裏路地の夜***
裏路地の夜。午前3時13分から午前4時34分の81分間。都市が眠りどこからともなく現れる掃除屋たちに全てが喰いつくされる時間。頭が定めた絶対的な禁忌で守られた、『居住スペース』内に居なければ1級フィクサーといえども命が危ういこの時間付近は路地裏をうろつく奴などいないだろう。私は今、そんな裏路地を午前2時48分に走っている。バディとして一緒に任務に当たる、良秀と共に。
これというのも調査対象がこちらをかぎつけて追い回されているせいだ。向こうはここら一帯を縄張りとしているから、ここに追い込んで一斉にドアを閉めてしまえば私たちはあっという間に掃除屋の餌食という事だろう、巣へは間に合わず避難を受け付けてくれそうな事務所もこのあたりには、無い。良秀は私より5m程度後ろを走っている。大太刀を担いでいる分遅いというのもあるが、戦闘に長けた彼女が敵を引き付ける殿を請け負っているからだ。彼女が2,3人に囲まれていることは多く、彼女を狙う輩を私が弾くという戦い方が常態と化していた。結果、より多く消耗するのは良秀であり、さらに足は重くなっていく。―――間に合わない。私は何度もこのあたりの地理の情報を照らし合わせたが、あと15分程度で逃げ込めそうな所が見つかる算段が付かなかった。
「右10」
良秀がいつも通り短く伝える。はっとして頭を振った。右10m。現れた曲がり角を右に曲がる。後ろでどしゃりと水っぽいものが倒れる音がした。「残3」。残り3人。彼女は後ろを振り向きながら曲がり角まで走るとちらりとこちらを確認して私がいる通りまで飛び込んできた。
「左25」
彼女がどこを目指しているのかわからない。それでも彼女が諦めていないことはわかった。私は走る。悲鳴が聞こえた。「残2」。「8時」。身体を右にひねる。ボウガンの矢が街路樹に刺さった。振り返ると良秀が斧を持った女の右手を吹き飛ばしているうちに、ボウガンを構えた男が良秀に狙いをつけているのが見えた。
「11時!」
良秀は追手の女を突き飛ばして盾にした。そのまま倒れた女を無視してボウガンの男に向かっていく。女はそれでも息があった。ずるずると這って斧を残った左手で握りしめようとしている。私はもつれそうな足に鞭を打ち走りよると、その女の左手を踏みつけた勢いで首を飛ばす。「残0」。良秀がボウガンの男の四肢をバラバラに斬り落とし、最後に心臓へ剣を突き立てた。
追手は居なくなったかもしれない。でももう5分もすれば裏路地の夜だ。良秀は右足にやや深い裂傷がありいつになく動きが鈍かった。
「行くぞ」
「いずこへ?」
良秀は黙って走り出した。私もそれに続く。ついた先はすすけたコンクリ―トの壁にやけに白く浮いた扉がある袋小路だった。良秀はその扉を、開けた。何の抵抗もなく、するりと。
「良秀」
この扉は、おかしい。通常の扉でないことは確かだった。扉の先は、沢山の扉がある…新たな、道。
これは、薬指が使う『廊下』だ。
良秀をじっと見つめる。戦い続けて乱れた呼吸の音だけが響く。現在午前3時8分。
「握れ」
良秀は左腕を差し出した。私はこくりと頷くことしかできなかった。
良秀は迷いなく扉を選んで開けていく。扉の先にはまた別の『廊下』があり、そのまた先も、さらに先も。時折扉の向こうから何かうめき声のようなものや助けを求める声が聞こえたが、その度良秀の手に強く握られ引っ張られるので、我に返る。何度か扉をくぐった先、ついにどこかの部屋にたどり着き、良秀とともにもつれて倒れこんだ。
良秀は足で乱雑にドアを閉め、私が起き上がり急いで鍵をかける。午前3時12分48秒。私はそのままドアにもたれかかったままずるずると座り込んだ。
良秀は大の字になって倒れこんだままだ。ついた部屋を改めてみると、沢山の色の粉か砂が入った瓶、筆、紙や布の束、そして…壁にセブン協会の制服が掛かっていた。
「…そなたの住処、か?」
「………」
良秀は答えなかった。脂汗が酷い。彼女がすでに満身創痍であることを思い出して、私は急いで彼女を平らな場所に運び、自身の救急セットを出した。
「良秀、気を確かに」
「…う…」
「HP薬は?」
「…ない…」
「私が持つ2錠のみか。…良秀、いいな?」
良秀は小さく頷いた。私は、彼女のジャケットに手を掛ける。血を吸ってずいぶん重くなったそれはどさりと音を立てて玄関に落ちた。次に剣、ベルトを外す。次はスラックス。血で肌に張り付いたところをゆっくりと剥がす。右足の裂傷の手当てを始めると良秀が低く呻いた。止血を済ませ包帯を巻く。残りの傷も一つ一つ手当をし、傷口が清潔になった所でHP薬を差し出す。良秀は口で手のひらから錠剤を咥えると、もごもごと動かした。水筒から水を出しゆっくりと飲ませる。途中口の端から水をこぼしたのを受けて、ハンカチに水を含ませたうえで良秀の顔を拭いた。これでずいぶんすっきりしただろうか。
手当のうちにほぼ下着姿になってしまった良秀に自室なら清潔な服があるだろうと着替えを進めるが、まだ体力が戻らないのかううんと生返事をして壁によりかかったままぐったりとしている。緊張がほぐれて気が抜けたというのもあるだろう。一瞬迷ったものの、無いよりは増しと考えて己の(血まみれの)ジャケットを良秀の下半身に掛ける。私は彼女から目を逸らして自身の傷の手当てを始めた。
しばらくそうしていると外からはごうごうと掃除屋が波の如く押し寄せていく音が聞こえる。今なら第1波がそろそろ終わる頃だ。先ほど斬った追手たちも今頃は掃除屋に液化されて回収されているだろう。膝を抱えて座っていた良秀が緩慢な動作で頭をもたげた。
「良秀、傷のほどはいかがか?」
「…ん、少し良くなってきたな…」
「それはよかりき」
落ち着いたところで部長に連絡を入れる。こんな時間にも関わらず1コールで繋がった彼女は無事を喜んでくれた。場所は敢えて伏せたが、発信履歴から気付かれるだろうとは思う。
「明日は昼頃までに出勤すれば問題ないようだ」
「ふーん」
「そなたはゆっくり休むとよい。私は裏路地の夜が終わったのち、ここを発つ故」
さすがにもう追手は来ないだろう。服はしょうがないからこのぐしゃぐしゃの制服を着て、さっさと帰るしかない。良秀は聞いているのかいないのか、血で固まった髪を弄っていた。
「泊っていけば」
「………なんと」
「別にいい」
「………」
「あと気持ち悪いから風呂に入るけど」
お前も来る? 良秀は笑った。
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