のオロチュが、現在の自分の姿を見せつけるように誇らしげに胸を張ってひと鳴きする。
「あのあと一度スイリョクタウンに行って、みついりりんごを買ってきたんだ。カミツオロチには、最近進化したんだよ」
ね、と顔を向けたハルトのおでこを、司令塔オロチュが鼻先でこつんと小突いた。過去の恥ずかしい失敗談を無断でスグリに聞かせたことを咎めているのだろうか。前髪をもぐもぐと齧られて、ハルトは「ごめんごめん」と笑いながらオロチュを撫でてあやしはじめる。
カジッチュというポケモンには、進化先が複数あるといわれている。選べる未来の形がいくつもある中で、ハルトとあのカジッチュがカミツオロチになる道を選んでくれたことに、スグリはなんだか嬉しいようなこそばゆいような、体がぽかぽかとあたたかくなっていくような、不思議な感覚をおぼえた。
「にへへ……大きくなったなー」
進化とともに七匹に増えたオロチュたちは今でもスグリのことを覚えているようで、大きなりんご型の蜜飴から続々と顔を出してきては、再会を喜ぶように長い首をそれぞれスグリへ近づけてくる。
「強さのほうも、ちゃんと実ってきてるよ。そろそろブルベリーグでも戦っていけると思うんだ。戦い方、いろいろ考えてみたから、あとで勝負しようよ」
「うん!」
カミツオロチもやる気満々なのか、司令塔の一匹を中心にオロチュたちが首をもたげて、気合いの入った鳴き声をあげた。
「僕から送った子のほうは、あのあと元気にしてる?」
「あ、う、うん……」
「?」
カミツオロチをボールへ戻すハルトを、スグリはちょっとだけ決まり悪く横目に見ながら手持ちのモンスターボールを取り出した。先程までカミツオロチがいた床の上に、今度はカミッチュが現れる。
「あ、カミッチュになってる! えへへ、お揃いだね」
「みついりりんご、俺も手元にあったから。カミツオロチに進化させようかなって、最初は思ってたんだけど……」
「けど……?」
「……ハルトがくれた、ドラゴンエールのわざマシン……使ったらなくなっちまうと思ったら、もったいなくて。使う決心、つかねんだ……」
ポケモン交換をしたときに、ハルトがこっそりカジッチュに持たせてスグリに渡してくれたわざマシン。『エール』とつく名前の通り、ハルトがスグリを応援してくれている気持ちが小さなディスクの中に込められている気がして――スグリにとってこのわざマシンは今、頑張りたいときにそっと背中を押してくれる、お守りのような存在になっていた。
カミッチュの頭を撫でながら、ハルトがきょとんとする。
「わざマシン、もう一個あげようか?」
「い、いい! ハルトにそこまでさせらんね! 自分でなんとかする……!」
そう……? と首をひねっていたハルトは急にぴんと閃いた様子で、「じゃあスグリにいいものあげる!」と言って自分のバッグを手繰り寄せた。中を探って取り出したのは、ハルトの手のひらに収まるサイズの、薄紫のつるりとした石。ハルトはそれをスグリの手に握らせる。
「石? ……あ、これ、しんかのきせきっていうやつ!?」
スグリは以前、バトル学の授業で写真を見たことがあった。実物を手にするのは初めてだ。不思議な色合いをしたその石を部屋の照明にかざしてスグリが目を丸くすると、そうそう! とハルトが嬉しそうに頷く。
「進化できるけどまだ進化してないポケモンに持たせたときだけ、そのポケモンをいつもより頑丈にしてくれるんだって。これがあれば、進化させないままでも、今までと少し変わった戦い方ができるかも」
「でも、こんな……貰ってもいいの?」
「気にしないで。同じ石があと二十個くらいバッグに入ってるから」
「にじゅ……!?」
確か、ショップで買うとかなり値が張るものだったはず。やっぱり、ハルトはすごい。
「カミッチュ以外の子に持たせてあげてもいいし、戦略の幅が広がって楽しいと思うから、よかったら試してみて」
「楽しい……うん。んだな!」
ハルトの言葉で、何かが胸の奥で弾みだす。ポケモンの技の構成と立ち回り。鍛える能力の配分。持たせる道具を絡めた戦術。ポケモンバトルにまつわるすべてを考えて実践することが、こんなにもワクワクして、楽しい。随分と久しぶりに取り戻せたばかりの感覚を、スグリは改めて、大切に噛み締める。
「こんなにいいもの貰っちまって……俺も何かあげたいけど、いま煎餅くらいしか持ってないし……。ハルト、代わりに何か、俺にできることない?」
「そんなに真面目に考えなくていいのに……あ、それなら」
ハルトが目を輝かせて、ぽんと手を打つ。スグリは息を呑んで身を乗り出した。ハルトが望むならなんでも――、
「スグリ、お味噌汁作れる?」
「…………み、味噌汁?」
「スイリョクタウンの公民館で食べて、すごくおいしかったから。また食べたいな」
予想外の方向からきたリクエストにスグリは一瞬面食らったが、意を決して、「わかった」と頷いた。味噌汁。自分ひとりで作ったことはないけれど、祖母の手伝いくらいならしたことがある。やればできると思う――いや、ハルトが喜ぶなら、やってみせる。
「あっ、でも味噌が要るな……うーん……ばーちゃんに言えば、味噌送ってもらえるかも。聞いてみるから、何日か待ってもらってもいい?」
「うん!」
「じゃあ、約束。……にへへ。ハルト、味噌汁好きなんだ?」
「すごく好き! スープの味は同じなのに、中に入れる野菜を変えたら全然違う味や食感を楽しめるところ、カレーやサンドウィッチと似てるよね。毎日食べてもいいなって思えるくらい!」
「ほんとに気に入ったんだなぁ」
ハルトの様子を見てパルデア生まれのカミッチュも期待しているのか、スグリの足元へ寄って来てひと鳴きする。「カミッチュも味噌汁食べたいの?」と体を屈めて優しく話しかけるスグリの姿を、ハルトは隣で目を細めて眺めた。
「……毎日、スグリに作ってほしいな」
「うん?」
「えへへ。スグリの手作りお味噌汁、楽しみにしてるね!」
「うぅ……あんまり期待しないで……」
ハルトの真意をまだ知らないスグリは、故郷の祖母に味噌の郵送を頼むついでに美味しい味噌汁の作り方も聞いておこうと、こっそり決心した。