過去作のティムくんの話 旅をしているなかで宿に泊まれることほどありがたいことはない。野宿ではいちいち見張りを立てなければならないし、テントを張らなければならないから。しかし、宿に泊まるなら泊まるで金がいる。労働で立て替えることもあるが、疲れた身体には面倒このうえなかった。
そんなことを思いながらティムは窓の外を眺めている。視線の先には見慣れた大きすぎる人影、その背中。宿屋の主人と薪の山の前でなにやら話している。やがて主人の手にしていた小ぶりな斧を受け取って粛々と薪割りを始めた。ちょうど『労働で宿代を立て替えている』のだろう。先生もさすがに薪割りにはてこずるんじゃないかとわずかに期待したが、無論期待外れに終わった。なにをする気にもなれなくて、規則的に斧を振り下ろす背中を眺める。距離ゆえか音は聞こえないが、きっと小気味のいいものだろう。慣れていないと小ぶりな斧であってもあんなに真っ直ぐ振り下ろすことはできない。経験があるのだろうか―――などと、とりとめもなくそんなことを考える。ため息をつく。と、同時にドアが鳴る。几帳面なノックが三回。
「パーンさん、ティム。アリシアが、明日の予定について話し合おうと言っている」
レヴォルの声。折り目正しいその声が、なぜか、いやに、そしていつもどおり神経に障った。小さく舌打ちをしてその場の掛布団を手にとる。頭まですっぽりとかぶる。
「あれれ? ティムもパーンさんもいないのかな」
「……いや、物音がしたから誰かいるはずだ」
「ははーん、きっとティムくんは返事が面倒だからって無視してるのよ」
図星だ。言い当てられたのをわざわざ肯定するのも癪だったので、そのまま布団の中で耳をふさぐ。話し合いなんてものは晩飯時にでもすればいいのだ。無視を決め込めばそのうち諦めてくれるだろう、なんてまた叶うはずもない期待をする。
「じゃあ、パーンさんはどこにいるんだ?」
「あ、たしかに。お手洗いとかかしら」
「レヴォル、アリシアちゃん、こっち! あそこで薪割りしてるのパーンさんじゃない?」
「ん? ……本当だ。僕たちも手伝おう」
「待って、私も行くわ」
意外にも、今回の期待は叶ったようだった。騒がしい足音がぱたぱたと外に出て行ったことを確かめて、ゆっくりと布団から這い出る。さっきと同じように上体だけを起こして窓辺に腕を組んだ。そこに頭をのせて外を眺める。三人はやがてパーンとひととおり話したあとでそれぞれ仕事を見つけたらしい。レヴォルとエレナが先程宿屋の主人が消えた方向へと走り去る。アリシアが薪の山から割られていない薪をパーンの元へ運ぶ役目を担う。アリシアがパーンに見せるあの幸せそうな笑顔は、なんなのだろう。レヴォルとエレナも互いに対して無防備すぎる。新婚夫婦かなにかを見せつけられているようで胸が塞いだ。……ああ、思ってもみないため息がすべり出る。
分かっている、今ここで働かなければならない人間はまず誰よりもティム自身であった。自覚だけが肩に重くのしかかってその重しのせいで身動きができない。思い悩むよりも身体を動かしたほうがいいということは分かっていたが、―――――そもそも、なぜ生きているのだったか。シェインやアリシアと二人旅をしている頃にはなく、学院にいる頃に芽生えたその感情がゆっくりと首をもたげる。ティム自身には生きる目的も意味もなにもない。今だってティムなしで四人は働いている。いてもいなくても変わらないのだ。死んだところでなにが好転するわけでもないのだし惰性で生きてはいる。それ以上でも以下でもない。歯ぎしりするのも面倒で、そっと布団を引き寄せた。疲労のおかげで意識はゆるむ。身体が温まると次第に眠気が襲ってきた。今、眠れば、起きたときにまた後悔する。呼吸だけを無駄に繰り返す自分を忌まわしく思う。それでも、身体は動かなかった。意識が眠りに落ちる。
「ティム、起きてくれないかな。ティムー……?」
なにもなかった意識の中に、ふと穏やかな声が届く。意識がゆるゆるとかたちを持ちはじめる。
「起きたようだね。そろそろ夕飯の時間だよ」
理解しはじめた。現在一行は宿屋に泊まっていて、部屋数が足りないだかなんだかでパーンとティムが同じ部屋に寝泊まりすることになったのだ。もともと一人用だった部屋に無理にベッドを二つ詰めてあるのでやや窮屈ではあった。そこに常人離れした体躯のパーンがいるわけだから、当然狭い。ティムには、……兄妹で頭をせっつき合う生活をした記憶のあるティムには、それがほんの少し心地よかったけれど。
「ゆうはん、ですか」
「ああ、この宿は食堂で宿泊人が集まって夕食を摂るようになっているんだよ。食べそびれてしまうと明日に響く。いただこう」
この布団から一歩出れば外は寒いだろう。そうでなくとも食べるという行為は、こと人と顔をつきあわせて摂る食事は得意ではなかった。開きかけていた瞼をぎゅっと閉じて出しかけていた腕を布団の奥へしまう。
「まだ寝ます……」
「夜中におなかを空かせてもなにも食べられないのだし、君は食べ盛りなんだからしっかり食べないと」
「なれてます、食べないの」
「うーん……」
パーンが、ためらう。頑ななティムの様子を見て取って、観念したように小さく短いため息をついた。
「いいかい、ティム。すこし勝手な物言いをするが、旅に体力が必要なのは経験しているだろう。昨夜の見張りで眠いのもよく分かるよ、けれど栄養を摂らずに倒れられると一緒に旅している私たちが困ってしまうんだ。ね、一緒に食堂に行こう。いま食べられなさそうだったら夜食用に部屋に持ち帰ってもいいかどうか聞けばいい」
いさめ諭すための言葉だったが、口調は静かに語りかけるように穏やかだった。教官のパーンにここまで言われてしまっては、無視するわけにはいかない。不本意ながら、たいへん不本意ながらティムがゆっくりと身体を起こす。
「無理を言ってごめんね。さ、行こうか」
パーンがベッドから立ち上がって廊下に出た。ティムもそれに続く。
「………………ごめんなさい」
「誰にだって、どうしようもなくつらい日はあるからね。謝る必要はないよ」
言葉に詰まる。無言でパーンの後ろについていく。
—————ああ、この優しさが嫌いなのだ。この状況下で一番悪いのはティムで、謝るなんて口先だけの動作で許されるべきではない。少なくともティムはそう感じている。それを否定された。ただでさえ存在意義を見失いかけていたティムにとって謝罪を拒まれることは苦痛でしかなかった。歩きながら床に目線を落とす。人間的にこのうえなく『できた』存在であるパーンを前にして自身の矮小さが際立って見えた。鉛のように重たい足を無理にひきずって歩く。
やがて食堂について、これ以上迷惑をかけるわけにはいくまいと減ってもいない腹に夕飯を詰め込んだ。
*(場面変わります)
「……寝るなよ、おチビ、お嬢サマ」
地下牢にて、バカバカしいほどの寒さから解放されたことによりそんな冗談が転がり出た。レヴォルはアンデルセンにつっかかっているようだが、イマジンとやらもずいぶん便利なものだとティムは思う。
自身の発言にどこか既視感を覚えたティムが記憶を漁る。アリシアと二人旅をしていたころにもあの言葉をかけた覚えがあった。似たような答えがエレナから発せられる。
「分かってるよ! 『寝るな、寝たら死ぬぞ』でしょ?」
ティムにはそれがなにか分からなかったが、アリシア曰く『慣用句みたいな……決まり文句みたいな』ものらしい。
「ああ、それってちゃんとした根拠があるわけじゃないのよ。気になって出典を調べたことがあるんだけど、結局「体力の温存のために寝たほうがいいこともある」って分かっただけだったわ」
「なにやってんだか」
一行全員が少女のマッチに手をかざしている。ティムの表情が暗く沈んだのをアリシアが見て取った。
「……私は寝ないから」
「変な気ぃ回すのやめてもらえます?」
「アリシアちゃんが寝ないなら私も起きとくよ」
「無理すんなおチビ」
「エレナちゃんは寝てもいいわよ、ちゃんと私が見ておくわ」
明らかに、気を使われている。エレナは話を合わせているだけなのだろうが、アリシアはきっとあの日のことを思い出しているのだろう。そのうえでなおティムを気遣うというのだ。その感覚に神経が逆立つ。
「じゃああんたも寝ればいいじゃねぇか。俺が見ときゃいい」
「めんどくさがりのティムくんにおいそれと命預けられないわよ」
アリシアにとってはほんの軽口のつもりだったのだろうが、ティムの表情が確かに変わった。空気がひりつく。仲裁に入ろうとしたエレナを二人が手で制止した。優しすぎる彼女には親しい者同士の喧嘩はよくこたえるのだろう。アリシアはそれをわかってか一瞬エレナにほほえみかける。いつもよりも余裕のないティムが目線を逸らしつつ吐き捨てた。
「さすがに命預かる仕事を無下にはしねぇよ」
平行線のままくだらない議論をしても体力を無駄にするだけだと悟ってか、アリシアが諭すように、しかし鋭く本質をついた。
「……ティムくん、覚えてるんでしょ? 私はつらそうなティムくんを見たくないのよ。私のせいであなたを追い詰めるぐらいなら一、二晩眠らないなんてどうってことないわ」
間違いない。アリシアもティムの記憶と同じ日のことを回想している。その事実を喉元につきつけられた。
「っ、あーあー俺が悪ぅござんした! もう勘弁してくれ」
記憶が鮮明になってくる。
ティムは、アリシアを一度殴ったことがある。どこの想区であったかは忘れてしまったが、いま一行が置かれている状況同様に寒さのあまり明日の命も危ぶまれるようなそんな想区であったことを覚えている。……ティムが幼い頃には冬に毎日遭遇した修羅場だった。なんとか一泊の約束をとりつけることはできたが、貧しさゆえかその日の暖炉の薪にも困る家だった。てっきり夫婦と勘違いされて一つの部屋に通されたものと思っていたが、単純に部屋も数は無いのだろう。
風雨が凌げても身体はひどく冷える。ひとまず借りた一室に腰をすえて、さて荷を広げるかと自前のランプを灯したときだ。
「ん~……寒すぎて眠くなることってあるのね、もう私寝ようかしら」
普段は記録でティムよりも遅くに眠るアリシアが、そんなことを口にしてベッドに寝そべった。それがティムの記憶を掘り起こす。頭によぎったさみしすぎる冬の朝。ティムの気もしらずにアリシアはまどろみはじめている。
「……寝るなよ、お嬢サマ」
「なによ、『寝るな、寝たら死ぬぞ』ってやつ? あれはねぇ……うぅん……」
答えながらもアリシアの意識はゆっくりと薄れていく。
「ねるな、ねるなよ、なぁ」
また、おれはおいていかれるの?
なんとかその一言を飲み込む。アリシアはあのときの母とは違う。きちんと防寒さえすればそうそう死ぬことはないだろう。それでも敷布団に落ちた長い髪と女性のやわらかな輪郭が母の死に際を思わせた。
そうだ、母さんが死んだ夜も暖炉の薪が無かった日だ。兄妹で看病をしようとしたが、母はそれを許さなかった。そして、
「「ふふ、なに心配してるの? 大丈夫よ」」
耐えられなかった。なにもかもがあの日あの晩あの瞬間と重なった。もう失いたくはない手の届くところで逝ってほしくない置いていかれたくないおねがいだ!
頭がその感情を処理するよりもさきに手をあげていた。
一瞬ののち、困惑の表情を浮かべるアリシアを見てティムは正気にかえる。俺はなにをしたのだろうか? 答えは明白だ。過去の記憶に苛まれて無関係のアリシアを叩いた。
そして、困惑に揺れるアリシアの表情がまた別の記憶を呼び覚ます。
暴力をふるわれた困惑のうちに涙をうかべ、声を押し殺して相手の真意をうかがう表情。数回だが見覚えがあった。義父に殴られたときのルイーサと同じ。もしかすると、ティムも始めはこんな顔をしていたのかもしれない。
ティムは、あのときの義父とまったく同じことをしたのだ。暴力で無理に人を服従させようとした。その行動のタチの悪さはティム自身が最も身にしみて理解していたはずだった。その、はずだったのに。
「おれは、なにを」
「ごめんなさい、ティムくんの言葉を私がちゃんと聞くべきだったのよね、ティムくんは悪くない。泣かないで、ねぇ」
アリシアの言葉で初めて自身が泣いていたことに気がついた。動転する気を必死に抑えつける。意味はない。余計に涙がこぼれる。
「あ、あやまるな。殴、った、ことに、かわりはねぇ」
ティムはそのあとどうしたかあまり覚えていない。ただ、見苦しくも涙が止まらなかったことだけは覚えている。
「ごめんね」
「やめろ。俺がいたたまれ、」
ぺち、と情けのない音が鳴る。アリシアがティムの頬を軽くたたいた。
「『今から叩くけどごめんね』よ。あのときのお返し、してなかったでしょ」
「……なんだそりゃ」
言葉ではそう言ったが表情は笑っている。喧嘩の収束をさとってエレナも息をつく。
やがて、奇妙な足音に導かれて一行は牢を出た。