波間の浮き輪 煩雑な文字の海を航行するのは、一艘の小さな船。その船頭は今、とある件で暗礁に乗り上げていた。
対ホロウ行動部第六課の執務室。すっかり外も暗くなった頃、月城柳は自身の机で頭を抱えていた。彼女の机を埋め尽くすのは山積みの書類。頭を下げてしまうと反対側からは彼女の頭すら見えない。まさに書類の渦に飲まれているようだった。
このままではいけません。少なくとも今日中にあと数件は報告書を完成させておかなければならないのに。
柳は、今夜こそ定時に帰って、一緒に晩ご飯を食べると蒼角に約束していた。手元の時計を確認する。どんなに仕事が立て込んでいようと彼女との約束は守りたい。タイムリミットまではあと十五分ほど。
ごめんなさい、蒼角。三十分だけ、残業しますね。許してください。
可愛い妹に胸の内で謝罪をして、いざ報告書に立ち向かわんと顔をあげるが、思うように頭が回らない。頭脳労働というのは、どうしてこうも糖質が恋しくなるのか。柳の思考回路には甘い食べ物のことばかりが過ぎった。
──少しだけ、何か食べますか。
はたして何かあるだろうか。防衛軍時代のレーションでも残っていればまだマシか。あり得ない。そんなことがあっても賞味期限はとうに切れている、と誰も聞くことのない冗談を内心で唱えながら引き出しを開ける。案の定、無味無臭、そのうえ無機質であるファイルしかない。柳が深くため息をついたとき「あ、副課長」とよく聞き馴染んだイタズラ好きで皮肉屋の声が入口から聞こえた。
「おつかれさまでーす。いやぁ、今夜も大変ですねぇ」
疲れを知らなそうな緩い男の声──浅羽悠真がふらっと執務室に入ってきて、柳の傍へとやってきた。彼はさも当然かのように隣の蒼角の椅子に座り、だらっとした姿勢で背もたれに身を預け、うっすらと笑いながら満月のような瞳でこちらを見た。
「進捗、どうですか?」
「はぁ、あまり、芳しくは──浅羽隊員。貴方はどうしてこんな時間に?」
「いやいやいや、どうしても何もないでしょ。僕はこれから夜勤ですよ。まぁ、副課長が帰っていいっていうなら、即帰りますけどね」
「ああ、そうでしたね。すみません、私としたことが」
六課のメンバーのシフトも忘れているなんて、と柳が俯いて力なく謝罪すると、悠真は急に神妙な顔をして前屈みになった。
「月城さん、お腹空いてるでしょ」悠真は自信ありげに柳の顔を覗き込んできた。
「どうしてそう思うんですか?」
「簡単ですよ。あなたが六課のシフト忘れてたなんて、相当疲れてるとか、お腹空いてるとか、その辺しか考えられないんで。だから僕はどっちを言っても正解するってわけで、でも──あ、ちょっと待っててください」
急に何か思い出したように立ち上がった悠真は、給湯室に入ると紙袋を持ってまた戻ってきた。
「これ、書類の海を果敢に征く、我らが副課長どのに差し入れです!」
「これは……?」
恭しく頭を下げた悠真は紙袋を差し出してきた。柳がそれを不思議そうに首を傾げて見ていると、彼は「あーもう、分かりましたよ」と焦ったそうに自ら紙袋に手を突っ込んで中身を取り出した。カシャっとビニールの音がして目の前に現れたのは、個包装のドーナツ。手の込んだデコレーションは、最近ルミナスクエアで人気のドーナツショップの商品とよく似ていた。
「情報課の女の子に貰ったんですよ。たしか、流行ってる店らしいですね。長期保存用が販売開始されたってことで、僕らみたいな不規則な生活極まりない人間にはおあつらえ向きみたいですよ」
「浅羽隊員、彼女たちからそんな言い方はされてないはずですよ。それにこちらは貴方がもらったものです」
「月城さん、僕がいつもコーヒーに砂糖入れないこと知ってるでしょ。大体、貰ったものを相手がどうするか、なんて、渡したほうは知ったことじゃないんですから」
「そうですが──いえ、これはひと先ず貴方の厚意として受け取っておきますね。ありがとうございます」
月城は一向に手を引く気配のない悠真からドーナツを受け取った。今日の彼はやけに強引で、情報課の職員にもひどい言い草であったが、これが「浅羽悠真」から出てくる言動であることを加味すれば、ただの照れ隠しだと判断できる。
柳は包装を開けると、すぐに一口食んでみた。バニラが香る生地にミルクチョコレートの甘ったるいコーティング。しかし、カラフルでサクッとしたシュガークランチが全体のバランスを整えている。人気店だけあって、長期保存用といえど味は優秀。ただ、結局は甘い。
なるほど、これは浅羽隊員にとってはかなり甘すぎるかもしれませんね。
それでも、今の柳からしたらこれほど有難い浮き輪もなかなかない。胃の中が満たされると同時に、頭の中にもエネルギーがみるみる充填されていくような気がした。
自然と頬が綻び夢中になって食べていると、正面からははっと、少し呆れた笑い声が聞こえた。
「ホント、おいしそうに食べますよねぇ」
どうやら悠真は、柳が食べている姿をずっと見ていたらしい。彼は肘置きに頬杖をつきニヤニヤとした口元と共に、嬉しさを滲ませて目を細めていた。「信じられないことに、月城さんのせいで僕まで食べたくなってきちゃいましたよ」
「もとは貴方が貰ったものですよ。どのように扱っても貰った人の自由です」
「たしかにそれは、さっき僕が言ったことですけど……どうしようかな」
戸惑いながらも悠真は紙袋から一つ取り出した。彼が選んだのは何のコーティングもなされてないシンプルなもの。それならたしかに甘さは控えられるだろう。「まぁ、これを夜食ってことにするか」そうぼやくと包装を開けてドーナツを食んだ。
「どうですか?」
「……甘い、ですね。どれだけ砂糖入れたらこんなに甘くなるんだか」
悠真は苦笑いしながら、齧ったドーナツをまじまじとみた。
「月城さん、残り食べます?」
「結構です」
「即答すぎません? そりゃ冗談ですけど」
「冗談でなければ、困ります」
はたと、二人は目を合わせた。ほんの数秒にも満たない刹那。時が止まったように見つめ合うと、どちらからともなく可笑しくなってふっと笑いあった。
「ありがとうございます。浅羽隊員。──素敵な救護活動でした」
「救護って、もっと言い方あるでしょ……あーあ、副課長、これって時間外労働ですよね? つまり残業ってことになりません?」
「値しません。残念ながら」
「でっすよねぇ。その紙袋、まだ入ってるんで、蒼角ちゃんのお土産にでもしてください」
じゃあ、僕もう行くんで。そういって残りを手早く食べ終えると、悠真は執務室から出て行った。
浮き輪を食べ終わった柳は、今度は机に齧り付いた。悠真のおかげで思考がクリアになった気がする。予定通り三十分程度の残業で今日は済みそうだった。
書類に目を通す前にふと柳は悠真が座っていた椅子を見た。
そういえば、浅羽隊員はどうしてここに?
夜勤だったとしても、用事でもなければわざわざ六課に顔を出す必要はない。
柳は可能性の一つとして、悠真の心根が垣間見えた気がして、頬を綻ばせた。忙しない日々の渦中、一瞬和らぐ波間を狙い、沈みかけた人に手を差し伸べられる彼の優しさを。
了