ヒュプノス〈side O〉
筋張った大きな手が、髪をそっと撫でる。
普段の所作からは想像もできないような、繊細なタッチ。地肌に触れるか触れないかの、まるで羽が触れるかのような手つき。頭頂部から首筋までゆっくりとその指先が滑り落ちるたび、水が流れるように、胸の内の澱が洗い流されていく気がする。
その手が頭や耳、首筋を行き来する心地よさに、いつしか意識はふわりと手放され、眠りに落ちる。眠りと覚醒の狭間をたゆたいながら、時々こんな考えがよぎる。
──このままもう二度と、目覚めることはないかもしれないと。
死と眠りは兄弟だ。
この男の手は、どこか私を冥界へと誘う手のようだ。
この男の傍にいると、死は安寧をもたらすものに思える。まるでそっと手のひらで包んで蝋燭の炎を消すように、安らかに生の終わりを迎えられる気がする。
「お前が、私を冥土に連れて行くのかもな…」
思わず呟いた言葉に、レナトスの手がわずかに止まる。沈黙のあと、彼が静かに応える。
「……そうして欲しいのか?」
低く穏やかな彼の言葉に、どうなのかと自問する。
死に憧れるようなことは、今まで一度もなかった。だが私の奥底にはずっと失われたままの場所があって、それは埋まることがない。ただいつまでもぽっかりと穴が空いていて、無意識にそれを触ろうとするたび、見えない指が私を遠くに引っ張っていく。
その行き先が冥界なのかもしれないと思うと、何故か少しだけ、心が揺れた。
死は生の一部だ。どう死ぬかはどう生きるかを選ぶことと同義だ。心のどこかで死に安寧を希む私は、やはり怠惰な人間なのだろう。
(誰かの遺志を借りなければ、立ってもいられないような…)
所詮三文芝居だとしても、全てが終わるまでは自分の足で歩いていきたい。幕引きは自分で選びたい。
けれど、レナトスの指が髪を撫でるたびに、その指先から広がる闇に、少しずつ引き込まれていく気がする。その闇はどこか懐かしく、暖かく、自分を包み込む。
この手に引かれていつか──。それはとても甘美な誘惑だった。
きっと訪れはしない甘い夢に、知らずに微かに口元が綻ぶ。ゆっくりと目を閉じて答える。
「ああ、いつか私が役目を終えたら……この手で眠らせてくれ」
「…分かった」
レナトスの指先が再び髪を梳く。何も聞かない。その労わるような手つきが、言葉以上にすべてを物語っている。私の中の空虚も、矛盾も、自己欺瞞も、いずれこの手が静かに閉じればいい。
今、この夜の間だけは、すべてが正しい場所にあるように感じる。彼の腕の中にいることが、世界で最も自然で、最も温かいことのように。
明日がどうなろうと知らない。今だけは、この手に身を委ねたいと思った。
***
〈side R〉
「はぁ…、はぁ…っ」
激しい呼吸音に目を覚ます。隣で寝ていたはずのオーターが、苦しそうに胸を浅く上下させていた。呼吸が速くなり、肺が限界まで空気を求めてもがいているかのようだ。
(またか…)
オーターが眠っている間に過呼吸を起こすのは、もう何度も見てきた。オーターの中には未だに消化しきれない過去があり、そのせいで夢見が悪いのだろう。
(お前も難儀な性格だなァ)
未だにこんな風に過去を生傷のまま抱えているなんて。かさぶたを自分で抉って、律儀なことだ。
そっと肩に手を置いてみると、オーターの体がびくりと震えた。かすかに目を開いたが、その瞳はどこか焦点が合わず、まだ遠い闇の中を彷徨っているようだった。
「大丈夫だ。オレがいる」
静かに囁きながら、乱れる呼吸を続ける彼の顔を自分の胸にそっと押し付ける。喘ぐように暴れて空気を欲しがるが、必要なのは酸素よりも二酸化炭素だ。オーターを落ち着かせるため、ゆっくりと、少しずつ自分のぬくもりを伝えるように包み込んだ。
少し呼吸が落ち着いてきたのを感じてから、オーターの頭を撫でる。ゆっくりと、指先が触れるか触れないかの柔らかいタッチで。
この触れ方がこいつを一番安らがせることを知っている。何も言わず、ただ静かに、その呼吸が落ち着きを取り戻すまで、繰り返した。
数分もすると、オーターの呼吸が安らかになってくる。そのまま寝てしまうこともあれば、ゆっくりと意識が浮上することもある。
今夜は後者だった。
オーターが小さく身じろぎ、その身をすり寄せて来る。胸の中に満ちてくる充足感に、思わず微笑みがこぼれる。
そのまま髪をすき続けていると、まだ夢の中にいるような、もやのかかった目でオーターがこちらを見た。
「お前が、私を冥土に連れて行くのかもな…」
彼の口から唐突にこぼれた、らしくない言葉に目を開く。
「……そうして欲しいのか?」
聞き返すと、オーターは静かに黙った。自分の心に問いかけているようだ。
今では規律と秩序の見本のように言われているオーターだが、生来のこいつは違う。
──渾沌と破壊。
それが砂の神に愛されたオーターの本質だ。圧倒的な魔力と、すべてを砂塵へと帰す荒々しさ。他者に迎合しない、孤独で誇り高い精神。秩序の対極にあるもの。
しかし、ある時からオーターは生き方を変えた。内なる声に蓋をし、秩序と規律の中に組み込まれることを選んだ。それは昇華というより、自分を殺すことだった。
(もっと、素直に生きればいいのになぁ)
その内に抱えた矛盾の中で、もがき続けるこいつが愛おしい。その弱さも、強さも、すべてが痛いほどにオレの心に刺さる。
『お前が、私を冥土に連れて行くのかもな…』
さっきの言葉を反芻する。
それはきっと違う、と直感的に思う。
(お前は、誰かのためにその命を使うよ)
亡き後輩のために自らを捨てた男だ。自分の安寧を求めるような最期が似合うとは思えない。
だがそれでも、誰も見ていない夜の間だけは、そんな甘い夢を見てもいいだろう。
しばらくしてオーターが口を開いた。その顔はどこか親に甘える子供のような安心が満ちていた。
「ああ…いつか私が役目を終えたら……この手で眠らせてくれ」
"役目"を終えたら。それがどこまでを指すのかは分からないが、それが覚悟を決めたオーターの精一杯の妥協点のようだった。
「…分かった。……おいで」
オレはそう応えて、オーターの背を優しく抱き寄せる。
いつか、オレの腕の中で、安らかに息を引き取る日がもし来るのならば。それが彼にとっての救いであるように。この男が、その心の影から解放される時が、穏やかな眠りと共に訪れるように。
今夜は、ただこの胸の中で眠らせてやろう。