死に損ないの初恋模様 トントントントントントントントン。
雑念を振り払うよう、ネロはひたすら野菜たちを刻んでいく。鬼気迫る様子のネロの隣で、寒がりコーンがぶるりと震えた。
集中したいのに、先程見てしまった光景が網膜に焼き付いて離れない。
ネロは徐に手を止めると、はああと深い溜め息を吐いた。
死の盗賊団はアジトをいくつか使い回しており、ここは元ある洞窟に少し魔法で手を加えただけの簡単な造りになっている。故にそれぞれの部屋に扉はなく、必要であれば入り口へ布を垂らすという具合になっていた。
ネロが乾物を取りに貯蔵庫へ向かう途中、布越しに話し声が耳に入り、それが妙に気になった。片方がブラッドリーの物だったからかもしれない。
その興味が仇となった。
布の隙間からそっと中を盗み見ると、ブラッドリーの頭が少し俯き加減に傾きこちらへ項を晒している。その正面には誰かが見上げる形で立っていて、顔の近さと途切れた会話がどんな状況かを物語っていた。
そう理解した瞬間、ネロは気づけば駆け出していた。
自分が盗賊団へ拾われ十数年、仲間同士で懇ろになる事はあっても、ブラッドリーが誰かと関係を持つことはなかった。いや、自分が知らなかっただけなのかもしれない。
煩く跳ね続ける心臓と、モヤモヤと言い知れぬ不安感がいつまで経っても収まらず、ネロは何度目かの溜め息を吐いた。
この気持ちはなんなんだろう。
これまでも仲間同士がよろしくやってる場面に出くわす事は何度もあったし、もっと過激なシーンも目撃している。
しかし、こんなにも心が騒ぎ続けるのは初めてだ。
「おいネロ、なんか食うもんねえか」
「! ぼ、ボス!」
突然掛けられた声に、思わず包丁を取り落としそうになる。掴み直してまな板へ置くと、怪訝な顔で見下ろすブラッドリーにへらと作り笑いを向けた。が、無意識に唇を見てしまい慌てて視線を逸らす。
「なんだ? 顔に何かついてるか?」
「いや、そういうわけじゃ…!」
「じゃあなんだよ」
ずい、と覗き込まれ、顔の近さに先ほどの光景がまた蘇って頬の熱さが増した。バクバクと鼓動が耳まで響く。
形の良い唇。それに触れたらどんな感触がするのだろう。自分の物を重ねたら、甘いのだろうか、酸っぱいのだろうか。
触れてみたい。
初めて味わう胸の高鳴りに、ネロは思考が溶けそうになった。
でも。
「すんません、ボス…。さっき、たまたま、覗いちまって」
この人の心には、自分じゃない誰かが住んでいるのだ。
目の当りにしてしまった現実が、悲しいのだと、辛いのだと、ざわめく心の叫びに気付いてしまったネロは泣きたくなるのをグッと堪えた。
俺は、尊敬して、敬愛して止まぬこの人のことが好きなんだ。
このざわめきが『嫉妬』というものなのか。
初めて知る感情。でも、やっと見つけたこの恋心に、俺は止めを刺さねばならない。
「は? さっき?」
「えっと…その…貯蔵庫の隣の部屋で…」
「ああ、居たな。それがどうした?」
「だから、その…。キ…」
「き?」
「ほら、だからさ、き、キ…」
「き?」
「えっと…あ、あんたが、その…キ…キス、してるとこ、見ちまって…」
「キス?」
しどろもどろに伝えるも、話が噛み合っていないようでブラッドリーは紅玉色の瞳をパチパチ瞬かせている。
「キス…ああ、あれか? イヴァンの目のゴミ取ってやった時か?」
「え」
「貯蔵庫の隣だろ? 一緒にいたのあいつしかいねえし、近付いたといやその時だけだしな。あんな髭面の野郎と、キスなんかしたくねえよ」
うへえと舌を出したブラッドリーが呆れたように並べた言葉に、ネロは顔から火が出る思いだった。
勘違いだった。早とちりした。
ああもう、俺の馬鹿野郎!
恥ずかしい反面、事実が無かったことに内心胸を撫で下ろす。安心した所で届かぬ恋など辛いだけなのだが、それでも、知って間もないこの甘い痛みをまだ感じていたい。
「したいのか? キス」
くい、と顎を引き上げられる。驚く間もなく重ねられた唇は、想像以上に柔らかかった。ゼロ距離で覗くブラッドリーの瞳は、いつも以上に煌めいて見える。
二、三度角度を変えて啄まれ、ちゅ、と音を立て離れると、呆然としたままのネロの耳へブラッドリーは唇を寄せた。
「他の奴等に言うなよ」
鼓膜を擽る低い声が、背筋へ甘い刺激を走らせる。
しぃ、と口元へ指を立て、艶やかな笑みを残してブラッドリーは厨房を去っていった。菓子を作ろうと蒸してあったヌガー芋の籠を丸ごと持っていかれたが、今はそんな事どうだっていい。
ネロはへなへなと床に座り込むと、恐る恐るまだ感触の残る唇へ触れた。ふに、と潰れるそこには僅かにブラッドリーの魔力を感じる。
漸く頭が事態を処理した。
聡いブラッドリーの事だ。自分の気持ちに気付いた上でこんな事をしたに違いない。これからどんな顔をして接しろというのか。
頭を抱えたネロは、下半身が痛いくらいに硬さを持ってしまっている事に気付いて更に頭を抱えた。
とりあえず、これを何とかしねえと。
はああと深い溜め息を零し、ノロノロ立ち上がる。
止めを刺し損ねた恋の行先は、とんでもなく前途多難だ。