エイハブ船長×スターバックさん 始まりはスタッブの一言だった。
この日は1日の中で鯨を3頭も獲ることができ、ピークォッド号では景気よく宴が開かれていた。皆が酒を手にし歌を歌い、はしゃぎ騒いでいた。いつもはすぐに自室に引き篭もる船長であるエイハブもこの日は宴に顔を出しており、とはいえ隅の壁に背を預けながらいつものような険しい顔を解く事無く静かに酒を飲んでいるだけだったが、とにかく皆が上機嫌にハメを外していた。
一等航海士であるスターバックは酒でハメを外しすぎるという事はしないが、それでもいつもより酒を飲み、笑顔で周りの者と談笑をしていた。人格者であるスターバックを慕う者は多く、彼の座る周りには共に酒を飲もうと人が集まる。そんな人混みを掻き分け、二等航海士のスタッブがパイプを吹かせながらスターバックの隣に「よっ」と腰を下ろし、その肩に肘を乗せた。
「スターバックさーん、飲んでますか〜?」
にへらと笑いながら言うスタッブの顔は赤らんでおり、ここに来るまでに相当酒を飲んできた事が分かる。スタッブが首をコテっと傾げる事で彼のはみ出た長いアホ毛がふわふわと揺れ動く。愛嬌のある顔とくるりとした大きな二つの瞳がスターバックを見つめる。
「ああ、飲んでるし楽しんでるよ。何の用だい?スタッブ」
「へへへ〜、実はスターバックさんに聞きたい事があるんです。噂の真偽を確かめたいといいますかね」
「噂?」
スターバックは酒をまた一口口に運びながら、スタッブの話を聞く。
「ええ、はい。実はですねぇ、こーんな噂がですね、今流行ってるんですよぉ。ぶっちゃけて言いますね、スターバックさん。あんたエイハブ船長とデキてるんです?」
ブフゥッッッッ
噴き出した。それはもう盛大に。スターバックは口に含んでいた酒を、スタッブの顔面に向けて盛大に噴いた。
スターバックは顔面に酒を浴びて「うへぇ」などと言ってるスタッブの事など気にも止めず、大きく咳込む。
「ゲホッ、ゲホッッ…!!なっ、なんだその噂は…!!」
この船の中には真偽問わず様々な噂が飛び交う。一つの船という中では娯楽も限られ、その為噂話が一種の娯楽ともなるのだ。あくまで娯楽である為、噂も突拍子もないものも多い。スターバックもかれこれ様々な噂話を耳にしてきた。先日も“大食漢であるフラスクは牛のように胃が四つもあるのだ”や“スタッブからパイプを1時間でも離すと死んでしまう”なんて信じる奴がどうかしているような噂話を聞いている。
しかし、自分に対してだけならともかく、あのエイハブも巻き込んだ噂話を本人も居るこんな大勢の前でするとは。スターバックはバッと後ろ、エイハブのいる方を見る。エイハブはこちらの話など興味無いようで静かに酒を飲み続けている。
(良かった……)
スターバックは内心ホッと息を吐く。今の噂を聞いてエイハブの雷神の如き怒りの雷がこの場に降り注ぐかと思ったからだ。
改めてコホンと咳払いをし、スターバックは目の前で顔に降りかかった酒を袖で雑に拭くスタッブに…、というよりかはこの場で話を聞いていた全員に言い聞かせるように先程の噂話を完全否定する。
「いいか、私とエイハブ船長との間にはそんな甘い関係は存在しない。私だけでは無い、船長に失礼だぞ。第一、私もエイハブ船長にも妻子がいる事は知っているだろう?何故そんな身も蓋も無い噂話が誕生したんだ…」
「いやー、でもほら、こうも男だらけの生活が長いとあってもおかしくないかな〜なんて思いましてね」
相変わらずヘラヘラとパイプをふかせながら言うスタッブの口をスターバックは手で塞ぎ、話を続ける。
「と・に・か・く!!私と船長との間には何も無い!!いいからこんな噂は金輪際忘れるんだ!いいな?」
うーっすという返事や、ちぇーっ面白かったのになどという言葉が所々から漏れるものの、また先程のように宴が再開し、各々自由に話始める。スタッブももはや興味は失せたようで、別の席へと移動し酒と会話を楽しんでいる。
この話はここで終わった……。
かと思いきや、そうはいかなかった。
宴が再開してもこのやりとりがずっと頭から離れない男が1人居たのである。この男は船の中では平水夫の立場であり、スターバックへと人知れず恋心を抱いていた男である。
初めはただの尊敬でしか無かったが、スターバックの優しさや包容力の高い人格は、いつしか男に憧れを超えて恋心を抱かせるまでになった。しかし、これまでは例の噂のせいでこの恋心はずっと胸の内に隠そうと考えていた。あの恐ろしいエイハブ船長相手に敵うはずがない。そう思っていたが、今回、先ほどのやりとりの中で、スターバック本人から自分とエイハブとは何も無いと否定がされたのだ。ならば自分にもチャンスがあるのではないかと、そう思ってしまった。
男にとっては幸運にも、スターバックに近づくチャンスは割とすぐに来た。あれから幾日か後、船が物資の補給の為に港に寄ったのだ。多くのものは久々の陸地に心躍らせ、酒だ女だ娯楽だと遊びに出ようとする。スターバックは普段はエイハブと共に情報収集や買い出しに出掛けて行くが、今回はエイハブは船長室に引き篭もり、なにやら海図と睨めっこをしている。一人で行っても良いが、いかんせん今回の買い出しは物が多く、もう一人人手が欲しいとこであった。そこに自ら名乗り出たのが、例の男であった。他の者は特に自ら名乗り出たりなどはしない。当然だ、せっかくの陸地でわざわざ自ら追加で仕事をしようと誰がするだろうか、遊びに行きたいに決まっている。
そんな事で、男は念願のスターバックとの二人きりを獲得する事ができたのだ。
全ての用事を済ませる頃には日は沈みかけていた。スターバックはこうなると考えていたのか、最初に宿を頼んであり、買った荷物は全てそこへ運んだ。
「あぁ、今日は手伝ってくれてありがとう。おかげで助かったよ、君も陸での休息を取りたかっただろうに悪かったね」
「い、いえそんな…!充実した時間を過ごせました!」
「そうかい?そう言ってもらえると嬉しいね」
金色の髪が揺れ、エメラルドの瞳が嬉しそうに少し細まる。そんなスターバックを見て、男はついに好きという感情が抑えられなくなる。
ーーああ、このエメラルドの瞳が永遠に自分を見つめてくれたら、金色の髪に触れられれば…。あの髪が白いシーツに散らばる光景は、きっと絶景に違いない。この人はどんな甘い声を出すのだろうか、どんな風に乱れてくれるのだろうか……。
男は邪な考えが浮かぶ頃には既に体が前に出ていた。
「スターバックさん…、お尋ねしたい事があるんです…」
男は一歩二歩とスターバックへとゆっくり歩み寄る。
「ん?何かな?」
「この前の宴の席で言ってた事…、エイハブ船長と恋仲じゃないって、本当ですか?」
一歩、一歩とゆっくりと近づく。スターバックも何か変な感じがしたのか、男が近づく度に一歩一歩と後ろに下がる。
「ま、まだその話を持ち出すのかい?あの時そんな関係では無いと否定しただろう?」
「ならば、あの…お願いがあるんです…」
「……っ」
トン
スターバックの後ろはもう壁だ。しかし男は歩みを止めずに近づいてくる。
ついに目の前に立った男は、壁に寄りかかるスターバックの腕を手で固定し、顔を近づけてくる。
「は、離…「お願いです、僕を受け入れて下さい」
男はそう言ってスターバックの首元に顔を埋め、軽いキスを何度もし始めた。
「やめ、やめろ、離したまえ…!!」
「ああ、スターバックさん…。貴方の瞳はエメラルドの宝石のように本当に美しい…、食べてしまいたいほどに」
ベロリ
首元から顔を起こしたと思えば、男は今度はスターバックの右目付近を舌でひと舐めした。
スターバックは当然抵抗した。しかし、身長ではスターバックの方が上だが、痩せ身のスターバックに対し、体格では男の方が優っていた。
男はスターバックの顔からまたさらに首、鎖骨、胸元へと啄んだり舐めたりを繰り返していく。男は興奮したように夢中になって繰り返すが、当のスターバックからすれば嫌悪感しか感じられない。そんなスターバックの様子など他所に、男は器用にも片手でスターバックを押さえつけながらもう片手でシャツのボタンを外していく。いや、そんな丁寧なものではなく、男はボタンを一つずつ外すのはまどろしかったのか、スターバックのシャツを引き裂くようにボタンをブチブチと外し、シャツの中の肌を露わにさせた。
ついに男の手がスターバックの腰にまで触れた時、
バンッッッ
と大きな音を立て、部屋の扉が勢いよく開かれた。そこに立っていたのは、神でも仏でも一目散に逃げ出すような震え上がるような怒りの破棄を纏った船長エイハブだった。
エイハブはゆっくりと2人に視線をやり、口を開く。
「貴様、貴様は一体誰の許可を得てワシの友に手を出している」
「ひっ…!」
「貴様はスターバックが、ワシの友がワシのモノと知っててこのような行為に及んだのか。この男はワシのものだ。この髪から足先に至るまで、全てがワシのものだ。それを分かっているのか?」
「あぁ、あ…っ!」
男は腰を抜かして尻餅をつく。エイハブはそんな男に近づき、鯨の骨で作り上げられた片足を勢いよく振り下ろして言う。
「今すぐ宿からも船からも姿を消し去るか、鮫の餌にされるか選ぶが良い」
「ひぃっ……!!」
男は腰が抜けたまま慌てて走り出し、部屋を去っていった。残されたのは、スターバックとエイハブの2人だけである。
スターバックは気が抜けたように、その場にへたり込んで、エイハブを見上げる。
「あ、あの…、エイハブ…船長。私はその…」
「スターバックよ」
「…っ」
何か言わなければ、先程のことを弁明しなければ。そう思いスターバックは口を開くも、エイハブがそれを制する。
「スターバック、ああ、スターバックよ。お前は誰のものだ。お前はワシのものだろう?ワシの心の友であり、このエイハブの良心であり、羅針盤でもある。お前はこのエイハブのものだ。誰にもやるつもりは無い。だというのに、なんだ、先程の事は。お前にはまだ自覚が無かったようだな……。
仕置きが必要か、スターバック」
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日が窓から差し込み、小鳥の囀りが聞こえる時間、宿のベッドの上でエイハブは静かに目を覚ます。身を起こすと、木でできたベッドがギジリと軋む音を立てる。
隣を見れば掛布団から乱れた髪がはみ出ているのが見える。スターバックだ。大方、肌寒くて頭まで布団を被っているのだろう。なんせ今スターバックは何も身に付けていないのだから。軽く布団を捲ると、寝息を立てた横顔が現れる。昨夜、あのあと顔を真っ赤にして乱れに乱れ、甘美な声で喘いでいた情事の面影は無く、しかしあの美しいエメラルドのような瞳から大粒の涙を流したせいか、目元付近が少々赤くなっている。
エイハブは、そんなスターバックの赤らんだ目元を優しく手で触れながら呟く。
「…白鯨といいお前といい、ワシのものには多くの者が惹かれ近寄ってくる。だが、だが誰にもやるつもりは無いぞ。よいかスターバック、よいな」
スターバックからの返事は無い。エイハブはスターバックからそっと手を離し身支度を整える。それから部屋の扉の前にまで行き、最後に一度ベッドの方を振り返ってから扉を開け部屋を出た。
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その日、ピークォッド号から1人の男が消えた。急な消失はまた新たな噂を呼んだ。
“その男はスターバックに手を出したのだ。だから消されたのだ”
甲板でパイプをふかせながら、スタッブはその噂を聞いた。スタッブは驚いた。まさか本当にスターバックに手を出す奴が出たのかと。
スターバックほど船長エイハブに気に掛けられているやつはおらず、それはもう友愛というには一線を超えているレベルである。
(しかしまぁ、もうこれでスターバックに手を出そうとか、あわよくばを狙うやつは居なくなるんだろう)
スターバックはおそらく気づいていないが、陸地からもどってきたスターバックの首裏には酷い赤い蕾の跡と、深く噛みついた跡が残っている。わかりやすいほどの牽制で、それをつけた相手が誰かなど分からないバカも居ないだろう。
(あんたもエイハブ船長の対白鯨への執着はご存じでしょう?あんた自身も船長の執着心にぐるっぐるに絡められてるんですよ、スターバックさん。あんたがどれだけ否定しようとも、逃げられませんよ)
スタッブは心の中で仲間の一等航海士にご愁傷様と思いつつ、ゆったりとパイプをふかせた。
ー完ー