純銀よりもいぶし銀を「ねぇ、うちに来ない?君の力が必要なんだ」
銀座が呼び掛ける『君』のマゼンタ色の眼を見ながら、言葉とオレンジ色の強い目線が共に心身を貫いた。
「浅草さんも新宿さんも、いい加減に朝礼始めますよ」
「寒いしあと一分ーー」
「さっきから何回同じ事を言ってるんですか」
「あー…十二回くらい?」
「分かってるなら、早くストーブから離れて集まってください」
いつもの朝の風景。ここ最近は本当にどこでも厳しい寒さが続き、朝礼を始めるのも一苦労である。三田がいる時は一緒に怒ってくれるので幾分か楽だが、早出など諸事情でいない時は常にこんな感じだ。浅草と新宿も、後輩だけが言っていてもあまり怖く感じないのか、はたまた反応が面白いのかつい素直に従わず抵抗してしまっていた。
更に言えば、浅草と新宿の二人が上層部の知らせを伝えるのをあまり覚えておらず、肝心な事ほど忘れている場合も少なくない。故に、今は情報周知係を大江戸が殆ど請け負っている。これでは、どちらが先輩か後輩か分からない状態であるのは大江戸もしばしば思ってはいるが、現状では口を挟んでも無駄なのは目に見えてるので、出来る事を全うせねば、と考えを切り替える事で毎日乗り越えていた。
「あ、やべもうこんな時間!流石に始めよっか、ほら新宿!」
「寒いけど、まぁ仕方ないよね」
「やっとやる気になりましたか。本日の周知事項はですね」
始めます、と大江戸が最初に宣言してから30分。ようやく話を切り出せた。中身もそこそこに解散し、それぞれの向かう場所へと行く。大江戸はまず上野御徒町駅へ行って地下道を歩いていると、聞き覚えのある優しい声に呼び止められる。
「あれ、君は都営の大江戸くんじゃない 」
「銀座さん、こんにちは」
「どうしたの?冴えない顔して」
「私、そんな顔をしていましたか」
「隠してるつもりかもしれないけど、顔をあまりあげようとしないし見られたくないのかなって」
流石はメトロ、もとい地下鉄の重鎮。伊達に80年以上走っていない。ましてや20年そこそこの若路線の気持ちなんて、いともすぐ見破れるのも想像に難くない。
「最近、色々な事があり過ぎてまして」
「そう。もし今時間あったら、紅茶でも飲んでいかない?少しでも気分を落ち着けたほうがいいよ」
「ですが、わる――」
「もしかして、紅茶飲めない?」
「いえ、好きです、が」
「じゃあ、おいで。君なら大歓迎だから」
そう言うと銀座は大江戸の右手を取り、こっちと言わんばかりに引っ張って歩き出した。突然重心が前に動いたものだから、大江戸は少しよろつきつつも、いつもの歩調に戻していく。移動しながら、自分と60以上違うのに凄い力が出る事に感心していた。
でも、どうして突然こんな。大江戸がぐるぐると考えている内に到着したようで、歩が止まる。
「入って。好きに座っていいから」
「あ、有難うございます」
「僕自身が戻る予定で今丁度淹れるところだから、ちょっと待っててね」
一歩踏み入れると、そこは正に紅茶の殿堂と呼ぶにふさわしい、洋風で綺麗な小道具と雰囲気に包まれている。お茶会、という言葉がとても似合う。
ひとまずソファーの手前に腰掛けたものの、どうも落ち着かないのか大江戸は思わず首と視線をぐるりと回していた。360度どこを見回しても整って洗練されている空気で、生活感が丸出しの自分達の部屋とはまるで大違いだ。
さあっと一通り見終わるのと同時に、重鎮がお茶菓子と共に戻る。
「お待たせ。お菓子もあるから好きに食べて」
「何から何まで、申し訳ありません」
「…やっぱり見慣れない?ずっと首が動いてたから」
「そうですね、失礼しました」
待ってる間も見られているとは思わなかった大江戸は、僅かでも照れたのか少し顔を俯かせた。銀座は「ふふ、全然」と笑って向かい側につく。紅茶を一口啜って飲み込むと、すーっと温かさがじんわり広がり、自分もこの部屋に馴染んだかのような錯覚を起こす。
「それで『色々あり過ぎる』とは、例えば?言える範囲だけでも誰かに話す事でだいぶスッキリするから、我慢しなくていいよ」
大江戸は、抱えている悩みを話すべきか一瞬迷った。相手はなんせ競争相手である路線会社のリーダーだ。しかし、都営の仲間内で真剣に聞いてくれる人はいない。唯一真剣に聞いてくれそうな三田も、自分と似た悩みを抱えており解決とはなりそうにない。
結局、そもそもこの人の前ではどう取り繕っても全て見透かされるだろうから、簡単にでも話したほうが無駄がない、と判断した。
「…ば…みたいに…」
「ん?」
「どうすれば、三田さんみたいに怒れるんでしょう、と最近ずっと考えてまして」
「三田みたいに怒れる、とは?」
「朝礼や会議などを始める時に、すぐ始められた試しが1回もないんです。三田さんがいる時はしっかり怒ってくださって、お二人もしぶしぶ了承してスムーズなんですが、後輩の私だけの日だとどうしても」
「ふーん…1回もないなんて、それは深刻だね。僕から、1つだけいい方法があるよ」
「何でしょうか、それは」
敵陣とはいえ、ずっとこの立場から見てきた重鎮からいい方法がある、と聞いた大江戸はここに来てから初めて顔を上げて、心なしか眼を輝かせた。だが、それはとても残酷な解決策だった。
「大江戸くんさ、この際メトロに来ない?僕なら浅草よりももっと上手く、かつ的確に君を動かせる自信があるし、君のその能力はメトロにも必要だと強く感じるんだよね」
「え、ですが」
「あと、都営さんはみんな君よりずっと年上だから、同年代ならではの話が出来ないでしょ。うちの南北は同い年だし、更に下には副都心もいるし。もしかして南北の事は好きじゃない?」
「いえ、そんな。南北さんは私と正反対で、面白い方だと思います」
「それに、いくら出来るからって若い子に何でもかんでも任せて、結果的にこんな疲れた顔にさせちゃってさ。僕だったら、絶対させないのに!」
言い切った瞬間、オレンジとマゼンタの目線が交わる。それにまず耐えきれなくなったのは、マゼンタのほうだ。あまりに強くて真っ直ぐで、心からのものだと嫌でも伝わったからだった。
「銀座さん、私は」
「すぐ返事出来ないのも分かってるよ。だけど、君も開業して24年。そろそろ本当にこのままでいいのか、考え直す時が来ているんじゃない?いつ返事をくれてもいいようになってるから、答えが出たら聞かせて頂戴。今日は付き合ってくれて、有難うね」
「こちらこそ、お邪魔しました。紅茶とお茶菓子、大変美味しかったです。ご馳走様でした」
お礼を述べて立ち上がると、出る支度をする。忘れ物もないことを確認し、銀座がドアの前まで見送りをしてくれた。大江戸はドアを開けて「失礼します」と深々とお辞儀をし、部屋をあとにした。
「やっぱり、あの子を都の犬として燻らせておくには勿体無いよねぇ…」
現状でいいのか、それともまだやり直せるうちにやり直すべきなのか。その時から大江戸は、ぼうっと考え込む日が多くなった。その異変に一早く気付いた浅草が大江戸を呼び出し、問いただす。
「大江戸さ、何かあったでしょ」
「何でもありません。大丈夫です」
敵陣側のはずだった銀座にはすぐ言えた弱みが、言えない。ましてや、そちら側へ勧誘の話をされているなんて、尚更言える訳がない。だから、心配して聞いてくれているのを分かってるのに、つい悪い癖で突っぱねてしまう。
「もう、強情張るのは可愛くないよー」
「可愛くなくて結構です」
「…言えないなら、言えるようになってからで全然いいから、必ずお兄さんに言うんだよ?」
「もうお兄さんって歳じゃないでしょう」
浅草は大江戸の頭を右手でくしゃっとかき回す。12号線時代から度々やってくれたのを今でも覚えている。これをされると何でも出来そうな気になって、態度にこそ直接出さなかったが、昔から嫌いではなかった。
「あの、浅草さん」
「お、言う気になったのー?なになに?」
「…朝礼は、もっとちゃんと始めましょう」
「そうだね。俺ら、みーたんの時しか動かなかったもんね。負担になってたんだったら、ごめん」
「分かってくださればいいんです」
(確かに、浅草さんは銀座さんに比べれば至らない点があるのは分かるし、ここには同年代の方はいないし、無理して悪い感情を押し殺してても気付かれない時もある。だけど、察してくださった時は皆さんなりに真剣に心配してくれて、一番丁度良い距離感で優しく接してくれる。それがなくなるなんて、正直考えられないし考えたくない位に有り得ない話だ。
――やっぱり、私は)
「浅草さん」
「ん?」
「私は、誰になんと言われようと都営の皆さんが好きです」
「俺らもね、大江戸の事は特に大切にしたいと思ってるよ。計画が一時ずっと凍結された中、生まれてきてくれたんだし。何があっても放す気はないし、渡す気も一切ない!」
こちらを向いた浅草の視線を、逸らす気になれなかった。銀座の、あのオレンジの目線も確かに強かったが、 今の大江戸はこのローズ色の視線を信じたい気持ちで一杯になっている。
明日、あの重鎮様へ今の気持ちを伝えよう。そう決心を固めていた。
やがて夜が明けて朝が来る。昨日の浅草の宣言通り、ストーブに張り付いていた二人も1回で離れてくれた。特に追加の特記事項もないので、早々と終わる。
「では、私は向かう場所がありますので」
「朝から?いってらっしゃーい」
「知らない人にはついていっちゃダメだぞ」
「新宿さん、私はもう子供ではないですから」
パタン、とドアが締められ、浅草と新宿が残された部屋にはしばしの沈黙が訪れる。新宿がパッと机を見やると、ペンが一本置きっぱなしだ。本体の色から察するに、大江戸のものだろう。
「忘れ物なんて、やっぱりまだ子供だよねー。まだそこまで遠くないだろうし、届けに行くか」
「でもどこ行ったのか分かんの?俺が行くよ」
「浅草知ってんの、行き場所」
「分かんないけど、ここはリーダーがだな…」
リーダーの重要性を好き勝手に説いていると、廊下からけたたましく走る音と共にバンッと乱暴にドアが開いた。音の主は三田だった。
「そんな急いでどーしたのみーたん!早番だから朝礼に出なくて良かったでしょ」
「お前ら何のんびりしてんだ!大江戸がメトロんトコに行っちまうかもしんねーのに!!」
二人は聞き間違えたのか、と言わんばかりに凄く驚いた顔をしている。そんな話は初耳だし、寝耳に水どころか滝レベルだ。
「は、なんで!?」
「さっき南北のヤツから聞いた。銀座が大江戸にメトロへ来ないか、って話を持ちかけてるって…反応も悪くなかったし、来たら宜しくって言われたんだとよ!」
「何ソレ超一方的、って浅草!?」
三田が話し終わる頃には、マゼンタ印のペンを握り締めて浅草は飛び出していた。
(万が一外れてるかもしれないけど、もしあの重鎮サマに会う為に早く出ていったならきっとあの駅だ――!!)
そして一方、大江戸は先に銀座の上野駅構内に着いていた。狙い通り、目的の人物はそこにいた。
「銀座さん、おはようございます」
「おや、大江戸くん。おはよう、1週間ぶりくらいだね。意思はもう固まったの?」
「ええ。今日はそのお返事をしに」
「聞かせてもらおうか。何なら場所変える?」
「いえ、ここで大丈夫です」
決心の固まった真っ直ぐなマゼンタの眼を、銀座はこれでもかと見つめる。その瞳は、さながらロードライトガーネットの様だ、と固唾を呑む。数秒間の静寂が流れたところで、口を開いて告げ始めた。
「銀座さん。私は、メトロさんには行きません。都営のまま、大江戸線として走りたいです」
「理由は?」
「確かに、メトロさんのほうが儲けもありますし、環境もいいのかもしれません。ですが、私は今まで培ってきたものを手放す事は、考えられませんでした。浅草さん・三田さん・新宿さん…誰か一人でも私の周りからいなくなるのは、何もかも終わったも同然です。銀座さんのご期待に添えず、申し訳ないですが」
「――そう、それは残念だね。でも、1つ分かった事があるよ」
「何でしょうか」
「僕は、浅草は完全にやりたい放題の放任主義だと思ってたんだけど、ちゃんと後輩を育ててるんだなぁって。組織の誰か一人でもいなくなったらダメ…うちの後輩組でこう言えるのは何人いるかなって、今ちょっと考えちゃった」
「きっと、皆さん思ってます。私が思っているように」
「そうだといいけどね」
告白を終えた後の空気は、意外と和やかに流れる。後ろめたさも逆恨みもなく、清々しさすら感じるほどだ。
「では、この辺でお暇します。お時間をいただいて有難うございました」
「今回はごめんね、変な事言っちゃって」
「いえ、立ち位置を考え直すいい機会になりました」
「今日の君の表情、この間とは大違いで若者らしく凄くキラキラしてて、眩しいくらいだよ。 ずっとその顔でいられたらいいね」
「そうですか」
「会ったらまたお茶でもしようよ。あ、メトロに来たくなったらいつでも言っていいからね」
「は、はぁ。ありがとう、ございます」
最後が少々引っ掛かりつつ、大江戸は銀座に別れを告げたのだった。
歩いていると、前から猛ダッシュをしてきた特徴的なローズのおじさん――もとい、浅草が息を切らしながら全力で駆けてきたのが見える。向こうは向こうでこちらの姿を認識した後もスピードを弱めず、そのまま抱きついて止める形になった。浅草はその勢いのまま、大江戸を思いっきりぎゅうと抱き締めている。
「浅草さん、どうして」
「はぁっ…おー、えど、わすれ…もの、あった、でしょ……」
「忘れ物――あ、右手に持ってるペンですか。それくらい、後ででも」
「そう…それと、はぁっ、どっか、行っちゃわ…ないよーに、ね…」
「どこにも行きませんよ、私は。ずっと、皆さんと浅草さんの側にいます」
「おーえど…」
「察するに、どなたかから私がメトロに引き抜かれるのでは、と聞いて飛んできたのではないんですか。あと苦しいです」
「んもう、やっぱり…敵わない、なぁ…!」
少し息の整ってきた浅草は抱き締めていた腕を緩めて、後輩を解放する。大江戸は、先日あった一部始終を取りこぼしなく全て話す。
「浅草さんの昨日の言葉、凄く嬉しかったです。あの言葉で吹っ切れました」
「いやぁ、混じりっけ1つない純粋な本音だからねぇ」
「あれがなければ、私は迷っていたと思います」
「ってことは、俺が大江戸の救世主?」
「そこまでは言ってません」
「えぇー?」
「第一、注意する私がいなくなったら全部背負わされる三田さんが可哀想です」
口を尖らせてブーたれているのをサラッと無視されたのも気にせず、浅草は大江戸に向けて左手を出す。
「何の真似ですか」
「今日ご飯マトモに食べてないでしょ?さっきみーたんも戻ってきたし、みんなで集まって食べよーよ!」
「たまにはいいですね」
そう言うと、差し出された左手に自分の右手を重ねる。左手は右手をしっかり握り、誘導を始める。
「さぁ帰ろうか、俺たちの愛の基地へ!」
「その言いかたは物凄く語弊がありますので止めていただけませんか。しかもここは駅構内です」
「細かいことはいいの!間違ってないんだし、都営地下鉄の明るい未来に向かってしゅっぱーーつ!」
「浅草さん、本当に貴方って人は」
都営最年長の浅草と、最年少の大江戸。お互いの手はしっかりと繋がったまま、再認識した思いを胸に歩き出した。余談だが、当初は守られていたストーブへの張り付きは、あれから1週間もしない内に元の態度に戻ったとかそうでなかったという話だ。
それでも大江戸は、全てを反射して輝くが維持していくのに緊張する純銀よりも、粗削りで放つ光が多少鈍くても安心感のあるいぶし銀を欲するのである。