multicolored イサミ・アオは夏に生まれた。八月三十一日、世間では夏休みの最終日。彼よりも十数年早く生まれた長男は、弟の出産予定日を父から教えられると夏休みに入ってすぐに、いつ可愛い弟が生まれてもいいようにと日記以外の宿題を全て終わらせたという。日記には毎日、今日はまだ弟に会えなかった、明日には会えるだろうかとそればかりが綴られており、あまりにも微笑ましい記録であるといまだに日記は実家で大事にされている。
イサミ・アオは、愛されて生まれてきた。だからイサミは、肌を焼く苛烈な夏の日差しも、抜けるような空の青さも、ハレーションを起こす入道雲も、ジワジワと煩い蝉の狂騒も、夏の全てを愛している。
そして出来れば、とささやかに願う。好きになってくれとまでは言わない、けれどあんたに夏を嫌いにならないで欲しい、と。
「今日も暑いな……」
苦笑を零しながらほとんど独り言のように呟いたのは、イサミが二代目を務める花屋の常連客であるルイス・スミスだ。今年アメリカから日本に移住してきたばかりの彼は、初めて体験する日本の夏に随分と辟易としている様子だった。
日本人よりも遥かに色素の薄い肌はいっそ痛々しいほど赤く火照り、額から首筋にかけて噴き出す汗が薄水色のワイシャツの襟に汗じみを作っている。いくら店内が花の為に一定の温度に涼しく保たれているとはいっても、外から持ち込んだ体内の熱はそう簡単に引きはしない。見かねて「サービスだ」と淹れてやった冷たい麦茶をあっという間に三杯飲み干して、辛うじて脱水症状は免れているものの下手をすれば熱中症まっしぐらである。
なかなか引かない汗を絶えず拭いながらフウフウ言っている姿を見ると、無理して来なけりゃいいのに、と思わないでもない。花屋を営んでいる身で堂々と言えることではないが、花は生活に彩りを与えるものではあっても必須ではないのだ。この店にさえ通うことをやめればスミスは会社から店までのろくな日陰もない道を炎天下に歩かずに済むし、もっと言えば免許も車も持っていると聞くので車通勤だって可能になる。ただただ、周囲に車を停めて置けるスペースがない店に通うためだけに、スミスは酷暑と戦っている。
「イサミ?」
まだ頬は赤いものの発汗の山場は過ぎたようで、ようやく汗を拭う手を止めたスミスがイサミに視線を向けてくる。目が合えば、照れ臭そうに微笑まれた。
「……今日はどの花にするんだ?」
「! ああ、そうだな、イサミのおすすめは?」
店に誇りを持っている。花だって切り花とはいえ丹精込めて世話をしている。アレンジはいまだに得意とは言えないが、得意だと言えないからこそ勉強は欠かさない。それでもやっぱり花よりも人命の方が遥かに大事で、汗だくになってまで来る場所じゃないと言いたいのに、それこそ夏の日差しのような笑みを見せられてしまえばとてもじゃないが「来るな」とは言えなくなってしまう。
(何があんたをそうさせるんだろうな)
先代の頃から世話になっている常連客にも秘密にしていた今日一番とっておきの花を、指先にスミスの視線を感じながら丁寧にまとめる。週に多ければ三度も花を買っていくのに毎回スミスはラッピングまで希望して、選ぶリボンは決まって金色。あんたなら青とか赤の方が好きそうなのに、と言ったら、イサミをじっと見つめて「金色がいいと思ったんだ。……なんとなくだけど」と笑っていた。それはそれでスミスに似合っていたので、金色のリボンは切らさないように注意している。
ラッピングはしても袋は不要とのことで、こちらも毎度手渡す花束はどんな花であってもスミスに映えた。多少頬が赤かろうが、汗でヘアセットが乱れていようが、俳優のように様になる男である。
「今日もありがとう。大事にするよ」
きっとスミスのことだ、言葉の通り大事に飾ってくれるだろう。嬉しそうに花束に顔を寄せるスミスに「少し待ってくれ」と声をかけたイサミは、少し躊躇ったのち、カウンターの下に隠すように置いていた細長い紙袋を手に取った。
「これ、あんたに。荷物になって悪いんだが……」
「俺に?」
ぱちぱちと瞬く青い瞳が綺麗だ。田舎の親戚宅で見たことのある蛍の点滅に似ている。
イサミが頷けば紙袋を受け取ったスミスは中を覗いた。
「umbrella」
「違う、parasolだ。いや、雨天兼用だからumbrellaでも合ってるか」
顔を上げたスミスが再度「俺に?」という顔を向けてくるものだから、気恥ずかしくなったイサミはそっと顔を逸らした。何の脈略もなく傘をプレゼントするなど、やはり変に思われただろうかと暑さのせいではない汗が首筋にじわりと滲む。
「あ、あんた、いつも暑いなか店に来てくれるし……熱中症になってからじゃ、遅いし。アメリカじゃ日傘差す習慣ないかも知れないけど、日本じゃ最近男も普通に差すようになってきてて……無地だし、柄も結構シャレてるだろ? それくらいなら、差しやすいかと思って」
言いながら、ああ駄目だとイサミは項垂れそうになる。何を言ってもやはりあまりにも唐突過ぎた。いくらそれなりに仲良くなったとはいえ、店員と客の間柄で贈るものではなかったと若干後悔しながらチラリと視線をスミスに向ければ、スミスは喜色満面の笑みを浮かべていた。
(あ……)
イサミの心臓がトッと優しく跳ねる。
「嬉しい……ありがとうイサミ。大事にする、毎日差すよ」
心底嬉しそうな表情に嘘偽りはなくて、イサミの方こそ嬉しくなった。変に思われなかったことも、喜ばれたことにも。
「大事にする」
念押しするように言い、スミスは花束と同じくらい大事に傘を抱えた。イサミはそれに「うん」と言った気もするし、何も言わなかった気もする。ただ、自然と笑みが零れた。
何故かサァっと赤味が差したスミスの耳を不思議に思いながらも「またのご来店をお待ちしています」と畏まって言えば、笑ったスミスが傘を軽く持ち上げてみせた。
晴天の下、早速開かれた傘はネイビー。黒の方が無難だろうかと数時間かけて悩み抜いた末に、スミスならこちらの方が似合いそうだとネイビーにしたが、選択に間違いはなかったと安堵する。
(これでスミスが少しでも日本の夏を快適に過ごしてくれたらいい)
ささやかな、本当にささやかな願い。イサミが愛する季節に、なるべく多く、スミスの笑顔が見られるように。
イサミ・アオは夏に生まれた。八月三十一日、世間では夏休みの最終日で、花屋のイサミにはただの営業日。一体どこの誰から洩れたのか教えた覚えもないのに、
「八月三十一日はイサミの誕生日なんだろ? 良かったらお祝いさせて欲しい。傘のお礼も兼ねて……どうかな」
と妙に緊張した様子のスミスに食事に誘われるまで、あと少し。