満月の夜に(終)「───あの時は血の匂いにあてられてたし、腕を噛んだことだって私の記憶にないよ」
とは言うものの、いつまでもアシュタロトの好意に甘えている訳にもいかないことは、ハンナ自身が一番よく分かっていた。対策を立てたあの日から満月の夜は四度目。あの日以来特に問題は起きてはいなかった。
今日だって一応覚悟はしてここにやってきたのだ。自分の腕に血が出るまで噛みついて、その強さを測ってみたりもした。ただ自分の腕と他人の首とではまた話が変わってくる。
そうこうしている間にも満月が昇る時間は迫ってきている。いつまで経っても椅子から立ち上がらないハンナに、アシュタロトはつかつかと歩み寄った。目の前に立ったアシュタロトの威圧感にハンナはたじろいだ。アシュタロトは無言でハンナの顎を片手で掴み、ぐいと顔を上に向けた。
「いい加減にしないと口移しで飲ませるからな」
アシュタロトの目は本気だった。ハンナは咄嗟に顔を背け、椅子を倒して勢いよく立ち上がった。
「わかった!わかったから!ちゃんと自分で噛む!噛めばいいんでしょ!」
やっとか、とアシュタロトは呆れた様子で椅子を起こし、そのままその椅子に座った。今度はハンナがアシュタロトの前に立つ番だったが、アシュタロトの長い脚に遮られ、どう顔を近づけるべきか分からなくなった。アシュタロトはそれに気づいたのか、ハンナの腰に片手を回しぐいと引き寄せた。慌ててアシュタロトの脚の間に片膝を立て、両肩に手を置いてバランスを取る。近すぎる距離を少しでも離そうと肩に置いた手に力を入れたが、腰に回された手の力には敵わなかった。
「これでいいだろ」
ぶっきらぼうに言うアシュタロトを見て、ハンナもこれ以上抵抗するのは諦めた。強硬手段を取られてしまうよりはずっとましだと思った。
片手で首筋に触れ、脈を探す。どくどくと脈打つ血管を見つけ、そこに顔を近づけた。唇が触れる前から熱を感じる。一度耳にかけた髪の毛がさらりと落ちた。
恐る恐る口を開いて、小さな尖った歯を柔らかい肉に食い込ませる。唇が触れた場所がやけに熱く感じた。力をくっと込めると、ぷつりと牙が刺さった感覚がして、僅かに口に血の味が広がった。ハンナが力を緩めそうになると、アシュタロトがもう片方の手でハンナの後頭部を押さえつけた。さらに深く歯が食い込み、口は一気に血液で満たされた。それをごくりと喉を震わせて飲み込む。それと共にアシュタロトの魔力が流れ込んでくる。満月が近づきざわめいていた気持ちが、引き潮のようにおさまっていくのを感じた。一口含めば十分だったが、その心地よさに抗えず、二口三口と血を飲んでしまう。ハンナは必死に自制心を働かせて、アシュタロトの首筋から顔を剥がした。頭に置かれた手の力はすでに緩んでいる。
「アッシュも止めてよ」
自分が制御できないことに僅かな自己嫌悪を感じつつ、そんな文句を言いながら手の甲で口を拭った。アシュタロトはハンナのぼやきは聞こえなかったかのように、無言で再びハンナの身を引き寄せた。「ちょっと!」と抗議の声をあげるハンナの頭をぽんぽんと叩いた。
「よくできた。やはりハンナを見込んで間違いはなかったな」
子どものように褒められて、ハンナはむすっとする。今度は全力でアシュタロトの力に抵抗した。
「私のことはいいから。早く噛んだ後の傷を治さないと」
体を離して傷に手をやり、丁寧に治癒魔法をかける。傷口は見る間にきれいになくなっていった。
「ごめん、痛かったでしょ」
治療を終えて謝罪をする。アシュタロトはハンナを安心させるように微笑んだ。
「気にするな。この程度は何ともない」
眷属になったのは、生きたいという自分の我儘だ。アシュタロトが笑って許してくれても罪悪感は残った。おやすみ、と挨拶を交わして部屋に戻る。
(これをこれから毎月続けるのか…)
一体慣れるのに何年かかるんだろう。私はあの人にどれだけの感謝を伝えれば足りるのだろう。
そんなことを思いながら、ハンナは自室のベッドにもぐり込んだ。