心に触れて ——ついにこの日が来てしまった。
製菓会社の策略に乗せられているのは十二分に分かっている。自分はキリスト教徒ではないし、そもそも聖バレンタインという人物が何をしたのかすら分からない。
分からないが、毎年のように町中がピンクとチョコレート色に染まり、雑誌もチョコレート特集に埋め尽くされ、この日に向けて色めき立つクラスメートたちに囲まれ年を重ねれば自然と意識が向いてしまうものだ。
「……そう、だからこれはなんつうか、空気に流されたというか……」
「ブツブツとドアに向かって何言ってんだてめえ」
背後から聞こえた訝し気な声に、ネロの心臓は盛大に跳び上がった。
レッスン場があるビルの入口前、立ち尽くしていたネロが反射的に振り向くと、そこには大きな紙袋を片手に下げたブラッドリーが首を傾げて立っていた。見慣れぬ紙袋に自然と視線が向いた先、その中には可愛らしくラッピングされた有名店のチョコレートたちが所狭しと収まっている。
今日は二月十四日。バレンタインデー当日にこの大荷物ということは、だ。
この紙袋の中身、全部……。
察してしまったネロは、手に持っていた小さな紙袋をサッとカバンの影に隠した。
ブラッドリーがモテるだろう事は予想していたが、まさかここまでとは思っていなかった。いや、思いたくなかった。
この時期、有名店のチョコレートは品薄になるし、買うにしても長蛇の列に根気よく並ばなければいけない。だが味はもちろんお墨付きの物ばかりだから、甘い物を好まないブラッドリーでも満足出来るだろう。
そうして用意されたチョコレートの中に、自分の手作りの物が肩を並べるのは何とも居た堪れない気がしてしまった。
直前まで渡すかどうか悩んだ挙句、試食してくれたリサに背中を押されて用意したのだが、やっぱり辞めておけばよかった。
「? どうした、入らねえのか?」
「ッ、入る入る!」
ドアを開けたブラッドリーが、動こうとしないネロを気遣わしげに覗き込む。思えばいつも、こうしてドアを開けてくれたりさり気なくエスコートしてくれるよな……とモテる要因が垣間見えた。いつもなら素直にトキメいた事も、ライバルの多さを実感した今はチクリと胸に棘を刺す。
きっとこうした気遣いが当たり前に身に付いているんだろう。ブラッドリーにとって特別になれたのだと思い込んでいたのが、少し恥ずかしくなった。
レッスンは言わずもがな、集中など全く出来なかった。
何度も同じミスを繰り返すネロに付き合ってくれていたブラッドリーだったが、「今日はここまでにするか」といつもより一時間も早く切り上げられてしまった。
上がる時間が早いため定例の食事も無しで、現在ネロの住むマンションへ向かって車に揺られている。
最悪の最悪だ。
ネロの気分を上げるためか、今日は車内にネロの好きなバンドの曲が流れていた。以前サラッと話題に上がっただけなのに、覚えてくれていたのが嬉しい。それなのに、嬉しさがじわりと心を鉛色に染め上げる。
泣いてしまえたらどんなに楽だろう。でも、ここで涙を零してもブラッドリーに心配をかけるだけだ。
膝の上へ抱えているカバンをギュッと抱き寄せる。
ふと、カバンの影になっていた紙袋が目に入った。リサに試食を頼んだ日、まだブラッドリーへ渡すか悩んでいると打ち明けると、有無を言わさず手を引いて一緒にラッピング用品を選んでくれた。今日も下校後の別れ際にエールを送ってくれた。
紙袋にリサの顔が重なり、「本当にこのまま帰っていいの?」と聞かれている気がする。
「着いたぞ」
端的な言葉にハッと顔を上げた瞬間、ブラッドリーの愛車がゆっくりとマンション前に停車した。
降りねえと。降りねえと。呪文のように心の内で繰り返し、強張る身体を無理矢理動かす。
「……なあ」
突然声をかけられ、思わずビクッと肩が跳ねてしまった。
機嫌が悪そうな、少し低い声音。恐る恐る視線だけブラッドリーを窺うと、何故か拗ねたような顔をしていた。
「それ、俺のじゃねえのかよ」
「えっ」
ちょい、と指差された先にあるのはネロが用意したチョコレートだ。
「……もらってくれんの?」
「はあ? 当たり前だろうが。逆に何で受け取らねえと思うんだよ」
「だって、あんなに沢山有名店のチョコもらってんじゃねえか」
「馬鹿かてめえは。店のチョコレートも悪くはないが、てめえが用意したもんじゃねえだろ」
「……ッ、でも、チョコなんか作んの初めてで、もしかしたら口に合わねえかも」
「てめえが作るもんにそんな心配しちゃいねえが、もしそうだったら来年に期待しといてやるよ。……なあ、今ここで食ってもいいか?」
ネロがおずおずと紙袋を差し出すと、受け取ったブラッドリーがウキウキと中から紙製の小箱を取り出す。
「む。開かねえ」
「あ、あたし開けるよ」
開封に苦戦するブラッドリーから箱を受け取ると、ネロは破らないよう丁寧に小箱を開けた。
三部屋に仕切られた中に収めていたのはトリュフチョコレートだ。パティシエをしている母の友人に相談し、ブラッドリーが好みそうな味を目指して作った。
美味しく出来たと思う。リサからもお墨付きをもらったが、果たしてブラッドリーの口に合うだろうか。
「おっ、美味そうじゃねえか。せっかくだ、ネロが食わせてくれよ」
まさかの提案に驚いたネロが意味を聞き返す前に、ブラッドリーは瞼を伏せて口をあーんと開けた。
(うわ、睫長っ! え、ほんとに口に入れんの……?)
ドキドキと心臓が煩く高鳴り続ける。震える指先でチョコレートを摘まみ上げ、ゆっくりと口元へ運んだ。
(わっ、唇触れちまった! 思ってたより柔らけえ……)
もぐもぐと咀嚼するブラッドリーを眺めながら、指先が知った感触を呼び戻す。……これは、しばらく忘れられそうにない。
「美味い!」
ゴクンと飲み込んだブラッドリーに満面の笑みを向けられ、ネロはホッと胸を撫で下ろした。
初めて作ったチョコレートだが口に合ったようで嬉しいし、この笑顔が大好きだなと改めて噛み締める。
「はは、口に合ったみたいでよかったよ。残りは家で食ってくれよな」
また手ずから食べさせるのは心臓が保たないので、ネロはいそいそと箱を閉じた。
「ネロ」
名を呼ばれ振り向くと、グッと肩を抱き寄せられた。
え、と思う間もなく頬と頬が触れる。ブラッドリーのマフラーに埋まった鼻から、一瞬でブラッドリーの香りに満たされた。
「チョコレートありがとな。すげえ嬉しい」
「へっ⁉ あ、うん、どういたしまして⁉」
(待て待て待て待てちょっと待ってくれブラッドにハグされてる⁉ え⁉ どうしよう⁉ どういうこと⁉)
思考回路がショートし、全く状況が整理できない。
あったかい事と、いい匂いがする事しか分からない。
混乱するネロをよそに、ブラッドリーはネロの頭をひと撫ですると抱き寄せていた身体を離した。
温もりを感じていた箇所をヒヤリとした空気が撫で、惚けていたネロはハッと我に返る。
顔が燃えるように熱い。
「えっと、あの、あたし、帰るね!」
それじゃ! と勢いに任せ、ネロは車から飛び出した。