トライアングラー?酒場の夜は騒がしく、冒険者たちの陽気な声が響いていた。
テーブルを囲んで飲み明かす者、依頼の報酬で豪勢な食事を楽しむ者、それぞれが思い思いに過ごしている。
そんな喧噪の中、ペリードはジョッキの中身を見つめていた。
泡が消えかけた琥珀色の液体が揺れる。
すでに何杯も飲んでいたものの、酔いはほとんど回っていない。
ただ、胸の奥がざわつく。
「……ガネット」
低く、絞り出すような声で名を呼んだ。
向かいに座るガネットは、手元の水を一口飲み、静かに視線を向ける。
相変わらず冷静な顔だ。
だが、ペリードにはわかっていた。
その黒曜石のような瞳の奥に潜む、細やかな感情の機微を。時折、ランタンの光が反射して、赤が輝く。
「……どうした?」
ペリードは、握りしめていた拳をゆっくりと緩めた。
これを言ってしまえば、今までの関係が変わるかもしれない。
それでも、このまま何も言わずにいるほうが、ずっと苦しい。
ペリードは息を吸い、覚悟を決める。
「俺は、お前のことが好きだ」
ガネットの表情が僅かに揺らぐ。
それでもすぐに整えられた。
「……恋愛として、ってことか?」
「ああ」
短く頷く。
「俺はずっとお前を見てきた。冷静で、強くて、だけどどこか……無理をしてるように見えて。支えたいって思ったんだ」
「ペリード……」
「最初はただの仲間だった。だけど、一緒にいるうちに、そうじゃない気持ちが膨らんでいったんだ」
拳を握りしめる。
ガネットの前では、いつも冷静な自分でいたつもりだった。
だが、今だけは違う。
「お前が、俺の隣にいてくれたらって……ずっと思ってた」
ガネットは目を伏せたまま、グラスを指でなぞる。
「嬉しいよ、ペリード」
静かな声だった。
「お前は、本当に頼れる仲間だし、大切な友人だ。お前が俺のことをそう思ってくれるのは、正直、誇らしいくらいだ。…でも」
「……でも?」
「でも……俺は、お前を恋人として見ることができない…すまない」
心臓を握り潰されるような感覚だった。
わかっていた。
答えがどうなるかなんて、薄々気づいていた。
それでも、期待してしまった。
ガネットは、微かに苦笑する。
「俺には、今付き合ってる相手がいる。お前もよく知ってる奴だ」
アンバールという名前を出さなかったのは、ガネットなりの気遣いだったのだろう。
だが、今はそれが逆に辛い。
「それに……仮にそうじゃなかったとしても、お前の気持ちには応えられなかったと思う」
ペリードは、苦しげに笑った。
「そっか……」
答えは明確だった。
もう、どうしようもない。
せめてもと声が震えないように、言葉を紡ぐ。
「俺のこと、嫌いにはならないでくれよな」
それを聞いたガネットは、ゆっくりと首を振る。
「なるわけないだろ。お前は、俺の大事な仲間だ」
ペリードの告白に答えた後、ガネットはそっとグラスを置いた。
酒場の喧噪が遠く感じる。
ペリードはまだ俯いたまま、ジョッキの取っ手を指でなぞっていた。
彼の肩はわずかに震えているようにも見えたが、ガネットはそれを見なかった。
見てしまえば、自分の中にある微かな罪悪感が膨らんでしまいそうだった。
「……じゃあ…俺は先に帰るよ」
短く言葉を残し、ガネットは席を立った。
「…ああ」
ペリードは顔を上げなかった。
それを確認すると、ガネットは足早に酒場の出口へ向かう。
喧噪の中をすり抜けながらも、誰の顔も見なかった。
肩をぶつけられても、軽く謝ってすぐに歩き出す。
扉を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。
喧騒の熱気から解放され、わずかに呼吸が楽になる。
ガネットは一度だけ振り返った。
ペリードの席はまだそこにあった。
遠目でも、彼が動かずにいるのがわかる。
……これでよかったのか?
そんな疑問が脳裏をよぎる。
だが、答えは出ないまま、ガネットは酒場を後にした。
夜の静寂が、彼の足音を吸い込んでいった。
=====
ガネットが去ったあと、ペリードは顔を上げる。
そして、ジョッキの中の酒を一気にあおった。
喉を焼くような熱さが広がる。
「……とことん飲むぞ、カイヤー」
ペリードは、少し離れた席で様子を伺っていたカイヤーを振り返り、声をかける。
カイヤーは「やれやれ」と言いたげに酒を手に取り、ペリードに付き合うことを決めた。
傷ついた心を、酒で誤魔化す夜が始まる。
=====
酒場の隅、ランタンの光が灯る薄暗がりで、ペリードは荒く酒をあおっていた。
もう何杯目だったか覚えていない。頬は赤く染まり、目元は少し潤んでいる。
「はぁ……とことん付き合ってくれ、カイヤー……! 飲み明かすぞ……!」
ペリードはテーブルに拳を打ち付けながら、また酒を口にする。
その向かいで、カイヤーは落ち着いた様子でグラスを揺らし、静かに飲んでいた。
(……これは"チャンス"、なんだろうな)
カイヤーは、商人としての計算高さを自覚しながらも、心の中で冷静に状況を分析する。
傷心の男。理性が鈍る酒。
今を逃すような"まぬけ"でいられるほど、自分は清くはない。
「ああ、なぁ、カイヤー……」
ペリードが酒に酔った声で呟く。
「俺は……ガネットのことが、本当に好きだったんだ……。頼れるやつで、優しいやつで……。なのに、俺じゃなくて、アンバールと……」
「…………」
「俺とアンバールはさぁ、ガネットと出会ったのは同時だったよなあ?……何が、違ったんだろうなあ…」
カイヤーは黙って聞いていた。
「……ダメだった……。まあ、当然だよなぁ……、俺なんかが、ガネットに釣り合うはずがなかったんだよ…」
ペリードがジョッキを掴み、再び飲もうとする。
カイヤーはそれを軽く制しながら、ゆっくりと口を開いた。
「……ペリード」
「ん……?」
「俺は……お前が好きだよ」
ペリードの手が止まる。
静寂が降りた。
「…………へ?」
酔いが一瞬で覚めたような表情のペリードが、カイヤーを見つめる。
「……っ、な、何言って……」
「そのままの意味だよ」
カイヤーは、穏やかに微笑んでいた。
「初めてお前に会った時から、ずっと思ってたよ。お前は、強くて、優しくて……ずるいくらいにいい男だ」
「…………」
ペリードの喉が詰まる。
まさか、こんなタイミングで、こんな言葉を聞くことになるとは思わなかった。
「お前は、俺が断れないって、分かってて言ってるのか……?」
ペリードの声が震える。
「分かってるよ」
カイヤーは正直だった。
「俺は商人だからな。打算的で、最低なことを考えてる。でも……お前を手に入れたいのは、計算だけじゃない。本気だよ」
ペリードの心が揺れる。
ガネットへの想いは終わったばかり。
だが、カイヤーは――確かに、魅力的な男だった。
「……俺は……」
答えが出ない。
カイヤーは、そんなペリードの手をそっと握る。
「今すぐ返事をくれなくてもいい」
「…………」
「でも、俺は本気だから。お前のこと、大事にする」
カイヤーの手は温かかった。
ペリードは、カイヤーの言葉に戸惑いながら、視線を落とした。
酒のせいだけではない。心の中がぐちゃぐちゃになって、まともに考えられなかった。
「……俺の何がいいんだよ……。こんな、戦うしかできない、不器用な……振られたばっかの、情けない奴を…」
自嘲するように呟くペリードに、カイヤーはゆっくりと首を振った。
「最初に会った時、お前の輝く緑の瞳に惚れた」
ペリードの目がわずかに揺れる。
どういう表情をすればいいか分からずに、へへ、と引きつった笑みしか浮かべられない。
「……おい、笑うなよ」
カイヤーは少し照れたように、だが真剣な目で続けた。
「穏やかな声にも、大きな手にも、逞しい身体にも、全部惚れた。勿論性格にもな。…一目惚れってやつさ」
「……」
「ある意味、憧れなのかもな」
ペリードが驚いたようにカイヤーを見る。
「俺に無いものを、たくさん持っていて……。お前は、強くて、正直で、まっすぐだ。そんなお前が――好きだよ」
静かに告げられた言葉に、ペリードの胸が締め付けられる。
ガネットに振られたばかりで、心はぐちゃぐちゃなのに。
なのに、カイヤーの言葉は、まるで真っ直ぐ胸に届いてしまう。
「……俺は……」
何かを言おうとするが、言葉にならない。
カイヤーは、そんなペリードの手をまた、優しく握った。
「無理に今、答えを出さなくてもいい。俺は、お前が振り向くまで、待つからさ」
カイヤーの手は少し汗ばんできている。
この男も、緊張することがあるのか。
ペリードは、その気持ちを感じながら、混乱した頭で、自分の気持ちを探していた。
ペリードはジョッキを握りしめたまま、しばらく無言でいた。
酒の熱が喉を焼く。けれど、それ以上に胸の奥が妙に熱くて、苦しくて、落ち着かなかった。
「……俺なんかで、いいのかよ」
搾り出すような声だった。
カイヤーは、そんなペリードをじっと見つめて、少しだけ微笑んだ。
「“なんか”じゃない。ペリードがいいんだ」
静かに、けれど迷いのない言葉。
ペリードは息を詰まらせた。
目を逸らしたかった。けど、カイヤーの視線から逃げられなかった。
まるで、見透かされているみたいに。
その青い瞳は、まるで深海のようだ。引き込まれる。
「……お前、ずるいな」
やっと出た言葉は、それだけだった。
カイヤーは肩をすくめ、軽く笑う。
「商人だからな。取引の駆け引きは得意だよ」
冗談めかして言うが、その声はどこか優しい。
ペリードはもう一度、ジョッキを手に取ろうとしたが、指先がわずかに震えていた。
カイヤーはそれを見て、そっと彼の手を押さえた。
「飲むなよ。そろそろ泥酔するぞ」
「……もう酔ってるよ。酒にも、…お前にも」
ペリードは小さく息を吐いた。
カイヤーは、ただ静かにその言葉を受け止めるように、握った手を放さなかった。
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結局、それからさらに数杯飲み、デロデロに泥酔したペリードは拠点まで帰ることができず、カイヤーと共に近所の宿を取ることになった。
「重てぇな……筋肉の…塊が……」
カイヤーは、肩にほぼ全体重を預けるペリードをなんとか支えながら、宿の部屋へと転がり込む。
身長差もあるせいで、運ぶのに一苦労だった。
ようやくベッドに押し倒すように寝かせると、ペリードは沈み込むようにぐったりと横たわり、微かに唸る。
カイヤーは荒い息をつきながら、自分の肩を軽く回した。
「……ほんとに筋肉の塊だな。飲むのはいいが、自分で歩けないほど飲むんじゃねえよ…はぁ」
愚痴をこぼしながら、靴を脱がせ、適当に毛布をかける。
放っておいても朝になれば勝手に回復するだろうが、酔いで寝冷えでもされたら面倒だ。
カイヤーはため息をつき、隣の椅子に腰を下ろす。
宿の部屋は簡素で狭いが、酒臭いペリードと二人きりで過ごすには妙に密度が濃く感じられた。
「……俺に告白されたこと、こいつ、明日の朝には覚えてるのかね」
ぼそっと呟く。
酔っていたとはいえ、あんな返事をするなんて。
それが嬉しくないと言えば嘘になるが、酒の勢いもあっただろう。
――果たして、この告白がペリードの中でどう扱われるのか。
カイヤーはぼんやりと、乱れた髪の隙間から覗くペリードの寝顔を見つめる。
起きているときは屈強な戦士だが、こうして眠っていると、どこか無防備で幼い。
「……ったく。俺も随分と物好きだよな」
小さく笑いながら、水差しからついだカップの水を一口飲む。
長い夜になりそうだった。
おしまい。