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    ヨモギ

    @yomogibl

    松をあげる垢。24多めの予定。

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    ヨモギ

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    『風と来たりし猫の恋』展示小説その2です!パスワードは『旅日記に君をのせて』でした!

    グラいちオムニバス第弐話 歯車 日が昇る前から出勤して、サービス残業は当たり前。社食は硬いパンと薄いスープ。作業員には何を作っているのか知らせず、就職したら最後、骨になるまで利用される。そんな悪しき噂が後を絶たない工場、ブラック工場にグラサン風来坊は来ていた。外見から黒々としていて、名実ともにブラック工場であることを隠そうともしていなかった。あまりの黒さにグラサン風来坊―カラ松はサングラスを外した。一筋の月明りだけが彼を照らしていた。幸い警備は薄いようで、まるで駅に入るみたいに自然と建物の中に入ることができた。建物の中は暗かった。機械の錆と油の臭いが鼻につく。入ってすぐに案内図があったが、真っ黒で何も読めなかった。他の看板も黒く、手探りで向かうしかなさそうだ。工場の中は思ったよりも広かった。地下に通じる階段を下りる。臭いがさらに強くなった。あまりの異臭にカラ松は口元をいつもマントのようになびかせている布で覆った。暗闇にようやく目が慣れてきた。相変わらず道案内の役割を果たすはずの看板は、真っ黒。辺りを見回すと、ほんのりと明かりが漏れ出している部屋があった。部屋のプレートも真っ黒で読めない。思い切って扉を開けてみるとそこはこれまでカラ松が見てきたブラック工場とは似つかわしくない光景が溢れていた。まずはその明るさだ。おそらく一般的な照明のそれと変わりないのだろうが、目が暗闇に慣れたせいでかなり眩しい。カラ松はサングラスをかけた。やはり机やソファといった家具は黒いが、所々にフィギュアや金庫で別の色があるのを見つけた。そして部屋の奥、人影があった。カラ松は声をかける。
    「アンタが工場長か?」
    人影がこちらを向いた。髭を切り揃えた中年の男だった。ふくよかな体つきをしていて、少なくとも平社員ではないことは明らかだった。男はカラ松を品定めするような目つきで睨んだ。そして一言呟いた。
    「そうだ、と言ったらどうするのかね?」
    カラ松は刀を抜いた。刹那、工場長が笑い出した。
    「お前もそうか!儂を殺したところで何も変わらないさ!結局儂だってこの工場の一部にすぎないからな、すぐに別の奴がここに居座る!無意味なんだよ!」
    カラ松は眉に皺を寄せた。刀を持つ手に力が入るがなかなか踏み出せない。工場長を睨み歯ぎしりする。しばらく睨み合いが続く。その時後ろから声がした。



    「工場長大丈夫ですか……って誰アンタ!?」
    部屋に入ってきた男は痩せこけていて、目の下には濃いクマがあった。左腕に『班長』と書かれた腕章をしている。筋張った手でカラ松のことを指さしていた。その手はわずかに震えていて、先程の大声は咄嗟に張った虚勢なのがバレバレである。刹那、工場長の纏う雰囲気がガラッと変わった。まるで工場長から光が発されたようだ。猫なで声で彼は男に告げた。
    「いやあ松野くんいいところに来てくれたねえ。実はこちらの方が急に訪ねてきてね……ちょっと今忙しくってねえ、対応お願いできる?」
    松野くん、と呼ばれた男は一瞬面食らったような顔をしたが、すぐに真顔で「わかりました」とだけ呟いた。そのまま男はカラ松を見据える。不機嫌な顔をしていた。カラ松の右腕を掴み、ぎこちない笑みを浮かべる。
    「それでは応接室にご案内しますねお客様」
    男の爪がカラ松の腕に食い込む。爪は所々が欠けていた。彼の風体を見るだけで生活環境がよろしくないのは明らかだ。何故この男はこんなにも上司に従順なのだろうか。まさか好きで劣悪な環境に身を置いているわけではないだろう。カラ松には理解できなかった。この工場は十分に法律に違反している。そうでなくてもこんな所人の働く場所じゃない。白日の下に晒し、成敗すべきだ。男はカラ松の腕を引いた。
    「さあお客様こちらへどうぞ」
    男の額の血管が浮き上がっていた。釈然としないが、カラ松は仕方なく男に腕を引かれていくことにした。



    男に手を引かれ、カラ松は歩いていく。部屋を出てそんなに経たずにまた別の部屋に入った。部屋の電気がつけられると同時にドアが閉められた。カラ松はようやく手を離される。男は大きく息を吐いた。
    「あのねえアンタ、どこの誰かは知らないけれどどうしてくれるつもり?」
    「ん?どうするって……オレはお前達を助けに来たのさ」
    男は拳を握った。
    「はぁ?適当こくのもほどほどにしとけよ。おれ達を助けにってアンタ何様のつもりだよ」
    「……ああ、そういえばまだ名乗ってなかったな。オレは松野カラ松だ!キミは何ていうんだ?」
    「そういう意味じゃねぇよ!……松野一松」
    「そうか、よろしくな一松!」
    「別によろしくしねぇから。ほんっとにさ、アンタ自分が迷惑なの分かってる?」
    カラ松の周りに宇宙ができた。当の本人も固まっている。
    「……だろうね。外部の人間のアンタは知らないだろうけどさ」
    「ちょっと待て。オレは先刻カラ松だと名乗ったぞ。それなのにずっとアンタ呼ばわりなのはひどくないか?」
    一松は顔を歪めた。え、何コイツ。クソ面倒なんだけど。
    「話聞いて。おれ達今納期迫ってんのね。それに間に合わなきゃ重大なペナルティが発生すんの。もしアンタ……カラ松がこうやってずかずか入ってきたせいで納期に遅れたらどうしてくれんの?ただでさえ毎日残業だっていうのに」
    カラ松はきょとんとしている。
    「そんなに大変な仕事なのか?だっておかしいだろう、納期……ってことは他の会社とやり取りしているんだろうが……それだって毎日残業をしなければならない量なのは常軌を逸している」
    「しょうがねえだろそれに文句言ったって」
    「いいや声を上げなければならないさ。大体無理難題を課しているのは先方だというのにペナルティがあるというのも看過できない」
    「それもいいんだよ別に間に合えば何もないんだから」
    「よくない!じゃあもしも理不尽な目にあったらキミは許せるのか?」
    一松は下唇を噛んだ。
    「許すしかないでしょ。今までだってそうしてきたし」
    「このたわけ!」
    カラ松は怒鳴り声を上げた。一松の肩があがる。
    「そんな馬鹿げた話があるか!そうやってお前が許すからいつまでもお前の状況は変わらないんだ!何故声を上げない?何故現状のままで生きようとする?オレには全く理解できない!」
    「うるさいな!」
    一松がカラ松の左頬を殴った。カラ松のサングラスが飛び、地面に落ちて割れた。口の中が切れたらしく、血の味がした。殴られた頬をゆっくりとさする。一松は肩で息をしていた。
    「黙れよ部外者のくせして!そうやって何も知らねえから言うのは簡単だろうがよ!じゃあもしおれが工場長に立てついたらどうなると思う?軽くあしらわれて時間の無駄になるだけなんだよ!それだけならまだマシだ、今まで声を上げた奴は皆消えちまった!」
    カラ松はただ黙って一松の話を聞いていた。いつの間にか一松の目には涙が浮かんでいる。
    「しかもおれは班長だからその度に責任取らされんだよ、お前には分かんねえだろうけどさ、班長なんて役職なりたくなかった!おれなんかただの憂さ晴らしの捌け口で、」
    一松の頬を一筋の涙が伝った。
    「なんで、ぼくばっか、」
    涙はとめどなく溢れ出てくる。一松は無造作に目を擦る。途切れ途切れの「なんでだよ、」という弱弱しい言葉が辛うじて彼の矜持を保っているのだと感じた。カラ松は一松に一歩近づいた。
    「く、るなよ、クソ松」
    既にカラ松の目は一松の強がりを憐れんでいた。日頃サングラスで世界を見ているせいか、サングラスをかけてない時の彼の洞察力は常人のそれを遥かに凌駕する。一松は口では拒絶を示しつつも、逃げようとはしていなかった。男なら、正々堂々、正面から。カラ松は一松を優しく抱きしめた。
    「え……ちょっと何して」
    「涙には一番人肌が効くのさ」
    見た目からして貧相な体だったが、触れるとそれをより思い知らされた。骨と皮だけの体。一松にはまさしくその表現がぴったりだった。一松は驚きはしたものの決してカラ松を振りほどこうとはしなかった。むしろその体に身を預けているようだった。カラ松はゆっくりと一松の頭を撫でる。
    「一松、もう今日は休んだ方がいい。ここは地下だから分からないかもしれないが、もうよいこは寝る時間だ」
    「うん」
    数分前の一松なら拳のひとつやふたつ飛んできてもおかしくなかったが、もうその元気も無いようだった。カラ松が一松から離れ部屋を出ようとすると、一松に裾を掴まれた。
    「ねえカラ松、部屋まで送ってってよ」
    「ん?一松?」
    「ほらおぶって。案内するから」
    「え、いやちょっと待ていちま」
    カラ松が言い終わらないうちに一松が背中をよじのぼる。元来甘えん坊なのかもしれない。仕方なくカラ松は一松を背負い、部屋を出た。



     「そこを右」「まっすぐ」「曲がって」背中から聞こえる声を頼りに建物を歩き回る。いつの間にか社員寮のような場所にいた。
    「そこ曲がって四番目がおれの部屋」
    「ああ。分かった」
    『204』と書かれた部屋を開ける。幸いにも社員の部屋のプレートまでは真っ黒ではなかった。一松を下ろそうとするも全力で背中にしがみつかれる。どうにも一松はカラ松から下りたくないようだった。仕方なくカラ松は声をかけた。
    「一松……鍵を開けないと入れないだろう」
    「カラ松アンタ馬鹿なの?この部屋に鍵なんかないよ。早く開けて」
    「は?鍵が無いって……危なくないか?」
    「別に。奪われて困るものもないし」
    「そういう問題じゃなくてな……まあいいか」
    カラ松はドアを押した。薄汚れた畳が張られている。部屋の中にはぺしゃんこになった布団だけがあった。それ以外には机すら見当たらない。まるで眠るだけに用意された部屋のようだ。一松は足をばたばたさせて靴を落とした。どうやらまだ下りる気はないらしい。カラ松も履いていた草履を脱いだ。部屋にあがり、一松を布団に寝かせる。一松は既にうとうとしていた。額をさっと撫でる。きっと毎日仕事を終えては泥のように眠っているのだろう。布団からは規則正しい寝息が聞こえた。カラ松も部屋の隅で眠ることにした。立ち上がったその時、布団の下に何かがあるのが見えた。一松を起こさないよう布団をそっとめくりあげると、それは古ぼけた大学ノートだった。カラ松はノートを手に取り中身を開いてみる。
    「……っ!?これは……」
    中身は真っ黒だった。一ページだけでなく全てのページがそうなっていた。目を凝らしても内容は分からなかった。カラ松はノートを元の場所に戻し、部屋の隅で眠りについた。



     次の日。何やら部屋の外が騒がしかった。一松はまだすうすう寝息を立てている。カラ松は一松をそのままにして部屋を出た。廊下には一松と同じ格好をした作業員がたくさんいた。誰もが忙しなく動いている。左右を見渡すと人が塊になっている所があった。カラ松はその方へ歩みを進める。鼻をつくような臭いがした。人混みをかき分けて様子を確かめに行く。それは部屋の中だった。天井から垂れた縄。ひどく汚れた畳。何か文字の書かれた紙。そして、人形のように吊るされた人間。カラ松はこれまでも死体に遭遇したことはあったが、全て色眼鏡の向こう側だった。部屋の光景にカラ松は顔を歪めていた。もっと凄惨な姿なものもあったのに、今が一番苦しい。ふと昨日の一松の涙を思い出す。しばらくして警察がやって来た。人混みは朝礼へと向かっていった。その日の朝礼はいつもより長かった。弔いではない、連帯責任故の説教だった。



     班長として動く一松の仕事の様子をカラ松は遠くから眺めていた。一松が、というより作業員のほとんどがどことなく上の空だった。何せ昨日まで共に働いていた仲間が死んだのだ。それでも作業の手を止めることは許されない。非情だな、とカラ松は独りごちる。身を翻して作業場を後にした。地上では日が昇っているせいか昨日よりも視界が明るかった。ほとんど頼りにならない記憶を頼りに建物を移動する。工場長がいた部屋が見当たらない。仕方なくしらみつぶしに部屋を開けていく。黒い給湯室には埃が積もっていた。カラ松は無言で部屋を開けていく。隅の方まで来た。最早頭では何も考えていなかった。扉を開け、閉める。もう何度この動きをしただろうか。扉を開ける。視界が光に包まれる。目を細めると昨日みた黒い光景が浮かんできた。顔を上げると工場長がいた。何やら驚いた表情をしている。カラ松はゆっくりと歩み寄った。
    「工場長。話がある」
    「お前……帰ったんじゃなかったのか?」
    カラ松は肩をすくめる。
    「誰だそんなこと言ったのは……言っておくがオレは諦めてないからな」
    「それで今日も儂の元に来たと。何度来ても変わらないからな」
    「人が一人死んだんだぞ」
    感情を押し殺して告げるも、工場長は眉一つ動かさなかった。カラ松は刀に伸ばしたくなる手を必死で抑える。口の奥でぎり、という音がした。工場長はそんなことも意に介さず続ける。
    「ここでまた騒ぎを起こしたら松野くんが来るぞ?彼を困らせてもいいのかい?」
    カラ松は眉間に皺をよせた。
    「そもそも君が再びここに来たと知ったら、松野くんはどう思うかな?まあこっちとしては昨日の対応が悪かったってことで松野くんに処罰を与えざるを得ないなあ」
    「この……ッ!」
    ふざけるな。カラ松の心が怒りに染まる。しかしここで工場長を襲ったら相手の思うつぼだ。工場長はカラ松にとって作業員が十分人質になりうることを見抜いていた。カラ松は工場長を睨みつけ部屋を出た。そのまま階段を上っていく。工場の外は明るかった。カラ松は懐から携帯電話を取り出した。風の赴くままに旅に出るのであまり持ちたくないのだが、とある人物に無理やり持たされた。カラ松はその人物に電話を掛ける。連絡先には『金ヅル坊』と書かれていた。



     次の日。また外が騒がしかった。カラ松は工場長の前に立っていた。
    「言ったろう?オレは諦めないと」
    工場長はかたかた震えていた。カラ松は冷めた目でそれを見つめている。サングラスが無いせいでその威圧は相当なものとなって工場長にのしかかっていた。
    「こんなちっぽけな所で過ごしていたからな、想像力も衰えてしまったんじゃないのか?まあ確かにすぐには思いつかないだろうなあ、」
    カラ松はそこで言葉を切った。工場長の目には涙が浮かんでいた。カラ松は右手で工場長の顎を掴み無理やり目を合わせる。工場長の瞳に正義のヒーローの不敵な笑みが映った。
    「一晩のうちに工場が大企業に買収されるなんてな」
    工場内は既に外部の人間で賑わっていた。そのほとんどが頭に日の丸の旗を刺している。その中で一際小さくオーバーオールを着た男の子が何やら話していた。
    「こんな所で皆働いていたんだじょ?悲しいじょ……」
    「ミスターフラッグ、何とお優しい!」
    「大丈夫ですよミスターフラッグ!これから私達がこの工場を変えていくのですから」
    「本当だじょ?じゃあまずは壁を白く塗り替えるじょ!」
    心なしか男の子―ミスターフラッグ、ハタ坊の周りが白んでいくように見えた。その時旗の群れから一人ツカツカと工場長の元へ歩み寄る者がいた。手にはロケットランチャーを持っている。カラ松は思わず後ずさった。ロケットランチャーが工場長に照準を合わせる。カラ松はその場を後にして一松の元へ向かった。人が多いせいで走れない。今の時間、一松はどこにいるのだろうか。ひとまず社員寮の方へ向かうことにした。昨日とは打って変わって作業員は様々な表情をしていた。呆気に取られている人、笑い声をあげる人、涙をはらはらと流す人、人、人、人。その中に班長の腕章をつけた作業員は見当たらない。『社員寮』と書かれた看板があった。流石ハタ坊。侵略が速すぎる。看板に従いカラ松は歩いて行った。曲がり、進み、曲がり、を繰り返し『204』と書かれた扉の前まで来た。三回、ノックする。部屋の中から声は無かった。そのままカラ松は引き返そうとしたが、一つのことが脳裏を掠めた。この部屋には鍵がない。思い切って扉を開けた。部屋の中には目を腫らした一松がいた。
    「カラ松……?」
    「……一松!?誰にやられたんだ!」
    すぐさまカラ松は駆け寄る。一松ははにかんだ。
    「こんなクズに構うやつアンタしかいないよ。なんかさ、勝手に泣けてきたんだ」
    カラ松は一松の隣に腰を下ろした。
    「そうか……その、一松」
    「なに」
    「よかったな」
    「えっ……まあ、そうだね」
    一松はどこか上の空だった。先程の答えもカラ松を見ているようで見ていない。
    「一松?」
    カラ松は一松の肩を叩いた。一松は少しびくっとしてカラ松の方を向いた。
    「あ……ごめん」
    「どうした、何か悩み事か?オレに話してみろ」
    「いや別に悩みとかじゃないんだけど……実はおれ、退職することにして」
    「素晴らしい!よくやったな一松!オレは嬉しいぞ!ところで次はどこへ行くんだ?」
    一松が微笑んだ。
    「少し、田舎の方でゆっくり暮らすよ」
    サングラス無き今、一松の笑顔が何よりも眩しかった。



     あれから一週間。一松は工場から巣立つ。『いつぶりの太陽だろう』と呟いた一松の肌は陶器のように白かった。鞄一つに収まる荷物を抱え、ゆっくりと歩いていく。と思いきや急にカラ松の方へ小走りで戻ってきた。
    「カラ松、これ」
    一松は何かを手渡す。カラ松が手を開くと千円札数枚があった。
    「一松?」
    一松は気まずそうに目を反らした。
    「その、おれ……カラ松のサングラス割っちゃったから、足りないだろうけど、弁償」
    カラ松は大きく目を見開いた。自分の頬がうっすら色づいていることには気づいていなかった。
    「そんなこと気にしていたのか?……一松。手を出せ」
    頭にはてなマークを浮かべながらも一松は手を差し出した。カラ松はそこに先程一松が手渡した千円札をそっくり返す。
    「え?」
    「いいか一松。お前は今日から新しいお前になるんだ。そのために過去を引きずっている理由はあるか?いや、無い。サングラスがなんだ!どっちにしろあの工場は暗かったから何の影響もないさ」
    「カラ松……」
    「それにな、オレは一松に感謝しているんだ。色眼鏡なしに世界を見ることができた。凄惨さも、美しさも。あの時サングラスが割れていなければオレは知りえなかった世界だ」
    「でもおれ」
    「オレが良い、と言っているから気に病む必要は無い!一松、都合の悪いことは早く忘れるんだ。過去に囚われたままじゃあ、お前は幸せになれないぜ?」
    一松の目から涙が零れた。それでもその顔は笑っていた。
    「変なの」
    そう言って一松は笑う。カラ松も目を細めた。ひとしきり笑った後、工場の鐘が鳴った。
    「もう行かなくちゃ」
    名残惜しそうに一松が言う。
    「ついていかなくていいのか?」
    一松は頷いた。
    「大丈夫。……住所もまだ分かんないけどさ、また会えたらいいね」
    「きっと会えるさ!何年経とうとも風が導いてくれる。互いに思っていればな」
    「おれ、待ってるから。今より剥げてしわくちゃになっても、カラ松のこと忘れない」
    「オレもだ」
    「……ありがと」
    一松がカラ松に抱き着いた。この一週間だけでわずかに肉がつき、標準体型に戻りつつある。カラ松も一松を抱きしめた。愛してる、だなんてどちらからも言わないけれど、二人の思いは明らかだった。しばらく抱き合った後、一松が手を離した。
    「じゃあ、またね」
    「ああ」
    時折振り返りながら一松は工場から遠ざかっていく。その背中は期待と不安が入り混じっていた。完全に一松が見えなくなり、カラ松は空を見上げる。どこまでも広がる、青々とした空だった。ゆっくりと呼吸をし、前を見据える。オレも出発するか。最早ホワイト工場と成り果てた工場を後にする。カラ松の口からは愛の歌が聞こえていた。
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    ヨモギ

    DONE『風と来たりし猫の恋』展示小説その4です!パスワードは『旅日記に君をのせて』でした!
    グラいちオムニバス第肆話 戦姫 暖かい風が吹いていた。まるで何かのアニメのコスプレのような古風な格好の男は、大きく息を吸った。
    「春だな……」
    優しい日の光を浴びて男、カラ松の顔は思わずほころんだ。こんな天気の日は気分が良い。近くの和菓子屋で団子でも買おうかと思ったその時、カラ松の前に何かが立ち塞がった。人ではない。カラ松の三倍くらいの大きさをした、何か。一つ目でこちらを睨んでいる。ドブのような色で鼻をつく臭いがする。思わず後ずさる。何だこの化け物は。化け物が歩いた後にはヘドロのようなどろどろした何かが湯気を立てて残っていた。背中に壁が当たる。しまった。もう逃げ場が。化け物が迫る。オレの旅もここまでか。これまでの思い出が蘇る。道を間違え正反対の方角へ歩いたこと。何もない所でバランスを崩し、かなり派手に転んだこと。『あなたに心奪われました』と言われ……たことは無かった。カラ松の旅先の子は皆内気だったのだろう。様々な思い出が走馬灯となって流れていく。不思議と後悔は湧かなかった。ただ今は、流れゆく記憶の欠片に思いをはせていた。あの世とは、どんな所なのだろうか。悪人はいるのだろうか。化け物がカラ松のすぐ側まで来た。カラ松は何も抵抗しなかった。化け物の頭部だけがずる、と伸びてくる。恐怖はもう無かった。カラ松が手を伸ばす。その時だった。
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    ヨモギ

    DONE『風と来たりし猫の恋』展示小説その2です!パスワードは『旅日記に君をのせて』でした!
    グラいちオムニバス第弐話 歯車 日が昇る前から出勤して、サービス残業は当たり前。社食は硬いパンと薄いスープ。作業員には何を作っているのか知らせず、就職したら最後、骨になるまで利用される。そんな悪しき噂が後を絶たない工場、ブラック工場にグラサン風来坊は来ていた。外見から黒々としていて、名実ともにブラック工場であることを隠そうともしていなかった。あまりの黒さにグラサン風来坊―カラ松はサングラスを外した。一筋の月明りだけが彼を照らしていた。幸い警備は薄いようで、まるで駅に入るみたいに自然と建物の中に入ることができた。建物の中は暗かった。機械の錆と油の臭いが鼻につく。入ってすぐに案内図があったが、真っ黒で何も読めなかった。他の看板も黒く、手探りで向かうしかなさそうだ。工場の中は思ったよりも広かった。地下に通じる階段を下りる。臭いがさらに強くなった。あまりの異臭にカラ松は口元をいつもマントのようになびかせている布で覆った。暗闇にようやく目が慣れてきた。相変わらず道案内の役割を果たすはずの看板は、真っ黒。辺りを見回すと、ほんのりと明かりが漏れ出している部屋があった。部屋のプレートも真っ黒で読めない。思い切って扉を開けてみるとそこはこれまでカラ松が見てきたブラック工場とは似つかわしくない光景が溢れていた。まずはその明るさだ。おそらく一般的な照明のそれと変わりないのだろうが、目が暗闇に慣れたせいでかなり眩しい。カラ松はサングラスをかけた。やはり机やソファといった家具は黒いが、所々にフィギュアや金庫で別の色があるのを見つけた。そして部屋の奥、人影があった。カラ松は声をかける。
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