聖戦これは聖戦である。
掲げられた剣は幾千本の束となり、雲を払い天を突いた。父に祈りの舞踏を捧げるのは、天使長ミカエル様だ。六枚の羽根を荘厳に広げ、振るう刃が冷たい風切り音を立てる。その場にいる誰もが、美しさに息を呑んだ。対になる片割れと瓜二つの顔。ガラス玉のような瞳で彼方を睨みつける。柳眉を逆立て、矛先は反乱軍の長へと向けられていた。
「まさか、アイツが叛逆を起こすなんてね。」
「…彼の者は、傲慢なのです。お父様を出し抜こうなど、驕りが過ぎる。」
「そうだね。君が一番、アレをよく知っている。」
二人とも、無意識に名前を呼ぶことを避けている。情は、戦いに不要だ。胸の内に湧いてこないよう固く蓋をする。
ミカエル様と話すのはこれが初めてだった。忙しなく自分の創作物を披露してくる奴とは違い、冷静沈着で他人に流されない。常に前向きで、虎視眈々と天使長の座を狙っていたようだ。自信から来ているであろう余裕に満ちていて、話し方も、なんというかおっとりしている。
側にいるだけで、ひりついていたはずの私の心は幾分か癒された。
「アイツが憎いかい?」
「…憎しみは、もちろんありますが、私にとって彼は何なのか、わからない。本当にわからないんです。でもこうなったことは当然です。罰を受けるべきだ。」
「あぁ君は、優しくて強いね。」
海のように凪いだ声。素敵なお方だ。私のような愚か者にも、分け隔てなく慈悲と憂いをくださる。父の隣に立つに相応しい大天使様だと思った。
「歌ってくれないか。私とて奴の相手は、骨が折れそうだ。」
「喜んで。貴方を祝福いたします。」
父を、ミカエル様を讃え、軍を鼓舞する様に喉を震わせる。歌で力を与えることができるのは、何もリリスの専売特許ではない。
私たちは同じ塵から創られ、魂を分かち合っているのだから。
歌っている間中、ミカエル様は目を細め、私の手を取って空と地上との境目を浮遊する。
「この戦いを見届けたら、君は楽園を追われるんだね。」
「お父様の言いつけを、破ってしまいました。」
「寂しいな。もう少し君の歌を聞きたかった。」
いつかの日の奴と、同じ顔で同じことを言うものだから、胸がきゅう、と締め付けられた。知恵を得た私は、イヴと共にこの地を去る。父は厳しくも優しく、皮の衣服と義務を与えてくださった。新たな地で私は、子孫を、人類を、増やさなくてはならない。
「私を見て、覚えていて。君の歩む道がどんなに辛くても。信仰は、大いなる力になる。」
手を強く握られ、あまりにも真っ直ぐな視線で射抜かれる。これがアイツだったら、モジモジと眉根を下げて、少しばかり照れ臭そうにしただろうか。何処にいても、何をしていても、あの男のことを考えている。悲しいと思った。今日が終わればもう二度と、会うこともないだろう。
「逆賊を撃ち落とせ!!」
ミカエル様が咆え、火蓋は切って落とされた。天使軍と反乱軍の戦争が始まる。私を抱え、最前線で全てを見届ける父の手は大きく、しかし薄い掌からは温度を感じない。暖かいミカエル様の手とは対照的だった。
私と同じ造りをしている顔からは感情の一つも読めはしない。もしも思考すら同じであったなら、きっと怒りよりも、悲しみが心を占めているに違いない。私が父の心中を推し量ることなど、到底出来はしないのだが。
ミカエル様は一騎当千の活躍で、血飛沫の中を飛び回る。口調からは想像もできない、速やかな殺しは冷徹だった。甲冑の着けられない羽根ばかりを狙って、反乱軍の中央を切り裂き、自軍に道を作る。進む先にいるのは、青い目をした聖天使。
「ルシ、………!」
ハッとして、両手で口を押さえる。今、父の前で奴の名を呼ぶのは不敬である。
見たこともない悲痛な顔をして、ミカエル様に必死で何かを訴えているように見えた。
甲冑も着けず、両手には、何の武器も持っていない。あまりにも無防備だった。私はなんだか見ていられなくて、だけどミカエル様が見ていてとおっしゃったので、父にしがみついて薄目を開けていた。これは私を裏切った報いなのだと、強く自分に言い聞かせる。
胸の真ん中を貫かれ、地の果てへ堕ちていく様を、特等席でただ眺めていた。
穴だらけの羽根に寄り添うよう共に穴へ堕ちていくリリスを見て、私はその時確かに、羨ましいと思ったのだ。
*
イヴとの暮らしは苦しくも楽しく、必死で働き、子どもたちに教えを説いているうち、私は930歳で永眠した。老衰だったと記憶している。
あまり大きな病気や怪我をすることなく、頑丈な身体に創ってくださったことに何度も感謝した。そのおかげで、私たちはこの地に満ちることができた。
いい人生だった。悔いがあるとすれば、もう一度だけ、あの二人に会いたい。
「やぁアダム。久しぶりだね。」
「み、ミカエル様…?ここは…」
「ここは天国。君は見事、昇天したのさ。」
シワだらけであったはずの身体は瑞々しく張りが戻り、創られた時と変わらぬ姿になっていた。背中には、大きな金色の羽が授けられている。大聖堂にはあの日剣を振るった天使たちが集い、その一番奥に、父のお姿が見えた。裸体が衆目に晒され酷く恥ずかしく、与えられたばかりの翼で身体を覆い隠すと、ミカエル様は魔法で厳かなローブを纏わせてくださった。
「言っただろう。信仰は大いなる力になる。君は死ぬまで父を信じていた。だからここに戻って来られたんだ。」
温和に微笑むミカエル様は数百年前と寸分違わぬお姿をしていて、相も変わらず美しい方だった。私に空の飛び方を教え、街も虹色キャンディもまだ何もない、ただ美しいだけの土地だった天国を案内してくれた。
「ミカエル様は、まだ天使長を?」
「そのことなんだが…私は君に立場を譲りたい。」
「元人間の私など…力不足です。」
「謙遜はやめなさい。」
悪魔たちが地獄で栄え始めている。大天使様は神妙な面持ちで語り始めた。このままでは天国の安寧は脅かされる。セラフィムはまだ渋っているが、粛清を始めるより他に方法はない。あの男共々、罪人を地獄に縛り付けておくのが君の次の役割だ、と。
「今もまだ、アイツのことは憎いかな?」
「……はい。あの男は私の、」
人として生きた930年の間で、私は確かにその答えを見つけ出していた。
「私の、隣人です。」
____汝の隣人を愛せよ。
数ある教えの中でこの言葉が一等、深々と胸を突き刺している。
目を閉じてうなづいたミカエル様が一つ指を鳴らすと、キラキラとした光の中から、仰々しい角の付いた被り物が現れた。
「君は強くて優しいから、立派な戦士になれる。この仮面をつけている間は、悪魔の真似事をして享楽に溺れなさい。」
悪魔を模しているであろうデザインは天国に似つかわしくなく、ミカエル様は私の額と頬にそれぞれキスをして、手ずから仮面を被せてくださった。私は跪いて、手を胸の前で組んで首を垂れる。
まるで戴冠の儀のようだった。
「不遜に、下品に、尊大に振る舞いなさい。君は全ての始まりで、スターなんだ。」
「はい、わかり………わかったよ。ミカエル。」
「ふふ、上手だ。」
汚れ仕事を押し付けるために、体のいい言葉を並べただけ。そんなことは、私の矮小な脳味噌でも分かっていた。
それでも、だとしても、嬉しかった。
私はアダム。私はスター。
罪人は悪で、殺人は魂の救済。
何度も何度も言い聞かせ、一度目のエクスターミネーションの日が訪れる。私の率いる軍はまだ小さかったが、それでも無抵抗な住人を踏みつけるには十分な戦力があった。
あの日の天使軍のように、斬りつけては刺し殺す。これは愉快な娯楽だ。
けれど初めて降り立った地獄は薄気味悪く、あまり長居はしたくない。この場所にいつまでも閉じ込められるなど、ロマンチストのあの男にはさぞ堪える仕打ちだろう。
信仰は大いなる力で、父に祈れば祈るほど、私は強い光を放つことができた。
神聖な光は街中を焼いて、一度目の戦果にしては、屠った魂の数は上々だ。
結局奴は最後まで、私の前に現れることはなかった。
懐かしい、赤色をした血を洗い流す。今や金となった体液は、私の心臓から末端までを組まなく巡っている。
仮面を付けている時間はどんどん長くなり、ついには入浴以外の時間は常に付けるようになっていた。
毎年毎年、地獄を蹂躙する度期待して、そして邂逅は叶わない。再び奴と会い何を話したいのか、もう忘れてしまった。
死の間際、会いたいと思った気持ちは、本物であったはずだが。だんだんと薄れ消えていく。人として生きた時間を、天使の生が超える頃。仮面を付けた私が、本来の私となる頃。胸の内には憎しみだけがポツリと残された。
「ボス。本日の会議ですが、王の娘が代理を勤めるようです。」
「ハッ、私に恐れをなしたな!腰抜けめ。」
元々今日の会議は、ホログラムで行うつもりだった。腰抜けは私で、恐れているのも、多分、私の方だった。娘が来ると聞いて、わかりやすくホッとしている。
ガキの一人くらい、適当にからかって、それでおしまいだ。
今更あの男と会って、憎しみ以外の感情を思い出すのが、酷く恐ろしかった。
大使館に現れた娘はスラリと背丈が大きく、ちんちくりんのクソガキを想像していた私は肩透かしを喰らった。どうやら容姿はリリスの方に似たらしい。
だがしかし、つらつらと世迷言を並べる姿は、かつて私に夢を語った男と重なる。胸糞が悪く、平らげたスペアリブが、胃から迫り上がってきそうだった。
幾千年ぶりに感じた不快は、私の仮面の奥をぬるりと撫でる。
エクスターミネーションを早めたのは、立場を明確にする為だ。
提案を跳ね除け、突き放し追い出した。
忌々しい。早く私の視界から消えてくれ。
力強く、扉を閉めた。
*
これは聖戦ではない。
殺戮は、一方的であるべきだ。ラジオデーモンは中々骨のある男ではあったが、死すべき魂では万年の信仰を捧げた私の相手にならなかった。影になり消えていく彼にお別れの挨拶を済ませる。
「罪人たちは私の家族よ!」
ああうるさい。このお姫様はイカれている。油断していたら、うっかり脇を刺された。流れ出す金の血が自分のものだと理解するのに、数秒ほど時間を要した。
痛い。ヘルペスよりも、ずっと痛かった。
華奢な首を掴み上げる。この娘をブチ殺して、終わりにしよう。もう二度と、父親の顔を思い出すことのないように。
その直後、私の身体は思い切りふっ飛ばされた。仮面の半分が砕けたが、素顔を晒した羞恥よりも、突如現れた男への驚きが遥かに優っていた。
「私がお前にブチ込んでやる!」
おいおい、数万年ぶりの会話が、こんな始まりでいいのかよ。何を話そうかと考えていた過去の自分がアホらしく、私は鼻血を垂らしながら呆然と奴を見つめた。周囲の者たちも、皆唖然として動きを止めている。
嫌われ者め。許せない。会いたくなかった。愛したかった。隣人にするように。会いたかった。会えなかった。塞いでいた感情が渦を巻いて、どこにも行き場がない。人の気も知らないで奴は、余裕綽々に私を煽る。
ああ本当に、貴様が憎くて愛しいよ。
地面に叩きつけられた後、自分が何を喚いたか、よく思い出せない。
背後から胸を刺され、部下が駆け寄って来る。聖戦の時と、逆の立場だ。死にゆく私を、白い悪魔はただ眺める。あの時の私はリリスを羨んでいたが、リュートの泣き顔を見た今では、こんな思いをするのは絶対に嫌だと思った。
*
揃いの胸の傷は、忘れ難い痕となって身体に刻まれている。痛烈な再会と、二度目の死。私の生涯はキリの良いところで幕を閉じた筈であったのに。
「何故、私を助けた?」
「たまには教えを守ろうかと。」
私の命を繋いだのは、ルシファーの隣人愛であった。なんとも奇怪な話である。
私を戦士たらしめたミカエル様の仮面も、粉々に砕かれて消失してしまった。
今の私は、人間でも戦士でも、天使でも悪魔でもない。
ただの、ルシファーの隣人だった。
自分のように、あなたの隣人を愛しなさい。
父のお言葉を、体現しているだけだ。
私たちは遥か昔から、今この瞬間に至るまで、深く強く、愛し合っていたのだった。
万の空白を埋めるように、いつまでもいつまでも、二人して傷を舐め合い続けていた。