深い森に包まれた館の中、出られもしない窓から差し込む薄暗い光が、広間にぼんやりと影を落としている。陽の光だけが呑気に暖かに差し伸べていた。
婦人は可愛らしいドレスに身を包み、楽しげに食卓で微笑んでいる。長い黒髪の先端がまるで溶けるように白く染まっていた。その赤い瞳が、鋭くも楽しげにチュチュを見つめる。
「チュチュ、どうしてそんなに怯えた顔をしているの?毒なんて入ってないわ、冷める前にお食べなさいよ」
婦人の声は甘く、優しい。しかし、その瞳の奥には、何か底知れぬものが宿っていた。
「……な、なんでも…大丈夫です、何も…」
チュチュは自分の長い髪の束を指先でいじりながら、小さく声を絞り出した。
「まぁ、本当?私たちは家族なのよ。…嘘なんていらないのに、何が気に食わないのかしら」
蝶婦人はにっこり微笑むと、ゆっくりとテーブルの上のティーカップを指先でなぞった。
返す言葉もなく、途方にくれて机に視線を落とす。言えるはずもない。まるで犬の餌のようにぐちゃぐちゃと並べられた、料理というのも冒涜的なソレを当然のように差し出されて、何が気に食わないだって、まるで正気では無い。
「…………」
「黙ってちゃ伝わらないわ、食事の仕方も分からないのかしら?食べさせてあげましょうか?」
「っ、要らないです!!」
机からみを乗り出す婦人を必死に拒絶し、食事から目を逸らす。どうにかして食べずに済む方法は無いのだろうか。食事というのは生きていく上で必然で、食欲は三大欲求にも含まれて、衣食住という言葉のあるようにごく普通に生きていれば当然のように生活に組み込まれた物であるはずなのに、普通の生活すらもできず頭を悩ませなければいけないのか。
こんな館から帰れたら、きっとおいしいごはんが待っているはずなのに。
チュチュだなんてふざけた名前で呼ばれることも無く、暖かい家庭で両親に名前を呼ばれてみんなで食卓を囲んでいたはずなのに。
「ねぇ…そんなこと思わないでちょうだい?」
「ここが貴方の帰る家。いつまでたっても迷子になって、ちゃんと教えてあげたのにまだ分からないのかしら?」
「っ、え、…こころ、よめるん…ですか」
「いいえ?あなたったらあんまり分かりやすいんだもの!」
喉の奥が、詰まるような感覚。
「……僕は……帰る家が……他に……」
「他に?」
蝶婦人は声を落とし、その赤い瞳でじっとチュチュを見つめる。
「……い、いえ。なんでも……ないです」
か細い声でそう言うと、チュチュは視線を逸らし、震える手を隠すようにテーブルの下に置いた。何も言えない。反抗できない。自分が情けない。申し訳程度に置かれたフォークで、あの甘ったるい声を出す喉をついて倒してこの館から出てしまえればいいのに。
蝶婦人はその様子に軽く首を傾げ、「ふふ、かわいいわね」と笑った。
「でもね、チュチュ。もう貴方には私達しか家族は居ないの。早く受け入れてちょうだいね」
その言葉に、胸がぎゅっと締め付けられたような気がした。
黙りこくって時計の針ばかりがチクチクと脳を叩く。婦人がカップを手に取り、「先生を呼んでくるわね」と軽やかに立ち上がった。その背中を恐る恐る見送る。
………
婦人が部屋を出ると、代わりに先生が入ってきた。青い髪をハーフアップに結い、白い義足が床をコツコツと叩く音が響く。彼の白い瞳は何も映していないはずなのに、どこかチュチュを捉えているようだった。どうせ分からないと思って思い切り視線を逸らしてやった。
「君、婦人をまた困らせたのかな?」
先生は笑みを浮かべながらソファに腰掛ける。
「……困らせたって構わないじゃないですか」
あんな人に対して、気を遣わなきゃ行けないのかだなんて不満を抱えてきっと睨む。
「あはは!君は正直だから、そうだろうね。けれど、あまり感心しないな、命は惜しいだろう?……チュチュ、君は嘘をつくのが下手だ」
チュチュは肩を震わせた。
「嘘じゃないです。全部全部本当におもってる……僕、ここが家だなんて思ってません……!」
先生は少しだけ沈黙し、無造作に青い髪を耳にかけた。
「君、婦人がどれだけ寂しい人か分かってるかい?」
「……だからって、僕を閉じ込めていい理由にはならないです!」
思わず声を荒げる。らしくない、なんて思っても理不尽さに対する怒りはそう簡単に収まらない。
先生は静かに笑い、「言いたいことは分かるよ。私もね、君の気持ちはよぉくわかる……ただ.君が逃げ出せない理由、考えたことはあるかな?」と軽く問いかけた。
「……理由……?」
「そう、理由。婦人が怖いから逃げられないのか、それとも……ここに居ることが、実は君の本心だったりするんじゃないかってね」
先生の言葉は静かで柔らかい。しかし、その言葉がチュチュの胸に重くのしかかった。
「……そんなはず、ないです」
「かもね」
先生は軽く肩をすくめ、立ち上がった。
「けど、婦人も、私も、そして君も、みんな少しずつ嘘をついてる。それを覚えておくといいさ」
「だけれどね、私は君に危害を加える気はないよ。少しは頼ってくれてもいいんだ…私じゃ、駄目かな?」
「…信用、できないです。貴方も。」
おや、と面白そうに先生は声をたどってこちらを向く。真っ直ぐに見つめるその目はどこか自分から外れている。
「ふふ、盲目の医者は信用出来ないかな?」
「はい」
「うーーん正直だね君、先生びっくりしちゃった。」
くすくすと愉快そうに笑っている姿をじと、と睨みつける。医者かどうかも怪しいくせに。
「……とりあえずは、チュチュも私と同じご飯で良いと伝えておくよ。ここで住みやすくいるためにさ、私はいくらでも協力するつもりだからね」
「じきに日が暮れる。今日はもう逃げようなんて思わないで、ゆっくりおやすみ。」
…話しているといつの間にだった。ああ、今日も逃げられなかった。結局食べ損ねた食事にくぅと腹を空かせて寝室へと向かう。あと何回、日が昇って降りても逃げられる気がしない。それでも、きっと帰る場所があるはずだと、今は信じるしかなかった。