無題「王命が下されました」
侍女頭から手渡された紙には“女神の力を目覚めさせるため、退魔の剣を持つ勇者リンクとの交わりを命ずる”と、父の印章と共に書かれていた。
五日前のことだった。
私を慮るあまり父の前で激しく貴族院を批難したインパは、謹慎を命じられ城からいなくなった。私と顔を合わせることはなかった。同じ轍を踏ませないよう、また、彼の心を無闇に曇らせることがないよう、リンクには間際まで知らせないよう命じた。何より、私にその勇気がなかった。私は当日まで彼と会うことがないよう、城内で政務に務めると伝え、彼には魔物討伐の遠征部隊に加わってもらった。
そしてあっという間にその夜はやってきた。
◆
私は室内の灯りを絞り、自分の情けない顔を少しでも隠そうとした。
いつも寝ている天蓋ベッドが、安心できるはずの寝室が、まるで違う場所のように感じる。これからここでリンクに抱かれるのだと思うと、泣き出したくなった。自分が無能なばかりに、彼を王命なんてもので縛って無理矢理交わりをもたせるのだと思うと、情けなくて苦しくてたまらなかった。この命を聞いてリンクは何を思ったのだろう。王家に、私に、失望しただろうか。
やっと心許せる存在となった彼を酷く遠くに感じた。
できればリンクが来る前に、この牢獄のような部屋から逃げてしまいたかった。しかし私室へ通じる扉の向こうにも、本棚に潜む隠し扉の向こうにも、見張りが控えていることを知っていた。普段は優しい侍女達も、今夜に限っては逃亡を許してはくれないだろう。
私は結局、ベッドの上で置物のようにリンクの訪れを待った。
そう時間も経たず、部屋に人が入ってくる気配がした。天蓋に遮られ姿は見えなかったが、きっとリンクなのだろう。私は声をかけようとしたが、ついにこの時がきてしまったのだと思うと、往生際も悪く夢であってほしいと固まってしまう。身動ぎも出来ないでいると、そっと名前を呼ばれる。間違いなくリンクの声だった。その声を聞いた瞬間、目の奥が熱くなった。側に行っても構わないかと聞かれ、私は涙声にならないようにゆっくり唾を飲み込んでから返事をした。
リンクはあっという間にベッドの横へ辿り着くと、天蓋に隠れている私を覗き込んだ。ランプに照らされたその顔を見た途端、緊張しきっていた胸を大きな安堵が包み、堪え切れず涙が溢れた。彼の名を発すると、声はもう止められなかった。
「私の、私のやってきたことは、全部無駄だったんです……! 皆を失望させて、お父様に辛い決断をさせてしまって……貴方にも……!」
狡い言葉だと思った。こんな時まで私は“良き姫巫女”であろうとしてしまう。私が本当に嘆いているのは、皆を失望させてしまった“私”。お父様に辛い決断をさせてしまった“私”。リンクに──見損なわれるかもしれない“私”だ。
私がこんなにも身勝手だから、女神の力は訪わない。
リンクに優しく慰められながら、私は自己嫌悪でますます涙が止まらなかった。これから抱かねばならない女にこうも泣かれてさぞ居心地が悪いだろうに、リンクは黙って抱き締めてくれる。彼は自分を人嫌いかのように言うけれど、このように温かな手を持つ人が本当にそうなのだろうかと私は信じられない。いや、多分今となっては本心なのだろう。前にそっと教えてくれた通り、勇者の肩書に群がる人に疲れてしまったという言葉は、私自身、身に染みてわかるから。だけど本来の彼は、勇者という肩書を脱ぎ去った時の彼は本当に本当に優しいのだと、それもまた私は身に染みて良く知っているのだ。今も、それを感じている。
そうしてリンクの胸で散々泣いたあと、ようやく私の涙は落ち着いた。
「ごめんなさい……」
何に対する謝罪なのか自分でもわからぬまま、私は下を向いた。
「謝る必要などありません」
リンクは本当に、本心からのような声音で私を許す。私はいつもいつも、その優しさに甘えてしまう。
そっと涙を拭われ、震える声で囁かれる。
「あなたを傷つけることをお許しください」
なんて切ない表情を、辛そうな、泣きそうな表情をするのだろう。大丈夫、気に病まないで。貴方がこれから抱くのは壊れてしまう宝物なんかではないのだから。ただの、女神の成り損ないなのだから。
だからそんな顔をしないで。
(ごめんなさい、リンク)
私は伝わるわけもない心の中でもう一度そう唱えた。
「優しくしなくていいです」
せめてもの罪滅ぼしをしたかった。貴方は私を気遣ったり、良くしようとしたり、そんなことをしなくていい。ただ欲のままに──私の身体にそんな価値があるかわからないけど──私を散らしてくれていい。もしくは作業的に、機械的に、淡々と終わらせてくれていいと。そう、伝えたかった。
こんなに泣き腫らした顔で言われても、説得力は無いかもしれないけれど。
だけどリンクは私をそっと押し倒しながら、首を振ってそれを一蹴する。
「優しくします」
「優しくなんかしてくれなくていいです。今更……何になるというの……私にそんな価値ないのに……」
リンクの言葉に思わず自暴自棄な返事をしてしまう。こんなこと言われてリンクが喜ぶわけないのに。気を遣わせて困らせるだけなのに。本当に馬鹿な女だ私は。
耐えきれず目を逸らしてしまった私の顎を、少しだけ強引に掴んでリンクは言った。
「嫌だ。優しくする」
怒った声だった。
怒った顔だった。
ああ、駄目、また涙が出てきてしまう。
「俺が、優しくしたいんだよ。ゼルダ様」
もう十分優しくしてもらっている。十分に与えてもらっている。私は貴方に傷しか与えられていないのに。
どうして?
こんなに愛してくれるの──?
「こんなかたちで、貴方に抱かれたくなどなかった……っ」
見栄も矜持もなかった。彼への罪悪感すらも消える、ただ今が悲しいというだけの叫び。
こんな命でリンクを苦しめたくないという気持ちは本物なのに。こんなかたちで抱かれたくないという気持ちも本物なのに。なのに、こうして上に乗る男が彼以外だったらと考えると、それは想像するだけで血の凍りそうな想いだった。きっと舌を噛み千切ってしまう。
「リンク……私を抱いてください……貴方の手で、私を完璧にして……世界を、救うために……」
みっともない泣き顔を必死に手で隠しながら、私は浅ましく哀願した。
どれだけ泣こうが、リンクを傷つけようが、完遂しなければならない。この王命を。力を目覚めさせるために。世界のために。
リンクの気配が近づいて、私の両手にそっと手がかかる。それに私は弱すぎる力で抵抗した。
ダメ。それだけは、ダメ。
「ダメ、ダメです……キスしないで……」
「俺が怖いですか」
そんなわけない。
心を通わせてから、貴方を恐れたことなど一度もない。
だって、貴方は姫巫女の対となる勇者。
貴方があるから私があって。
私があるから貴方がある。
優しい優しい、私の片割れ──。
「キスされたら……好きになってしまう……っ、そんなの……辛すぎます……!!」
ふ、と笑った気配があった。
「もう、手遅れだよ」