瑕***
人格なるものの使い方をファウストに改めて教わっている時にリンバス・カンパニーが抽出に成功したという人格を受け取った。その『可能性』までは辿り着いても抽出に成功することは稀らしく、「基本的にはダンテの力が必要になります」とのことだった。
その人格とはイサンが『剣契』というところに属していて、囚人の中では戦闘経験の浅い方である彼が戦場に身を置いている『可能性』であるため戦力増強が期待できるでしょう、とファウストは言う。
会話中に名前が挙がったからだろうか、イサンはすでに私の前まで来ていた。イシュメールで一回やっているとはいえ彼とは初めてなので(というか私もよくわかっていない)、説明しようとして若干ふわふわしたやり取りが続いた。
<じゃあイサン、始めるよ>
イサンは無言でこくりと頷く。
彼とどこかが繋がった感じがして、頭の奥でぱきんと微かにガラスが割れる音がした。目を開けると(目が無いのにこういうのも変だな)イサンは先ほどまでの囚人姿ではなく、スーツに外套かなにか(ここら辺とは異なる文化圏のものみたい?)を羽織ったみたいな姿だった。
刀を差し、パッと見ただけでも顔やちらりと見える首元にまで数多の傷跡があって、多くの修羅場を生き抜いてきたんだろうなぁというのが分かる出で立ちだ。
イサンはまだ少し状況が飲み込めていないようで、手を見つめながら握ったり開いたりしている。まだ物珍しい人格適用に多くの囚人が彼の周りに集まってきていて、イサンは彼らの顔をおもむろに見渡した。
<えーとファウストさん?そういえば…この人格のイサンってバリバリ戦ってる人格なんだよね?怖い人だったりしない?>
「先ほども説明した通り、元の人格から大きく外れるような…我々に敵意を向けるといったことはありません。ただ経験などから後天的に取得した習慣や性質については適用している人格に概ね従うでしょう」
<そうなんだ。まぁイシュメールも私には従ってくれたけど。…イサン、気分はどう?>
イサンは無言のまま何かに気付いたように視線を止めた。そのまま彼は私の質問には答えず周りに集まる囚人たちを押しのけてバスの後ろへ歩を進めた。
一瞬自席からこちらを見ていたウーティスと視線を合わせたが、その先…おそらく良秀に、近づいていく。良秀は煙草をくわえたまま視線だけイサンによこした。ついにイサンが良秀の座る席の横にたどり着き、皆彼の様子を何事かと伺う。
「そなた…」
「玉の如き顔ならずや」
にいっと笑ったイサンが急に刀を抜いた。良秀はとっさに大太刀へ手を伸ばすも、イサンが先に鞘を良秀の胸のあたりに押し当てながら肩から突っ込み、彼女を角に押し込める。あっと数人の悲鳴や驚愕の声が聞こえたころ、良秀の血がバスの窓に散った。
「良秀!」
「なんだありゃあ…イカレたか?」
<ファウスト!人格外す方法ある!?>
「今の人格適用時と同じく元の人格を適用してください」
<この状態で出来るのそれ!?>
良秀の怒声が聞こえるため命までは失っていない。が、座席の奥に鞘とイサンの身体で抑えつけられ身動きが取れないようだ。そんな状況でイサンは良秀の血を浴びて楽し気に声をあげて笑っている。いつもの彼を知っている者であればよく似た別人にしか見えない、いや別人であってくれと祈るだろう。
というかイサンが笑ってるの初めて見たんだけど。初めてがこれってどうなの?
「管理人様。処刑の許可を」
<ウーティス!それ私が痛いだけなんだって!>
「で、でも、良秀さんも危ないですし止めないと…!」
「イサンは最初の一撃から動いていない」
ムルソーが未だくつくつと笑うイサンを後ろから羽交い絞めにするように引きはがし、反対側の後部座席の後ろに投げ込んだ。イサンは大して抵抗する様子もなく、それでも笑いながら良秀を見ている。
身体が自由になった良秀はそんなイサンの手から刀を奪って、そのまま彼の首を飛ばした。………そう、飛んだ。
はぁはぁと苛立たし気に肩で息をする良秀の顔には、額から左頬にかかるまで一筋の大きな傷が出来ていた。
イサン(の頭)がごんっと大きな音を立てて壁にぶち当たり、バスの中に静寂が訪れる。この状況をどうすればいいんだ。いやちょっとまってこれは…
後ろからものすごいプレッシャーを感じる。きっと誰もがそうだった。もちろん、このプレッシャーがどこから来るのか皆知っている。
―――――優しい優しい、私たちの案内人さんである。
その後の事は思い出せば背筋が震え上がるが、ファウストが前に出てヴェルギリウスに対して弁解してくれたため囚人全員が連座する必要は無くなったし、事が事だけにイサンと良秀も『一つ目の規則』違反を大目に見てもらえることになった(ただし空気は最悪になったけど…)。
ファウストは皆に、この人格のイサンが歩んでいる『鏡の世界』で良秀は『黒雲会』という組織に属していてイサンのいる『剣契』とは対立関係である、イサンの行動は『敵の組織員である良秀に対する挑発』という文脈で理解可能だ、と説明した。
「人格を受け入れる私たちの自我が整っておらず人格が不安定になっていると思われます。より一層強い自我を持たねばなりません」
「強い自我っていってもなぁ。どうすりゃいいんだ?」
「鏡の前に立つものが確かに私たちであっても、私たちがそれを疑ってしまえば心はすぐに揺らいでしまうものです。人格が己の感性から大きく外れているものだったとしても、目を逸らさず、強く己を信じるように心掛けてください」
結局、来月のバス掃除当番にイサンが加わることになり(今月だと良秀と一緒になってしまうからだ)この件は一旦解決となった。それはそれとして、時計を回すと死んだ時に人格が剥がれたらしいイサンが珍しくも当然に、やや慌しく自らの首と周りを確認しながら飛び起きる。念のためイサンの近くにムルソーが控え、通路にウーティス、良秀の横にはロージャが立ち塞がっている。
<イサン、今どんな状況かわかる?>
「…穴があらば入らばや…」
<まぁ気持ちはわかる。覚えてるんだね?>
頭痛がするのかこめかみを押えたままのイサンにちょっと聞いたところ、何をしたか自体は思い出せるみたいだったが、なぜそうしたのかはわからないらしい。
ファウストは人格の同期化が進んでいない今では人格の持つ記憶や感情と自身のそれの乖離が大きいためうまく認識できず、聞き出すには再び剣契の人格を被せる必要があるだろうと付け加えた。
「良秀の傷は?」
<あ、時計を回して綺麗さっぱり治ってるよ。安心して>
「…さか。…ダンテ、いとかたじけなし」
うなだれるイサンの反応に一瞬違和感を感じつつ、問題はこれからだ。人格によってこんなことが今後も起きてしまうのは困る。
<ファウスト、念のために聞くけど本当にこれ大丈夫なの?>
「ファウストの計算に誤りはありません」
<でもイサンは良秀に斬りかかったよ?>
「ムルソーが言った通り、剣契人格のイサンさんは良秀さんに一太刀入れてから追撃が可能にもかかわらず動きませんでした。殺害する気がなかったのでしょう」
<…それ、敵意でもなんでもなく、斬りたくて斬っただけからOK…ってこと…?>
状況が何も変わっていないじゃないか、と嘆いたところで業務の時間が終了する頃合いになり、カロンが寝るとぐずったため業務終了となった。イサンは面談を続けるという名目で残らせ、ムルソーが見張りを買って出てくれた(ちなみにウーティスも立候補したがロージャが部屋に押し込んだ)。
イサンは部屋に戻ろうとする良秀に謝罪の言葉を掛けたが、彼女は彼を一瞥してそのまま部屋に戻ってしまった。
その後バスに3人になってからもう一度イサンに剣契の人格を被せて質問してみるも、何を質問してもやたら意味深長な言い回しか冗談しか返ってこない。
埒が明かないな、と思っていたところにファウストがバスまで出てきた。良秀の面談は彼女が行っていた。
<ファウストさん、良秀の方は大丈夫だった?>
「少々つべこべ言っていましたが、特に気にした様子はありませんでしたね。おそらく一度イサンさんを斬れたので満足したのでしょう」
<一度斬ったらいいんだ…>
少し前にバスに乗ってすぐ良秀を含む4人くらいがバタバタ死んで殺されていたが、その後囚人たちにわだかまりが残ったかと言われればそこまでの影響は見られなかった。それでいいんだろうか。記憶は無いが、こんなこと普通では考えられないだろう。でもその異常さで良秀もイサンの事を気にしなかったのだとしたら僥倖…なのかもしれない。囚人たちはいつでも瓦解しかねない危ういバランスで関係を保っている。
今日はもう遅いということで(人格を戻した)イサンには優先的に人格同期化すると取り決め、ムルソーには礼を告げて彼らに部屋に戻って休むように指示した。二人は無言で一礼すると部屋へ入る。バスには私とファウストが残された。
<ねぇファウストさん?人格って『元の人格の思想から外れたことはしない』し『私たちに敵意を持たない』んだよね?>
「そうです」
<じゃあイサンは良秀に『今の人格でもやるかもしれない』ことを『敵意以外の感情』でやったって事になるよね?>
「…ダンテ。個人の心情を無暗に詮索するのは好ましくありません」
<今後に備えるには彼の心を理解しないとどうしようもないよ。とはいえ私は記憶が無くて感覚が合っているかわからないし、ファウストぐらいにしか話せなくてさ>
「ファウストになら話せる理由というものが不明瞭ですね」
<あなただって思うところあるからあんな風に誤魔化したんでしょ>
「…」
今はまだ囚人として出会いこのバスに乗って日が浅いかもしれないが、別の世界で関係性を築いた彼らが『あれ』ならば、今の彼らもそうなる可能性はあるのかもしれなかった。別の世界とはいえ、それでも彼らが彼らである限り。
<一つだけ気になってることがあるんだ。イサンが良秀の傷が治ったって聞いた時。あれさ…イサン、『落胆』してたよね?>
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