第二話 意外にもと言うべきか、二人の同居生活は今のところそこそこうまくいっていた。互いにほとんど面識のなかった他人にもかかわらず、である。
とはいえ、広い家に部屋が複数あり、かつ大学が違うため生活サイクルがそれほどかち合わないというところが大きく功を奏しているのだろう。直冬はサークルだかゼミの実験だかで、そもそも帰宅自体が遅く、帰っても勉強ばかりしていた。義詮はというと、始まったばかりの大学生活に慣れるのに精一杯だ。履修登録したり、サークル見学に回ったり、友達を作ろうとなんとか人に話しかけたり。
そしていつしか義詮と直冬の間には、あなたの領域に入らないので、私のところにも入ってこないでください、という暗黙の了解が成立していた。
それでも、まったく顔を合わせないわけではない。洗濯物は一緒くたに回してしまうし、ゴミ箱には自分が捨てたのではないゴミが捨ててある。探さずともあちこちに誰かの痕跡があるのは、変な気分だった。そもそも元々一人暮らしのはずだったのだ。それなのに、家に人がいる。そればかりでなく、その人が、特に自分の世話を焼いてこない。
まあ、直冬は足利本家の事情にそう通じてはいないだろうし、当たり前の話ではあるのだが。世話を焼かれても反応に困る。
直冬はかなり義詮に気を遣っているようで、共有スペースは常に綺麗に整えられていた。それを察し、直冬ばかりにやらせておくわけにもいかず、義詮もいくらか片付けをする。家事は気づいた方がやる、というのが何も言わなくとも成立していたのは、互いに気を遣いあっていたからだろう。
家長が言っていた通りだ。別に無理に仲良くなろうとしなくたって、上手くやっていくことはできるのだ。
つまるところ、二人は一八歳と二十歳で、もう思春期を済ませていたため、色々割り切ることができていたのである。
とはいえ、どん詰まりの感は否めなかった。凪いだように平穏な毎日だが、その均衡はぎりぎりで保たれている。気づいた方がやる、という指標はあまりに曖昧で、これから、少なくとも直冬が大学を卒業するまでの二年間何事もなく続けられるとは到底思えない。また、食事の問題もある。いつまでもウーバーや外食ばかりに頼るわけにはいかない。直冬は初日以降キッチンに近づこうとはしなかったし、実家暮らしの義詮は自炊などろくにやってきちゃいなかった。オール電化の諸設備は持て余してばかりだ。
父上か師直にお手伝いさんか何か手配してもらえるよう頼もうかしら、と考えていた矢先のことである。
空きコマに暇を持て余してショート動画を流し見していると、義詮のスマホに通知が入った。そこにあったのは見慣れた名前。目をまん丸にしながらメッセージを確認し、少し考えてからカコカコと返信を綴っていく。
そして数日後、彼は二人の住む家を訪れた。
「ご無沙汰しております、義詮様」
丁重な口調でそう述べ、礼儀正しく頭を下げる。その拍子に、ぴょこんと立った前髪がぴこぴこ揺れた。
その強面に似合わぬ慇懃さである。幼い頃から親しんでいた顔馴染みに会えたことで、義詮は久しぶりに肩の力が抜けたような気がした。もっとも、その慇懃さがすべて純然たる敬意の念から来ているわけではない、ということも、義詮は知っている。
「師世! よく来たな」それはそうと昔馴染みに会えるのは義詮も純粋に嬉しい。そして、師世の背後に控えている少年にも視線を向ける。「師夏も来たのか」
「はい。父から、師夏も同行せよと久しぶりにお顔を拝見できて、師夏も嬉しゅうございます。お元気そうで何よりです」
「そうかそうかぁ。けど、少し見ない間に身長伸びたな」
「はい。昨日学校で測ったばかりで、147センチになってました。去年より7センチも伸びました」
師世とは対照的に柔和な顔立ちの師夏は、ふふんと誇らしげに胸を張り義詮に微笑みかける。そのあどけない顔を見ると思わず顔が綻んだ。とても、あのいかつい顔をした師直の実子とは思えない。
数日前に連絡を寄越したのは、この高階師世という青年。師直の甥にあたる男である。今年から社会人一年目で、名だたる大企業に勤め始めたらしい。
師世は、足利と高階の家の関係から、必然的に幼い頃から義詮の世話役のようなものをやっていて、足利の屋敷を頻繁に出入りしていた。今回もその延長で、二人暮らしの調子はどうか、伯父の師直から様子を見てこいとの連絡があったという。都合のつく日に家に伺いたい、とのことだった。では週末にでも、と連絡を入れて今に至る。
取り敢えず荷物を置いて、と言おうとしたところで、師世がやや挙動不審気味に視線をキョロキョロ動かしていることに気づく。なんだろう。今さら緊張するような間柄でもなかろうに……と考えたところで、
「そんで、義詮様。あの……あなたの同居人は今どちらに?」
声をひそめるように尋ねられ、首を傾げる。同居人とはもちろん直冬のことであろう。
「? ああ。ウチにいるぞ。お前たちが来てるうちは、二階の自室にいるように言ってるが……」
両者面識なくて気まずいだろうし……と、三人はぱっと顔を上げた。トントントン、とリズムよく階段を降りてくる足音が聞こえる。
「義詮さ〜ん!」
言うたそばから、である。
朗らかな声で名前を呼び、ヒョッコリ顔を出した直冬は、
「そういえ今日の夕飯の相談してないなと思って……ん?」
「あの」義詮はちょっと口の端を引き攣らせながら、「言ったでしょ今日お客さん来るってッ」
「うお、取り込み中だったか、すみません」
へらっ……と微笑んで頭を掻き、そそくさと立ち去ろうとする直冬。だが、階段を登りかけたところでぴたっと足を止めた。なんだか腑に落ちないような顔でこちらを見ている。視線の先にいるのは義詮、ではない。
額にぴきっと青筋を浮かべ、いかにも好戦的な笑みを浮かべている師世の方である。
なんだなんだ、面識があるのか。にしてはちょっと、師世がまあまあな剣幕ではないか。だが、義詮が口を挟めるような雰囲気ではない。そして当の直冬は、相変わらず不可解そうな顔で、キョトンと首を傾げながら、
「んー……あれぇ? その悪人ヅラ、なんかどっかで見たことあるような……」
「随分なご挨拶じゃあねえかテメェ、足利直冬……」
「え? オレのことご存知?」
直冬は目をぱちくりさせ、自分を指差した。あぁ、もしかして義詮さんのおうち関係の方? なら知ってるのも無理ないのか、とウンウン頷き始めたところで、師世の肩がぶるぶると震えだした。そしてとうとう我慢が効かなくなったらしく、くわっと目をかっぴらき、びしっと直冬を指差して、
「覚えてねえのか!! 去年の冬!! 全日本学生剣道大会!! 大学最後の引退試合で一年坊主のテメェに辛酸舐めさせられてんだよ俺はァ!!!」
「あ、あぁーっ! そうだったそうだった! 道理でなんか見覚えあると!」
明らかにむちゃくちゃ怒っている師世の前で、ぽんっ! と手を叩き晴れやかな顔をした直冬。スッキリしたぁと言わんばかりにニコニコの笑顔を浮かべ、
「すごい偶然だ、まさか昔オレが負かした相手とこんなところで出会えるとは! 懐かしいな。いやぁー、しかしあのときは苦戦した!」
「苦戦した! じゃねンだよお前ェ……! つーか敬語使いやがれ!!」
ワンワンキャンキャンとヒートアップする二人を尻目に義詮は途方に暮れていた。
いつの間にか義詮のそばに来ていた師夏に、どうしよう? みたいな顔をすると、放置で大丈夫です(^^)みたいな微笑が返ってくる。ほなええか。ええのか?
「義詮さん、オレ部屋戻った方がいい?」
「おいまだ話は終わってねえぞ!!」
ここまで噛みつかれといて平然と問いかけてくる直冬と、依然噛みつきつづけている師世を前に目を白黒させていると、
「いえ、いてくださって結構ですよ」
代わりに師夏が答えた。また、今度は義詮の方をくるっと振り返り、
「それに、ちょうどよかったです。本日は、ぜひお二人にお話ししたく参りましたので」
「二人に? 我だけじゃなく?」
「お掃除の仕方、家事の分担その他もろもろ」師夏は噛んで含めるように告げる。「まだ、きちんとおわかりになっていないのでは?」
義詮と直冬は、ぎく、と同時に肩を跳ねさせ、そっと視線で互いを窺う。そして、ここでの無言は肯定と同義である。
ようやく落ち着いた師世も、はぁ、と小さくため息をつき、改めて二人に向き直った。そこでやっと義詮は気づく。そういえば、二人が抱えていたのはかなりの大荷物だ。
師世は再び折り目正しい態度に戻り、口を開いた。
「本日はお二人のご様子を窺うためばかりに参ったのではありません。家事全般の手解き。僭越ながら、高階家のやり方でご教授させていただきます」
──ここで改めて、二人が住んでいる家の構造を紹介しておこう。
二階建ての一軒家で、延床四十坪ほどの大きさの屋敷である。土間の広い玄関から続くリビングは吹き抜けになっており、リビング中央から二階廊下を見上げられるようになっている。大きな窓があり、カーテンを開ければ自然光がガンガンに入るつくりだ。
アイランド型のオール電化キッチンは、IHコンロやビルトインオーブン、大きな冷蔵庫が備え付けてあり、基本的な調理を行うには何ら不便がない。
また、リビングから繋がる扉を開けた先に、やや和風テイストの部屋が一つ設置されていた。来客スペースか、あるいは書斎を想定している部屋だろうか。二人が持て余している場所であり、特に物もなくがらんと空いている。
二階には義詮と直冬それぞれの部屋と、またもう一つ書斎的なスペースがあった。こちらにも、あまり足を踏み入れたことがない。用がないからというのと、またなんとなく入りづらいからというのがある。
そんなデカい屋敷へと、高階家の従兄弟(じゅうけいてい)は勝手知ったる態度で上がり、一旦和室の空き部屋に荷物をごっそり置いた。そのままリビング前のローテーブル前に座る。師世は顎で二人をソファに座るよう促し、咳払いをひとつ。
「まず……お二人は同居において決め事をなさってますか?」
「決め事?」
「お金の使い方、お部屋の使い方、そしてプライベートの守り方」師夏が微笑みながら言葉を継ぐ。「ここの三つはちゃんと決めなきゃ、後々大変なことになると。父からの言葉です」
師世と師夏の説く、同居における基本心得三箇条。
一つ、金銭の取り扱い。具体的には食費・日用品代の分担や立て替えの仕組みづくり。家計簿アプリでも共同財布の準備でもいいが、とかく「どちらがいくら負担しているか」を常に明確にしておくべし。
一つ、生活空間の使い方。リビングやキッチン、風呂にトイレ。共有部分を使ったあとどう片付けるか、どこまで自由に扱うことを許容されるのか。
一つ、プライバシーの尊重。勝手に部屋に入らないこと、許可なく相手のものやスマホに触れないこと、帰宅が遅れるときには一言連絡をいれること、など、細かい配慮の積み重ねである。
「二人でひとつの場所に滞在する際に必要な、最低限の取り決めです……と、父から教えを授かりました。豊富な人生経験から培った原則だそうで」
師夏は指を三本立てて、にっこりと目を細める。その笑みには妙な圧があった。
「して、お二人はどうでしょう。そのへんの話し合いは」
「してない……」
「してないです……」
十個くらい年下の男の子相手にタジタジである。二人は目を逸らしながら言った。師世は、でしょうよと言わんばかりの呆れた顔で、
「ま、いいです。そのへん円滑に決められるように俺たちが来たようなものなんで……それじゃ取り敢えず、掃除洗濯ゴミ出し料理、ここ四つをそれぞれの週間スケジュール突き合わせて決めてしまいましょう」
その一声を皮切りに、義詮と直冬は各々のカレンダーアプリやスケジュール管理アプリを開いてそれぞれの生活リズムの共有を試みた。が、
「おい足利直冬よ、この真っ白なカレンダーは何事だ……?」
「いやぁ毎回頭でなんとなく覚えてやってるからこういうのメモする習慣なくて……養父の家でもその都度口頭で伝えてて……」
「人の記憶ほど頼りにならねえもんねえんだよちゃんと文書に残しとけこの野郎……ハァ。まあいい。じゃあ今覚えてる分全部言いやがれ」
「はーい」
なんだか妙に仲良しである。
一通り情報が出尽くした段で、
「一限無い日はジョギング行ってるのか。なら、火曜から金曜は直冬が担った方がよかろうな」
「義詮様にご希望は?」
「ああ、我は別にそれで」
てきぱきと決まっていく。
なんだか師世と師夏に万事任せておけば大丈夫そうだ。それに両方とも、心なしか熱が入って直冬と義詮そっちのけで話している。なんとなく手持ち無沙汰になった二人だが、真剣な面持ちでこしょっと耳元に囁いてきたのは直冬だった。
何事か、と顔を傾けると、
「……オレも『様』づけした方がいいですか?」
「ふっ」義詮は笑いを堪えた。なんだか深刻そうな顔をしていたと思ったら。「別にこのままでいいですよ、今さらですし……それに二人とも、家のゴタゴタの手前、丁寧な態度を取ってくれはしますけど。扱いがむちゃくちゃ丁重というわけではないし」
ふうん、と直冬が首を傾げ、
「あと、養父からも、そちらの事情については多少話を聞いてるのですが……義詮さんは、師世くんや師夏くんのお父さんとも懇意なんですよね」直冬はやや声をひそめながら、再び真剣な顔で、「高階の方たちって世話焼き屋さんばっかなんですか?」
「ぶはっ」
今度は我慢できなかった。だが、こんなことで笑ってると師世たちにバレたらまずい。しばらく肩を震わせながら笑いの波を堪えていた。直冬は何が何だかわからんという顔で小刻みに震える義詮を見つめている。
一頻り収まったところで、小さく咳払いをする。
「違いますよ。そういうことじゃないと思う」
「けど、いくら家の繋がりがあるといっても、かなり熱心な感じがしますけど。それか義詮さんとむちゃくちゃ仲良し?」
「別にそういうわけでもないです。あの家系の人たちは……なんて言えばいいのかな」少し考え、今度は義詮が囁いた。「単に仕事を人任せにするのが嫌いなんです。能力が高い人たちばかりだから、自分でやった方が早いことは全部自分でやりたがるんですよ。鈍臭い奴見てると苛々するって、前言ってたし」
偶然耳にした独り言である。おそらく義詮に向けていた言葉であろうということは、格好悪いので伏せていた。
そんなことを話していると、いつの間にか家計簿アプリが二人の携帯端末にインストールされたらしい。二人から使い方をアレコレレクチャーされたところで、
「じゃ、今度は実践的に掃除のやり方教えますよ。師夏、荷物取ってきてくれ」
「はぁい」
・
師夏がリビングに持ってきたデカいリュックからにゅっと出てきたのは、ゴム手袋、雑巾、洗剤スポンジバケツほか等々である。
ちょっと……ちょっと、ガチすぎないか。
というかこんなに大量の道具がこのリュックの中のどこに入っていたのだ。
「高階式収納術です。それに、こういうのって最初に本格的にやっておけば後々楽ですから」
「まず水回りから指南していきますよ。義詮様にはキッチンをやっていただきましょうか。お前は……じゃあ風呂場で」
あからさまにぞんざいな扱いだが、直冬はケラケラ笑っていた。
また、直冬につくとなると師世が露骨に嫌な顔をしたので、師夏が直冬につくこととなった。
ゴム手袋をはめて準備万端である。
鏡、壁面、湯船、床、排水口の順に掃除していくのだ、と手慣れた調子で師夏が説明していった。「順番を間違えると、せっかく綺麗にした場所がまた汚れてしまうので、注意です。効率よくやっていきましょう」
直冬は、年下の男の子からのこうした教えにも、素直にこくっと頷いて従った。家事スキルについてはこの少年に一日の長があるのだ。年齢差関係なく、教えを乞うのが筋である。
磨き残しがないように、と気をつけながらも自然と会話は弾んだ。
「けど、オレここまで気合い入れて風呂掃除やったことないなぁ。師夏くんって毎回家でこんな大変なことやってるの?」
「いいえ。月に二、三回程度でしょうか。けど、定期的に全体を綺麗にしておくことは大切ですよ。特にこんな広いバスルームは……水回りは雑菌が湧きやすいですし」
「そっか。しかし、本当にしっかりしてるなぁ」
「恐れ入ります」
それに、師夏と直冬は初対面である。一見大人しそうな容姿だが、物怖じせずに話ができ、萎縮することも偉ぶることもなくものを教えられる。この年頃の子にしては、相当な胆力があると言っていいだろう。
「そうそう、そもそものところなんだけど……師夏くんは、師世くんの弟なの?」
「いいえ、従弟です。師世は叔父上の子ですから」師夏はふるふると首を横に振って、「ですから、師夏にとっての師世は、義詮様にとっての直冬さんにあたりますね」
「え?」
「直冬さんは尊氏様の、弟君のお子と伺っておりますが」
師夏の濃い黒目が、まっすぐに直冬を見つめていた。
スポンジを動かす手が、思わず止まった。
だがすぐ、まずい、と自覚した。どうにか反射的に誤魔化し笑いを浮かべ、そうだよね、となんとか頷こうとした途端に、
「……ごめんなさい、意地悪を申しました。そう通すように、と。父から仰せつかっておりますので」
眉を八の字にして微笑む師夏。それを見て、やっと、直冬は肩から力を抜いた。
というか、こんなことで動揺していては今後のことが危ぶまれる。オレもしっかりしなければ、と、今度は完璧な笑顔をつくることができた。
「いやこちらこそ、気を遣わせてごめん。いや本当にしっかりしてるな師夏くんって何歳?」
「十歳です。もうすぐ十一歳になります」
「じゃあ五年生か」
直冬も小五で養父の家に引き取られたのだ。萎縮してばかりだったあの頃の自分と同い年だと思うと、ますますこの少年の強かさに感嘆させられる。
「よしっ! 床も終わりました、師夏先生」
「はい! では最後に排水口をやっていきましょう。けど、手でやるのはいかにも大変ですよね」
「はい! いかにも大変です」
「その通りです! ですから今回は、こちらの便利グッズを使ってやっていきましょう!」
「おお! ……さっきも思ったけどそれどこから出したの?」
「高階式収納術です。それでは使い方を説明していきますね〜」
・
達成感と共にキッチンに戻ると、なんだか微妙な雰囲気が漂っている。何かあったのかしらと思いつつ近づくと、気づいた師世がぐるんと直冬の方を向く。
「そっちは終わったか」
「ああ。何かあったのか?」
「年上に、敬、語」いらいらと頭を掻きながら、「無事にお教えさせていただいたけどよ、お前ら今日まで自炊の一つもしてこなかったのか? シンクも何も綺麗すぎるし、そもそも調理器具が少なすぎるし」
「あはは、いやぁ、機会がなくて……」
というか、仮に直冬が作ったとしても義詮が食べてくれるかどうかわからなかったので、どうにもキッチンには近寄りがたかった、というのが正しい。義詮の方には、元々料理の習慣がなかったようだし……。
義詮は所在なさげに立ち竦み、あらぬ方向を眺めながら師世の言葉を聞き流していた。
その微妙な空気感を察したのか、不意に師夏が、ぱちん! と手を叩いた。
「それではむしろ、料理の手解きにちょうどいいですね。いざ、クッキングタイム! です」
ふっと空気が弛緩した。「まあそのつもりだったけどな」と師世がひとりごちる。直冬も内心で胸を撫で下ろした。また、中途半端な時間に訪ねてきたのはこのためか、と納得もした。時刻は一八時にさしかかるところで、夕飯をつくるには丁度いい時間帯である。
それに、料理はいくらかできるという自負がある。養父の家で多少は手伝って来たので、カレーとか餃子とかお好み焼きなんかならば腕に覚えがある……が、だんだん雲行きが怪しくなって来た。
別室から師夏がクーラーボックスを持ってきて、シンクに食材を並べだしたのだが、そのラインナップがなんというか、
「あの……サーモンとかズッキーニ? とか、なんかやたら豪華じゃないか? これ何作るの?」
「ラタトゥイユ、カルパッチョ、キッシュ、トマトクリームパスタを予定してます」
「お、オシャンティ〜……」
「待て待て待て何考えてるんだ師世ッ。我ら料理初心者だぞ、本当にできるのか?」
「大将は座って見ててもいいんじゃないですか?」
「なっ」
義詮はショックを受けたようにぴしっと固まった。すかさずその肩にぽんと手を置き、ぎっとこちらを睨んでくる師世。なぜ。苦手なら休んでればいいという善意のつもりだったのだが。
「作れないもん言わねえよ」
「そっかー」
例によって高階式収納術で仕舞われていたエプロンを手渡され、直冬と義詮は面食らいながらそれを受け取った。師夏はともかく、師世も平然と身につけ始めたので、文句が言えない。
続けて大小さまざまな鍋やフライパン、菜箸やお玉から調味料まで流れるようにセッティングされたところで、師世と師夏によるコーチングが始まった。
「料理作りで重要なのは同時並行、マルチタスクです。四品を頭から一つずつではなく、複数同時に仕上げていく気概でやっていきますよ」
「何から手をつけるか考えながらやっていきましょう。例えば下味をつける必要があるものは最初に手をつけるべきですし、煮込み料理なら煮込みの時間を考慮しなければなりません。あるいは工程が同じものなら、何品か同時に手をつけられますし……」
「では! この四品の中で最も早く手をつけるべきはなんでしょう?」
「はい!」
「はい直冬さん」
「とりあえず最初に切るもん切っちゃうべきじゃないでしょうか。ラタトゥイユとキッシュの野菜は同時に切れるし、そのあとカルパッチョ用の魚を切ってとかできるし」
「良い線行ってます! 八十点くらい」
「おおなかなか高得点」
師夏と義詮が和気藹々と盛り上がるのを横目に、師世が口を挟む。「まあその通り、最初は下拵えがベースだな。オーブン予熱で温めるとかも最初にやっとくべきですね」
というわけで、調理開始である。
最初の具材を切るのは直冬がやって、キッシュを作るのが義詮の担当だった。
師夏は背が少し足りないので、踏み台の上に乗って直冬の作業を眺めている。
「直冬さんは筋がいいですね。猫の手お上手です」
「あはは、ありがとう。養父の家でそれなりに手伝いしてたからかなー」
などの会話を聞き流しながら、義詮は淡々と調味料を計ったり、食材を準備したり。
キッシュ用の卵液を泡立て器でまぜまぜとやっていると、「お上手ですよ」との声がかかった。師世である。
「卵液混ぜるくらい誰でもできるだろ。まあ、あとは座ってるくらいしかできないかもしれないが」
「野菜切るくらいだって誰でもできますよ。あの野郎もあとで師夏の飾り切りの腕前見たら自分の態度を恥じるでしょうし」
「あの子そんなことまでできるようになったのか?」
「伯父に教えを乞うたそうです。年々似てくる」
「あんないかつい顔にはならんだろ。なってほしくない」
「わかりませんよ。父が言うに、幼少期の伯父と師夏の顔はそっくりだそうです」
適当吹き込まれてないか、と返そうとしたが、あるいは師世が義詮に適当ぶっこいている可能性もある。というか、確実にそうだろう。
パイ生地に流し入れたらオーブンに入れて放置、との声を聞きながらその通りにやる。その間パスタの方のソース作りを行うらしい。言葉少なに頷いて、熱したフライパンにオリーブオイルを垂らす。
手順が決まっているものを、指示通りにやるのは得意だ。多少腕前に左右されるところこそあれ、致命的に間違えることはない。
「……この家吹き抜けなんで、キッチンの換気扇だけだと二階に臭いがこもるかもしれないですね。一瞬二階の換気扇のスイッチも入れてくるので、その間みじん切りした玉ねぎ炒めててください」
「? 場所わかるのか?」
「わかります、お気遣いなく。火加減にはお気をつけて」
二階は案内していないのに、わかるのか。不可解に首を傾げていると、二口コンロの隣のところに、「義詮さん! オレも今から炒めますよ、ラタトゥイユ」
「そう……」
テンション高いな……。と考えながら、聞き流す。すると、直冬も話しかけるのを諦めたのか、また師夏とわいわい会話を続けていた。フライパンからにんにくの香ばしい香りがする。
程なくして師世も戻ってきた。「お待たせしました。色変わって来ましたね。これが飴色、覚えてください。じゃあそろそろトマト缶開けて、煮詰めましょう」
「わかった」
そして、会話がなくなる。
あるいは元々、会話が多い間柄というわけでもなかったのだ。ただ、久しぶりに会ったので、やけに親しげな態度をとってしまったというだけで。
師世が義詮の面倒を見るのは、代々家がそうだから、役割を果たす義務があるから。幼馴染ではあるかもしれないが、友人ではない。弱みやプライベートな経験を打ち明けた経験どころか、軽口を叩き合ったことさえ一度もないのだ。お互いに。
だからこそ、気負わずに済むというところもあった。上下の関係が明確にあるから、こちらが師世の機嫌を伺う必要がない。沈黙にも、気まずい思いをすることはない。
「どうでもいいことだが」だから、躊躇いなく疑問を口に出せた。「お前たち、やけに勝手知ったる風にこの家を使うな」
ああそんなことか、というように、
「ここは元々足利が所有してた屋敷ですから。俺も何度か手入れに駆り出されたことがあるんです」
「……我、初耳なのだが」
「あれ。伯父の口から何も聞いてませんか? あの人がそんな不手際やるとは到底思えませんが……」
むろん義詮もそう思う。あの隙のない男が、失敗している姿など生まれてこのかた一度も見たことない。だが、実際聞いてないのである。
あるいはわざと話さなかったのだろうか。何のために……と考えていると、「まあ、無理もねえか」と師世が独りごちた。
「何せ、ここには昔、あなたのお父君と弟御が一緒に住んでいらっしゃいましたから。元々、そのために建てられた家なんですよ」
義詮は一瞬、ソースを炒める手を止めてしまった。
だが、「そうか」と一言呟いて、またソースかき混ぜる作業を再開した。
・
高階従兄弟の完璧なタイムキープ能力によって、やがて四品が同時に完成した。
プロ並みのヘルプがついていたとはいえ、いずれも料理初心者が主力として作ったとは思えぬ完成度に仕上がったと言えよう。
だが、特に師夏の盛りつけたサーモンと鯛のカルパッチョは、さながら薔薇の花のように華やかで、直冬は度肝を抜いた。直冬の手つきは師夏が見かねる程度にはちょっと雑すぎたのである。
義詮もまた内心驚いていた。実家でたまに師直が作ってくれたような料理のクオリティと遜色ない。小五の料理スキルにむちゃくちゃ劣っていることをしみじみ感じるが、こうも差があると悔しくもならないのである。
人の作った手料理を囲むのはひどく久々に思えた。いや、手伝いがあったとはいえ一部はちゃんと義詮が作ったのだが、なんだか実感がない。
イタリアンだが、未成年の師夏がいるのでアルコール飲料を口にすることはなかった。それでも直冬は気にせずに、にこにこしながらもぐもぐ食べている。
「あ、キッシュ美味い。ちゃんと美味いですよ義詮さん」
ちゃんとは余計だ、と思いながらも、それほど不機嫌な気分にはならなかった。空腹が満たされると、多少は気持ちが落ち着いて、苛々しようがなくなってくる。
「それはどうも。ラタトゥイユも美味しいですよ。ちゃんと」
「やったー」
直冬は屈託なく笑った。
そうなのだ。言葉選びがアレなだけで、多分悪気はないのである、悪気は。
そういうところが父に似ている、と言ったらこの男はどんな顔をするだろうか。度胸がないので、絶対言えないけれど。
食べ終わったあと、真っ先に直冬が皿洗い役を買って出た。師夏がまた踏み台に乗って指南している。それを眺めつつ、義詮も手伝うかどうか迷ったが、スペース的にきついだろうし、手持ち無沙汰になるのが嫌だ。
それにあの男は、特に手伝いも必要とせずちゃんとやるだろう。さっきの料理だって、養父の家で手伝っていたという経験もあいまって、特に教えられなくともスムーズに工程をこなしていた。
「義詮様も別に下手じゃなかったでしょう。パスタソースに生クリーム入れるの忘れてただけで」
「……パッキング手伝う」
「いえ、そういうわけには。それに帰りの荷物は少なくて済みますし」
「そう。調理器具とかグッズとか、本当に置いて行ってもらっていいのか」
「遠慮なさらず。そのために来たので」
言葉少なに断られる。すると手出しもできず、そうか、と頷くしかない。
ソファに座って、スマホでもいじっていようか、と思いかけたところで、不意に、
「上手くやっていけそうですか。あの男とは」
と、師世が言った。
思わず向き直る。その表情は真剣そのもので、まっすぐと義詮を見据えている。
「俺は伯父と父の命を受けています。義詮様が自活できる準備を整えよ、足利の次期当主が快適に過ごせる居住空間にせよ、と。そのためにあの男が邪魔なのであれば、多少無理を通すことになっても、父に話をすることはできます」
それは。
考えないでも、ないことだった。
母の異なる、ややもすれば直接対面することさえなかったかもしれない兄弟。それが、数奇な巡り合わせを経て、一緒の家に住まうことになっている。
気まずさは確かにあった。悪気のない、だがややデリカシーに欠けた言動が、たまに気に障ることも。
だが、……だが、それでも。
「……まだ、判断できない。それに、直冬……さんの住む場所だって困るだろ」
「元よりあの男は寮住まいの予定でした。ここに住んでいること自体がイレギュラーみたいなもので、別にどうとでもなります」
師世の言葉は淡々としていたが、冷たいわけではなかった。直冬のことが気に入らないから、嫌がらせをしたがっているとか、そういうことではない。ただ、あるがままに事実を述べているだけなのだ。
「選択する権利は義詮様が握っています。義詮様は足利家の嫡子、あれは認知さえ無い庶子。奴の意向など尋ねる必要はない。直冬は、貴方の決定に従うより他ありませんから」
ひどく、重いものが腹の底に溜まるようで、いつしか口の中に黙っていた固い唾を飲み込んだ。
二人の間にある、歴然とした立場の差。上下の別を、まざまざと理解させられる。
あるいは師世は、今一度その事実を義詮に認識させるべく、あえて口にしたのだろう。天真爛漫に明るく笑っている直冬の立場は、本来ひどく不安定なはずなのだ。
それを理解したうえで、決めろということなのだ。少なくとも義詮は、そう解釈した。だから、
「……せっかく今日、家事の役割も決めたんだ。やってみないとまだわからないだろ」
一日を通じて、ちゃんとわかった。直冬は、やはり、ちゃんと、いい奴なのだ。明朗闊達を装いながらこちらを気遣い、距離感を弁え、気を砕いてこちらに言葉をかけてくれる。
それに直冬だって、望んでこの家に来たわけではないのだ。これ以上、直冬の意思が力を持つ誰かによって容易く曲げられるようなことは、きっとあってはならないはずだ。
そうでなくては、道理が通らない。
あるいは師世の言葉がなければ、自分は怠惰に流されて、安易な選択をしてしまっていたかもしれない。師世の言葉があったからこそ、今義詮は、自分の意思を自分で自覚することができた。
「問題があったら、またお前に連絡するよ」
義詮は、はっきりとそう告げた。師世は特に食い下がることもなく、「そうですか」と呆気なく頷いた。
あと、そうそう、とカバンの中を漁り、ヒョイと義詮に何か冊子を渡してくる。雑誌くらいの大きさだが、漫画の単行本くらいの分厚さだ。なんだろうか。
「渡し忘れていました。これ、父直伝のレシピです。今回作ったもの以外の料理も収録されてます」
師世は、素っ気なく告げた。
「工程がわかっていれば、貴方、できるでしょう。一つ一つ、手順通り」
「……ありがとう」
これもきっと、義務感によるものだ。優しさとか、友情とか、そんなものに突き動かされたものではない。
それでも、素直にありがたくて、義詮は少しだけ頬を緩め、もう一度例の言葉を述べた。
・
高階の二人を見送って(師世は自家用車を運転して来ていた)、二人はなんとなくリビングで息をつく。共有スペースに二人が揃っているのはとても珍しいことだ。だが、先ほどの雰囲気がまだ残っていたおかげで、不思議と気まずさはなかった。
「いやあ、本当にうまかった。しかし、何から何まで世話んなっちゃって申し訳ないなぁ。飯とか道具とか洗剤とかめちゃくちゃもらっちゃったし」
「そうでしたね。何か礼をやらなくちゃな」
というか、改めて師直に挨拶しておかなければ……と考えていたところで、「あの」とやや固い声がかかった。
先ほどまであれほど楽しそうだったのに、なんだろう、と振り返ると、直冬のやや緊張した表情が目に入る。
「やっぱお金のことって大事だと思うから」誤魔化すように笑みを浮かべた。「前、必要ないっておっしゃってましたけど。あれも二人で使うってことで。ダメですか?」
すぐに思い至る。前に、義詮が固辞したあの封筒。
やはり、天真爛漫なだけの男ではないのだ。陽気な態度の裏で、ちゃんと色々考えて、色々悩んでいる。
だから、義詮の方も何か返さねばならないと、頭ではわかっているのだ。
だが、心の奥底で頑なになっている自意識の塊が、それを素直に認めることを許さない。
「まあ、……わかり、ました。師世も金銭管理はちゃんとしろって言ってたし……」
結局そんな曖昧な台詞に終わってしまった。
だが、直冬は義詮のその言葉だけで顔をぱっと明るくし、「よかったぁ! あっいえ、ありがとうございます」
「いや、金銭預かる以上礼を言うのはこっちだし」
「いえいえ」
直冬は喜びが抑えきれないかのように立ち上がり、「そうだ、あのオレお風呂沸かしてきます!」と足取り軽くバスルームにてってこ駆けていった。
……なんだか犬みたいな奴だな、と、思わず口元が綻んでしまった。そして、直冬の提案をどうにか受け入れられた自分にも、少なからず安堵の念を覚えた。