幻想組曲 第一楽章 仮面舞踏会
鬱蒼と生い茂る森の中を行く二つの影。数歩先すら見えない暗闇で、二つの物を頼りに歩く。ひとつは月明かり。冷たく輝くその光が前を行く男の白い肌を照らしている。もう一つは、どこか調子外れの六弦の音。おおよそ人間の奏でる音楽ではないとわかるその闇の調べが、この辺りを駆け回るようになってからもう幾年が過ぎただろうか。耳を塞ぎたくなるような歪な音、人々の恐怖と不安を煽り、夢に落ちることを許さない魔物の叫び。
夜露に濡れた落ち葉を踏みつけ、音のする方へとひたすら歩く。ようやく暗い森を抜けたその先に、月明かりを浴びておぞましくそびえたつ古城が現れた。闇の調べに乗せて烏や蝙蝠が踊るように飛び回っている。ここが目的の場所である。
前を歩いていた夜空色の髪をした男が、首から下げた十字架を握り一呼吸をついた。そして聖なる黒衣の懐から星の紋を宿した本を取り出しパラパラと一瞥する。その姿を見て、彼の後ろをついて歩いてきた男が悪魔のように笑った。眼鏡の奥から紫水晶の瞳を三日月型に歪ませてくっくっと肩を震わせている。静かに本を閉じた男は目線だけを投げて何が可笑しいのかと訴えた。
「いえ、まさか怖気づいてしまったのかと思いまして」
「…万が一ということもある。呪文を確認していただけだ」
「それは結構。是非使うところを見せていただきたいものです」
まったく愉快だとまた悪魔は笑う。まずはこの男を祓ってしまいたいものだと言う風にため息をついて、男は再び歩みを始めた。目的は悪魔ではなく、この城に住まう魔物。人々の夢を妨げ、恐ろしい闇の調べを奏で続ける者。大いなる力を持ち、血に飢えた牙を隠したその魔物の名は、《吸血鬼》である。
*
ひたすら音楽の鳴る方へと陰鬱な城の廊下を進んで行き、ある部屋へとたどり着いた。大きくなればなるほど煩わしく自ら鼓膜を破いてしまいたくなるような六弦の音。顔を顰めながら扉に手をかけると、中にいたのはその音の源。長い金色の髪を結わき、血気の失せた白い肌と同じくらい美しく上品な召し物に身を包んだ貴族風の男。氷の様に研ぎ澄まされた瞳の色はけれど太陽の輝く青空の様でもあり片方にはその空から星を落としたように妖しげな黒子がある。もちろん、彼が青空の下に現れることはあり得ないとはわかっているが。抱えた六弦をかき鳴らすのをやめて、男はじろりと来訪者を見据えた。
「誰だ、お前ら」
真っ直ぐに放たれた言葉には、単純な疑問しか含まれていない。吸血鬼というからには獲物を見るなり襲ってくるものかとも思っていたがどうやら理性のある魔物のようである。眉を吊り上げて「はやく答えろ」と言わんばかりに足を鳴らした。
「キミが、この城に住む偉大なる吸血鬼の……」
「お医者様は、質問に質問で返すなって常識は学ばなかったのかよ?」
「……これは失礼しました。まさか吸血鬼如きに常識を説かれるとは夢にも思わなかったものですから」
「……あ?」
一触即発の雰囲気を一瞬にして作り上げた吸血鬼と、一応自分の仲間である男にため息をついて、その空気を裂くように、夜空色の髪の男は礼儀として名を名乗った。
「オレは、あなたの支配に怯える人間たちから依頼を受けてここにやってきた聖職者、名前は、…キョウだ。こっちの眼鏡は、気狂いの悪魔だが優秀な医者で、名前はマコトだ」
「僕の特徴、やっぱり眼鏡なんですねぇ」
「聖職者と悪魔なんて、すぐに解散しそうなコンビだな」
意味が分からない、といった風に吸血鬼は天を仰いだ。吸血鬼の言葉とキョウの言葉にマコトはまた肩を震わせて笑っているが、はやく話を進めるため放っておくことにした。大きく呼吸をしてキョウはいま一度吸血鬼に問う。
「それであなたは……」
「ああ、オレがこの城に住む恐ろしい吸血鬼、レイだ」
「自分で言う程恐ろしくは見えませんけどね」
「………」
「ああ、ええ、すみません。どうぞ続けてください」
キョウの無言の牽制にマコトはもう余計な事は言いませんよと両手を上げる。ふう、とまた息をついてキョウは吸血鬼……レイに向き合い用件を告げた。
「レイ、オレは聖職者だが、お前を退治しにきたわけじゃない」
「へぇ、そういうのはその服の下に隠してる魔術書を捨ててから言ってほしいね」
「……!」
目を見開いたキョウをみてレイは嘲笑うように続けた。
「どうして人間の聖職者と低級悪魔如きが、無傷でオレの部屋まで来られたと思う?……お前たちに蚊ほどの興味もねぇからだよ」
六弦を持ち直したレイがそれを一振りかき鳴らすと、窓の外で烏が歌い蝙蝠が踊った。直接体に響く歪な音にキョウは思わず耳を塞ぐ。マコトも眉間にしわを寄せて腕をさすった。
「さっさと帰れよ。オレが何もしないうちに」
興味がないと言った通りレイは二人に背を向けてまた六弦を鳴らし始める。金色の髪を揺らして、微かに歌を口ずさみながら闇の調べを続けた。
マコトが白衣の内のメスに手をかけるより先に、キョウは懐から取り出した魔術書をレイに向かって投げ捨てた。この行動にはマコトもレイも驚いて空気が止まる。振り向いたレイの瞳は少しだけ熱を宿し、彼に対しての興味が沸いたように見えた。
「おいおい、見かけによらず荒っぽい奴だな。いいのかよ、大事な武器を手放しちまって」
「捨てろと言ったのも、何もしないと言ったのもレイだ」
「……へぇ、肝は据わってるみてぇだな。……オレに何の用だ?」
六弦を持ったままレイはゆっくりと歩み寄る。床に捨てられた魔術書を踏みつけて、氷の瞳がキョウを見下ろした。
「……、」
「…………」
「………………」
「……いやなんか言えよ!」
折角用件を聞いてやろうとしたのにどうしてここで口を閉ざすんだとレイは思わず突っ込んだ。マコトがまた可笑しそうに肩を震わせて、仕方ないと言うように代わりに口を開いた。
「この人、基本的に会話が出来ないんですよ。さっきまでは多少予行演習というか、ええ、キミに話を聞いてもらうために予め考えておいたセリフを言っていただけで……ここからは大変ですよ?」
「いやいや!勝手に乗り込んで来たのはお前らの方だろうが!なんだそれ!帰れ!」
声を荒げたレイは拗ねたように頬を膨らませて座り心地のよさそうなソファに腰をおろした。心底面倒くさいと言わんばかりに長い足を投げ出してぐったりとしている。マコトがニヤつきながら「どうするんですか」とキョウに目配せをすると、ひとつ頷いてまたキョウはレイに近づいた。
「……続けてくれ」
「……は?」
「弾いてください、と言っているんですよ。耳障りなその六弦を」
補足をしてあげたというのにキョウはマコトをジロリと睨んだ。そういえば余計な事は言わないと約束しましたねと思い出してマコトは笑う。戸惑った様子で二人を交互に見るレイに、キョウはもう一度「続けてくれ」と言った。
「マジで意味わかんねぇ……何が目的だ?」
彼らの言うことを聞いてやる必要はレイにはなかったが、誰かに弾いてくれと言われたのはもう何百年ぶりだろうか……と遠い記憶を想い返した。マコトが言った通り、人間にとって自分の音は耳障りなものでしかないはずで、キョウだって先刻耳を塞いでいた。それでも続けてくれとこの人間は言うのか。
「お前も、相当気狂いだぜ」
じっとレイが弾くのを待っているキョウにそう言ってレイは六弦をかき鳴らす。部屋だけではない、この大きな城さえ飛び越え吸血鬼の音は夜の闇に響き渡る。身体を突き抜ける歪んだメロディ、この音に人々は眠りを奪われ続けている。祓うべき魔物、忌むべき悪。けれど、この音に強い想いをキョウは感じた。耳を塞がずに音と向き合えば、きっと答えが見える。震える身体を押さえながら聴き続けた。そして、吸血鬼の奏でる強い想いに重ねるようにキョウは息を吸ってメロディを歌う。
「!?おい、お前……、」
「安心して続けてください、キョウさんの歌に浄化の力はありませんから」
いつの間にか向かい側のソファに座ってくつろいでいる悪魔が可笑しそうに言う。彼が普通にしているのを見ればその言葉を信じるのは容易かったが、やはり目的がわからないとレイは戸惑う。けれど、キョウの歌に引きずられるようにレイは六弦を弾き続けた。不協和音は次第に調和のとれた音へと変わり、吸血鬼と人間の奇妙な音楽が響いていく。
その日、人々はようやく夢へと落ちたという。決して交わることのない光と闇の禁断の音楽、だからこそ甘く美しい。
思うままに弾き続けたレイと、歌い切ったキョウは互いを見つめ合っていた。どちらの瞳にも高揚があり、氷の瞳は太陽を宿した青空に変わった。
「お前……歌上手いな!」
「……」
「いや、久しぶりに楽しかった!ビビった!」
興奮冷めやらぬといった風に目を輝かせて笑うレイに、今度はキョウとマコトが戸惑い言葉を失っていた。陰鬱とした空気は消え去り、長い金色の髪を揺らして楽しそうにしている。立ち襟のマントを翻して踊るように立ち上がると突っ立っていたキョウの手を取りマコトの隣へと座らせた。
「気分がいいぜ、もてなしてやる。酒でも飲むか?気を紛らわせる為の葡萄酒しかねぇけど」
「……いただこう」
「僕は結構です」
「言われなくてもお前にはやらねぇよ」
ベッと舌を出してレイは二人分のグラスと葡萄酒を用意する。嫌われましたねぇと悲しそうな声を出すマコトを横目で見ると眼鏡を押さえてニヤニヤ笑っているのだから本当に気狂いだなとキョウは心の中で思った。戻ってきたレイがテーブルにグラスを置き、真っ赤な葡萄酒を注ぐ。吸血鬼の食料である血液に似たその液体を見つめていると「安心していいぜ。オレはグルメだから不味いものは出さねぇよ」と少し的外れなことを言った。だがおかげで本当に安心できた。グラスを手に取り、キョウはレイと杯を交わした。
ソファに座ったレイがまたひとしきりキョウの歌を褒める。他人の音楽を聴くこと自体久しぶりだったがそれがお前の歌で良かったよとグラスを仰いで言うレイは本当に上機嫌の様だった。これが本当に何百年も人々を脅かしてきた恐ろしい魔物なのだろうかと、楽しそうにヘラヘラ笑うレイを見ながらキョウは思った。しかし、勢いよく赤い液体を飲み干した吸血鬼はグラスをテーブルに置くと、二人をまた氷の瞳で見下ろすのであった。
「キョウちゃん、お前の歌に免じて話を聞いてやる。気が変わらないうちにさっさと言いな」
「キョウ、ちゃん……?」
「あ?さっきそう名乗っただろ?」
「随分となれなれしい魔物ですね」
「なんだ羨ましいのか?しょうがねぇな~まこっちゃんは」
「キョウさん、早く用件を済ませて一刻も早くこのカビ臭い城をお暇させていただきましょう。さもないとこの腐った魔物の牙を抜いて砥石にしてしまいたくなります」
「やれるもんならやってみな、低級悪魔の藪医者め」
音楽と酒で熱気に包まれていた部屋が一瞬にして極寒の地のように寒くなった。吸血鬼・レイの強大な魔力が本物であることを凍えた身体が身をもって教えてくれている。再々度マコトに余計な事は言うなと釘を刺してキョウは震える唇を開いた。
「オレは、人と魔物の共存を望んでいる」
ようやく切り出された本題にレイは足を組んで目を細めた。オレは、と前置きしたと言うことは、これは依頼をした人々の意志ではなくキョウ自身の望みなのだろうとレイは察した。
「……続けろ」
「……この辺りに住む人々は、ずっと恐れを抱いている。いつ、吸血鬼に襲われるのかと眠ることも出来ず、けれど戦うことも出来ず、毎夜響く闇の調べに怯えるばかり。オレが受けた依頼は、吸血鬼を殺してほしいというものだ。もちろんオレは魔物退治を仕事にしている、今までも何度も戦ってきた。だが、オレは思う。何故、争う必要があるのかと。 」
すらすらと自分の想いを語りだしたキョウに、会話が出来ないと言っていた割にはちゃんと喋れるんだなと思ったレイではあったが、これも先ほどマコトが言っていたように予行演習をしたセリフなのだろうか。グラスに入った葡萄酒の残りをぐっと飲み干してキョウは続ける。
「確かにレイの魔力は強大だ。戦わなくともわかる、オレですら太刀打ちできない程のものに、ただの人間が怯えるのは当たり前のことだ。けれど、だからと言って、手出しをされていないのに殺していい理由があるだろうか」
「実際、ここ百年の間吸血鬼による被害は報告されていません。実害と言えるのは騒音騒ぎくらいのものでしょうね」
「……つまり、戦うのが怖いから話し合いで解決しようって事か?」
「……ッ!」
目に見えない速さでレイは片手を伸ばしキョウの首を締め上げる。そしてその首に噛みつこうとしたレイの喉元に今度こそマコトがメスを当てた。予断を許さない緊迫した命のやりとりが一瞬にして起きて空気がさらに凍りつく。黒衣の上から食い込んだ鋭い爪が皮膚を裂き葡萄酒とは比べ物にならない本物の真紅がキョウの首から滲みだした。
「面白いと思ったけどただの臆病者か。共存?バカげたこと言ってんじゃねぇよ、オレが手を出さないのはお前たち人間に興味がないからだ。殺す価値も、血を吸う価値もない。勝手に怯えて泣いて暮らしてろ、オレに関わってくるんじゃねぇ」
乱暴にキョウの首を掴んでいた手を放してレイはマントを翻し背を向ける。そして指を鳴らして部屋の扉を開け今度こそ帰れと示した。しかしキョウは屈しない。血を流したままレイに近づいていった。
「興味がないのなら何故魔界に帰らない、人間に対しての未練があるのだろう」
「……っ、帰れ、」
「お前が奏で続けている音は、正直にお前の想いを伝えていた。オレにはわかる、だから共存できると思った。共に生きていくことが出来ると思った」
「うるせぇ!」
「お前の音楽は人間と寄り添える、そしてそれをお前は望んでいる。……一瞬にしてオレの命を奪える手が、あんなに美しい音楽を共に奏でられるのだと、オレはみんなに知ってもらいたい」
「……ッ…」
真っ直ぐに、レイを射るキョウの目はどんな魔術よりも強く彼の心を震わせた。その言葉も、吸血鬼の遠い記憶を呼び起こさせる。遥か昔、まだ人間と魔物の確執が無かった頃、共に笑い合って過ごしていた日々、交わした約束と夢、そして……
キョウの首から流れる血の匂いにレイはマントで顔を覆いその場に崩れ落ちる。気分が悪そうに咳き込む彼の背をキョウは優しく擦った。黙ってことの成り行きを見ていたマコトがメスをしまい、おやおやと興味深そうにレイを見つめる。
「キミは吸血鬼のくせに血がダメなんですね」
「……うるせぇな、悪いかよ」
「いいえ?偏食はどの種族も関係なくあるものなのだなと感心しているところです。なるほど、だから気を紛らわせる葡萄酒だったという訳ですか……」
ふむふむと頷きながらマコトはどこからか取り出した羊皮紙に悪趣味なペンでメモを取っている。マイペースな悪魔は放ってキョウはもう一度レイに訴えた。
「争いで生まれるものは何もない。レイはそれを知っている。恐ろしい吸血鬼の心が優しさに満ちているのだと人々に知ってもらえれば、レイの望みもきっと叶う。だから……」
「あーもーわかったって!それ以上言うな!」
「……?」
どこか気恥ずかしそうにしてレイはふらふらと立ち上がりソファに座る。空になった二つのグラスにまた葡萄酒を注ぎキョウにも座れと促した。
「話の続きを聞いてやる、はやく座れ」
「レイ……!」
「ていうか、さっきから気安く名前を呼ぶな!オレは偉大なる吸血鬼だぞ、フォアグラなんだ、もっと敬え」
「フォアグラ……?確かに人間からしてみれば吸血鬼やその他の魔物は珍味の様なものであることに違いないが食される為に育てられた肝臓と比較してしまうのは逆に己の価値を下げているのではないか?」
「もしかして、ファビュラスと言いたいんじゃないですか?」
「おお!それだよそれ、さすがまこっちゃん、眼鏡かけてるだけあるな。しょうがねぇからお前にも葡萄酒やるよ」
もう一つグラスを取りに行くためレイは立ち上がる。バタバタとなんだか忙しないレイの言動にキョウは笑った。また眼鏡を弄られたマコトは呆れながらもソファに座り差し出されたグラスを快く受け取った。そうして、今度は三人で杯を交わす。
種族の違う者たちが少し心を近づけた夜、そこには美しく調和のとれた音楽があった。ほろ酔い気分のレイが六弦を鳴らしてそれに合わせてキョウが歌う。二人の音楽にマコトも初めて穏やかな表情で笑っていた。葡萄酒を飲みかわしながら夜は進む。
「それで、具体的にはどうするんだ?」
争わず、共存のために、一体この人間は何を提案してくるのだろうとレイは楽しそうに尋ねた。簡単なことではないのは分かっている。だが、久しぶりに興味が沸いた。もし、上手くいかなかったとしても、永い時を生きる中で少しの退屈しのぎになったと思えばいい。自分の音楽を素晴らしいと言い、共に奏でてくれる人間にまた出会えた。過去に失ったはずの懐かしいこんな日は、この先二度と訪れないだろうから。
ソファから立ち上がり、声をあげてキョウは言う。
「仮面の奥に現れる真実、人と魔が織りなす熱き宴、我らが奏でる禁断の調べは、新たなる歩みを祝福するだろう」
「……は?」
***
黒紫のマントを風になびかせて吸血鬼は空を飛ぶ。鬱蒼と生い茂る森の上を過ぎ、自らの魔性に怯える人間たちの住処を過ぎ、風の香りが変わるところまで真っ直ぐに飛んでいく。目指すのは黒い海。悲しみと後悔を沈めた不変の墓。そして、唯一の友が支配する場所。波が強く打ち付ける岩場に降り立って友の名を呼ぶ。しばらくして、波が形を変えて眼前に人の形となって現れた。それは、魔物でも人でもない。唯一にして絶対、すべての命の源である海の支配者、すなわち、神である。
「ようレイ!遅かったから飯いらねぇのかと思ったぜ」
「色々あったんだよ……あ~〜頭いてぇ……」
「酒臭いな、一人で飲んだのか?」
「とりあえず全部話すからさ、先に飯食わせてくんねぇ?」
レイの腹の虫が豪快な音を上げたのを聞いて、海の神は朗らかに笑った。神と魔物、決して交わることのない種族の二人は、遥か遠い昔からの竹馬の友であった。
「で、共存するために仮面舞踏会を開いてくれって言うんだよ。気が狂ってるだろ?」
「まぁ、親睦を深めるパーティーっていうのは人間はよくやるからなぁ。普通っちゃ普通じゃねえか?」
「だからって、仮面で隠しただけで魔物と人間が同じ空間でパーティーを楽しめるって普通思うか!?自分で言うのもなんだけどオレ結構人間どもには恐れられてるんだぜ?」
海の幸を食らいながらレイは感情も豊かに喋りつづける。吸血鬼の主な食料である人間の血が飲めないレイは、友である海神の息吹のかかった海の幸を食すことによって生命と魔力を保持してきた。それが他の吸血鬼と違い強大な魔力を得ている理由である。話を聞いていた海神は凪いだ海のように穏やかに笑いながらレイの話を聞いていた。
「でも、お前はそれを承諾したんだろ?どうしてだ?」
友の問いかけにレイは瞳を揺らす。思い出す、数日前の出来事。耳に残る強い歌声、共存の道を説いた夜空色の髪の聖職者。
「……それを、言いに来た人間がさ、あいつと同じこと言ったんだ。もちろん、全ての人間がそうじゃないってわかってるよ。でも、……楽しかったんだ、オレ。そいつと音楽やって、動いてないはずの心臓が体中に血を巡らせるように大きく鼓動した、それくらいの歌声だった、あんな人間がいるのかよってゾクゾクした……!」
もし、あの歌声と共に音楽を奏でられるのなら、約束を叶えられるかもしれない。止まっていた時間は動き出して、もしかしたら、やり直せるかもしれない。
「なぁシン、オレは、どうしたらいいと思う……?」
けれど迷ってしまう。所詮は違う種族、一度溢れた水は盆には返らない。そして、本当は誰も望んではいないことを知っている。これは自分と、あの聖職者のエゴでしかない。
シンと呼ばれた海神は、逞しい両腕を組み目をとじて深く考える姿を取る。そして、悩む友に向かってこう言った。
「あんまり難しく考えないで、楽しんでみればいんじゃねぇか?もし上手くいかなかったとしても、退屈しのぎになったって思えばいい。お前には時間がある、その分自由なんだから」
シンの言葉に、レイは心が明るくなる。自分と同じことを思っている、まさしく友と呼べる存在。そう、楽しめばいいのだ。
「やっぱり持つべきものは親友だぜ!サンキュ、シン」
「おう!楽しんで来い!」
これは宴だ、ひと時の夢だ。悠久の時を生きる吸血鬼に、人間が捧げた貢物だ。それを収穫し称えよう、血の代わりに一興をくれたあの人間を。
「やっぱり、魔物は魔物でしかないんだよ。悪いなキョウちゃん」
その魔物の名は《吸血鬼》。太陽の光よりも眩しい金色の髪を靡かせて、青空の瞳で人を惑わす麗しき鬼。
***
ゆらりとした足取りで、白んだ空が少しの光を落とす森の中を行く二つの影。吸血鬼の城をあとにして住処としている教会へと帰路を歩く。正式な返答は三日後、もう一度この城でと吸血鬼は言った。上々の結果であると言えるだろう。身体にめぐるアルコールが頭を痛ませていることくらい我慢できる。後ろをついてくる眼鏡の男は変わらず悪魔の様な笑みを浮かべて何ともない素振りで話しかけてきた。
「いやぁ、驚きました。まさか貴方があんなに喋ってくれるなんて。もう少し僕の出番があるかと思っていたんですが……、もしかして、葡萄酒のおかげですかね?」
「……酒がなくても話していたさ。お前に任せていたら即座に交渉決裂していた」
たどり着いた教会の木製の扉を開きキョウはそのまま床へと倒れこんだ。強い魔物の近くにいるだけで体力を消耗してしまう。まったく、この身体はどうしてこうも弱いのだろうと舌打ちをした。仰向けに寝転んだキョウの横に膝をついてマコトは首の傷をなぞる。手当をしましょうか?と言えば返って来たのは拒絶の言葉で、まったく信用されていないのが可笑しくなる。声をあげて笑った後、もうひとつ可笑しかったことを告げた。
「それにしても、あんなに楽しそうな貴方の顔は初めて見ましたよ。ああ、ええと、キョウさん?」
「……オレは、楽しそうだったのか」
「ええ、キョウさんもレイさんも、何をそんなに懐かしそうにしているのでしょうかと、不思議でたまりませんでした」
目を閉じて、酩酊している頭の中でマコトの言葉を繰り返す。懐かしそうに、楽しそうに、そんな風に思われてしまうような態度をオレはとっていたのだろうか。アルコールが入って多少喋りやすくなったのは確かだった。けれど、心の内まで晒してしまったつもりはない。つまり、無意識で楽しんでしまったのだ、あの吸血鬼との奇妙な音楽を。耳を塞ぎたくなる歪な音色、そこから伝わってきた切なくて狂おしい願い、優しさを孕んだ六弦の音。重ねた歌の心地よさ。なるほど、すべてが懐かしかったのか。
「音楽は、一人では楽しめないから……久しぶりに他人と音を交わした。オレもレイも、そういう懐かしさを感じたのだろう」
「レイさんはそうかもしれませんね。けど、貴方は違うでしょう」
靴を鳴らして教会の磨かれた床を歩きながらマコトは面白おかしく言う。どういう意味だと目線を送ると、悪魔は両手を広げて「さあ?どういう意味でしょう?」と笑った。気狂いの妄言を素直に聞いても仕方がなかったかと自分を納得させてキョウはまた目を閉じる。
「このまま寝る、準備は任せた」
「信用されてるんだかされてないんだか、本当に貴方はわかりませんね。僕が貴方の寝首を掻かないと本気で思っていますか?」
目を閉じていてもわかる、傷口に重ねられた冷たい刃物の感触。ふふ、と笑ったキョウは何でもないように言った。
「目的のために、やるべきことを一番にやる奴だと認めたから、オレはマコトと契約を交わした」
「……、」
「今オレを殺したら、お前の計画もすべて台無しになるな」
「……悪魔のようですねぇ、キョウさんは」
興醒めだと言うようにため息をついてマコトは教会を出ていった。木製の扉が閉まった音を聞いてキョウはようやく肩の力が抜ける。無駄話をせず従順に動いてくれたらどんなに楽だろうかと思うが、仕方がない。無理やり使役させるだけの力は自分にはなかったのだから。息を吐いて、ゆっくりと目を開けると、冷たい月明かりがステンドグラスから差し込んでいる。己の黒衣に染み込んでいく聖なる月の光。もう少し、もう少しだと言い聞かせて今度は眠りにつくために目を閉じた。
***
相変わらず陰鬱な空気を蔓延らせている古城の廊下をカツカツと靴を鳴らしてマコトは進む。無駄に広いこの城にはレイしかいないのかと思っていたが今日は他の魔物の気配を微かに感じた。先日訪れた時は彼の六弦に掻き消されていたのだろう。だが、明らかに異質の者である自分に襲い掛かってくる様子は全くない。レイが自分を客人と認めてはいないとわかっている、それでも何もしてこないのは紛れもなく魔物たちの意志だ。彼らもレイと同じで、興味がない、そういうことなのだろうか。陰鬱で、閉鎖的で、排他的、暗く、暗く、暗い、どこまでも暗くて吐き気がする。それは依頼をしてきた人々も同じではあるが……外から見れば同じなのに、種族の違いというのはそこまで大事な事なのだろうか。それにしても、やはりこの城の空気は重々しくて気狂いの自分でもさらに気が狂いそうにはなる。キョウが倒れこんだ理由もなんとなくわかる気がした。あくまで、なんとなくだが。
辿り着いた吸血鬼の部屋の扉を開くと、ソファに座ってポロポロと六弦を弾くレイがいた。キョウが彼に人と魔物の共存の道を説いたあの夜から、この吸血鬼は人々の夢を妨げる煩い音を鳴らすのをやめている。代わりに聞こえるようになったのは、どこか寂しくて切ない調べ。キョウはこれがレイの本当の想いだと言っていたが、残念ながらマコトにはわからない。言葉以上に音楽での会話を得意とするなんて、本当に色々な命があるものだなと思うくらいだった。
「よぉまこっちゃん。よく来たな」
「……その〈まこっちゃん〉って言うの、やめてもらえませんか?」
「なんだよノリ悪いな。これから共存していくんだろ。それとも、悪魔は関係ないのか?」
軽く笑いながらレイは立ち上がりグラスと葡萄酒を用意する。どうやら素直にもてなしてくれるらしい。促されるままソファに座り二人は二度目の杯を交わした。
「その様子だと、こちらの提案は受け入れて頂けるんですね」
「ん?ああ……、まあ、オレも退屈してたし、上手くいくかはわかんねぇけどパーティーは面白そうだしな」
「大事なのはパーティーではなく親睦を持つことですよ」
「わかってるっつーの!お前は意地悪な継母か!」
「まあ、それも悪魔の様なものでしょうねぇ。」
くすくすと笑ってマコトは杯を仰ぐ。空になったグラスをレイに突き返してこれ以上はいらないという意思を示した。
「キョウちゃんは?来てないのか?」
「ええ。彼はキミが提案を飲んでくれると信じていましたから、すぐにでも舞踏会が開けるように人々を教会に集めて説得しているところです」
「はぁ?気が早すぎだろ……そっちが準備できてもオレまだなにもしてねぇぞ?」
「何もしていただかなくて結構ですよ、ろくなことになりません。今夜はその話をしに来たんです」
毒づく悪魔にレイは葡萄酒をグラスに注いで突き返す。そして飲まないなら話は聞かないと言う態度で足を組んだ。やはりこいつとはそりが合わない、共存が出来たとしても近づくことはないだろうなと二人は同時に心の中で自分自身に頷いた。マコトはしぶしぶグラスを受け取り、お互いもう一度、嫌々グラスを合わせてアルコールを飲みかわす。一息ついた後、マコトは懐からぎっしりと文字が書かれた羊皮紙を取り出した。
「こちらに舞踏会の概要をまとめてきました。フォアグラのレイさんはもちろん字は読めますよね。後ほど目を通しておいてください。日取りは次の満月の夜。それまでにキミの陰鬱なお仲間の説得をお願いしますね」
なんだか難しいことを言われているような気になるマコトの説明にレイはこめかみをかく。同時に、先日とは随分態度が違うんだなとじっとマコトを見つめた。今夜の彼は、冷静で真面目で至極真っ当なお医者様といった雰囲気だ。勿論、人間たちにとってのという意味であるが。悪魔は人を騙すものだと聞くし、これが彼の表向きのスタイルなのだろうか。
「何か?」
「いや、今夜は大人しいんだなって。まったく無駄話しねぇし」
「キョウさんに念を押されてきましたからねぇ。余計な事を言ってレイの機嫌を損ねるなよ、と。あの人怒ると怖いんですよ、だからお利口さんにしているんです。ええ、それくらい出来ますよ、たとえこんなカビ臭くてジメジメしてて頭の悪そうな吸血鬼が支配している城に一人心細くお使いに出されても、ちょっと気が狂いそうになるくらいです」
盛大なため息をついてペラペラと喋りだした悪魔にああやっぱり気のせいだったかとレイは口を開けて呆れ顔をしていた。キョウも厄介な奴を味方にしてしまったものだなと同情してしまう。失礼なことを言われても流せるくらいだ。
「あと、ちょっと疲れてるんですよね、準備は任せたと命令されて飲まず食わずの重労働……挙句の果てに馬鹿の相手……ああ、本当に気が狂いそうですまったく……葡萄酒じゃなくて何か食べ物をいただけませんか?」
「誰が馬鹿だ!お前に食わせるモノなんかパンひとかけもねぇよ!用が済んだなら帰れ!即刻帰れ!」
パチンと豪快に指を鳴らして扉を開ける。気狂いの相手をしていると気狂いになるとレイは金色の髪を激しくかいた。感情の高ぶりで強大な魔力が放出され部屋の温度を下げる。不遜な顔でマコトは鮮やかなペンキをぶちまけた様なまったく清潔ではない白衣の開きを合わせて寒そうにする。その態度もまた腹立たしい。立ち上がらないと言うことはまだ用があるのだろうか。こいつと話すのは疲れる……と思いながらソファの背もたれに身体をぐったりと預けはやく言えと手のひらを振った。
「これはレイさん個人への提案になるのですが、共存の道を確かなものにするために、キミには是非、人間の娘と婚姻を結んでいただきたいのです」
「こ、ここここ、婚姻!?」
突拍子もない話にレイはのけぞらせていた身体をぐんっと戻して悪魔の方へ身を乗り出す。眼鏡の奥の歪んだ紫水晶が驚きと嘲笑を含んで顔を真っ赤にしているレイを見つめた。
「何をそんな大げさな、伴侶の一人や二人くらい……」
「一人二人!?」
「……いえ、別に一人で構いませんけど……、」
「そ、そっか……!でも、こ、婚姻って結婚だろ……?」
「そうですけど……」
う~んと唸って吸血鬼はテーブルに肘をつき頭を抱えている。なんだこれはと思いながらマコトはレイに冷たい視線を向けた。
「そもそも……オレと結婚したい人間の娘なんているか?」
「吸血鬼って、美女の生き血を啜る魔物でしょう?でもキミは血が飲めない、血が飲めない吸血鬼なら殺される心配はなくなりますよね。あとはキミ自身の魅力の問題です。まあレイさんの顔は憎たらしい程整っていますし、性格もよく言えば明るく気さく……頭は悪そうですが、それに加えて権力がある。親睦のために各村々の長の子供たちが婚姻を結ぶのは人間たちの間では当然の習わしですし、似たようなものだと説得することは簡単です」
「何言われてるかわかんねぇけど抜かりねぇのは分かった……」
散々褒め称えたというのに、吸血鬼は尚も浮かない顔で唸っている。この提案の承諾を貰わないと帰るに帰れないマコトは、ダメ押しと言わんばかりにレイに聞いた。
「好みのタイプなどがあれば善処しますよ」
「う~ん……じゃあ美人でエロイ子……」
「そんな投げやりに言われても本心と思えませんね」
なかなか乗り気になってくれないレイにどうしたものかとマコトは眼鏡を直し考える。やはりキョウにも来てもらった方がよかったのではないだろうか。心底面倒くさいと思いながら先日の二人の会話や今までのレイの態度から導き出される煮え切らない理由を推理した。彼の望み、音楽に込められた想い、未練。
「……もしかして、心に決めた女性でもいるんですか?」
核心を突かれた表情でレイは顔をあげる。なんてわかりやすい魔物なんだと呆れたがこれは大問題だ。どうにか説得しなくてはと考えているマコトを余所に、レイは六弦を持って立ち上がりふらふらと月光が覗く窓の方へと歩いて行った。そして軽い口調で寂しそうに笑いながら言った。
「とっくに死んだけどな。あいつ、人間だったから」
「……それは、」
「寿命の違いってやつだな。こう見えて一途なんだよ」
「プレイボーイには見えてませんから大丈夫ですよ」
「うるせぇな!……でも、いい機会かもしれねぇし、新しい恋でもしてみっかな。いきなり結婚ってのは、ちょっとビビるけど」
夜空に向けて六弦を鳴らす吸血鬼、その切なくて寂しい調べの意味がようやくマコトにはわかった気がした。いつの時代だって、人を一番狂わせるのは恋だと言う。それはどんな強い薬でも治せない病気、そしてどんな病気でも軽々と飛び越えてしまう劇薬。
「仮面に隠された席ではありますが、だからこそ本当の恋が見つかると言うものかもしれません。無理やりこちらでお相手を用意するより、キミに直接選んでもらうことにしましょうかね」
「へぇ、気狂いの悪魔でも、恋とかわかるのかよ」
「少なくとも、ヴァージンのキミよりはわかるんじゃないですか。ああ、ヴァージンというのは童貞のことです」
「それくらい知ってるっつーの!ていうか誰が童貞だ!」
「おや、一途だと言うからてっきり」
「オレは本当にお前が気に入らない!」
「僕もそう思っていますよ。気が合いますね」
テンポよく再三言い合いをしたあと、少し笑って二人は最後にグラスを合わせる。指示通りにはいかなかったが悪くない結果だろう。では当日に、とマコトは立ち上がり、教会で待つキョウへと報告をしに行くため城をあとにした。
マコトの背を見送りながら、レイは楽しくなりそうだと一人笑う。このことを親友に報告したらどんな顔をするだろうか、そして遠い記憶の彼女にも。気が狂う程の永い時間、動いてなかった時間を、もしもう一度やり直せるなら、それが許されるのなら。
「オレは、やっと前に進める気がする」
あの日失った、未来という光。暗闇でしか生きられないと知っても焦がれてしまった光。すべては次の満月の夜に。退屈しのぎで終わるならそれでもいい、けれど、六弦と希望を抱いて吸血鬼は眠る。重なる時は、すぐそこまで来ていると信じて。
***
眩い月明かりと音楽を頼りに人々は森を行く。仮面で素顔を隠して、ひと時の夢、永遠の平穏の始まり、不安と期待を孕んだその場所へ、一歩一歩近づいていく。烏や蝙蝠が踊る空、おぞましくそびえたつ古城の大きな扉を恐れながらくぐり抜けると、現れたのは絢爛豪華な大広間。幾つもの煌めくシャンデリアが金色の広間を照らし、まさしく夢のような世界がそこには広がっていた。仮面の奥から覗いた非現実的な光景に人々は酔いしれ心を奪われていく。そして、どこからか聞こえる不思議な音色に誘われるように、手を取り合って踊りだす。仮面をつけて、華やかな衣装に身を包んだその手の先にいるのが人か魔物かは誰も知らない。ただこの夢が覚めなければいい、この場にいるすべての命がそう歌い上げる。それは紛れもない調和の調べ。響き渡る音色は何とも心地よいものだと、宴を見ながらレイは一人、葡萄酒を片手に佇んでいた。
「レイ?」
「おわっ、その声はキョウちゃんか?」
気配もなくかけられた声に少しだけ驚いてグラスを落としそうになった。仮面で隠していても声でわかる、夜空色の髪の男は隠された瞳を細めて笑ったように思えた。
「こんなところにいて……楽しくないのか?」
「いや?楽しんでるぜ、今はちょっと休憩中」
仮面で隠しているとはいえ、この漂う気品と色気は隠せねぇな!とふんぞり返って言うレイは、確かに先ほどまで数多の女性たちを虜にして踊っていたのである。いまもちらちらと視線を感じる。なんだかんだ言ってもモテるというのは気持ちがいいものだ。そうか、とキョウは頷いて持っていたグラスをレイのそれと合わせると葡萄酒をくっと飲み干した。
「で、上手くいったと思うか?」
「……わからない。仮面を外してもこのままでいられるのか、まだ皆の心に不安が渦巻いている。結局これは夢でしかなくて、この夜が明ければ覚めてしまうのではないかと思う。ならば、終わらなければいいとさえ思ってしまう」
「弱気だなぁ、楽しんでないのはお前の方か」
「……やはり、決定的なものが必要だ。レイ、」
仮面の奥からじっと見つめてくる強い眼差しにレイは気まずそうに目線をそらす。キョウが言いたいのは婚姻の件だろう。マコトから聞いて詳細は伝わっているはずだが、やはり逃れるわけにはいかないようだ。ふうと息を吐いたレイは一度仮面を外すとキョウに向き合い真剣な声色で話し始めた。
「キョウちゃんはさ、恋、したことあるか?」
「……いや、」
「あれは何よりも恐ろしい化け物だぜ。自分が自分でなくなるみたいで、眠ることも、飯を食うこともままならなくなる。でも、何よりも甘くて美味いんだ。」
首を傾げたキョウに、レイは鋭い牙を覗かせて言った。
「オレは、愛した女の血を吸い尽くして、殺した」
「……!」
「血が飲めないとか、関係なかった。止まらなかった、死ぬってわかってたのに、一滴残らず吸い尽くした。それがオレだ、吸血鬼だ。……だからさ、無理なんだよ、キョウ。たとえ新しい恋を手に入れたとしても、オレは同じことをする。そうすれば今度こそ争いが起きて、どちらかが必ず命を落とす。この宴は夢みたいに楽しくて、ずっと続けばいいなって心から思うぜ。でも、夢は覚めるものだろ。俺たちは光の下では生きられない。いつだって、暗くてジメジメした闇の中で自分自身の牙に怯えて生きてんだ。お前たちも、オレたちに怯えて暮らせばいい。それが共存するってことだ、干渉しないことが、一番の道なんだよ。」
あの夜から、共存とは何かとずっと考えていた。拭えない過去、還らない命、止まっていた時間。もう一度やり直せるかもしれないと一度は本気で思った。でも、結局自分の心はあの日に囚われているのだ。甘い誘惑を飲み込んでしまえば、今度こそ本当に、生きたまま死んでいるおぞましい化け物に成り果てる。ならば、彼女の血を吸い尽くしたのなら、悠久の時を生きるこの命が尽きるまで彼女だけを愛したい。これは自分のわがままだと分かっている、けれどそれが恋なのだ。他の何も聞こえない、見えない、知らない。この心は、やはり永遠に彼女のものだ。
レイの言葉にキョウは何も言えずに口を閉ざし、ただ黙って聞くほかはなかった。俯いたキョウの髪を乱暴に撫でる優しい手は、ぞっとするほど冷たかった。
「今夜はお前の意志を尊重するぜ。お前の歌は凍りついたオレの心臓を動かしてくれたから、感謝してるんだ。だからこの宴は、お前へのお礼。楽しんでくれよ、そして最後に歌ってくれ」
グラスを置いて、仮面で顔を隠し、六弦を抱えたレイが光り輝く舞台へと躍り出る。軽やかなステップを踏みながら、人々の熱狂を煽るように六弦をかき鳴らした。
鳴りだしたのは、何よりも美しい調べ。全ての命がレイの音楽に合わせて踊りだした。夢のようなひと時に浮かされて、心奪われ、仮面ですべてを隠し終わりのない夜へと溺れる。
偽物の光の中で、極上の音楽を奏でるその魔物の名は《吸血鬼》。凍りついた心臓を燃やして、金色の髪を揺らしながら、決して手に入らない青空を宿した瞳で、ひと時の夢を与えた後、夜の闇に消えていく優しき鬼。
***
「……キョウさん」
騒がしい広間の中心から離れた場所で、キョウは楽しく歌い踊る人と魔物の熱き宴を見つめていた。仮面をつけたマコトが声をかけたが、まるで届いていないようだ。
「……不思議だな。何故こうも上手くいかないのか」
小さな声で落とされた言葉に、マコトはなんて愉快なのかと笑う。本当は大声をあげたかったが、これからの事を思い寸でのところで抑えた。
「さすがは偉大なる吸血鬼というわけでしょうか。僕も貴方も、まんまと言いくるめられてしまって、ねぇ?」
「………」
「揺らいでいますか?あの人の言葉に……ああ、いま貴方がどんな表情をしているのかとても興味があります、その仮面を外しても構わないでしょうか?」
両手でキョウの仮面を外したマコトが、その顔を見て表情を失う。しかし沈黙は一瞬、これはたまらないと言ったように悪魔の笑みを浮かべた。
「ああ、やはり貴方と組んでよかった。さあ、準備は整っていますよ、行きましょう、ねぇ、キョウさん?」
キョウの仮面を捨て、自らの仮面も捨て、マコトはキョウの言葉を待つ。軽快な音楽が響き渡り、数多の命が夢に溺れて踊っている。懐かしい風景、されど、束の間の夢。
「……宴の時間だ。さあ、はじめよう」
一歩踏み出したキョウが両手を広げて歌い出す。広間に反響したその歌はまるで大きな波のように人々を飲み込んだ。その中心で六弦を奏でていたレイの音も全てが塗りつぶされていく。一体何が起こっているのかとざわめきだす人と魔物。しかし、脳を揺さぶる魅惑の歌声に目の前が白んでいき一人、一人と力が抜けてその場にうずくまっていく。明らかに異常なその光景に、元凶の歌をうたうキョウに向かってレイが叫ぼうとした時だった。
ビチャッ
「……は…?」
「さぁ、殺戮のお時間です」
目の前にいた人か魔物かわからない者の首が飛びレイの顔が赤い血で染まる。噎せ返る血の匂いに吐き気が襲いレイはその場に膝をついた。キョウの歌声に意識を持っていかれた数多の命は悲鳴を上げることも出来ずマコトに首を切られて死んでいく。人も魔物も関係ない、そこにある全ての命を奪い血の海を作り出す。仮面をつけた人や魔物の首が、キョウの歌声に乗せて踊るように血しぶきをあげて飛んでいる。これは一体なんだ、先ほどまでの夢のような楽しい舞踏会はどこに消えた。吐き気を気力で抑えてレイはよろよろと立ち上がる。歌をうたいながら優雅に近づいてくるキョウを睨みつけて何の真似だと問いただした。
しかし時はすでに終わりを告げる。高らかに笑いながら殺戮を終えたマコトがレイの足首を切断し動きを封じ込めた。苦手な血の匂いと脳を蕩かすキョウの歌声によって弱り切ったレイはあっさりと倒れてしまった。
「偉大な吸血鬼もこんなものですか……つまらないですねぇ」
返り血で真っ赤に染まった白衣を捨てたマコトが赤い液体の入ったグラスを持って倒れたレイの金色の髪を掴み顔をあげさせる。青空の瞳に映るのは、悪魔の笑みを浮かべた男が二人。
「ようこそレイさん、我らが主催する血まみれの仮面舞踏会へ」
「お、まえら……最初から、このつもりで……!」
「さあ、乾杯しましょう?葡萄酒よりも甘い本物の血の杯で」
「……っう!げほっ、うぇ……ッ!」
グラスを傾けマコトは無理やりレイに血を飲ませる。吐き出すことは許されず、今この世から消え去った同胞と愛した種族の命がひたすら注がれていく。耐えがたい屈辱とは裏腹に高まっていく魔力がレイを正統なる吸血鬼だと証明していた。それでも、この二人の悪魔と戦うどころか指一本も動かせずにいる己の身体を一番憎んだ。もういいとキョウが言い、ようやくレイは解放される。膨れ上がった魔力とそれでも減らない血の海の匂いにひどい吐き気を覚えながらも、力を振り絞って問いつめた。
「ぉえ……ッ、……な、にが、目的だ……っ…!」
薄い笑みを浮かべたキョウがゆっくりとレイに手を伸ばし、血で汚れた白く美しいその頬を包む。交わした瞳は燃え上がる炎のように揺らめいて、まるで獲物を前にして腹をすかせた獣のよう。
そして、甘美な歌を奏でたその声で、冷たく言い放つのであった。
「知る必要はない。……が、生きていたら教えてもいい」
「どういう意味……ッんぐ……?!」
喰われるように重なった唇。驚き目を見開いたのも一瞬、すぐさま体の異変に気付きレイはキョウから逃れようと身を捩る。この感覚は、知らないけれどよく知っている。大量の血液を摂取し膨れ上がったレイの膨大な魔力を、吸血鬼の真似事をするようにキョウは奪っているのだ。元々温度を持たない氷の体がさらに冷えて動けなくなっていく。遠のいていく意識、霞む視界の先で、レイの全ての魔力を吸い尽くし唇を離したキョウの身体が白く眩い光に包まれる。それは、全てを浄化する天の光。
「……嘘……だろ……」
魔力はすべて奪われたが、命はまだ消えていない。けれどその代償としてレイの若く美しかった肉体は醜く老いた老人の姿に変わっていた。そのしわがれた喉からレイは驚きの声を上げる。光の中から現れたこの世の者とは思えない存在、先ほどまでキョウだった存在が何も映していない虚無の瞳で世界を見ている。
朝の陽光を思わせる真白の髪、同じように白く聖なる衣に身を包み、背中からは六枚の美しい翼が生えている。人間でも魔物でもない、その存在は、まさしく、天使であった。
「……やっと、戻れた」
ゆっくりと、指先を握りしめながら天使は言う。もう最後の力も振り絞れない、レイはただただ黙って天使を見つめた。まだ息をしている吸血鬼に虚無の瞳が少しだけ驚いた色を浮かべた。
「生きていたのか……、では、約束は守ろう」
ゆっくりと膝を折って天使は、……キョウはレイの枯れて白くなった髪を撫でた。微笑みを浮かべているのに、何一つ感情を感じないキョウの顔。もう何も力が入らないはずなのに背筋が凍る。息を吸った唇が歌うように吐き出した言葉にレイは耳を疑った。
「オレの目的、それは……神を殺すことだ」
「……たいそうな、こった……」
天使が主である神を殺すなんて、一体どんな理由がそこにあるのだろう。だがもう、そんなことを考える時間は残されていないし、やはり興味もない。変わらなかった、何もかも。まんまと騙されたのは自分だけ。こんな終わりが来るとは思わなかったと数日前の自分を嘲笑った。もうすぐ、死ぬ。
「おやおや、随分と醜い姿になってしまって……心臓は無事なんでしょうね?」
視界を遮ってマコトがレイの目を覗く。生命力が強いのは腐ってもレベルの高い魔族という訳ですかとまた悪趣味なペンでメモを取っていた。そしてそれをしまったあと、先ほどすべての命を奪ったメスを取り出してレイの胸に突きつける。
「約束通り、心臓は僕がいただきますよ」
「好きにしろ」
サクッと、まな板の上の野菜を切るように簡単にレイの胸を開いたマコトはその心臓を取り出す。激しい痛みが襲うが、もう声を出すことも出来ない。曇っていく青空色の瞳が最後に映したのは、鼓動をしていない吸血鬼の心臓を不思議そうに眺める悪魔、血まみれの広間、惨たらしく重なる屍、輝いていたシャンデリア、そして美しく舞い散る白い羽。その白に塗りつぶされるように、闇に生きた吸血鬼は何も知らぬまま死んでいった。
そう、誰も知らない。この場所で起こった残酷な悲劇を語る者は誰もいない。これは最初から、夢の物語である。
***
「……死んだか?」
「ええ、でも心臓を取り出しても数分は生きていましたよ。恐ろしい生命力ですね」
「……恐らく、特殊な力が働いていたのだろう。レイの魔力には何か異質なものを感じる。これは……神の恩恵だ」
拳を握りしめながらそう言ったキョウの声色には、深い憎しみが込められていた。久しぶりに見たキョウの本来の姿。憎悪と復讐の念に囚われた純白の天使は変わらぬ美しさではあったが、どうやら何も変わらずにいられたわけではないようだ。吸血鬼の心臓を特殊な容器に仕舞いながらマコトは愉快そうに言う。
「貴方も、随分異質な姿になっていますよ」
「……?」
「ご覧なさい、窓に映る自分の姿を。光の天使ルシフェルよ」
言われるがままキョウは……いや、ルシフェルは大広間の窓に映る自分を見る。仮初めの黒い姿は消え去り、取り戻した羽と光、だが……曇りひとつなかった真白な自分の羽に、闇を集めたような漆黒が斑に広がっている。羽だけではなく、髪や衣にもその闇は広がっていた。これが代償、人を騙し、魔物を騙し、優しき心を騙した悪逆非道の天使の結末。
「これで本当に天使ではなくなったという訳か……フ、フフフ……」
大広間に響き渡る声で高らかに彼は笑う。光と闇、相反する力が混ざり合う醜い姿に成り果てようとも、目的を果たせるだけの強大な力を取り戻し更に力が手に入るのであれば望んだ結末だ。六枚の羽をはためかせ、キョウは醜い姿が映った窓を吹き飛ばす。一歩外に出れば、夜空に妖しく光る月が浮かんでいた。
その空の向こうまで届くように、漆黒の大地を駆けてゆくのは、光と闇の混沌の調べ。夢は終わり、夜は明ける。
そして、悲しき天使の復讐劇の幕が開く。
これは、その始まりの歌である。
「人と魔物が織りなす熱き宴は、ひと時の夢の中、その血をもって幕を閉じた。だが、この身に渦巻く憎悪の炎があの天を落とすまで、残酷な悲劇は何度でも繰り返されるだろう。物語はまだ序章に過ぎない。さあ音楽を、さあ喝采を。我が魂の叫びを聴け……!」
第一楽章・幕
===
第二楽章 吸血鬼の恋
まさに地獄と喩えるべきだろうか。一瞬にして天国から地獄への急転直下、それこそ夢であればいいのに。血の海に溺れながら吸血鬼はそう思った。もう、指一本も動かせない。
霞む視界にまだ映るのは、この惨劇の首謀者たる天使と悪魔。神への叛逆などという無謀を企てる彼らの真意は謎であるが、その真の目的のために自分を利用したことだけはわかる。初めてこの城に訪れた時から、彼らの計画は決まっていたのだ。すべての言葉が嘘であり、罠だった。
だが不思議と、怒りも憎しみも沸いては来ない。それは多分、いや、結局騙されているだけなのかもしれないが、それでも、あの最初の晩、共に奏でた音楽が偽りだと思えないからだった。
(オレは本当に……お前の歌が好きだったんだけどな……)
逆に、偽りではなかったからこそ騙されてしまったのだろう。あの天使は、キョウは、もう届かない何かへどうにか想いが届くようにと歌っていた。オレも同じだ。絶対に届かない、還らない愛しい人へ、届け、届け、届けと、何十年、何百年と、ただそれだけを想いながら六弦を鳴らし続けた。
(ああ、そうか。これはあの時と同じなんだ)
噎せ返る血の匂い、重なる死体、輝くシャンデリア、すべてを奪い尽くされたオレと、全ての血を吸い尽くされたお前。永すぎる時が過ぎても、一度たりとも忘れたことはない血の惨劇。
オレがお前を失った日、オレがお前を殺した日。
あの日もそう、こんな満月の夜だった。
***
これは、吸血鬼の記憶の一部である。
太陽の光が落ちて、夜が訪れたとき、吸血鬼たちの活動は始まる。寝床の棺桶から這い出てきてきっちりと身なりを整えると、子どもは勉強を、大人は仕事をしに夜の街へと繰り出すのだ。人間たちを襲うことはせず、人間たちと同じ街で、同じように暮らす。害をなす魔物は吸血鬼たちが取り締まる。そう、遥か昔、人間と吸血鬼は確かに共存していた。数百年前の話である。
丁度その頃、吸血鬼の長である二人に子どもが生まれた。金色の髪と氷の瞳、全ての者を魅了する美しさを持った赤ん坊は、彼ら吸血鬼が決して手に入れることのできない《光》という名前を付けられ大事に育てられた。いつか立派な長になれるように、その風貌と生まれ持った権威にふさわしい、偉大なる吸血鬼になれるように。しかし、魔物でも人間でも、なかなか親の思う通りに上手くいかないのが子育てである。
「レイ!どこにいったの!レイーーー!」
城中に響く、子どもを探す母親の声。呼ばれた子どもは悪戯に笑いながら金色の髪を靡かせて夜の闇に飛び出した。無駄に広い城の中でも、レイにとっては窮屈な世界だった。つまらない勉強なんかしたくない。きっともっと楽しいことがあると直感で知っていた。烏や蝙蝠よりも速く森を駆けて賑わう街に降りていく。
大人たちの世界はキラキラしていて、いつも軽快な音楽が流れていた。人、吸血鬼、魔物、たくさんの種族が笑い合い、酒を飲みながら、月明かりの下で楽しそうに歌ったり踊ったりしていた。自分の様な子どもは一人もいないけれど、大人たちは面白がってレイを仲間にいれてくれた。そこには何の境界線もなかった。人間たちが眠りについた後は、大人の吸血鬼たちと太陽が出るまで遊び歩いた。城に戻り母親に叱られることさえ幸せだった。
ある夜のことである。また城を抜け出して街に繰り出し、いつもの酒場に忍び込んだ時、はじめて自分と同じくらいの子どもをレイは見かけた。輝く自分の金色とは反対の、光を集める漆黒の髪と、少しだけサイズの合ってない薄いガラスのレンズを顔にかけた少女が、酒場の端に座り込んで何か本を読んでいる。声をかけたのは、単純に珍しかったから。人間の子どもなら夜は寝ているし、吸血鬼の子どもはみんな城で勉強をしているはずなのだ。彼女はどっちだろう。
「おい、お前、人間か?それとも吸血鬼?」
「……、」
声をかけられた少女は、本から顔をあげてその髪と同じ漆黒の大きな瞳でじっとレイを見つめた。観察するように、上から下までずっと見ている。
「な、なんだよ……」
「……どっちだと思う?そして、人間だったらどうする?吸血鬼だったらどうする?キミはどっちがいいと思った?」
「え、……え?」
「キミはどっちなの?吸血鬼?人間?」
「先に聞いたのはオレだろ!」
「人にものを尋ねる時はまず自分からって常識、王子様は知らないの?」
「お、王子ィ!?」
鈴のように軽やかな声で少女はレイに言う。一度にたくさんの質問をされたことと、最後に言われた王子という不可解な呼称にレイは頭から煙が出そうだった。眼鏡をかけている子はたくさん本を読んで勉強をしているから頭がいいんだって誰か大人が言っていた気がする。ぐらぐらと体を揺らしてパンクしそうになっているレイをみて、少女はぷっと吹き出した。
「あはは!ごめんなさい、ちょっと意地悪だったね」
「お、おお……?」
「キミ、お城に住んでるいちばん偉い吸血鬼の子でしょ。お城に住んでる男の子は王子様だって絵本に書いてあったから、勝手にキミのこと王子様って呼んでたの」
本を閉じて少女はレイに向かい合う。少し照れたように眉を八の字にして大きな瞳がまたレイを見つめる。
「わたしはエリザ、人間よ。キミの名前は?」
「オレは、レイ……吸血鬼」
「ええ、知ってたわ」
悪戯が成功したように無邪気に笑ったエリザに、レイはすでに恋をしていたのかもしれない。けれどまだ、本当に子どもだったから、その時はなんとなく可愛いなと思ったくらいだった。
エリザは毎晩酒場にいた。騒いでる大人たちに混ざることはしない、一人酒場の端に座りこんで毎回違う本を読んでいた。
「エリザはなんで夜なのに起きてるんだ?」
「レイも起きてるじゃない」
「オレはさっき起きたんだ、でも人間は昼間から起きてるだろ。眠くないのか?」
「眠たくなったら寝るわ。同じでしょ。それにわたし、今日はこの本を読んでから寝るって決めたの」
「何の本?」
「読めばわかるわ、はい」
手渡された本をレイはぱらぱらと捲る。ひたすら細かい文字が並んでいる本、きっと子どもが読むようなものじゃないことだけがわかった。
「どう?面白い?」
「え!?あ、そう……だな!めちゃくちゃ面白いぜ!」
「……」
「な、なんだよその目は、」
レイは、エリザの夜のような黒い大きな瞳にじっと見つめられるのが苦手だった。もちろん嫌悪感ではなく、ただ恥ずかしかっただけである。目をそらすと、エリザは真面目な声でこう言った。
「嘘をついちゃだめよ、これも常識。……この本、キミが嫌いだって言ってたお魚の図鑑よ」
「え!?どこにも魚載ってねぇじゃん!」
「写真のないページだもの、……ねぇレイ、もしかしてキミ、文字が読めないの?」
「うっ……」
エリザの指摘通り、勉強をサボってずっと夜の街で大人たちと遊んでいたレイは文字を読むことが出来なかった。会話さえ出来れば文字を書いたり読んだりする必要はなかったのである。口笛を吹いて誤魔化そうとしているレイにエリザはにっこりと笑って持ってきていた本をすべて押し付けた。
「レイ、キミ、絶対お勉強した方がいいわ」
「べ、別に問題ねぇだろ、文字が読めないだけなら……」
「読めないってことは書けないってことよね。だけ、じゃないわ」
ずいっと顔を近づけて眼鏡を直しながらエリザは言う。大きな黒い瞳がレイの氷の瞳を飲み込むようにじっと見つめている。レイが顔を赤くしていることなどまったく気付いていない様子で。
「大人になった時に困るのはレイなのよ。それに、」
「それに……?」
「読み書きが出来ない王子様なんて、わたしの中の王子様像が崩れてしまうからやめてほしいわ」
「だ、っから、オレは王子じゃねぇって!」
大声でそう言うと周りにいた大人たちがなんだなんだと寄ってくる。「レイはわたしと同い年なのにまだ文字が読めないのよ」とエリザが言うと大人たちは大笑いしてレイを抱えて踊り出した。あまつさえそのことを面白おかしく大声で歌い上げたのである。さすがに羞恥に耐えられなかったレイが怒りを込めて叫んだ。
「エリザ~~~!!」
「悔しかったらお勉強するのよレイ!」
意地悪そうに笑いながらエリザも大人たちに混ざって踊った。月明かりの下、人間も吸血鬼も関係なく、全ての命が笑い合っている。これは夢などではない、吸血鬼の記憶にある、紛れもない現実であった。
***
「エリザ」
酒場の扉を潜り抜けて、カウンターで本を読んでいる彼女に声をかける。まだまだ酒が飲めるような歳ではないが床に座っていていいほど子どもでもなくなった。隣の席に腰かけ彼女が読んでいる本をのぞき込むと、そこには読めない文字が並んでいる。
「この間のやつとも違う文字じゃねぇか」
「これはこの国よりもっと北の方の国の言葉よ。結構難しいの」
「ふぅん……オレはこの国の言葉だけで手いっぱいだよ」
「そうね、レイは読み書きが出来ないものね。」
「今はもう読めるし書けるっての!いつまで馬鹿にすんだ!」
レイがそう騒ぐと酒場で飲んでいる大人たちもその時のことをからかって笑いだす。あの後必死に勉強をして、当時エリザが読んでいた程度の本ならすっかり読めるようになったレイであったが、エリザはその間に違う国の言葉を読めるようにまでなってしまっていた。
「その本は面白いのか?」
「どうかしら、まだわからないわ」
「面白くないのに読めるのか?」
「わたしは本を読むのが好きなの。面白くなくても、面白くない本だったなぁと思うのが好き」
「……変な奴。」
異国の文字に齧り付いてるエリザの横で、カウンターの椅子をくるりと回して足を組んだレイは手にしていた六弦をポロンと奏でた。テーブルで飲んでいる大人の一人が「随分上手になったなぁ」とレイに声をかける。幼いレイがずっと街に降りて酒場に来ていたのは、ここに音楽があったからだ。様々な楽器で音楽を奏で、皆で歌い踊り騒ぐ。その中でもレイは特に六弦に惹かれた。氷の瞳が熱を宿して六弦を見つめるものだから、大人はレイにそれを弾かせてくれた。その日から、レイはこの楽器の虜なのである。みるみるうちに上達し、正直文字を読めるより先に上手に弾けるようになっていた。
「でもまだまだなんだよなぁ、思った通りに弾けねぇ」
「思った通りに弾けないのに面白いの?」
「いつか絶対弾けるようになるから今は面白くなくてもいい」
「つまり、好きってことね。……わたしと同じ、変な奴」
本を閉じて悪戯っぽく笑ったエリザにレイは少し顔を赤らめる。熱を持たないはずの身体がなんだか熱くなる気がして、それをかき消すように六弦を掻き鳴らした。そして、レイの音楽に乗せてまた皆が歌い踊り出す。今夜も楽しい夜の始まり。
夜の色が深まり、軽快な音楽はやんで人間たちは眠りにつく。大人の吸血鬼たちは夜の森へ消えていく。夜は恐ろしい魔物の時間。悪い魔物が街に入ってこないよう人間を守るのが吸血鬼の仕事である。
暗い夜道、街の中をレイとエリザは静かに歩いていた。大人の真似事をして、彼女を安全に送り届けるのが自分の仕事のような気がするとレイは思っていた。街の中に悪い魔物はいないから大丈夫と知っていたけれど、何かを理由に一緒にいたかったのだろう。エリザもきっと、同じだったんだと思う。
「いつも思うけど、お前子どもなのに夜中まで起きてて大丈夫なのか?昼間はお前も勉強してるんだろ?」
「レイも子どもでしょ」
「だからオレは吸血鬼だから、今がお前たちの昼間っていうか……」
「眠たくなったら寝るわ。それにわたし、もう学校は行ってないの。ちゃんと働いてるのよ。だから、そうね、子どもじゃないわ」
もう大人よ、と歩みを止めてエリザは笑う。月明かりに照らされた彼女は確かに自分よりも大人びて見えて、綺麗だった。
「だったらオレも大人だぜ!お前を守ってるからな」
大人の吸血鬼の仕事が人間を守ることなら、エリザをこうして送り届けて守っている自分は大人なのだという子どもの言い分。エリザは面白いと言って思いっきり笑った。なんだか馬鹿にされてる気がしてレイはまた顔を赤らめて眉を寄せた。
「でも悪くないわ。王子様に守られるなんてお姫様みたいで」
「だからオレは王子じゃねぇって」
「お城に住んでるのに?」
「城に住んでるやつ全員王子だったら吸血鬼がみんな王子になるだろ」
「あら、あのお城集合住宅だったのね」
他愛ない会話をしながら夜道をまた歩く。エリザの家は街の中心からかなり離れた場所にあった。それこそ、吸血鬼たちの住処に近いような場所に。夜風が強く吹いて、彼女は寒そうに身を抱える。体温を持たないレイには寒いと言う感覚は分からなかった。寒いのかと聞くと「レイがいるから平気よ」とエリザは言った。そんなはず絶対にないのに、嘘をついてはいけないと言ったのはエリザなのにとその時は思っていた。もうしばらく黙って歩いていく。すると、木々の隙間から差し込む月明かりに寂しく照らされた小さな家が見えてきた。自分の住んでいる城の一部屋にも満たないような小さな家。レイは歩みを止めて、彼女はそのまま家に帰っていく。
「じゃあなエリザ、ちゃんと寝ろよ」
「……ねぇレイ。」
家の扉に手をかけたエリザが振り向かずにレイに声をかける。夜の静けさにすら掻き消されてしまいそうな小さな声でエリザはレイにお願いをした。彼女にお願いをされたのは、この時が初めてだったような気がする。
「まだ眠たくないから、今夜はもう少し一緒にいたいわ」
「え……」
ゆっくりと扉を開けてエリザは家の中へ進む。扉を開けたまま、レイが来るのを待っている。吸血鬼は、招かれないと他人の家に入れない。ドクンと、動いていないはずの心臓が跳ねる。はじめての誘惑、暗い家の中に彼女はいる。この気持ちは何だろう、なんだかめまいがする。靄を払うように頭を振って、吸血鬼は招かれるまま足を踏み入れた。
小さな家の小さな木のテーブルに、小さな灯りをともすランプが置かれている。二人の顔を照らすだけの灯り。招かれた家の中で、レイは黙って座っていた。この家には自分と彼女しかいない。
「……どうしたの?」
「え!?あ、いや、別に……」
壁一面がぎっしりと本で埋められていて、その他には必要最低限の物以外何もないという印象だった。
「何か、弾いてほしいわ」
「夜中だぞ?」
「誰もいないもの、わたしとレイ以外」
エリザのお願いを拒む理由はなかった。六弦を構えてレイは音を紡ぐ。夜の静けさと、ランプの灯りに似合った優しい音。つま弾かれる音色にエリザは目を閉じて耳を傾けていた。
「……好きよ」
「えっ!?」
「レイの音。優しくて、とても好き。音楽ってあまり興味がなかったけど、キミの音なら永遠に聞いていたい」
好き、という言葉に思わず演奏をやめてしまったレイだったが、そのあとの言葉にまた心臓が跳ねた気がした。永遠に音を奏でる。彼女の側で、好きな音楽をやる。
「できる、ぜ」
「え?」
「永遠に、弾いてやる。お前の側で、ずっと音楽やる」
「ずっと?」
「ずっと」
「わたしが先に死んでも?」
「なんで先に死ぬんだよ」
「だって吸血鬼は、《不老不死の魔物》だってお勉強したわ。でも、わたしたち人間は百年で老いて死ぬのよ」
そういえばそんなことを教わったような気がする。人間は弱くてすぐ死ぬから守ってあげているんだとか、吸血鬼は体が大人になったら成長が止まって永い時間をかけて老いていくのだとか、その時間を誰も見たことがないから人間は吸血鬼を不老不死と呼ぶのだとか。
「しわくちゃのおばあちゃんになったわたしの側でも弾いてくれる?わたしが死んでも、天国のわたしに向けて弾いてくれる?永遠って、そういうことよ」
漆黒の瞳が震えながらレイを見つめていた。見つめられるのは恥ずかしくて、苦手だと思っていたその瞳を、いまはただ抱きしめたかった。でも、やっぱりそんなことできないから、せめてと彼女の手をとって握りしめた。この時初めて、彼女の手がとても暖かいことを知った。
「約束する、絶対そばにいる。ずっと一緒にいる、約束だ」
「……約束ね」
「ああ、約束だ!」
安心したように笑ったあと、大きなあくびをしたエリザが恥ずかしそうに口を押さえる。やっと眠たくなったのだろう。ベッドに入った彼女が眠るまで弾いていてほしいと言うから、明かりを消して、そばに腰かけて、子守歌のように弾いた。すぐに聞こえてきた寝息に手を止めて、初めて彼女の寝顔を見る。窓から差し込む月明かりに照らされた白い肌。膝をついてその寝顔をじっと見つめた。どうして一人なのか、子どものはずなのに大人ぶっているのは何故なのか、何も知らない。でも、どうだっていい、そんなことは。そばにいる、その約束だけあれば、ずっと一緒にいられると思った。彼女の側で生きていきたい。
「……っ!」
強くそう想った時、知らない衝動が自分の中から湧き出てきた。すやすやと眠る彼女の首筋に、噛みついて血を啜りたい。この冷たい体を彼女の温かい血で満たしたい……恐ろしかった。吸血鬼としての本能が、こんな風に現れるなんて。大人たちはこの衝動をどう抑えているのだろう。知らないことばかりだ、彼女が言った通りもっと勉強しなくちゃいけない事がたくさんある。
そっと手を伸ばして眠るエリザの髪を撫でる。月の光を集める艶やかな漆黒の髪、照らされた白い肌。見つめて、想うだけで胸がしめつけられた。彼女を愛しいと思えば思うほど喉が渇いた。大人にならなくては、どうにかしなくては、一緒に生きていくために、そばにいると約束したのだから。
***
これは、わたしの記憶の一部である。
故に、吸血鬼はこのことを知らない。
覚えているのは一面の赤。赤の中でいつの間にかひとりになっていた。街の大人は優しかった。幼いわたしの世話をしてくれた。それでもわたしは寒さを感じていた。子どもがなにも知らないなどとどうして思っているのだろう。本の中の知らない世界に飛び込んでいれば少しだけ寒さを忘れられた。お伽噺のお姫様になれたらいいのにとくだらない妄想をしていた。いつか誰かが迎えに来てくれる、この身体を温めてくれる。
現れた王子様は、誰よりも冷たい手をしていた。それなのに、誰よりも温かかった。誰よりも信じられた。キミはうそをつかなかった。キミのそばは暖かかった。キミは誰よりも優しかった。
だから、キミは後悔をしているのでしょう。自分は罪深くておぞましい化け物なんだとその身を呪っているのでしょう。それはわたしの罪なのだ。わたしはキミの永遠になりたかった。わたしはキミに愛されたかった。わたしはキミに殺されたかった。でも、それを告げるのは恐ろしかった。自分が狂っていると知っていた。
いま、キミの命の終わりが来て、ようやくキミの愛に報いることが出来る。迎えに行くわ、レイ。わたしはお姫様ではないけれど、キミはわたしの永遠の王子。約束を守らせるばかりで、何も出来なくてごめんなさい。
これは、わたしの罪の告白である。
神よ、どうか彼に祝福を与えたまえ。
***
「結婚!?」
「声が大きいわ……」
いつもの酒場のカウンターで、いつものようにレイとエリザは並んで座っていた。二人の前にはアルコールの入ったグラスが置いてある。静かにと言われたレイがグラスを仰いで酒を飲み干したあと、もう一度神妙な顔でエリザに聞き返した。
「な、なんだよ結婚って……」
「愛し合う者同士が未来永劫一緒にいる契約を結ぶことよ」
「そんなこと聞いてんじゃねぇ~!」
また騒ぎ出したレイに落ち着いてとエリザが言う。酒場のマスターにおかわりを頼んで一気に飲み干した。
「別に決まったわけじゃないわ。そういう話が出ているだけ」
「なんでだよ!」
「大人になったからじゃない?わたしだって混乱しているわ」
まったくそうは見えないエリザの態度にレイはもっと混乱した。結婚するということは、他の誰かの者になるということだ。そんなもの認められるわけがない。
「反対!反対だ!」
「そこまで反対されると逆に清々しいわ」
「お前はオレと一緒にいるって約束しただろ!?」
「れ、レイっ……」
レイの言葉に酒場で騒いでいた人々が一斉に二人を見た。集まった視線にレイはようやく自分の言ったことの恥ずかしさに気づく。エリザもさすがに顔を赤くしている。そして二人の周りに人々は集まり「そうかそうか二人はそういう仲だったのか」と囃し立てた。昔から一緒にいたもんな、あんなに小さかったのになと良いつまみを見つけたかのように思い出を語りだす。いたたまれなくなったレイはエリザの手を掴んで騒ぎの中心から走って逃げた。後ろから冷やかしの声が追ってくる。うるせぇ!と叫びながら振り切って走った。
エリザの家で息を切らしたレイが小さなテーブルにうなだれている。飲めるようになったとはいえまだ慣れていないアルコールが体に回り世界がくらくらとしていた。
「吸血鬼もお酒には弱いのね」
「うるせぇ……」
「お水飲む?」
「………、」
コップに入れた水をテーブルに置いたエリザの手首を掴んで、レイは彼女を見上げる。暖かい手だ。細い手首に脈が打っている、彼女の皮膚の下で流れている血液……欲しい。
「エリザ、オレがお前の血を吸いたいって言ったら、どうする?」
「……吸われたらどうなるの?」
「質問に質問で返しちゃ、ダメなんだぜ」
「…、喉が渇いているのね、って思うわ」
エリザの返答にレイは目を丸くした後声をあげて笑った。
「怖いとか、嫌だとかじゃねぇの?」
「わからないわ。血を吸われたことないもの」
「エリザ、」
「なに?」
「……結婚しよう」
「いいわよ」
「え!?」
あっさりと承諾されたプロポーズにレイは思わず立ち上がりエリザの手首を放す。どうしたの?と見つめてくる漆黒の瞳に映る自分は間抜けで真っ赤になっていた。
「い、いいのか?オレ吸血鬼だぞ」
「吸血鬼と結婚しちゃいけないって、教わってないわ」
「そうだけど……」
「……もしかして、冗談だったの?」
「そっ、そんなわけねぇ!本気だ!」
慌てて言い返すと、エリザはほっとした顔で「よかった」と言った。そわそわとしているレイの冷たい手をとって自分の頬にあてて、目を閉じて擦り寄せる。暖かい彼女の頬、伝わる体温が愛しくて、喉が渇く。欲しい、彼女の血が欲しい。そんなもの必要ないってわかっているのに。抑えられない想いに支配される。
ゆっくりと開いたエリザの瞳に、彼女から移った熱に浮かされた自分の顔が見えた。
「レイ、……酔ってるの?」
「……最近おかしいんだ。やたらと喉が渇いて、血が欲しいって思っちまう」
「キミは吸血鬼だもの。当たり前なんじゃない?」
「オレ、嫌いなんだよ、あの味。昔、無理やり飲まされて大っ嫌いになったはずなのに」
「まだ好き嫌いしてるなんて、レイは子どもね」
「……子どもじゃねぇよ」
空いている手で彼女の腰を引き寄せて、頬を包んだままくちづけた。初めて触れた唇も、柔らかくて暖かかった。
「……あたたかいわ」
「……嘘」
「嘘じゃないわ、レイは誰より、優しくて暖かい。好きよ」
月明かりの下で、もう一度唇を重ねた。喉の渇きが消えていく。欲しいのは血じゃなくて彼女からの愛だったんだ。自分の冷たい肌と彼女の温かい肌が交わって、ひとつになって、これでずっと一緒にいられると思った。ただどうしても彼女の方が先に老いて死んでしまうけれど、約束した通り永遠に彼女を愛していこう。人間も吸血鬼も関係ない、このまま何も変わらずに、みんなで笑い合って生きていける。酒場に言ったら堂々と言うんだ。彼女はオレの花嫁だって。そして、音楽を奏でて祝いの宴を開く。なんて幸せなんだろう。
その未来は、存在していたはずだ。この腕の中で、白い肌に赤い花を咲かせた彼女が、まどろみながら聞いてきた質問に答えられる大人だったなら。オレが、子どもじゃなかったら。
「レイ、」
「ん……?」
「キミが昔、無理やり飲まされた血って、一体誰の血だったの?」
知らないことは罪なのだと、失ってから気付くのだ。
***
太陽が沈み、満月が昇る。城から出ていこうとすると珍しく父に呼び止められた。お前に客人が来るから、今夜は部屋にいなさいと言われた。一体誰が来るのかなんて想像もつかなかったが大して興味もなく、それよりもちょうどいい、エリザとのことを父と母に伝えてしまおうと思った。けれど、部屋の中で告げられたのは耳を疑う言葉だった。
「今夜ここに来るのは、お前の花嫁だ」
「はぁ!?」
父の言葉にレイは驚き立ちすくんだ。いきなりなにを言い出すんだ。自分にはもう心に決めた人がいるのに。
「あのさ、オレ実は……」
「レイ、あなた最近喉が渇くでしょう。」
「え……」
「血を欲するのは、大人になったのだから当たり前のこと。けれどあなたはあまりにも飲まなさすぎる。子どもだったから好き嫌いということで許していましたが、これからはそういう訳にはいきません。我らの頂点に立つ偉大な王にあなたはなるのだから」
母の言葉は今までのどの勉強よりも難しくて頭がついていかなかった。オレは王子じゃない、オレは王になんかならない。
「お前の魔力を、王に相応しいものに高めるため、花嫁の血をすべて飲み干すのだ。大丈夫、お前は必ず気に入るはずだ」
「ちょっと待てよ、それって花嫁じゃなくて生贄だろ!それにオレは王になんてならない、オレはあいつと……」
「さあレイ、花嫁が来たわ」
母が指を鳴らすと部屋の扉が開いた。そこには、白いドレスに身を包んだまさしく花嫁と呼べる女が立っている。そのほかにも、何人かの人間がいた。ゆっくりと部屋の中に入ってくる花嫁、そのヴェールの向こうに隠された顔を見て、レイは背筋が凍った。震える唇で名前を呼ぶと、女はゆっくりと顔をあげてヴェールを取った。
「エリザ……」
「レイ……」
漆黒の瞳が恐怖と不安に揺らいでいる。エリザに駆け寄ると、周りにいた人間たちが怯えた声をあげて自分たちから離れていった。よく知った顔だった。小さなころから酒場で共に歌い踊った人々だった。何故、そんな目でオレを見るんだ。
「さあレイ、彼女の血を吸いなさい」
「なんで、」
「あなたの魔力を高めるためよ。あなたは偉大なる吸血鬼、私達の光なのです」
「何、言われてるのか、全然わからねぇって……!」
震えるエリザの手を掴んで抱き寄せ、父と母、そして人間たちに向かってレイは叫んだ。
「オレは、エリザと結婚するんだ!ずっと一緒にいる、そうだ、みんなも聞いてくれよ、結婚するんだよ。祝ってくれよ、小さいころからみんなオレたちのこと見てただろ?いつもの酒場で、みんなで一緒に歌って、踊って騒ごうぜ?」
「レイ……」
「おい、なんか言えよ。なんでそんな目でオレを見るんだ!?」
恐怖に怯え、震える人々が恐る恐る口を開く。それは、信じられない言葉だった。
「黙れ、化け物め……!」
「は……」
「いつ殺されるかもわからない状況で、お前たちの娯楽のために笑うことを強要されて生かされ続けている俺たちの恐怖が、お前にわかるものか!」
叫んだ人間の男の首が飛び血が噴き出す。手を下したのは父だった。レイは訳が分からないままエリザを抱きしめていた。
「黙るのはお前たちの方でしょう。誰に向かって口をきいているのですか」
父と母の強い魔力で、部屋の温度が極寒の地のように冷えていく。転がった死体の横で人々が怯えている。
「なあ、なにしてんだよ……人間を守るのが俺たちの仕事じゃなかったのか?殺してどうすんだよ……!」
「レイ、ああ、やっぱりちゃんとお勉強させなかったのがいけなかったのね。餌の命を生きながらえさせるのは、捕食者として当然の義務でしょう?」
「餌……?」
「人間たちは我らの餌だ。餌として最高級であるためによりよい環境で育てる。そのためには、他の魔物に邪魔されてはいけない」
「そして、餌にストレスを与えてはいけない。だからこそ、幸せな暮らしをさせてあげているのです。十分な食料、労働によって得られる達成感、仲間と過ごす楽しいひと時」
「すべて餌の価値を高めるためのもの」
「偉大なる吸血鬼による完全な支配。これからは、レイ、あなたがやっていくのよ」
告げられた事実に、目の前が真っ暗になりそうだった。そんなこと、何も、知らなかった。今まで自分が見ていたのは、偽りの世界だったのか?みんな、いつかオレに殺されるのだと思いながら、嘘の笑顔で固めた仮面をかぶって、今までずっと……
「そしてレイ、あなたにとって最高の餌がその花嫁よ」
「お前を愛する者、お前が愛している者、その者の血が何より強くお前の力を高めるだろう。さあレイ、花嫁の血を吸うのだ」
頭の中をガンガンと殴られているような感覚がする。父の言葉も母の言葉も何一つ理解が出来ない。どうして愛している者とわかっていてその血をオレに吸わせようとするのか。彼女は、エリザも、最初から自分が餌だと知っていたのか?
「エリザ、お前は……」
抱きしめた腕の中で、エリザは漆黒の瞳を震わせながら、それでもレイをまっすぐに見つめて微笑んだ。
「関係ないわ。わたしは、誰よりも優しくて暖かいレイが好きよ」
「……ッ!」
どうすればいい、どうすれば終わらせられる。父も母も、他の吸血鬼たちも皆狂ってる。人間たちも恐怖に支配されて可笑しくなっている。どうすれば、どうしたら。
「逃げろ、エリザ」
「レイ……?」
「みんなと逃げろ、ここにいたら、お前たちを餌だとかいう化け物にいつか必ず殺される。だから逃げてくれ」
「嫌よ……一緒にいるって、約束したじゃない……」
「死んじまったら意味ねぇだろ!」
「でも……!」
拒むエリザの背を押して震える人々にレイは頼んだ。ここはどうにかするから、エリザを連れて逃げてくれと。街の人間たちも、みんな逃げてくれと。しかし、人々は立ち上がる気配がない。それどころか、何故かエリザの四肢を掴み床に押さえつけたのだ。レイが何をしているのかと叫ぶと、人々は震えて、狂ったようにこう言った。
「吸血鬼の花嫁になりたがる娘など、もはや人間ではない」
「昔からそうだった、人間より吸血鬼に懐いて」
「この子には心がないんだ。だから殺される恐怖もない」
「化け物だ、化け物だ」
「ならば、殺されるべきだ。俺たちの命のために」
「花嫁の血さえ捧げれば俺たちは助かるんだ」
呪いの歌のように、狂った人間たちがエリザを化け物と呼ぶ。ああ、これは一体なんて悪夢なのか。そして父が、母が高らかに笑う。人間とはなんて弱くて浅はかで愚かなのかと。
「そうよ、花嫁の血さえあれば他の人間など無価値。レイ、わかるでしょう?あなたはそれほどに特別なの。さあ、花嫁の血を吸いつくし、強大な魔力を手に入れ、偉大なる吸血鬼の王になりなさい。あなたは、神に見放され暗い闇に生きることを強いられた私達の《光》なのだから」
押さえつけられたエリザの腕を母の手が引き裂きその腕から血が流れる。痛みに泣き叫ぶ彼女の悲鳴に足がすくんだ。父や他の吸血鬼たちに押さえられレイは花嫁の元へ進む。抵抗は無駄、大人の魔力の前では、いまのレイの力はまだ赤子同然だった。
「やめろ、はなせ、はなせ!いやだ、いやだいやだ!」
「レイ、っ……あああ!」
「エリザ……!」
暴れるレイの髪を掴み、血を流したエリザの腕へと近づける。どうしてこんなことになってしまったのだろう。子どものままでいられたらよかった。出逢ったあの日のまま、時が止まっていたらよかった。そうすればきっと、何もかも関係なく愛し合えた。
「さあ、花嫁にくちづけを」
「いやだぁぁあアアア!」
エリザの血が唇に触れた瞬間、体が恐ろしい程震えて熱くなった。そしてあの日、初めて彼女を愛しいと自覚したあの日と同じ、いや、それ以上の欲求に頭を支配される。喉が渇く、喉が渇く、血が欲しい、この血が、もっと、もっともっともっともっと……
「ッは……!ぐ、ぁあああ……!」
「レ、イ……」
……獣のような唸り声をあげたレイの瞳は、ひび割れた氷みたいに歪んでいた。この時初めて、わたしはレイが自分とは違う魔物なんだと知った。けれど、ここにいる誰よりもキミが優しいことを知っていた。人間よりも吸血鬼よりも、キミの魂が一番清らかで美しい。だって、キミが中心になって音楽を奏でていたあの時間だけは、誰も嘘なんかついていなかった、本当に心から笑っていた。たとえひと時の夢でも、キミがくれた夢は現実。
「レイ……レイ、」
「ゥウ…グァアアア……!」
「好きよ、レイ。永遠に、大好きよ」
「エ、り……ザ…」
ゆっくりと近づいていく、愛し合う二人の影、しかし、永遠にその唇が重なることはない。目を閉じて、首を晒した。
「アアアアアアアアアア!」
雄叫びをあげながら、レイはエリザの白い首筋に牙を立てた。深く深く肉を貫き、滴る血を貪り尽くす。残酷なその光景にエリザの四肢を押さえつけていた人間たちは恐れおののき二人から遠ざかる。吸血鬼たちは心を震わせ新しい王の誕生に涙を流している。重なりあう二人、血を吸われながらエリザはゆっくりと腕を伸ばしレイを抱いた。「レイ、レイ、」と乾いた声で彼の名を呼びながら、痛みと苦しみを堪え涙を流す。それは、まるで淫らで甘い情事のようで、しかし悲しい程に残酷な終わり。
すべての血を吸い尽くされた彼女の若く美しい身体は干からび、老婆のようにしわくちゃになった手が、レイの眩い金色の髪を撫でるようにして落ちた。
「………、エリザ……?」
こと切れた彼女の無残な姿を見てレイは意識を取り戻す。誰に言われたからでもない、自分の衝動、欲求のまま、愛する彼女を殺した事実がこの腕の中にある。
「あ、ああ、あああああああああああああ!!」
深い悲しみと大きな怒りが心を壊す。愛する者の血を取り込んだことによって強く力を増したレイの魔力が暴走を初めた。壊れた心に残るのは、憎しみ。何が間違いだったのだろう、そんなこともうどうでもいい。人間を餌として支配していた同胞も、保身のために彼女を追放した愚かな種族も、己の血に抗えず牙を立てた自分自身も、何もかも呪われて死んでしまえ。
気が付くと、噎せ返るほどの血の海の中にいた。一面の赤の中、生きているのは自分だけ。腕の中に抱えた彼女の白いドレスが赤の中でとても輝いて見えた。永遠に失った、吸血鬼の永遠の花嫁。彼女をお姫様のように抱えて、血に染まった王子様は歩き出した。広い城を出て、鬱蒼と生い茂る森を行き、偽りの輝きに包まれていた街へとたどり着く。死体を抱える血まみれのレイの姿をみた人々は何事かと騒ぎだすが、見向きもせずレイは進む。吸血鬼も、人間も、勝手に生きて勝手に死ねばいい。何もしない、興味もない、二度と血など欲するものか。
空気のように軽いエリザを抱えて歩き続け、行きついたのは荒波が打ち付ける海辺。足を止めずに水面をまだ歩いていく。目的などない、亡霊のようにさまよっているだけ。
「永遠に、一緒にいるよ」
夜空に浮かぶ月が水面に揺れる。このままどこまでいけるのだろう。荒波に飲まれて死ぬならそれでもいい。
しかし、神はそれを許さなかった。愛を失った吸血鬼の友となり、本当の約束を果たすための時間を与えた。
それが彼の運命だった。そう決まっていた。
悲しき天使が運命の輪を乱すまでは。
これは、吸血鬼の記憶の一部である。
そして、彼の魂は予期せぬ終わりを迎える。
その魂が闇に落ちぬように、神は光を使わした。
***
「……何処だ、ここ」
魔力を奪われ、心臓を奪われ、やっと死ぬんだなと目を閉じたのに、また目を覚ますとは思わなかった。最期に見たのは白い光。自分を殺した天使の舞い散る羽。いま目の前に広がっているのは、それと同じくらいの白い景色。何もないけれど、暖かいと感じるこの場所は、もしかしたら天国だろうかとレイは思った。
「そんなわけねぇか……ったく、すっかり騙されたぜあの悪魔ども……いや、キョウちゃんは天使だったけど……」
神を殺すと言った天使と、心臓を求める悪魔。一体彼らを突き動かす衝動はなんなのだろうか。肉親と同胞を殺し、人間を殺し、愛する者を殺したあと、数奇な巡り会いをした海を統べる友以外には顔も見せずに城に引きこもった自分の心を動かしたあの歌声は……いや、考えても仕方ない。もう自分は命の輪から外れてしまった。さて、本当にここはどこなのだろうか。
「レイ」
懐かしい響きに顔をあげる。目の前にいたのは、あの時と同じ白いドレスに身を包んだ永遠の花嫁。
「エリザ……?」
「迎えにきたの、さあ、行きましょう」
両手を伸ばして彼女が自分の手を掴み白い道を歩いていく。変わらない暖かい手、本当にここは天国なのだ。
「は、はは、オレ、お前を殺したのに天国いけるんだ」
「あれは、わたしが望んだことだから」
「え……?」
「両親が吸血鬼の餌になって死んだとき、一生吸血鬼を憎むと決めた。けれど、本当はあの時みたいに、両親も他の人間の命の為に生贄にされたのだと知って、何もかもが信じられなくなった。そんな時だった、何も知らないキミが現れたのは。キミはうそをつかなかった。いつだって真っ直ぐで、純粋で、何にも知らないままみんなを笑顔にしていた。わたしは気付いたの、吸血鬼でも人間でもいい、キミさえいれば、……レイがいれば、わたしの人生は温かい光に包まれて寒さに怯えることはない。最期までキミには何も言えなくて、キミはわたしに騙されたままこんな終わりを迎えてしまった。だから神様にお願いしたの。誰よりも優しくて暖かいレイの魂を救ってください。キミの罪は全部わたしの罪だから、地獄に落とすならわたしにしてくださいと。」
レイは黙ってエリザの告白を聞いていた。そうか、なるほどと思いながらやっぱり眼鏡をかけている子は頭が良くて言っていることが難しいなと思った。だって、いま必要なのは真実じゃない。ここが天国でも地獄でも構わない。愛した彼女がここにいる。
「なあエリザ、オレの音は、お前に届いてたか?」
交わした約束。あの日、彼女の死体だけを海に沈めて、友に助けられながら永い時間を生き延びたのは、約束を果たすためだった。彼女が死んでも、天国の彼女に向けて音楽を奏で続ける。それが永遠だと約束した。彼女の漆黒の瞳を見つめる。いつだって揺らぐことのなかった眼差しが、歪んで、滲んで、はじめて涙を流している。
「届いていたわ、ずっと……!ありがとう、レイ、っ……好きよ」
肩を震わせて、涙を流しながらそう言った彼女をレイは強く抱きしめた。よかった、届いていたのなら、それだけでもういい。
「オレもさ、お前にずっと言ってなかったこと、あるんだ」
「……なに?」
「好きだよ、エリザ。永遠に愛してるぜ」
「先に結婚しようだったものね」
「う、うるせぇな!あの時は急がなきゃって思ったんだよ!」
これで何も心残りはないと、二人は手を繋ぎなおして白い道を行く。天国の先に何があるのかは知らない。けれど、握りしめたこの手をもう絶対に離しはしないと笑った。
「レイ、何か弾いて欲しいわ」
「いやいや、いま楽器持ってねぇから」
「じゃあ、生まれ変わったその時に聞かせて。約束」
「いいぜ、オレは約束は守る男だからな」
「知ってるわ。好きよ」
「オレも、好きだぜ。……やっぱりなんか恥ずかしいな!」
愛し合った二つの命の物語。
神は二人に祝福を与え、いつかまた命をもたらすだろう。
第二楽章・幕
===
第三楽章 狂気と魔女
人間と魔物の混ざりあった血の海の中、白衣の裏に携えたよく切れる銀色の刃物を振るい、首の飛んだ死体の山のひとつひとつからひたすらに心臓を取り出す男がいる。狂気的としか言えないその光景を黒と白の斑な六枚羽を揺らして天使は退屈そうに見つめていた。ひとつ、ふたつと数えながら取り出した心臓を硝子の容器にしまっていく。今宵この城で消え去った命、そのすべての心臓をこの男は集めている。それはなにも、今に始まったことではない。この男はこれまでにも数多の心臓を集めてきた。その数が一体いくつあるのか、天使は知らない。ひとつ確かなのは、そのコレクションの中にいつか自分の心臓も並べられるということだ。それが二人の交わした契約だった。
目的を果たすために天使には力が必要だった。失った力を補うために、知らないこの地のことをよく知り、さらに協力してくれる者。協力者として申し分ない力をこの男は持っていた。気狂いではあるが医者としての技術は確かで多少の魔術にも精通している。天の力を失い傷だらけであった自分をまともに動けるようにしてくれたのは紛れもなくこの男だ。そして天の力、つまり失った羽を取り戻すためにこの地に強く根付く吸血鬼の魔力を媒介にすればいいと助言をくれたのも。その見返りはただひとつ、目的を果たした後のこの心臓でいいというのだから、本当に気が狂っている。
「退屈ならば、お得意の歌でもうたっていたらどうですか?」
「……お前の作業がはかどるなら歌ってもいいが」
「それは貴方の気持ち次第でしょう?天使の歌にどれだけの力があるかは知りませんが……ああ、いまはもう天使とは呼べませんか。それとも呼ばれたくないですか?」
「オレの本質が天使であることは残念ながら変わらない。だがそうだな、キョウという名の方が落ち着く。神からもらったものなど何も持っていたくない」
「神からもらった名を捨てるなんて愚かにもほどがありますよ」
「神を殺せるならなんにでもなってみせるさ」
そう吐き捨てると面白いですねと言って男はまた死体の胸を切り開き心臓を取り出した。あの死体は人間だろうか、それとも魔物だろうか。彼にはそれがわかるのだろうか。そこに意味はあるのだろうか。一体どんな理由でこんな狂気じみたことをしているのだろう。ただの人間が、悪魔の真似事をするなんて。
そんな疑問が生まれたのは、いま力を取り戻して少し余裕が出てきたからなのだろうなと天使は自分を分析した。時間に追われているわけではない、大事なのは確実に目的を果たすこと。だからそう、これは戯れのようなものだ。退屈をしのぐための戯れ、どうせすべての心臓を取り出すまで動けやしないのだから。
「手伝おうか」
「お断りします。これは僕のやるべきことなので」
「……区別はつくのか?」
「なんとなくはね。まぁ、大して変わりはありませんよ。レイさんほど力のある吸血鬼でも形は似たようなものです。人も魔物も、腹掻っ捌いて血をぶちまけて、内臓取り出して見れば同じ肉塊なのにどうしてこうも区別をつけたがるのでしょうね。ああ、天使の心臓はまだ見たことがありませんから、楽しみですよ、とても」
よどみなく喋る間に三つの心臓を取り出し終えたマコトは一度メスを仕舞うと血を吸いすぎた黒い手袋を外して新しい物と交換していた。無駄なく、手際よく行われていく悪魔の所業、顔色ひとつ変えないどころか微笑みさえ浮かべているこの人間の真の目的とは。
「心臓を集めてどうするんだ?」
ただの疑問、深い意味などない、戯れでしかない、きっと本当は興味もないその質問をキョウが口にしたと同時に、マコトは懐から取り出した新しいメスを天使に投げつけた。羽で叩き落した刃物は血の海に沈み張り詰めた空気が流れる。そして、人間は温度のない声色で言葉を天使に刺した。
「僕は貴方の退屈しのぎのためにお話しをするつもりはありませんよ」
「触れられたくないのならそう言えばいい」
「ろくに会話も出来ない貴方に言われたくありませんね」
「ならば歌おうか。きっと喋りたくなるような歌だ」
「へぇ?せめて耳障りでないことを願いますよ。あの吸血鬼の力を取り込んでしまったわけですから期待は出来ませんが」
叩き落されたメスを拾い上げマコトは次の死体を切り開く。天使は窓の縁に座ったまま大きく息を吸って、あるメロディを歌いだした。それは、キョウの中にあるメロディではない。ましてや吸血鬼が奏でていたものでもない。このメロディを知っているのはマコトだけ。歌を聞いてマコトは初めて心臓を取り出す手を止めた。そして眼鏡の奥の歪んだ紫水晶を驚きに揺らして歌をうたい続ける天使を見つめる。その歌を聴き終えたあと、乾いた唇を開いて彼に尋ねた。
「……どうして、その歌を?」
「……魂に刻まれている歌を聞いただけだ」
「なるほど、それも神から貰った力という訳ですか。そうですか……確かにとても不愉快ですよ、ええ、ええ、とてもね……」
淡々と言いながらマコトは心臓を取り出した死体を無意味に切り裂く。腕も足も胴体もその中にあった内臓も形が残らないほど細かく刻み跳ねた血液が白衣を汚した。そしていきなり子供が駄々をこねるように血の海に寝転んでうーうーと唸りながら手足をバタバタと動かしはじめた。外跳ねの髪は血に濡れてぺたりとなりよく音を鳴らす革靴もびちゃびちゃに濡れている。まだまだ心臓を取り出さねばならない死体はたくさんあるというのに、厭きたと言わんばかりにごろごろとして、大きな声を出した。
「どうして貴方が歌っちゃうんですかぁ……!」
「……退屈なら歌えと言ったのはマコトだろう」
「ひどいですよ、あんまりだ!薄汚い天使め、ねぇ、そんなんで大丈夫なんですか、心臓の価値下がったりしませんか!?」
通常、くどくどと煩い言葉づかいではあるが落ち着いた声色を持っているはずの彼の声が感情の昂りで裏返り狂気さを増している。交換したばかりだと言うのに握れば血が滴る黒い手袋に覆われた手をキョウの心臓があるはずの左胸に向かって伸ばしながらゆらゆらと近づいていく。その手が触れる前に天使もまた手を伸ばし指先でマコトの心臓の辺りを指してこう言った。
「お前が肌身離さず抱えているその心臓が、お前にとっての至高の宝石ならば、オレの心臓など最初から石ころ同然だろう」
ぴたりと動きを止めてマコトはキョウを見つめる。そして指さされた懐から、特殊な装飾が施された硝子の匣を取り出してそれにぴたりと頬を寄せた。中にはもちろん、心臓が入っている。
「よく、見つけましたね」
「隠しているつもりだったのか?」
「いいえ、いいえ、ぜひ見ていただきたいですよ。でも見ないでください。そうですね、代わりにお話しして差し上げましょう。退屈しのぎにでも、適当に聞いていてください、ちゃんとね」
支離滅裂に言いながらマコトは血で汚れてしまった硝子の匣を丁寧に拭いている。綺麗になったそれを宝物のように大事に抱えて懐に仕舞いなおすとまた新しい手袋をつけた。そしてまた、死体から心臓を取り出し始める。ぽたぽたと濡れた髪から赤い液体を滴らせて、鼻歌を歌いながら上機嫌に、いや、もしかしたらそれは彼の仮面なのかもしれない。どこからがそうなのかは定かではないが、どことなく、狂ったふりをしているように思えた。ではその理由は。キョウは口を閉ざし、マコトが喋り始めるのをじっと待った。
「……ああ、やはり貴方は静かな方がいい。今すぐにでも死体になりませんか?」
「……本気ならもう一度言ってくれ。その時は先にお前の首を飛ばしてその心臓を握りつぶしてやろう」
「アハハハハハ!本気な訳ないじゃないですか、僕を気狂いだと言ったのはキョウさんですよ、悪魔の様だともね。レイさんは最後まで僕が人間だと気付いてくれませんでしたけど悪魔ってこんな感じなんですか?」
「悪魔に会ったことはないから、知らないな」
「ええ?いるじゃないですか、ここに」
そう言ってマコトは心臓を取り出しているメスでキョウを指す。黙ったキョウを見て至極楽しそうに笑いながら踊るように死体を切り裂いていった。
「天使でいるのが嫌なのでしょう?名前を捨てて姿が変わった貴方を誰も天使だなんて思いませんよ。他人が見ているのは上面だけですからね。今の貴方はキョウという名の立派な悪魔です」
「……」
「おや、気に入りませんか。どうでもいいですけど。ああそうだ、僕の話でしたね。心臓を集めてどうするのか、でしたっけ?」
ぐちゃり、と、血に塗れた心臓を手で軽く揉みながらマコトは目を細めて記憶を辿る。すっかり慣れた生温かい感触、それでも初めての時は必ずある。
「物語を語るのは初めてですが、やるからには完璧に語りあげてみせましょう。きっと退屈なんてさせませんよ。……さて、昔々あるところに、なんて言う程昔のことではありません。天使が落ちてきた夜から数えても月が十三回満ち欠けを繰り返したくらい昔のこと。この世界から、《魔女》と呼ばれる者が消えたのは」
***
とは言え、それは物語の結びです。お話しを始めるにはやはり起ちあがりが大事ですので、もう少し時間を戻すことにしましょう。そうですね、では、僕がまだ見習いの医者だった頃。ひたすらに知識を頭に詰め込んでいるだけの毎日。講義を受け、本を読み漁り、多少の医療行為のお手伝いをする。そんな目まぐるしくて忙しくて充実した日々を送っていました。太陽が輝く日も、空が雲に覆われ雨風が吹き荒れる日も、勉強勉強勉強の日々。それを苦痛だと思ったことはありませんでした。医者になると決められた日から僕が人生においてやるべきこともすべて決まった。そして、そのために必要な事をやる毎日のどこに苦しみがあるのでしょう。
ああ、少し説明すると、僕の生まれた街は世界でも有数の名医が集まる街と言いますか、この世界の知識をすべて集めた図書館のような街でね、そこの出身の医者というだけで世界のどこに行ってももてはやされる存在になれる訳なんです。もちろんそれは確かな知識と経験と技術が備わっているのが大前提ですよ。肩書きにかまけているような輩は即刻追放されるだけでしたから。つまり、僕にはそういう人生が約束されていたんです。こうなりたいとか、あれをやりたいとか、考える必要なんてなかったんですよ。望むものなんて、何もなかった。
退屈ではなかったのか?いい質問です。今思えば、きっと退屈だったのでしょう。つまらない日々を送っていたのだとも思います。無駄だった、とは思いませんが。正確に言うと、退屈だと思うことさえ出来なかった、という感じでしょうか。
ところで、図書館にいろんな分野の本があるように、その街にもいろんな分野の知識人たちがいたのですが、やはりどこにでも変人というのはいるものなんですよね。
それが《魔女》という分野でした。
魔物よりは人間に近く、けれど決して人間ではない。街の忘れ去られた場所で、世界のどこにもない書物を読むようにひっそりと生きている……当時の僕からしてみれば、それこそ、気狂いの集まりだとしか思えないような存在でしたし、関わることもないと思っていました。実際に会うまでは。
彼との出逢いは、本当に偶然としか言いようがないのですが、その日は珍しく外に出たいなと思った日だったんです。朝からいつもより特別にいい天気で、効率的には部屋にいた方が勉強はしやすいのですが窓から見える青空にどうしても目が行ってしまって。必要なものを厳選してカバンに詰めて、街の外れに大きな木が一本立っている小高い丘があったんですがたまにはそんな場所で自然を感じながら勉強してみるのもいいかと思ったんです。はい、なんですか?魔女との出逢いの話ではないのかって?ええそうですよ、ですからその小高い丘に着いたとき……なんですか、腑に落ちないような顔をして。まあ最初からたいして面白い話ではないですし貴方の興味が失せたのならやめますけど。そうじゃない?……ああ、魔女なのに彼というのはどういうことだって?……なるほど、そうですね、普通はそこにひっかかりますよね、僕としたことがうっかりとしていました。ですがこれは言い間違いではありません。彼は魔女であり、僕が出逢った魔女は彼ただ一人です。……話しを戻します。
その小高い丘の大きな木の下で僕は本を読み始めました。お伽噺などではありません、医学書というやつです。面白いですよ。ええ、それで真剣に本を読んでいた時にですね、落ちてきたんですよ、木の上から。貴方を見つけた時もそうですけど、もしかしたら僕は空から落ちてくるものと因縁があるのかもしれませんね。まあそんなことはどうでもいいのですが、落ちてきた彼は、いえ、その時は僕も「彼女」だと思いましたけれど、大きなとんがり帽子に怪しげな装飾の奇抜な服装、そして片手に箒……聞いていた魔女そのものの格好をしていました。
「ご、ごごごご、ごめんなさい!大丈夫ですか!?」
「……ええ、大丈夫です。」
「本当にごめんなさい……!ちょっと失敗しちゃって、まさか人間がいると思わなくて……ケガしてないですか!?」
「僕は平気ですが、キミの方こそ大丈夫ですか」
「え?」
「血が出ていますよ、折れた箒で切れたんでしょう」
「あーー!箒~~!どうしよう、シェリーに怒られちゃう……」
「いえ、箒ではなくケガの方を心配してください」
「え、ケガ?うわ……ホントだ血が出てる……」
「ああもう、ちょっと見せて!」
簡易的な救急道具を携帯していたので傷口を消毒して包帯を巻きました。細い腕に可憐な見た目、どうすれば目の前の魔女を男だと思えたでしょうか。普通は思いません、だからそうですね、僕はそれなりにまともだったんでしょう。
「若くてすぐ治るとはいえ女性の身体に傷が残るのは良くないでしょう。大事なモノなのはわかりますが箒は新しいのを買ってください。身体は一つしかないんですよ」
「あ、ありがとうございます……あの、でもオレ……じゃなくて僕、男なんでそういった気遣いは、ちょっと……」
「……は?もしかして頭も打ったんですか?衝撃で自分の性別がわからなくなるとは初めて聞く症状ですね……街に戻って医者に行きましょう。安心してください、僕の……正確には僕の家の知り合いの精神科医は魔女への偏見はありませんから。」
「僕の精神は正常です!……って、こんな格好で言っても説得力ないか……あのでも本当に大丈夫なので、包帯、ありがとうございました。えっと、僕マイリーって言います。貴方は……」
「名前ですか?マコトです。そう言うなら無理強いはしませんが……、あの、よくお似合いだと思いますよ、服。お世辞ではなく」
「だから違うんだってば~〜!ああ……もういいや、じゃあマコトさん、今度お礼させてください。今はちょっと、箒を直さなきゃなんで……じゃあまた!」
そう言って、魔女のマイリーさんという男の子は折れた箒を持って丘を駆け下りて行きました。正直、次に会った時までは本当に頭を打って精神に異常をきたしたのだろうと思っていました。どこからどう見ても可憐な少女でしたしね。何故そんな恰好をしているのかと聞いたところ、魔力を上手く回すのに身に着ける衣服はそれなりに重要なんだそうです。つまりそれが彼にとっては女性の衣服であり、見た目も女性らしくした方が上手く魔法を使える、ということだったそうです。にわかには信じがたい話ですが今となっては確認のしようがありませんし、まあ本当に似合っていたので別に僕としては納得は出来るものではありました。
さて、当時僕は見習いの医者でしたが、彼もまだ見習いの魔女でした。魔女の集団にも規則があり魔法を使用するのには一人前と認められる必要がある。そして彼はまだ半人前の魔女だった、つまり、自由に魔法を使えなかったんです。
僕は魔法を見たこともなく興味もなかったので、一体それでなにが出来るのか知りませんでしたし、どうせくだらないものだろうとも思っていました。それよりも万人に効く医療の方が何倍も魅力的で素晴らしいと。いえ、これは今でも思っています。ただし、あくまで通常の医療に関しては、です。
お礼をすると言っていたマイリーさんは、とある夜、箒に乗って僕のところに現れました。窓の外で箒に跨って浮いている人を見るのは初めてだったので流石に驚いて眼鏡を外して目を擦ったりもした気がします。呆気に取られている僕を見て笑ったマイリーさんは短い呪文を唱えて窓の鍵を開けると僕に手を差し出して「乗ってください」と言いました。目の前の光景が信じられなくて、僕は何も言えずに立ちすくんで彼を見つめていました。それに、木から落ちただけで簡単に折れた箒に乗るなんて絶対に無理でした、僕も落ちるに決まっている、と何も言わないまま窓を閉めました。
「ま、マコトさん!?どうして閉めるんですか!」
「ああすみませんつい……元気そうな顔を見られただけで十分お礼になりましたのでどうぞお帰りください」
「そんなこと言わずに!行きましょう!」
「意味が分かりませんが……」
「この間は失敗しちゃったんですけど、僕空を飛ぶ魔法が得意なんです。人間は空を飛べないからお礼として、本当はダメなんですけど、マコトさんを後ろに乗せて夜空を一緒に飛ぼうと思ったんです」
「駄目なことはしてはいけませんよ。規則は守るためにあるんですから。それに、得意とは言え猿も木から落ちるといいますし、実際落ちていますし、安全面においてまったく信用が出来ません。ですので、お断りします」
「だ、大丈夫ですよ!ちゃんと許可貰ってきたし、満月だから魔力も高まってるし、今日は喉の調子もいいんです!」
「喉の調子が何に関係するのか全くわからないのですが……」
「大丈夫、信じてください。きっと世界が変わります」
マイリーさんのその言葉が、それこそ魔法だったのではと思うくらいスッと胸に入ってきて、僕は自分で窓を開けました。きっとその時の僕は、先ほども言った通り無意識にこの人生が退屈だと思っていたのでしょう。決められた道の上を歩いていく平穏で平坦な日々は間違いなく幸せで、疑いも迷いもなく僕はその道を歩いていました。でも、その日初めて、僕は飛んだのです。それは文字通りの意味でもあるし、気持ちのことでもあります。背徳感に興奮している……という感じでしょうか。そんな大げさに言う程でもないですけど。
窓から部屋に入ってきたマイリーさん、彼が跨っている箒の後ろに僕も同じように跨りました。しっかりと柄を掴んで、彼の小さな背中を、小さな不安と期待を抱えながら見つめていました。「行きます!」と言ったマイリーさんは、大きく息を吸っていきなり歌をうたいはじめました。何事かと思いましたよ本当に。けれどそれが彼の魔法の呪文だったのです。不思議なメロディを繰り返して歌っていると、どこからか風が起きて足が浮きました。そして、僕とマイリーさんを乗せた箒は窓を抜けてまっすぐに夜空へと飛び出したのです!丸い月に近づいていくように、ぐんぐん風を切って飛んでいって、振り返ると、自分の家も街も小さくなっていくのが見えました。小高い丘にある大きな木もどこにあるかもうわかりません、街を囲む森がどこまでも続いていて、けれどその先に行ったことのない知らない街の灯りが微かに輝いている。見えているものは小さくなっているはずなのに、世界が広くなっていく。マイリーさんの言葉の通り、世界が変わったように思えました。
「~~♪」
「マイリーさん、」
「なんですか?」
「……ありがとうございます」
「はい!あ、マコトさんも歌いませんか?」
「う、歌ですか?」
「一緒に歌えば魔法の力も強くなるし、楽しいです!」
「僕はただの人間ですよ」
「でも、音楽が楽しいのは同じだから」
マイリーさんの歌に重ねるように、初めて歌をうたいました。不思議なメロディを歌いながら夜空を飛んでいると、月も星も掴めるような気がしてきてとても楽しかったのを覚えています。そしてひとしきり飛んだあと、開けっ放しだった窓から部屋に戻りました。また会いましょうと言ってマイリーさんはまた夜空を飛んでいって、僕は高揚したままベッドに入りました。あの日はなかなか眠ることが出来ずに結局朝日が昇るまで起きていた気がします。僕が空を飛んだのはその一度きりでしたが、もう一度飛びたいと思うこともありませんでした。これは人間が越えてはいけないラインだと思ったのです。マイリーさんは何度か誘ってくれたんですけどね。僕は、普通の人間でいたかったんです、知らない世界を知るのが、恐ろしかった。
***
「だから、歌って欲しくなかったんですよ、あの歌は貴方のものではありません。彼の歌声を忘れてしまったらどうするんですか」
死体の数も残り少なくなってきたところでマコトは語りをやめてキョウに文句を言う。マコトの魂に刻まれたメロディ、それは魔女との思い出の歌。歌はすべてを伝えてくれる、言葉にしなくても心の内の本当の想いを曝け出させてしまう。自分以外にも、歌を力にする者がいたんだなとマコトの話を聞きながらキョウは思った。
「魂に刻まれているなら忘れないさ」
「そういうことではないんですよ。何度も言いますが僕は普通の人間です。人はね、音から忘れていくんです。だから、忘れる前に蘇らせる必要がある」
何十個目かわからない心臓を取り出してまた容器にしまう。ずらりと並べられた命は見ていて気持ちのいいものではない。一体いくつの心臓を集めるつもりなのだろうか。いくつの命の重さをこの人間は抱えるつもりなのだろうか。望みがなかったと言っていた彼が今望んでいるものとは。マコトの語りの続きを促すようにキョウは羽を揺らして彼を見つめた。
「まだお話しは続けた方がいいですか?」
「ああ、思っていたよりも面白いし、マコトの語りも良い」
「貴方に比べれば誰だって語れる方でしょうねぇ。……では続きと行きましょう。もうすぐ死体もなくなりますし、手短にね」
***
魔女と夜空を飛んだあと、僕は特に天気のいい日は外に出てあの小高い丘の大きな木の下で勉強するようになりました。魔女に会いたかったのかと言われると微妙なところですが、興味があったのは事実です。実際、彼がいる日もあればいない日もありましたが、いるときはお互いの持っている知識を交換するようにお話しをしました。
魔女が使用する魔法というのは確かに特殊な力ではありますが、一種の学問のようでもありました。僕は医学という一つの分野だけを極めた医者という存在ですが、魔女はすべての分野を極めた存在、という感じです。マイリーさんが空を飛ぶのが得意だったように個人差はあるみたいでしたが。
けれど、人間でないことに変わりはありません。どんなに頑張っても僕に魔力が備わることはありませんし、魔女の魔力が失われることもありません。だからこそ、僕はしっかりと医学を極めようと思いました。そして立派な医者になれたなら、もう一度箒に乗せてもらおうと思ったんです。一人の人間としてしっかりとした自信と自覚があれば、何も恐れるものはない。
「マコトさんはすごいなぁ……僕そんなこと考えたこともありませんでした。」
「比べてしまえば、人間は一番非力です。けれど、人間としての尊厳を失うわけにはいきません。キミも魔女として立派に生きたいからこうやって勉強しているのでしょう?」
「う~ん、どうだろう……。僕は空を飛びながら楽しく歌っていたいだけかもしれない」
「わざわざそんな恰好をしてまで?」
「恰好のことは言わないで!だってこれが一番上手く飛べるんだもん……あ、ねえ、マコトさんは立派な医者になったらどうしたいんですか?」
「どうしたいもなにも、医者として生きていくだけですよ」
「えっと、そうじゃなくて、なんて言ったらいいのかなぁ。例えば、どんな病気でも治したい!とか、絶対に死なない薬を開発したい!とか……」
「もちろん医学の発展のための尽力は惜しみませんが、どんな病気でも治せるとか絶対に死なないとか、絶対に無理なことに時間を使うくらいなら自分の技術を磨きたいですね」
「絶対に無理なの?」
「無理ですよ、誰だって死ぬときは死ぬんです。千年の寿命を持つ魔女だって千年後には死にます。」
「うう~そうだけど……でも、死ななかったらいいなぁって思いませんか?こうやって生きているときに会った友達と、ずっと楽しくいられたらなぁって」
「終わりがあるから必死に生きようと思うんじゃないですか。僕は不老不死なんて死んでもごめんですね」
「医者なのに」
「医者だからこそ、ですよ。というか、そういう魔法はないんですか?」
「あったらとっくに使ってます。魔法は万能じゃないって、マコトさんの方が知ってるでしょ」
「出来ないことはないんじゃないですか?」
「出来ませんよ。あっても、蘇りの魔法くらいかなぁ」
彼は確かに魔女でしたが、話しているとそんなことを忘れてしまうくらい普通でした。ただ空が飛べるだけ、男なのに女の格好をしているだけ。……いえ、こうやって口にしてみると普通ではない気もしますけど……ですが、僕にとってはちょっと変わった友人、それだけでした。
けれどね、やはりくだらない種族問題はどこにでもあるものなんですよ。吸血鬼と人間が対立していたように、魔女と人間も対立してしまった。そして、僕の街では人間の方に力があった。魔女はただ、魔女として生きていただけなのに、その不可思議な力を恐れた人間たちが魔女という種族を根絶やしにしようとした。無駄に知識のある人間たちが集まっていましたからあれやこれやと魔女には何が効くんだと調べ始めました。浄めた水に溶けるとか、馬鹿馬鹿しいにもほどがあるでしょう?そして最終的に人間が選択した魔女を排除する方法は、火あぶりでした。何故その方法に行きついたのかは知りません。そしてその愚かな行為を止める術は僕にはありませんでした。僕はただの見習いの医者、権力をもった人たちに逆らって自分がどうなるかなんて火を見るより明らかでした。ただ、やはり友人として、彼を助けたかった。その気持ちはありました。
魔女をつかまえて火あぶりにすると決まった夜、火をつけた松明を持った人間たちが魔女たちが暮らす街の外れに大勢で向かっていきました。僕の父も、尊敬していた教授も、街の誇りである全員が狂ってしまったと僕は思いました。何も出来ず、ただ彼があの自由な箒に乗って捕まる前に逃げてくれていたらいいと夜空に浮かぶ月を見ていた時でした。夜の闇が星形に切り取られて光ったかと思うと、その光の中から箒に乗ったマイリーさんが現れて真っ直ぐ僕の部屋に向かって飛んできたのです。慌てて窓を開けて彼を部屋に招き入れました。
「よかった、捕まえられたらどうしようかと思ったよ」
「何を呑気に笑ってるんですか……!」
「いいえ、本当は、マコトさんは大丈夫だって信じてたから」
「……キミは友人ですから。ですが、何もしてあげることが出来ません。僕はただの一般市民でしかないんです、力のない……」
「そんなことはいいんです、マコトさんが気にすることじゃありませんよ」
「……もうすでに狂った人間たちが魔女狩りを始めています。逃げるなら今夜しかありません。得手不得手はあっても魔女の皆さんは箒で飛べるのでしょう?こんなところにいないで仲間の魔女と今すぐ逃げるべきです」
「僕たちは逃げないよ」
「はぁ?何を言ってるんですか?!」
「だって、何も悪い事してないもん。僕たちは魔女として生きているだけ。逃げたら、魔女としての尊厳を失っちゃうから。マコトさん、そう言ってたじゃないですか」
「それは、……それは、生きてこその話しでしょう!死にたくないって言ってたのはキミでしょう、千年の寿命があっても今死んだら何もかも終わりなんですよ?!」
「うん、だから、お願いがあるんです」
お願いがあると言ったマイリーさんは、ひとつの歌をうたい始めました。空を飛んだ時よりも強い風が起きて彼の身体を不思議な光が包み込んでいきました。彼は、自分に魔法をかけたのです。それが、蘇りの魔法。
「火あぶりで死ぬくらいなら、僕の身体、マコトさんにあげようと思って」
「……何を言ってるんですか」
「この間話したとき、マコトさん、人体の解剖をしたいって言ってたじゃないですか。医者としての技術の向上のために、できれば生きている身体がいいって。僕は魔女だけど、構造的にはあまり変わらないから丁度いいかなって思ったんです」
「た、確かに言いましたが、それはあくまで叶えようのない非人道的な望みであるとも言いましたよね、馬鹿なこと考えてないで今すぐ逃げなさい……!」
「大丈夫!魔法をかけたから。蘇りの魔法、さっきのがそう。まぁあんまり得意な魔法じゃないから上手く発動するかわからないけど……多分大丈夫」
「マイリーさん、目を覚ましてください、本当におかしくなっちゃったんですか」
「僕の精神は正常です。男でこんな恰好してるけど、マコトさんは最初からわかってくれたじゃないですか」
「最初は疑いましたよ!……って、ああもう、そういう問題じゃありません!マイリーさん、落ち着いて聞いてください」
「あはは、やっぱりマコトさんって、ちょっと変ですよね」
「はい!?」
「僕の命、マコトさんに預けたいんだ」
「……っ…、」
マイリーさんのその言葉が、医者である僕にとってどれほどの意味があったのかわかりますか。彼がそれをわかって言っていたのかはわかりませんが……僕は魔法にかけられたように、彼の言うことを聞くしか出来なかった。
「心臓さえあれば、蘇ることが出来るから。それだけは大事に持っていてください」
「……わかりました。ここでは出来ませんので、地下の手術室へ行きましょう」
「……ありがとう。マコトさんと友達になれてよかった」
「何を永遠の別れみたいに言っているんですか。蘇るんでしょう、魔法の力で」
「……うん。そしたら、また一緒に箒で空を飛びましょう。歌をうたって、最高に楽しもう」
「ええ、いいですよ」
僕たちは、穏やかに話しをしながら手術室に向かいました。特に天気のいい日に、小高い丘の大きな木の下で暖かい太陽の陽を浴びながら話していた、いつもどおりの時間と変わらない空気で。これは終わりではない、永遠の別れではない。そう理解していても、僕の手は震えていました。それは何故か?簡単な話です。赤ん坊が生まれてすぐ歩いたり喋ったり出来ないのと同じ、僕はまだ、ちゃんとした医療行為をしたことがなかったのです。ましてやたった一人で人体を切るなんて。言ってしまえば、これから行うのは医療行為でも何でもないただの殺人です。普段の僕なら何としてでもマイリーさんを説得していたでしょう。口論で負ける気はしませんでしたし、もしかしたら、少し後悔もしているかもしれません。あの時ちゃんと説得出来ていたら、無理矢理にでも逃げさせていたら、と。それを彼の魔法のせいにする気はありませんが、けれど僕は確かに、魔法にかけられていたのでしょう。そして、やはり後悔はしていません。だって魔女は蘇るのですから。
大きなとんがり帽子と魔女の妖しい服を脱いで手術台の上に横になったマイリーさんの身体は、まごうことなき男性の身体で、わかってはいましたけど驚いたのを覚えています。それくらい可愛らしかったんですよ、彼は。いえ、変な意味も特別な意味も何もありません。友人としての客観的な意見です。
見た目や、種族。そんなものに、何の意味もない。
「痛みも感じないようにしたので、麻酔もいらないですからね。思う存分切ってください!」
「そんなに笑顔で言われても、気が引けるだけなんですがね」
「どこまで生きていられるかなぁ、楽しみですね。」
「……おかしいですよ、キミ」
「最初からおかしいんですよ。僕もマコトさんも、誰も彼も」
「……狂っている」
「うん。だから楽しもう、今を。欲望に身をまかせて」
「……欲望」
「痛みは置き去りにして、僕の願いを切り取って、その手に抱いていて欲しい」
「……必ず、蘇ってくださいね」
「大丈夫です。信じてください」
「……行きますよ。」
厭きるほど勉強した通り、彼の身体を解体していきました。どのような順番でメスをいれたのか、あまりよく覚えていません。初めて裂いた肉の感触。それは今でも思い出せます。身体の外側を開いた後、ひとつずつ丁寧に内臓を取り出していきました。肺、肝臓、腎臓、膵臓、胃、小腸、大腸、脾臓、膀胱、性器……ああ、脳は取り出しませんでした。顔がつぶれてしまうのはもったいなかったので。
彼の内臓を手に取るたび生温かい生命の息吹を感じました。鉄の匂いに頭がぼうっとして、ため息がもれました。そしてこう思ったのです、ああ、美しいと。
最後に、心臓を取り出しました。ドクドクと鼓動を打っているその動きを止めるためにメスを入れる。ふと、綺麗なままのマイリーさんの顔を見た時にはさすがにもう死んでいました。心臓をこの手に取って、その温度と、その感触と、その匂い、その形、そのすべてをじっ……と見つめました。彼はここにいる、この心臓があれば彼は蘇る。気の狂った人間たちが大人しくなるまで僕はこの心臓を守り抜くのだ。そして、魔女がよみがえった時、今度こそ僕は恐れることなく空を飛ぶのだ。そう思いました。……しかし、魔女狩りが終わり、他の魔女が火あぶりになって死んだあとも、街は狂ったままでした。血まみれで魔女の心臓を抱えている僕を見て、悪魔に憑りつかれたと騒ぎ始めたのです。自分たちのしたことを棚に上げて一体何を馬鹿なことを言っているのかと思いました。このままの街でマイリーさんが蘇ってもまた火あぶりにされてしまう。その前に、狂った街を元に戻さなくては……そのためには、同じだと分からせる必要がある。人間も魔女も、中身は同じなのだとね。
僕はメスを手にして外に出ました。そして、目に入る人間から一人ずつ解体していきました。普通に考えれば、僕は簡単に捕まって犯罪者として罰を受けたのでしょうけど、魔女が力を貸してくれたんでしょうか、誰も僕を止めることが出来なかった。気が付いたら、街の人間は一人残らず死んでいました。親も兄弟も見知らぬ他人も、みんなただの肉塊に成り果てていました。そして僕は、これで蘇る環境が整ったと思いました。あとは魔女の魔法が発動するのを待つだけ。死体に囲まれたまま、硝子の匣にいれた彼の心臓を眺めつづけていました。けれど、待てども待てども、一向に魔法が発動しないじゃありませんか。なにがいけないのだろうと必死に考えました。僕は魔法に詳しくありませんでしたが、きっと何か理由があるはずだとマイリーさんとの会話を思い返しました。
そして、あることに気付いたのです。
それが、僕が数多の心臓を集めるようになった理由です。
***
マコトは最後の死体の心臓を取り出しそこで語りをやめた。そして集めた数多の心臓を綺麗にカバンへと詰め込んでいきそれも全て終えると、ふぅ、と一息をついて血に塗れた黒い手袋で額を拭った。
「ところでキョウさん、筋力に自信はありますか?いえ、見るからになさそうなのはわかっているのですが一応聞いておくのも礼儀かと思いまして」
「…………」
「ああ恐ろしい、何も映していない虚無の瞳に睨まれてはただの人間の僕は震えあがって腰が抜けてしまいます」
けらけらと笑いながらマコトはキョウの足元へ心臓を詰めたカバンを数個積み重ねた。
「大変お待たせしました。お手伝いをお願いします」
「……?」
「折角その美しい羽を取り戻したのですから、自由に空を飛びたいでしょう?この惨劇の城から僕らの拠点の教会まで夜空のお散歩と行きましょう」
「オレにこの心臓を運べと……?」
「人間の足でこの量のカバンを運んでいたら夜が明けてしまいますよ。それに、キョウさんもはやく次の獲物のところに行きたいでしょう。だったら手伝ってください」
急にテキパキと指示をしだしたマコトに些か戸惑いながら、キョウは仕方なく窓の縁から降りる。そう、決して主従関係などではない、それぞれの目的のために契約を交わし、力を貸し合う共犯者、しかし。
「まだ物語が終わっていない」
「……頑固ですねぇ貴方も」
「完璧に語りあげてみせると言ったのはマコトだ」
「はいはいわかりましたよ」
面倒くさい、とあからさまなため息をついてマコトはカバンを運ぶ準備をしながら早口で物語の結末を語った。
「僕は、マイリーさんが僕の目の前で自分に蘇りの魔法をかけた時の歌を思い出しました。その呪文はこうです。『失われる命と引き換えに、蘇る命の時間。』 蘇る命とはもちろん魔女の命です。そして引き換えに失われる命……つまり、失われた魔女の寿命千年分を、千の命と引き換えに蘇らせる。この魔法は対価を払って初めて発動する魔法なのだと僕は思いました。だから、僕は千の心臓を集めることにしたんです。命を預かったからには、最後まで責任を持ちます。それが僕の、医者としての尊厳なのですから。はい、めでたしめでたし」
ありきたりな結びの言葉を使って物語を終わらせたマコトは余韻も残さずにキョウに心臓を運べと指示をする。魔女の命を蘇らせるために心臓を集める、たった一人の命の為に千人の命を奪い続ける、決して許されない悪魔の所業。
「オレもお前も、立派な悪魔のようだ」
「何と言われようと構いません、そうでしょう?」
心臓を奪われた人間と魔物の幾つもの死体、その血の海の中で二人の悪魔は笑う。互いの目的を果たすまで、無慈悲に罪を重ねていく。その魂の結末に何が待っていようとも構いはしない、その時、許しを請うべき神は死んでいるのだから。
ただし、悪魔は嘘を吐く。
息をするように、仮面をつける。
***
心臓を詰めたカバンを抱えてキョウは夜空を何度か飛んだ。吸血鬼の城からすべての心臓を運び終えた頃には、空が白んで結局新しい朝を迎えようとしていた。教会の奥にある十字の前に積み重ねたカバン、その上に腰を下ろしてキョウはある歌をうたっていた。木製の扉がギィと音を立てて開く。入ってきた血まみれの男はキョウの歌を聴いて顔を歪ませた。カツカツと靴を鳴らして心臓の上に座る天使に近づき懐から取り出したメスをまだ傷が残る首筋へと迷いなく当てた。
「歌わないでくださいって言いましたよねえ?」
「……空を飛ぶ呪文なのだろう?」
「貴方には必要ないでしょう。ほらさっさと降りて」
言われるがままキョウは羽をはためかせてふわりと宙に浮く。それを見てマコトは舌打ちをしてキョウを睨んだ。自分の仮面がゆっくりと剥がれていっている事に気付いていないのだろうと、心臓を保管している教会の地下室へ向かう血まみれの背中を見ながらキョウは思った。
マコトの魂に刻まれているメロディを歌った、それは嘘ではない。ただし、キョウにはもう一つ歌声が聞こえていた。マコトが肌身離さず大切に抱えている魔女の心臓、力を取り戻したときから強く聞こえてきた、男とも女ともつかない不思議な歌声、マコトの話をきいてこれが魔女の歌声であるとキョウは確信した。魔女の魂は、心臓と共にそこに在る。
「……けれど、蘇ることはない」
千の心臓を捧げたところで魔女の命は蘇らない。魔女の呪文は言葉ではなくメロディ。音の動きで魔法がかかる。恐らく、魔女がマコトの目の前でかけて見せたのは『痛みを感じなくさせる魔法』だったのだろう。魔女の計画は成功し見事マコトに嘘を信じさせた。死を何よりも恐れた魔女は、それでも抗えない死を受け入れるために、自分の望む死を手に入れることにしたのだ。彼の、真っ当な人生と引き換えに。
「狂っていると自覚した時点で、狂っていないというのに」
彼の消えた地下室から強く聞こえてくる歌声は、とろけるような甘い罠、毒を孕んだ魔女のお菓子。
魅せられたら、死ぬまで逃げられない。
***
血で汚れた身体を冷水で洗い流して新しい服を着る。綺麗になった手で今宵集めた心臓を壁に並べた。もう少し、もう少しで千個集まる。口角をあげながらマコトは数を数えていた。あの悪魔のような天使のおかげで予定より早く集まりそうだ。時はもうすぐそこまで来ている。ご機嫌な声色でマコトは懐から取り出した魔女の心臓に語り掛けた。
「今日は珍しい心臓を手に入れましたよ。何百年と人間に恐怖を与えてきた恐ろしい吸血鬼の心臓です。見た目は他のものと変わりませんがキミの魔力の手助けになるでしょうか?けれどやはり、楽しみなのは天使の心臓ですね。ああ、はやく見せて差し上げたいです。もう少し待っていてください。……大丈夫、僕は平気ですよ」
マコトの耳には、何も聞こえてなどいない。魔女の魂が今歌っているメロディを聞ける能力など、ただの人間にあるはずもない。彼にあるのは、夜空を飛んだあの日の歌だけ。摩訶不思議な出来事でも、それだけが自分の目で見た真実。
「ああ、でも本当に、……キミの心臓が一番美しいですよ」
うっとりと、魔女の心臓を見つめてマコトは笑う。
もう一度、箒に乗って夜空を飛ぶその日まで、彼は何度でもその手を血に染めるだろう。
狂気と殺戮に魅せられた悲しき人間の物語。
その結末は、魔女のみぞ知る。
第三楽章・幕
===第四楽章 神と永遠
永遠に来ない命の終わりを、いつまでも待っている。
***
「おっちゃーーーーーん!」
荒波が打ち付ける岩場で、波の音を掻き分けるように大声をあげる少女が一人。ターコイズブルーの長い髪を二つに結わえて、ジャックオランタンを模したオレンジ色の派手な服を纏い人懐っこい笑顔で何度も誰かを呼ぶ、……正確には少女ではないその呼び声に応えて波は形を変えて人の姿をとり現れた。
「お前なぁ、おっちゃんはやめろって言ってるだろ」
「おっちゃんはおっちゃんだもん。ねぇ、ご飯ちょうだい!」
苦言を呈した海の神に恐れもせず屈託のない笑顔で食い物をねだる少女。やれやれと頭をかいて、海神・シンは自らの治める広大な海から命をいただき食事を用意した。見た目にそぐわず大食らいの少女はいただいた海の幸をぺろりと完食しおかわり!とまで言ってのけるのだからさすがの海神も苦笑することしか出来ないのであった。
「本当、気持ちいいくらいよく食うよな」
「ボクはまだまだ育ち盛りだからね!それに、おっちゃんがくれるご飯みんな美味しいんだもん!」
「だからおっちゃんはやめろって」
この少女にご飯を食べさせるようになってから何百回と繰り返してきたやり取り。一応自分はこの世界を統べる神であり少女にもそれは伝えているはずなのに、まるで近所のお兄ちゃんに接するような人懐っこさですっかり懐に入り込まれてしまった。別に嫌だという気持ちはない。自分が統べる世界に生きる命である以上乞われれば腹を満たすための食事を用意してやるくらい何てことない。美味しそうに食べてくれるのは喜ばしい事だとも思う。まだまだおかわり!と手を差し出してくる少女・ミントに、シンは「仕方ねぇな」と呆れながら、それでも朗らかに笑って追加の食事の準備を始めた。
間もなく陽が沈む。一日が終わる。水平線の向こうに消えていくオレンジ色の光は、まだ食事をしているミントの服と同化していてなんだか面白いなとシンは笑った。大食らいであるのを笑われたと思ったのか口の周りをペロリと一舐めしてミントは少し頬を膨らませて隣に座るシンを見上げた。
「なに笑ってるのさ~〜」
「いや?お天道様と同じ色だなと思ってよ」
「えへへ、可愛いでしょこの服。ボクにぴったりだよね~」
「かぼちゃがか?まぁ確かに、お前は良く食うけど、服まで食材にしなくてもいいんじゃねぇか?」
そういうとミントは勢いよく立ち上がりシンに向かって大きな声で叫んだ。
「おっちゃん!ボクは食べ物を美味しくする魔女なの、その力を存分に振るうためにこの衣装を着てるんだから、似合ってて当然なの!ていうかそこじゃなくて、可愛いかどうかなんだってば!」
「おーー可愛い可愛い」
「も~う!本当にわかってるのかなぁ?」
大きなため息をついて座りなおしたミントは最後のひと口を食べる。ごちそうさま!と笑顔で言った少女は、実際男だとは思えない程確かに可愛らしいのだろうとシンは思った。
《魔女》という存在がこの世界から消えてからどれほど経っただろうかと神は思い返す。シンがこの世界を治めはじめた頃には、すでに人間界と魔界は同じ世界であった。魔物が人間を支配している場所、人間が魔物を使役している場所、人と魔物が共存している場所、共存していると見せかけている場所……同じ命のはずなのに様々な命の在り方を見てきた。魔女が人間に殺されたのは、シンの記憶の中では最近のことにカウントされる。ミントはその魔女の唯一の生き残りだった。今でこそ毎日笑顔でご飯を食べているが、この海岸でたまたま出会った頃の絶望しきった姿は今思い出しても胸が痛くなりそうなものだった。
そういえば、もう遥か昔と言っていいくらいの記憶、ここに食事をしにくるもう一人も、出会った時はそんな姿だった。すでに息絶えた血まみれの花嫁を抱えて自らも海に沈もうとしていた。それを留めたのは、生きとし生けるものを護る神としての慈悲か、それとも……
「そういえば、今日はレイレイ来ないの?」
「……ん?ああ、そういえば遅いな。」
「ていうか最近見てないよね?どうしたんだろ」
ミントの言うとおりしばらく姿を見ていない。確か前回来たときに「変な人間が来た」と言っていたが、何か関係があるのだろうか。話しを聞いた限り良く転んでも悪く転んでも彼にとっては一つの転機になりそうだとは思ったが、真実はわからない。神と言ってもすべてを見渡せるわけではない。シンに見えるのは目の前にある事象だけ。他の世界にはそういう力をもった神も恐らくいるのだろうが。
「ちょっと心配だよね、レイレイ、おっちゃんのご飯しか食べれないんでしょ?」
「あ~〜、まぁな」
「もしかしたらお腹ペコペコで動けないのかも……!どうしようおっちゃん!?」
憶測を巡らせて焦りだしたミントがシンの腕を掴んでグラグラと揺さぶる。ミントの焦りとは裏腹に、あれだけ食べてすぐこんなにぴょんぴょん飛び跳ねながら動けるなんて魔女は随分燃費がいいんだなとシンはまったく違うことを考えていた。返事をしないシンを不思議に思いながらミントはもう一度彼に尋ねる。
「そんなに心配しなくてもアイツは大丈夫だろ」
「そんなこと言って、おっちゃんも本当は心配なんでしょ?なんか上の空だし……そうだ!ボクが見てきてあげるよ!」
「は?お、おいミント……」
「任せて!ボク、箒で飛ぶよりも足が速いから!」
どんと胸を張ってそういったミントは懐から二本の杖を取り出す。魔女が使う魔法の杖、そういうのは通常ひとり一つなのではないかとシンが問うと「魔女にも色々あるの~〜!」と言って大きく杖を振りかざす。カンカンと二本の杖を鳴らしながらリズムを刻めば、どこからか舞い上がった風がミントの足を包みそのままふわりと宙に浮いた。
「超特急で見てくるからおっちゃんは大船に乗った気持ちで待ってて!あ、レイレイとボクのご飯の用意も忘れないでよね」
「レイはともかくお前も食うのか?」
「帰ってくる頃にはペコペコだよ!それじゃよろしく~〜!」
いってきま~す!と声高らかに走り出したミントは本当に風のように速くすぐに姿が見えなくなった。
別に、ひとつも頼んではいないんだけどな……とシンは一人頭をかいた。ミントには、シンがレイのことを心配しているように映ったのだろうか。それとも、ミント自身が本当にレイを心配しているのだろうか。恐らく両方だろうなとシンは思う。
「難しいよなぁ……」
荒波の打ち付ける岩場で、水平線に沈むオレンジ色を見ながら神はぽつりとつぶやいた。そして夜が訪れ、まだ満ちきらない不格好な月が、煌々と夜空に輝いた。
***
轟轟と赤い炎が燃えている。肉片の一つも残らないように、生きていた痕跡さえなくなるように、ただ、炎で燃やし尽くす。
ひたすら走った、箒よりも誰よりも何よりもボクは速かった。
「あなただけでも、生きて」
逃げないことを選択した強い魔女。
「私たちは、後悔していませんわ」
最後まで自分を貫いた気高い魔女。
「命を預けたい人がいるんだ、……ごめん」
すでに手放す覚悟を決めていた魔女。
みんなのことが大好きだった、ボクたちはただ生きていただけだった、どうして殺されなければならなかったのか今でもわからない。解明しようとしたところで、どうせ納得できる理由なんて出てこない。だから、ボクが辿りついた答えは『狂気』だった。殺した方も、殺された方も、みんなみんな狂ってしまったんだ。仕方のない事だった、ボクは逃げたわけじゃない、ボクはみんなを見捨てたわけじゃない、ボクは正常だった、ボクは正しかった。
それでいいんだ、だってもう、みんな死んだんだから。
「う、嘘……」
海岸から風を纏って走ること数時間。吸血鬼の城へと足を踏み入れたミントは、目の前に広がる悲惨な光景に足をすくませた。恐らく、この辺りに住む全ての人間と魔物が、等しく首を切られて死んでいる。その死体からは余すことなく心臓が切り取られていた。そして、大広間の中心に横たわる、唯一頭の飛んでいない死体。記憶している姿から随分老いているが、それは見覚えのある顔だった。
「一体、誰がこんなこと……!」
はやくシンに知らせなくては。ミントはもう一度二本の杖を鳴らし、来た時よりも大きな風を纏って彼の待つ海岸へと走った。木々を揺らし駆け抜けていく小さな魔女。思い出す、燃える炎、あの時もこんな風に走った。どうして命は命を終わらせるのだろう。わからない、わからないから、きっとあの惨劇も誰かの狂気なんだ。犠牲になった命を振り返ってはいけない、自分も狂気に飲まれてしまうから。押し寄せてくる不安や恐怖、闇を振り払うようにミントは走った。あの優しい神様の側にいれば、笑顔でいられる、生きていていいと思えるから。
「はぁ、はぁっ、お、おっちゃーーーーん!!」
陽の沈んだ暗い海岸、荒波が打ち付ける岩場の上でミントは息を切らしながら叫ぶ。そして波が形を変えて、闇の中から人の姿をとって現れた。優しい笑顔の、この世界を包み込む暖かい神様。
「おう、お帰り。随分早かったな?」
「おっちゃん、おっちゃん、大変だよ、大変……レイレイが……!」
岩場を飛び海の上にいるシンに飛びついたミントはあの悲惨な光景を伝えようとしてハッと口をつぐんだ。シンとレイは、自分が彼らと知り合うよりもずっと前からの友人だ。千年を生きる魔女の自分よりももっと長い寿命を持った彼らの数百年。その友人が、何者かの狂気によって殺されたと知ったら、この優しい神様はとても悲しんでしまう。
「おいミント?レイがどうした?風邪でも引いてたか?」
「え、あ、えっと……」
飛びついてきた軽い体を抱えてシンは波の上を歩き岩場にゆっくりとミントを降ろした。そして不安そうに眉を下げたその顔を覗き込んでもう一度どうしたのかと聞いた。ミントはなかなか口を開けなかった。けれど、真実を知ることが出来ないのは何よりも辛いことだと知っている。覗き込んでくる深い海の色の瞳を見つめながら、小さな声で自分が見た光景を伝えた。
「あ、あのねおっちゃん、落ち着いて聞いてね」
「はは、落ち着かないのはお前の方だろ。で?」
「レイレイ、……死んでた。誰かに、殺された」
「……殺された?」
シンは目を開いてミントに聞き返した。けれどやはり落ち着かないのはミントの方で、シンの腕を掴む小さな手が震えている。
「レイレイだけじゃなくて、たくさん、死んでて、心臓が……」
「……そうか、嫌なもん見ちまったな。大丈夫か?」
「………え?」
ミントのターコイズブルーの髪を撫でながら、シンはとても優しくそう言った。ミントはその大きな手に戸惑った。どうしてそんなに落ち着いているのか。それともこれは虚勢で、突然告げられた友の死を、受け止め切れていないのだろうか。
「おっちゃん、あ、あのね、」
「ん?」
「辛いと思うけど、……レイレイの死体……さ、ちゃんと、埋葬してあげよ?あのままじゃ、可哀そうだよ……」
「あ~〜、そうか、死んだら墓を建てるんだよな。じゃあ行くか」
変わらない優しい笑顔でシンはミントに言う。海岸沿いを歩いていく大きな背中。その姿を見つめながら、ミントは何とも言えない気味の悪さを感じていた。友の死を聞いても、変わらない、優しい神様。優しい神様のはずだ。
このまま、彼の後ろを歩いていけばいい。それが正しい選択だとミントはちゃんとわかっていた。このままでいい、このままがいい、今自分の胸の内に溢れた言葉を口に出したら、この平穏が崩れてしまう。ボクは逃げたわけじゃない、ボクは正常だった、ボクは正しかった。必死に言い聞かせて歩こうとした。
「……、っ、あ、お、おっちゃん……」
「どうした?やっぱり行くのやめておくか?」
ずっと、自分の心を誤魔化してきた。世界は生き延びた者が作るのだから、死んだ者のことなんて、忘れてしまえばいい。そうやって誤魔化していないと、後悔に押しつぶされて死んでしまいそうだった。仲間を見捨てて逃げた自分、その事実からも逃げた自分を、誰かに間違いだと言ってほしかった。お前は狂っていると言ってほしかった。
「おっちゃん、悲しく、ないの?」
「悲しい……?俺が?」
「だって、レイレイ、死んじゃったんだよ。おっちゃんの友達、死んじゃったんだよ……!二度と会えないんだよ、一緒にごはん、食べられないんだよ……!?」
「……、」
「悲しい、よね……?」
蒼白の顔でそう訴えてくるミントをシンはじっと見つめた。昔、仲間を見捨てて一人だけ生き延びたこの魔女は、悲しみや後悔に押しつぶされないように必死に笑って生きていた。生きるためにたくさん食べた、生きるためにたくさん笑った。それは、極めて正しい命の在り方だとシンは思っていた。そう、だから、そうやって笑っているのが普通の対応だと思ったのに。
「俺は、悲しむべきだったのか。そうか……やっぱり難しいな。」
「難しいってなに……?当たり前のことでしょ、普通でしょ?」
「だってお前は笑っていただろ、ずっと」
「それは……!それは、ボクが、狂っているから……」
ミントの言葉にシンは大口を開けて笑った。変わらない笑顔のはずなのに、今は彼のその笑顔がこの世の何よりも恐ろしいとミントは感じた。ひとしきり笑った後、シンはミントを見据えて淡いほほえみを浮かべる。確かに目の前にいる、それなのに、彼の深い海の色の目には、何も映っていないように見えた。そして変わらない優しい声で言うのだ。
「お前は狂ってなんかいねぇよ」
「おっちゃん……」
「お前たちは、死にたくないと思う生き物だ。だから、仲間を見捨ててでも生き延びたお前は普通で、死を受け入れたお前の仲間が狂ってたんだよ。まぁ、今はその話じゃねぇか」
一度頭をかいて、シンはミントに一歩ずつ近づいていった。そしてまたミントの顔を覗きこみ、子どもが悪気無くアリの巣を潰すような、そんな無邪気さを纏ってミントに言った。
「ミント、俺はな、死にたいんだ。あくまで正常な気持ちで」
「なんで……?」
「俺はこの世界の神だからよ、死んだら世界が消えるんだ。だから死ねないっつーか、そもそも死なないように出来てる」
試してみるか?と言ったシンが手を伸ばすと、荒波が竜巻のように舞い上がりその形が三叉の矛へと変わる。そして手にしたそれを戸惑うミントに握らせ、そのまま自身の胸を貫かせた。ああああ!と怯える声を上げたミントが慌てて手をはなす。けれど貫いた箇所からは一滴の血も流れることはない。人の形をとっていた身体がただ水となり海に還るだけ。そしてまた、海岸に押し寄せる波がシンの姿に変わる。これは魔法でも、魔物の能力でもない、間違ってもただの人間に出来ることではない。ミントが落とした三叉の矛を拾い上げシンは笑った。
「びっくりさせて悪かったな。大丈夫か?」
「あ、あ……」
「話しがずれたな。えーっと、つまりだ。いつか死ねるお前たちがいつ死んだとしても、それは俺にとって当たり前で、言ってしまえば羨ましい事でもある。だから、悲しくはないんだ」
ただ単調に説明をするようにそう言ったシンはまた歩みを始め、レイの死体がある城へと向かう。墓を建てるという生き物の習慣があるから、ミントにそう言われたから。
シンは、なにも感じていない訳ではない、心がないわけではない。ただ、彼は神なのである。そもそもの存在としての在り方が、彼とその他の命では違うというだけの話。《死》という概念を知らない神に、ミントが思う命の尊さはわからない、神に命はない。死ぬことのない本当の永遠を命がないのに生きねばならない。その孤独は神のみぞ知る、他の何ものにも理解できない。
「そんなのわかんないよ!」
「……ミント?」
震える声でミントは叫んだ。シンに死が訪れないことはわかった、自分とは違うということも。しかし、ミントのことを正常だというのなら、自分とは違っても、それを理解しているのなら、心があるのなら、どうして。
「おっちゃんは、ボクが死んでも、世界中のみんなが死んでも、何とも思わないの?羨ましいって、思うの?」
「ああ、思うぜ」
「それは、寂しいよ、おっちゃん……わからないよ……」
「理解してもらおうなんて、思ってねぇよ」
仲間を見捨てて、ひとりぼっちになって、初めてミントは孤独を知った。けれど死ぬことも出来ず、自分が生きるために死んでいった仲間を狂気だと乏しめた。そんな誤魔化しの人生の途中で出会った優しい神様。食べ物をくれた、大きな手で頭を撫でてくれた、笑ってお喋りしてくれた。この人を、今度こそ大切にしようと思った。絶対に見捨てたりしない、逃げたりしない。これでもう、ひとりぼっちじゃない。そう、思っていたのに。
「ボクは、ボクは……!」
シンに背を向けて、ミントはただ走った。どうしようもない気持ちを抱えたまま、神の側にいるのは恐ろしかった。
(ボクは……また、逃げた)
箒よりも誰よりも何よりも、この足が速かったのは、すべてから逃げ出すためじゃないはずなのに。暗い森を走りぬける、小さな魔女。大きな木の根っこに躓いて転んだ。可愛い服も、綺麗に整えた髪も、全部汚れてしまった。
「可愛いって、褒めてくれる人がいなきゃ、意味ないのにね……っ、う、っぅ、ひっく……ぅう……!」
膝を抱えてミントは泣いた。悲しみに溢れた声が森に木霊する。何もかも失ってから気付いて、何もかも取り戻せない。明日を一緒に生きる人がいない、こんな寂しさには耐えられない、それでも、死ぬのは怖い。そう思うのは正しいのだと神様は言った。いっそ狂ってしまえたらどんなに楽だろう、死を望む狂気に飲まれてしまいたい。もう自分には何もない、ただ逃げ続けるだけの人生をずっと繰り返すのだろうか。
「死んだら……同じになれるのかなぁ……?」
もう、希望もなく、死ぬしかない人生だとしても、せめて彼の望みを叶えてあげたい。誰の理解も必要とせず、ただ孤独を当たり前のようにして生きているあの優しい神様の願いを。
「神様を殺せる人なんて……いるのかな……」
ただ一つ、命の終わり。シンが望むものはそれだけ。自分には出来ない。それは気持ちのことでもあるし、先ほど実際に目にした神の力のことでもある。
ダメだ……と躓いた大きな木にもたれてうなだれるミント。鬱蒼と茂る森の中、木々の隙間から満ちていない月だけが闇を照らしている。グルルとお腹が鳴った。こんな時でもお腹は空くんだなとちょっとだけ可笑しくて笑ったが、やはり虚しかった。
その時、わずかな月明かりを雲が覆い隠した。しかしそれは雲ではない。月の光を覆い隠した影はゆっくりとミントへと近づいてくる。ふと、雪のように空から落ちてきたのは、白と黒の混ざり合った羽根。顔をあげると、目の前には天使が立っていた。いや、もしかしたら悪魔かもしれない。六枚の羽に斑に広がる不気味な紋様。魔女にはその区別がつけられなかった。
「人ではありませんが、神を殺したいなら力を貸しましょうか」
闇の中から声を発したのは、いつの間にか現れた白衣の男。眼鏡の奥から紫水晶の瞳がミントをニヤリと見下ろしている。
「君たちは、天使……?それとも、悪魔……?」
「僕は人間ですよ。彼がどうなのかは知りませんが。けれど、神を殺すのは彼の仕事です」
天使でも悪魔でもないとされたその存在に、ミントは恐る恐る声をかける。本当に、神を殺せるのかと。その問いかけに、六枚の羽を揺らした男は虚無の瞳をギラリと光らせて薄く笑った。それは肯定の意、ミントの心は揺れる。
「真実と偽りが混ざり合う心、天秤が傾くまま我らは行く」
「神殺しの大罪、それを背負う覚悟はありますか?」
「ボクは……」
みんなのことが大好きだった。本当に大好きだった。見捨ててごめん、助けようとしなくてごめん。だから、今度は逃げない。
ゆらりと立ち上がる小さな身体が、悪魔の手を取った。
***
月の光が黒い海に映って揺らめいている。自分が治める海ほどの記憶がこの頭の中にある。人間も魔物も、全て等しい命。生きて、死ぬ。当たり前のように。自分だけが最初からその命の輪の中にいない。誰にも理解できない永遠の孤独。けれど、自分が理解することは出来ると思った。恋人を失った吸血鬼、仲間を失った魔女、残された彼らの生き様に自分の心を託せば、自分にもいつか死が訪れるのではないかと思った。結局二回とも上手くはいかなかったが、そのうちまた、誰かが現れるだろう。自分が死なない限り、この世界に命は産み落とされるのだから。
岩場に腰かけてシンは不格好な月を見上げる。この月が沈み、太陽が昇り、その次に現れる月はしっかり満ちているのだろう。何万回と過ごしてきた夜、何かが起こる日はいつも満月だった。
あの時、今夜とは違うしっかりと満ちた月が夜空に輝いていた日、先に死んだ恋人を追って死ぬはずだった吸血鬼の運命を弄ったのは自分だ。だから、ミントが言った悲しいという感情は沸いてこなかったけれど、驚いたのは確かだった。レイは寿命で死ぬはずだった。その命の全ての時間を使って愛する者との約束を果たす運命にした。しかし、シンが、この世界の神が決めたその運命を、何者かが乱した。これはあり得ないことだ。もし……それが出来るとしたら、この世界の者の力ではない。
自分が治める世界でも、その他の神が治める世界でも、終わった命は、すべての命の源である天の神が治める世界に逝きつく。自分の力に対抗できるとしたら、それは天の力を持つ者に他ならない。だとしたら、一体どんな理由でレイは殺された?腕を組んで目を閉じ考えてみても答えは出ない。ただ事ではないことが起きているのはわかっているが、シンはどこか高揚している自分がいることに気付いていた。どこの誰かは知らないが、生きていれば色々なことがあるものだと、まるで人間たちのような感情を起こさせてくれたのだ。もしかしたら、まだ見ぬ誰かが望みを叶えてくれるかもしれない。ただしそれは、世界の破滅を意味している。そして、結局叶うことのない幻想でしかない。
海岸に押し寄せていた荒波がシンの高揚が落ち着くのと共に凪いでいく。きっともう、あの小さな魔女は戻ってこないだろう。ひどく傷ついた顔をして走り去ってしまった。共に笑い合ってご飯を食べていた日々は楽しいものだった。レイも、ミントも、笑いながら美味しい美味しいと言って食べてくれていた。彼らと出会う前も、共に笑い、食事をした命たちがいた。その全員のことを覚えている。顔も名前も、声も、どんな話をしたのかも。そして、一人残らず死んでいった。天の神の元へ旅立った命、もうこの手から離れた命でさえ、この世界を統べる神として忘却は許されない。何故なら、世界を存続させるのは神の役目だとしても、世界に歴史という過去を刻みそして未来を創っていくのは神ではない彼らなのだ。皆が愛しい、だからこそ、特別に誰かの死を悲しむことも、喜ぶこともない。そういう風に出来ているのだ。理解しようと思うことは無駄だともわかっている。レイに向けて言った言葉は自分が常々思っている事である。何も得られなかったとしても、永い時間を生きる中での暇つぶしになったと思えばいい。そう、これは暇つぶしなのだ。神である自分が唯一手にしている生きとし生ける数多の命を使った、永遠に終わらない暇つぶし。それをどうか傲慢などと思わないで欲しい。
強い風が吹いて森が揺れる。木々のざわめきの向こうから少女の……正確には少女ではない、耳に馴染む声が聞こえた。
「おっちゃーん!」
息を切らしながら走ってくるのは、先刻自分の前から逃げるように走り去っていったミント。違うのはその表情、悲しみに涙していた顔にそのまま喜びを貼りつけてしまったような歪な顔。
それは、そう、それこそが……
「おっちゃん、見つけたよ……!おっちゃんを殺してくれる人……!」
お前の望んだ狂気だ。
走る速度を落としながら、ふらふらとミントはまたシンの側へと寄っていく。そして、彼の逞しい腕を小さな手で強く掴み、笑いながら、いや、これは泣いているのだろうか、感情がどうなってしまっているのか分からなくなっている。狂ってしまったというのが一番当て嵌まる。そんな様子でシンに語り掛けてきた。
「おっちゃん、死にたい?」
「ミント……大丈夫か?」
「ねぇおっちゃん、死にたいの?本当に?」
「……ああ、死にたいぜ」
問われるまま、同じ答えをシンはミントに告げる。するとミントは大声で泣きだしてぼろぼろと涙を零す、そしてその泣き声は徐々におぞましく響く魔女の笑い声に変わった。
「ア~~~~ッ……ハハ、ハハハ……!おっちゃんがそう思うなら、ボク、ボク手伝ってあげるよ……あ、あああ、大丈夫!本当に、神様でも殺せる人、見つけたんだァ。……でも、今なら間に合うよ、まだ生きてられるよ、おっちゃん、本当に死んでいいの?ねぇ。考えて……考えて考えて考えて!死にたくないって思わない?思わないのかなぁ、ずっと美味しいもの一緒に食べようよ、ボクは、ボクはいつか死んじゃうけど……あああ、あああああ嫌だ嫌だいやだイヤダ死にたくない、死にたくないよォ……!いいじゃん、ずっと生きられるなら、そっちのほうが絶対いいよ、そうだよ、ね、ね、ねぇ!違うの……そう、じゃあもう、おっちゃん、殺してあげるよ、ほら、みて、月の向こうから、天使がくるよ……」
支離滅裂に暴れた後、虚ろな目をしたミントがぐーっと首をあげて月を仰ぐ。なにがあったのかわからない、けれど、可愛らしさを大切にしていた彼からは信じられない完全にイカれてしまったその姿。痛ましいその視線の先を追うと、不格好な月を背に大きな翼を広げている何かが見えた。まさか、本当に天の神が使いを寄こしたのか。それとも、あれは魔女が見せる幻なのか。
「いいですよミントさん。そのまま彼を押さえていてください」
ミントが走ってきた森の方から、落ち着いた男の声が聞こえてシンは視線を変える。木の陰から現れたのは白衣の医者。けれど、明らかに正常な医者ではないとすぐにわかった。噎せ返るほどの、染みついた血の匂いがする。どれほど水で洗い流していようとも決して拭えない殺戮の匂い。まさか。
「お前がレイを襲った犯人か?」
「おや、海神様は吸血鬼と親交をお持ちだったのですか?それはお悔やみ申し上げます……最も、貴方は悲しんでいないそうですから言うだけ無駄なんでしょうけど?」
神を目の前にしてケラケラと嘲笑を浮かべる男、レイを殺したのはこいつで間違いないだろうが、この人間はこの世界に生きる命だ、自分を殺せるわけがないとシンは思う。気になることは他にもあった。狂気に取りつかれたミントの姿。彼の気持ちに理解を示さず突き放したのは自分だが、仲間を見捨てたことを悔やみながらもどうにか笑って生きてきた魔女が自分に拒絶されたくらいで狂ってしまうものだろうか。さらにそれだけじゃない、今自分を掴んでいる小さな手の信じられない力の強さ。非力ではなかった、けれど、本当に自分が身動きを取れないほどに押さえつけられる力は無かったはずだ。
「おっちゃん、アハ……もうすぐだよ、……」
「お前、ミントに何をした?」
押さえつけてくるミントの力に抗いながらシンは目の前で笑う男に鋭い声色で問いかける。すると男は眼鏡の奥の紫水晶を三日月型にして何もしてませんよと可笑しそうに笑った。
「どうしてそんな怒った顔をするんですか?彼女がどうなろうと、貴方には関係ないことでしょう、ああ!もしかして、それは神としての慈愛というやつですか?さすが海神様、海の様に広く深い心の持ち主なんですねぇ」
「あんまり舐めた口きくと生ガツオでぶっ刺すぞ」
「なんですかそれ、まったく面白くありません」
シンの脅し文句に一瞬にして笑みを捨てた男は白衣の裏からメスを取り出し濡れた土を革靴で踏み鳴らしながら二人に近づいて行く。荒い息を吐いてシンの腕を掴み続けているミントの頭を空いている方の手で撫でながら、銀色に光るメスの切っ先を神の心臓に向けた。そしてまたゆっくりと唇が弧を描く。釣られるようにミントも乾いた笑い声をあげた。
「ねぇ、マコト、おっちゃんを殺してくれるんでしょ?」
「ミント、おい、離せ……ッ」
「ええもちろん、人間も魔女も吸血鬼も神様も、胸を開いて心臓取り出したら死にますよ。」
「ほら!よかったねおっちゃん、よかった、ね、っう、うう……」
うわごとの様にミントはよかったねよかったねと涙を流して繰り返す。もうシンの言葉は一つも聞こえていない。ミントの頭を撫でるマコトと呼ばれた医者をもう一度睨むと下卑た笑みを浮かべて「ああ、可哀そうなミントさん」と言った。
「君が涙を流してまで彼の願いを叶えようとしているのに、この神様ときたらずっと一定のリズムで心臓を鳴らしていますよ、怒った振りの下手な芝居までして。ねぇ、本当にいいんですか……?」
「うん、うん、いいよ……!おっちゃんが死ねるなら、殺してくれるなら、ボクの心臓もマコトにあげる……」
ああ、魔女は悪魔と契約を交わしたのか。この身にメスを突き付けにたりと笑うこの医者は白衣の天使でもなんでもない、言葉巧みに誘惑して殺戮を楽しむだけの人間の皮を被った悪魔。
「ああ、なんて健気なんでしょう……魔女という種族はみんなこうなんですかね……この僕でさえ、その純粋な健気さには涙を流さずにはいられません……。ではミントさん、もう少しそのままで、君の神様を押さえていてくださいね」
言葉はミントにかけているが、マコトはずっと試すような目でシンを見ている。八の字に寄せられた眉が彼の享楽を伝えていた。
ギリギリと爪が食い込むほど強く握られた腕。未だ逃れられない純粋な腕力。食べ物を美味しくする魔女、つまり、何かを成長させる魔法を得意とするミントの魔力が暴走して彼の力を限界まで成長させている。
状況を理解したシンは、二つ、小さくため息をついた。ミントが悪魔に唆され、残念ながら本当に狂ってしまったこと。そして、淡くも期待した己の死。それがただの悪魔のような人間の虚言であったこと。まったく、暇つぶしにもならないくだらなさだ。
「それでは始めましょうか、前代未聞の、神の解体ショーを」
高らかに声をあげたマコトがメスを大きく振りかざす。その刃がおろされるより早く、シンは荒波を操りまた矛の形をとらせ、マコトめがけて突き刺した。しかし、その矛が貫いたのは、今の今まで自分の腕を押さえつけていたはずのミントだった。かぼちゃを模したオレンジ色の可愛らしい服が彼の鮮血で真っ赤に染まっていく。ガハッ……と咳をしてさらに血を吐き出し崩れ落ちるミントの後ろで、無傷のマコトが貼り付けた笑みを浮かべてシンを見つめていた。
「お前……!」
「白々しい芝居には飽き飽きです、神よ。彼女は自ら僕を守ってくれたんですよ。いいえ、守ったのは貴方の願いでしょうか?」
銀色の刃を指で撫でながらマコトは言う。白衣の裏にメスをしまうと、ミントの腹を貫いた矛を握り、どくどくと溢れる血に恍惚の笑みを浮かべながらゆっくりと矛を引き抜いた。
「あ、っグ、ぁあ……ッァア!」
痛みに叫ぶ悲痛な声が響く。マコトは血に濡れたミントの体を軽々と持ち上げてシンの方へ放り投げた。受け止めた小さな魔女は、ひゅーひゅーと息をして虚ろな瞳でシンを見つめ笑った。
「おっちゃん……ダメじゃん……折角殺してくれる人、自分で、殺したらさ……ほら、死のう……?ボク、も、一緒に死ぬから‥‥」
「この馬鹿……言っただろ、俺は死ねないって」
「大丈夫、ほら……見てよ、月の向こう、天使がくるから……」
「あれは悪魔だ。天使なんか、この世界にはいない」
「そう。だから貴方は殺されるんですよ」
マコトがそう言った瞬間のことだった。夜空に輝く満ちきらない月から一筋の光が放たれ、それが光の矢としてシンの胸を貫いたのは。感じたことのない《痛み》がシンの全身を駆け巡る。身体が海へと還らない。人の形をとったまま、初めて感じる痛みに動けないでいた。腕に抱えたミントが血塗れの顔で幸せそうに笑っている。一体何が起こっている……?
「どんな《世界》でも、神というのは傲慢だな」
空から降りてきた、美しくも冷たい響き。ゆっくりと顔をあげると目の前にいたのは、天使だった。いや、天使と呼ぶにはあまりにもおぞましい。これが、天の神の使いであるわけがない。
「お見事ですキョウさん。素晴らしい一閃でした」
「マコト、その矛についた血を綺麗にしておけ」
「おや、僕には感謝の言葉のひとつもないんですか?」
「礼は心臓だけだ。そういう契約だろう」
「契約通りなら、貴方に命令される理由もないんですけどね」
文句をいいながらマコトは離れた場所で海神の矛を拭きはじめる。キョウと呼ばれた男はまだ死に絶えていないシンを見て眉をしかめた。
「まだ死んでいない……腐ってもこの世界の神というわけか」
「貴方の力の半分はこの世界のものですからね。でも、致命傷は与えていると思いますよ?」
「なるほど……それはいい」
白と黒が混ざった不気味な六枚羽を揺らし、キョウは手をかざして光を集める。凝縮された光はまた矢となりシンの身体を貫いた。身を打ち貫く光の雨。凄まじい痛みにシンは呻き声をあげる。抱えていたミントを地面に降ろし、力を振り絞って立ち上がった。もしかしたら、このまま死ぬのかもしれない。望み続けていた、永遠に来ない命の終わりが来るかもしれない。だが、なにもわからないまま死ぬ訳にはいかない。自分の世界が滅ぶ理由を、自分が知らない訳にはいかないのだ。
「お前は……なんだ?」
「神と交わす言葉はない。望むままに、死ね」
口を閉ざした無慈悲な天使は、また光を集め最後の矢を放つ。ああ、これが終わりかとシンは目を閉じた。
「なんだと……?」
「あああああああ!」
「ッ!?グァア……ッ!」
キョウの言葉に目を開けると、彼が放った光からシンをかばうように抱きしめるミントがいた。シンもマコトも、キョウでさえミントの行動は予測できなかった。しかし光の矢は魔女もろとも神を貫き二人を大きく吹き飛ばした。
「ガハッ……ぅ、あ、ああ……」
「……なに、してんだ……っ」
ずるずると無様に地面を這って神はミントの側へ寄る。シンを死なせるために傷を負い、今度はシンをかばって傷を負ったミントの行動は不思議なものでしかなく、シンは理由を問いただした。わからない、どうしてそんなことをする。死ぬとわかっていて、死にたくないと言って、何故。
「あ……はは……、おっちゃん……ボク、やっぱり正常だったみたい……」
「ミント……」
「いくらそれが、叶えたい願いでも……大好きな人に、死んでほしくないよ……、生きていて欲しいよ……生きてて、欲しかった……」
悪魔の誘惑に乗せられて、神を殺すために言うことを聞いた。また、狂気という仮面を被った。けれどそれも同じだ。自分の心を誤魔化しただけ。わからないことはわからないままでいい、理解できなくても、拒絶されても、ボクはボクの心に正直に生きた。
「シェリー、ユキホ、マイリー……みんなもそうだったんだよね……」
「……マイリー……?」
蚊の鳴くような声で話すミントの口から覚えのある名前の響きを聞いてマコトが二人に近づいていく。キョウは何も言わずに目に映る景色を見ていた。海はさらに荒れ、風が強くなっていく。
「おっちゃん、やっぱり死にたい……?」
「……ッ、俺は……」
自分を貫いた光は、予測通りこの世界のものではない天の力だった。不完全ではあったが、ここまで大量の傷を負ってはもう回復するのは難しいだろうとシンはわかっていた。自分の命の終わり、その証拠に、世界が徐々に崩壊を始めている。あれほど望んだ死が訪れた、それなのに、心は喜びを感じない。そして何故か、涙というものが零れている。この身体は海だとしても、今までこんなもの流したことはなかった。ミントの小さな手が頬に触れた。
「死にたくて、いいよ……おっちゃん、ずっとひとりでさみしかったんだよね、……ボクは、おっちゃんがいてくれたから、ひとりぼっちじゃなくなったよ……だから、いいよ……死んで、いいよ……」
「ダメだ、死ねない、お前の生きる世界がなくなる」
「ボクはもう、ダメだよ……すっごく痛いもん……死ぬんだね……」
「ミント、死ぬな、最期まで死にたくないって言え」
自分の死も、ミントの死も、もう覆ることのない運命だ。わかっているのに、何故抗ってしまうのか。何故涙が止まらないのか。
「おっちゃん、なんで泣いてるの、かなしいの……?」
「……かなしい……」
「えへ、へ……そっか……嬉しい」
頬に触れたミントの小さな手を包むと、海の底よりも冷たかった。初めて流した涙が血で汚れた彼の顔に落ちる。かすれた声で、もう光が消えかかっている瞳で、ミントはそれでも笑った。
「ボク……おなか、すいてきちゃった、」
「ああ、一緒に食べようぜ、たくさん用意してやるから……」
「うん……みんなにも、食べさせてあげたい、から……天国で待ってるね……きっと、レイレイも、いるよ……」
「ミント……」
「ばいばいおっちゃん、……優しいかみさま、ありがとう……」
冷たい手が頬を滑り落ちて魔女の死を告げる。笑顔のまま逝ったミントの瞼を優しく閉じて、シンは己の身を包む白い衣を使い赤で汚れた彼の肌を拭いた。痛む身体を奮い立たせ、シンはミントを抱えて歩き出そうと立ち上がる。死は免れなくとも、世界が滅ぶとしても、最期に命の尊さを教えてくれた魔女を弔いたかった。そして自分を殺した者に殺された友のことも、すでに命がないとしても、せめて一目会いたいと思った。不思議なものだとシンは思う。死ぬとわかったら、たくさんの望みが出来た。暇つぶしをしている暇などないほどに。そうか、だからミントもレイも、怒ったり泣いたり笑ったりしていたんだ。
「しぶといな、命などないくせに」
のろのろと歩いている神の背に向けてキョウはもう一度光を放つ。身を裂く痛み、だが足を止めるわけにはいかない。まだ大丈夫だと崩れ落ちそうな膝を震わせて魔女を抱えたまま神は歩く。しかしキョウの攻撃は止まない。何度も何度も、シンが倒れるまで無数の矢を放った。眉一つ動かさず、心のない機械のように。いや、キョウを動かしているのは地の底で燃えるような憎しみだ。神が殺せるかどうかをしっかりと確かめているのだろう。その姿、悪魔などというものに収まる非道ではない。彼は魔王だ。己の目的の為に、一切の慈悲なく悲劇を産み落とす悪の化身。純白の美しい光の天使はもうどこにもいない。おぞましい斑模様の翼を広げ、神を殺す姿を見ながら、マコトは少しだけ震える腕を抑えた。
キョウの追撃についに膝をつきシンは倒れた。風が強く吹いている。海が荒れて、大地が揺れる。神の死、つまり、世界の破滅。
「……なぁ、……お前の望みは、なんだ……?」
小さな声で、シンはキョウに問う。彼の正体が、信じられなくとも天の使いであるのなら、これは天の神が望んだことなのだろうか。だが彼はこの世界の人間を連れている。もし世界を滅ぼすことが目的ならば、この地に住む人間を味方になどしないはずだ。ゆっくりと倒れたシンの側に寄ってきたキョウは、何も映していない虚無の瞳に少し高揚の色を携え、到底天使とは呼べない不気味な醜い姿で、それでも美しく笑った。
「お前が力を分け与えていた吸血鬼にも、同じことを聞かれた。」
「……レイ……」
「いい気分だから答えてやろう。オレの望みは、神を殺すことだ」
吸血鬼に伝えた時と同じようにキョウは言う。シンは何も言わず歌うように語りだしたキョウの言葉を聞いていた。
「吸血鬼の魔力を奪い、本来の天の力を取り戻したが、神を殺すにはまだ足りず、他にも強い魔物や魔力を持つ人間の力を奪った。同時に神を殺す方法を探した。……お前はいい実験台だった。異なる世界の力なら神は死ぬと確信出来たことには礼を言う。それを教えてくれたその魔女にも」
「世界ひとつが実験台か……はは……」
理由を聞いてシンは笑う。そして情けなくなった、こんな神が治める世界に生きてくれていた全ての命に謝りたいと思った。
「お前は、神は傲慢だと言ってたな……今ならわかるぜ、確かにその通りだ……けどよ、お前の世界の神を殺したら、お前も……」
「そんなことは、どうでもいい」
斑の羽を揺らす無慈悲な天使は、このまま自分の世界も滅ぼすのだろう。けれど、神は知っている。命が尽きようとも、世界が滅んだとしても、《魂》に終わりはないのだと。
「お前はきっと、地獄に落ちるぜ……」
「……くだらない」
人と魔物が生きる世界。永い時間その世界を見守ってきた神は、永遠に来ないはずだった命の終わりを迎えた。月の光がシンを照らす。どうせなら満月が良かったなぁと、不格好な月を最期に映して、神は光となって消えた。
***
少女の声が聞こえる。正確には少女ではないその声、明るい声に導かれるまま歩いた。光以外、何も見えない。
永遠に来ない命の終わり。決して手に入らないはずの、望んだものを手に入れた。それだけで充分だったのに。
「来た来た!おっちゃーん!」
「遅いぞ、シン!」
胸に広がるこの暖かさはなんだろう。海の中で世界を見ていた時も、海の外に出た時も、こんな暖かさはなかった。心地よいこの温度を知らなかった俺は、世界を見守っているつもりで、きっと誰のことも大事にしていなかったのだろう。
「もうお腹ペコペコ!とりあえずなんか食べてから行こうよ!」
「賛成!シンもそれでいいよな?」
目を開けると、守れなった笑顔がそこに在った。果てしなく広がる光の園、見送ってきた数多の命たち。
そうか、俺もここに辿り着いたのか。
「おっちゃん?また泣いてるの?」
「なんだよ!?そんなに腹減ってんのか!?」
「じゃあはやく食べなきゃ!何でもあるよ~〜!美味しそう~〜!」
小さな手が優しく腕を掴む。青空の瞳を手に入れた友が晴れやかに笑う。
「……ああ、一緒に食おうぜ!」
もし、この先にもう一度命があるのなら、今度こそ、お前たちの為に生きよう。誰かの願いの為に、この身をすべて捧げよう。
永遠を生きなかった海神の物語。
世界が滅んでも、物語は確かに在る。
第四楽章・幕
===
すべての魂は巡る
生まれ変わる時を待つ
神もそれは例外ではない
命は全てここに辿り着く
天の神が治める処、魂の還る場所
――そして、光溢れるこの地に
もうすぐ闇を纏った光が訪れる
誰がその結末を見守るのか
地獄の底から這いあがるのは
神を殺した者を裁くのは
漆黒の翼が空を覆った
幻想組曲 第五楽章
オレは、オレの歌をうたい続けた。
「ようルシフェル!今日もいい歌聞かせてくれよ!」
「こんにちはルシフェルさん、体調はいかがですか?」
「ルシフェル~、閉じこもってないでちょっと出掛けねぇか?」
知っている。これは夢だ。懐かしい声がオレの名を呼ぶ。
閉ざされた楽園、箱庭の中で歌をうたっていた。それだけが生きる意味。光の天使として、歌をうたって世界を照らす。満たされていた、幸せだった、オレの気持ちはすべて歌が伝えてくれた。
「キミは光だ。純白の髪も、美しい六枚の翼も、響き渡る歌声も。この世界を照らす眩い光。だから忘れないで、キミが光である限り、どこにいても私たちはキミのことを愛しているから」
ああ、夢が覚める。真白な時の中で、本当はまだ寝させていてほしい。けれど、この身に渦巻く憎悪が微睡の幻想から揺り起こす。失ったものは戻らない、死んだ者は蘇らない、壊れた魂は巡らない。ならば、残った者を殺そう。オレはオレの歌をうたい続ける。全てを奪った、あの神を呪う歌を。
***
シンの姿が消滅した途端、今まで吹いていた強い風がピタリと止んだ……かと思うと、ゴゴゴゴと地面がうなりをあげて大地が揺れる。神の死により、世界の終わりが始まったのである。
「アッハハハハハハハ!すごい景色ですねキョウさん!やはり貴方は悪魔だ……いえ、魔王ルシファーとでもお呼びしましょうか!世界の崩壊……生きているうちにこんな景色が見られるなんて思いもしませんでしたよ」
海神の残した三叉の矛を持って、マコトは荒れ狂う世界を笑った。自分の世界が消えるというのに呑気なものだなとキョウは笑い続けるマコトを見たが狂人とはこういうものかとも思った。
「マコト、それをオレに」
キョウは手を伸ばし血が綺麗に拭きとられた矛を渡せという。そう、この矛こそがキョウがこの世界で手に入れたかったもう一つのもの。異なる世界の神の力が宿ったこの矛で、キョウは己の神を殺すのだ。しかし……マコトはそれを渡すことはなく、代わりに自分の手を伸ばしてこう言った。
「キョウさん、先に貴方の心臓をいただいても構いませんか?」
「なんだと?」
「神を殺す手伝いをしたら天使の心臓をいただく。そういう契約でしたよね?」
「まだ殺していない」
「ハァ?さっき貴方が馬鹿みたいに矢を放って消滅させたのは間違いなく《神》でしょう?この光景がそれを証明しています……まさか、貴方の殺したい神じゃないとか、そんな屁理屈言いませんよね?」
「……屁理屈はどちらだ?」
キョウは冷静に言い返す、しかしマコトはもうキョウに殺気しか向けていない。懐から取り出したメスと手にしていた海神の矛を使い彼は天使に……いや、自ら魔王と呼んだ存在に襲い掛かった。
この天使の心臓を奪えば目的の数に届く。今死んだ魔女の心臓もついでに貰っていこう。彼のことを知っていた魔女ならいい力を発揮してくれるかもしれない。口角をあげて、夢にまで見た魔女が蘇る時をマコトは想う。
「ほら、大人しくしてください、よ!」
「……これから滅ぶ世界に蘇らせて意味はあるのか?」
「蘇らせることに意味があるんです。世界なんか滅んでいただいて構いませんよ」
大きく腕を振り上げてマコトはキョウの羽を狙う。自由に飛び回る天使の動きを封じてしまおう。空を飛ぶなら箒でいい。醜い羽を切り落としその心臓を手に入れる。声をあげてマコトは何度も腕を振り下ろした。
斬撃を避けながらキョウはこの狂った人間のことを想う。魔女に魅入られた悲しき殺戮者。契約を屁理屈で破られ力を手に入れた今となってはもう生かしておく理由もないが、彼がいなければ目的を果たすのにもっと時間がかかっていたのも事実。少しだけ残った天使としての慈悲を与えてやろうとキョウは翼を広げた。高く空へ舞い上がり歌をうたう。吹きすさぶ風の音、荒れる波の音、揺れる大地の音よりも大きくキョウの歌声が響き渡る。ただの人間であるマコトに天の力を使う必要はない、ただただ大きいだけの音で圧迫する。鼓膜が破れそうな天使の叫びに思わずマコトが耳を塞いだその隙、急降下したキョウはマコトの懐から魔女の心臓を奪った。彼の狂気の源、歌い続ける魔女の心臓。
「ッ……返しなさい!」
「マコト、お前の狂気は実に役に立った。その功労を称え真実を教えよう」
特殊な容器を開けキョウは魔女の心臓を取り出す。掌に乗せると死した者の冷たさが広がった。大事なモノを奪われたマコトは激昂して叫んだ。
「貴方に教えてもらう真実などありません!返しなさい……!」
「魔女は蘇らない、蘇りの魔法などこの魔女は使っていない。だが、折角だ。最期に一目会わせてやろう」
「ふざけたことを……!魔女は蘇ります、さあ、それを返してください、そして貴方も死になさい……!」
宙に浮くキョウに向かってマコトはメスを投げつける。その全てを叩き落して天使はまた違う歌をうたった。魂の管理を担う天界の力、魔女の心臓と共にあるその魂に生前の姿を呼び戻すことは容易い。キョウの歌声に導かれるように、その心臓を核として魔女は現れた。大きなとんがり帽子に装飾を施された服。丸い紅の瞳と玉の肌はなるほど、確かに男とは思えない可愛らしさだとキョウは思った。
けれど、マコトにはまだ見えていない。ただの人間が魂を目で確認することは不可能だからだ。今の彼には、ただ取り出された心臓が宙に浮いているように見えるだけだろう。風が強くてよく聞こえないがキョウに向かってずっと何かを叫んでいる。魔女は黙ったままマコトを見つめている。天使が魔女に声をかけると、魔女はゆっくりと口を開いた。それは、ずっと聞こえていた歌声と同じ声だった。男とも女ともつかない、不思議な声。
「名前は……マイリー、だったな」
『…貴方は、魔王様?』
「……、君の魂に刻まれた罪の清算をさせてあげよう。どうするかは、自分で決めるといい」
キョウは自分の翼から一枚羽根を抜く。ふぅと息を吹きかけるとそれは木で作られた箒に変わった。マイリーにそれを手渡すと『ありがとう、優しい天使様』と言って箒に跨る。風が吹き荒れる中、すぅと大きく息を吸って魔女は歌をうたった。楽しいと感じるメロディだった、こんな世界の終わりにはまったく似つかわしくない、明るくて楽しい歌。
「なんですかこれは……、一体……一体何をした……!ルシフェル!」
宙に浮く大切な魔女の心臓、突然現れた箒、そして、微かに聞こえる懐かしい歌。それは確かに魔女の歌声、だが、マコトにはそう聞こえない。自分が蘇らせるまで、魔女は生き返らない。耳を塞いでマコトは叫んだ。
「ああ、やめろ、歌うな……!忘れてしまう、やめろ……!」
『ごめんねマコトさん……貴方の魂は、僕がちゃんと連れていくから。世界が終わる日まで、僕を信じてくれてありがとう。』
箒に跨った魔女が自由に空を飛ぶ。天使が叩き落としたメスを一つ拾い上げ、そのままマコトの心臓めがけて突進した。
「ぐっ、ガッ……ぁ……!」
ぐちゃり、肉の抉れる音がする。医者の彼が自分を切り裂いた時のように上手くは出来ない、ただ、命を奪う為に深く刺した。
「ぁ、…あ……アぁ……まだ…っ…死にません……!」
まったく人ならざる力というのは厄介だと思いながら意識を失いそうになる。だが、宙に浮いて無表情でこちらを見下ろすあの魔王の心臓を手に入れて魔女を蘇らせるまで、死ぬ訳にはいかない。患者を残して先に死ぬ医者がどこに存在するのだ。普通の人間ならとっくに死んでいる程の痛みに耐えながら、自分を突き刺したメスを引き抜こうとマコトは手を伸ばした。しかし彼が触れたのは冷たい銀色ではなかった。ずれた眼鏡の奥、紫水晶の瞳が映したのは、紛れもなくあの日自分が殺した魔女だった。
「あ……ああ、どう、して……マイリーさん……?」
驚きを隠せないマコトが手を伸ばして箒に乗ったマイリーへ触れる。この身体のすべてを切り裂いた、すべての内臓を取り出して殺した、忘れられない、美しいカラダ。
「マコトさん、やっと、僕のこと見えるようになったんですね」
「君は……死んだじゃないですか……僕が、殺して…っ」
「死んでない、ずっと側にいたよ。守ってくれてありがとう」
「は、はは……そう、ですか、死なない魔法、使えたんですね、嘘吐き……」
「うん、僕は嘘つきだ。それを謝りたかった」
「……いいですよ、許し、ます……」
失った時間を取り戻したように二人は話した。変わらず笑いかけてくれるマコトを見てマイリーは自分を呪う。世界を滅ぼした悪魔のまま、彼の魂を連れていくわけにはいかない。肩に触れるマコトの手を包んで思い切り笑った。この偽りの心を、その肌で感じて欲しい。それでも、この想いは真実だから。
「お詫びに箒に乗せてあげます!今度はもっと、遠くまで行こう」
「おとさないでくださいよ……」
「はい。……一緒に歌ってくれますか?」
マイリーの言葉に、ええ、と頷いたマコトはゆっくりと瞼を閉じて息を引き取った。狂気の仮面が剥がれた彼の素顔はとても安らかで、マイリーはもう一度感謝と謝罪の言葉を落とし涙した。
「罪の清算ではなく、罪を重ねたのか」
「……救われるべきは、僕じゃないから」
空から降りてきたキョウはマコトの手から落ちた三叉の矛を拾う。ズシリと重い、神の力が宿ったそれを握りしめ月を見上げた。揺れる空、吹きすさぶ風、荒れる海、唸る大地。崩壊していく世界に今度こそもう用は無い。魔女ももうすぐ力が切れて消えるだろう。さあ、行こう。ようやく目的を果たす時が来た。
「……本当に、神様を殺すの?」
「ああ」
「僕も嘘つきだけど、……キョウさんも嘘つきだね」
「オレが……?」
「わかるよ……キョウさんは、本当は優しい天使様だって」
斑の翼を揺らして、キョウは虚無の瞳をマイリーに向ける。この姿この非道のどこを見て、魔女は自分を優しい天使などと呼ぶのだろう。何も言わずに背を向けた。
「今度は、貴方とも歌いたいな。どこかで会えたら」
「……会えたら、な」
意味のない、叶うこともない約束に一言そう返して、キョウは今度こそ、堕ちてきた天に向かって翼を広げた。あの満ち切らない月の隙間、もっと高く、もっと高く、その先に天使の生まれた世界がある。天の神が治める処、全ての魂が還る場所。
崩れ行く世界を振り向きもせず、キョウは遥か天の高みを目指した。虚無の瞳に、燃え上がる憎悪を宿して。
***
どこまでも続く光の園。飲み込まれそうな白い空。花も星もこの世界では全てが白く、光り輝いている。もちろん、天使たちも。キョウは誰よりも美しい天使だった。
彼の真実の名はルシフェル、すべての世界を照らす光の天使。神の寵愛を一身に受け、巡りゆく魂を導く歌をうたっていた。しかし、いまの彼にその面影はない。異世界の魔物の力を取り込み、髪にも羽根にも闇が混じった不気味な斑模様が広がっている。
手にした海神の三叉の矛を強く握りしめ、息をひそめて神の座へと続く階段を上る。ようやくこの日が来た、握りしめた手に汗が滲む。大いなる天の最上にて魂の行く先を見るあの傲慢な神を、必ず殺してみせる。その先に世界の崩壊があろうとも、全ての魂が行き場を失くし彷徨うことになろうとも構わない。最後の階段を上り切り、神の座に足を踏み入れた。
光あふれる真白の空間、天界の全てを見渡せる最上の場所で、神は魂を見守っている。どの天使よりも一番近くで神に仕えていた頃でさえ、神自身の顔を見たことはなかった。頭から爪先まで聖なる衣でその素顔を隠して、真白な空間に溶けていきそうな存在。それでいて、光の天使よりも強い光を放つ存在。誰もかれもが神のことを愛していた。自分も、神を愛し、神を信じ、神の為に働き、歌をうたい続けていた。それなのに……
瞳に捉えた神の後ろ姿にキョウの殺気が沸き立つ。六枚の翼が膨れ上がり黒と白の羽根を散らした。キョウの存在に気付いた神は、殺気を受けながらも振り返ることはなく、懐かしみを込めた優しい声色でこう言った。
「おかえり、ルシフェル」
「…………」
「君が世界をひとつ滅ぼしてくれたおかげで、魂がパンクして困っていた。さあ、共に歌おう。光の天使の歌で魂を導いてくれ」
神の言葉にキョウは……ルシフェルは答えない。一歩、一歩、その胸を一突きする為に歩みを進める。どんな言葉をかけられようとルシフェルの意志は変わらない。殺す、ただこの神を殺す。誰も理由を知らなくていい、神が死んだとき、世界は終わる。だから、この憎悪に物語は必要ない。誰も読むことのない物語など、最初から幻想なのだ。深く息を吸った。さあ、終わりを奏でよう。
腕を伸ばし、ルシフェルは神の胸に切っ先を向ける。いまだ振り返らない天の神、抵抗されないことに疑問を抱くが、楽に殺されてくれるなら万々歳だ。醜い斑の羽を揺らして、ルシフェルは目を見開き口角を吊り上げニヤリと笑った。矛を放とうとしたその時、神はもう一度口を開いた。
「君がオレを殺したい理由はわかる。だからひとつだけ教えてくれないか」
その愉快そうな口ぶりに、ルシフェルは眉間にしわを寄せた。これから殺されるというのに何がそんなに面白いのだろうかと。殺気を緩めずに続きを促すと、ようやく、神はルシフェルに向き合った。聖なる衣に隠された顔は、美しく弧を描き笑っていた。
「何故オレの名を騙った、ルシフェル。君の愛する仲間を殺した憎いこの神の名を。君は神になりたかったのか?」
聞きなれた声で神は言う。ルシフェルは声をあげて笑った。真白な空間に響く、魂を導いていた美しい天使の声とは到底思えないおぞましさだった。しかし、これが笑わずにいられるだろうかとルシフェルは思う。己の罪を口にして、的外れな事を言う愚かな神が愉快で仕方がない。
「それは……この憎悪を忘れないためだ!」
答えを言いながら、ルシフェルは天の神の胸に矛を突き刺す。貫いた神の身体は宙に浮き聖なる衣が赤く染まる。そして、乱れた衣の中から現れた神の素顔。天界には訪れない夜の色をした髪、天界には存在しない麗しい草原の色の瞳、それ以外は、全て自分と同じ。ルシフェルと同じ顔をした彼の名こそ、全ての魂を導く管理者、大いなる天の神・キョウである。
倒れたキョウの胸をもう一突き深く抉る。堕ちた世界で手に入れた海神の矛は存分に力を発揮し神を死に至らしめる一撃を与えた。苦しそうに呻くキョウを見下ろし、ルシフェルは恍惚の笑みを浮かべる。ああ、ついにオレは成し遂げた。これでやっと、復讐は終わり壊された仲間の魂も報われる。地獄の底から湧き上がるような声でルシフェルはふつふつと笑っていた。
誰よりも美しかった光の天使はもうどこにもいない。憎悪の炎を燃え上がらせる、同じ顔、同じ声をもった目の前の子を見つめながら、天の神は今にも消えそうな命の炎を燃やして呟いた。
「……ルシフェル…我が魂の半身……誰よりも愛された子……」
「……なに……?」
「自由に飛べる君が……少しだけ……羨ましかっただけなんだ……自分自身である君を傷つけたことを、最期に謝罪しよう……」
すまない、と言ったキョウは慈しみを込めた歌をうたう。弱弱しい声で、幼子をあやすように、幼子のように、涙を流しながら命の炎が消えるまで歌い続ける。しかし、ルシフェルがその歌を受け取ることはない。謝罪で済むなら、己の姿はこんなに醜くなっていないのだ。純白の翼と髪に広がる闇の黒点。けれど光の天使である限り、闇に覆われ尽くされることもない。ただただ中途半端な醜い姿。天使でも悪魔でも魔王でもない、何者でもなくなったこの身の苦しみを癒すものなど存在しない。
「そんな歌で……オレの憎悪が消えると思うな……!」
引き抜いた矛で、もう一度神の心臓を貫いた。今度こそ消えた神の命。目を閉じた夜空髪の自分を見つめ、ルシフェルは天界に響き渡る声で笑った。先ほどよりも大きく、おぞましく、それでいて何よりも美しい声。歓喜の歌をうたおう、いま目的は達成された。醜いこの姿でも、喜びに打ち震えることは出来るはずだ。笑え、笑え、笑え。世界の滅亡はもうすぐだ。
しかし、ルシフェルの胸に渦巻く憎悪の炎が消え去って残ったものは、やはり虚無であった。失ったものは戻らない、死んだ者は蘇らない、壊れた魂は巡らない。神を殺しても、幸せだったあの日々は帰らない。わかっていたのに、どこかで希望を持っていた自分がいた。けれど、もういいんだ。あとは崩れ行く世界に呑まれ己も死に絶えるだけ。キョウの身体から矛を引き抜き捨てる。膝をついて自分と同じ顔を撫でた。その頬に、温かい雫が落ちてルシフェルは驚く。この虚無はなんだろう。後悔も懺悔もないのに、何故自分は泣いているのだろう。ルシフェルに自身を殺させるまでの憎しみを抱かせた神の行為、その理由をルシフェルは知らなかった。
ルシフェルは、天の神が己の魂を分けて産まれた天使である。光も闇も何もなかった世界で、初めて神が創り出した光。世界を照らし魂を導くために生まれてからずっと箱庭の中で歌をうたっていた。他の天使に会うことも許されず、箱庭の中に閉じ込められていた。けれど、いつしか彼の歌を愛する者が現れた。共に音楽を奏で、笑い合い、助け合い、励まし合い、心を交わし合う仲間に出逢ってしまった。ルシフェルが孤独を癒したとき、キョウは本当の孤独になった。天の神はそれが許せなかった。ひどい裏切りだと思った。だから、ルシフェルの歌を愛した天使たちを殺し、魂さえも壊してしまった。
しかし、殺された天使たちは誰もキョウを恨まなかった。それが神の望みならと皆が魂を差し出した。キョウは、愛されていたことを知る。天の神は己の行為を悔やみ、その大いなる力をもって壊した魂を修復する時を過ごしていた。そして、ルシフェルが天界に戻ってくる前にそれを終わらせていた。真実をルシフェルに告げたとしても、己の罪が消えるわけではない。自分自身に殺されるなら本望だと、キョウは抵抗することもなくルシフェルに殺されたのだ。たとえこの世界が滅んでも、魂はどこかで必ず巡り、生まれ変わると知っているから。けれど、キョウの魂はルシフェルの魂である。もう一度ひとつにならねば生まれ変わることは出来ない。そして、生まれ変わるためには魂の罪を清算しなければならない。自分自身だとしても、神殺しは大罪であるからだ。世界が滅び、ルシフェルが死ぬ前に、彼の罪を裁く者が必要だった。必ず断罪を遂行出来る者。
「あなたに、お願いしてもいいだろうか」
天の神の声を聞き、彼の魂は地獄の底より響く。
***
頬を伝う涙を垂れ流したまま、ルシフェルは崩壊していく天界を見ていた。何事かと騒ぐ魂を天使たちが収めているがその手は足りず、神の座に来るものはいない。光り輝く世界の真ん中で、神が死んだことに誰も気付いていない。これが虚しさの正体。世界は結局、神でさえ必要とはしていないのだ。果てしなく広がる白い世界、遠くの白い空が崩れて、堕ちた世界で初めて見た落陽のように燃え始める。ついに幕が下りるのだと虚無の瞳が揺れた。
「……なんということだ」
真白な時に舞い散る、漆黒の羽根。世界の滅びを待つルシフェルの前にその声の主は現れた。くすんだ金色の髪を揺らし、断罪の剣を携え、光を失くした紫色の瞳を持つ片翼の堕天使。彼の名は、ラファエル。かつてルシフェルの歌を愛し、共に音楽を奏で、キョウに殺された癒しの天使である。
「ラファエル……?」
神に殺され魂さえ壊されたはずの彼が、何故世界が滅ぶこの時に現れるのだろうか。ルシフェルは何も言えずに様変わりした彼の漆黒の翼を見つめていた。
「キョウ……我らが天の神よ、……キミの願いを叶えよう」
ラファエルはキョウの死体に跪きそう語り掛けると、ルシフェルに剣を向けた。迷いなく向けられた剣に、翼を揺らしてルシフェルは立ち上がる。何故、何故あなたに殺されねばならないのか。理由がまったくわからない。ゆっくりと後ろに下がり拳を握った。あなたに殺されるなら、自分は何のために天から堕ち、吸血鬼を殺し、力ある者たちを皆殺し、その世界の神を殺し、協力者の人間を殺し、醜い姿に成り果てようとも悪逆非道の罪を重ねたのか。震える唇を開いてルシフェルは堕天使に尋ねた。
「ラファエル……オレを殺すのか。」
「神殺しは大罪だ。キミはたった一人で二つの世界を滅ぼした。その罪は、裁かれなければならない。」
「どうして、…みんなが殺されたから、オレは……復讐を……!」
「それが神の望みだったのさ。みんな喜んで魂を差し出したんだ。キミが、復讐する理由なんてなかったんだよ」
ルシフェルの喉元に剣を突き付けラファエルは淡々とそう言った。世界の崩壊とは別に、足元がグラグラと崩れていく感覚がした。オレは、オレの歌をうたい続けた。殺された仲間を嘆く歌を、手を下した神を呪う歌を。
「ならば…、オレは……オレの気持ちは……オレの悲しみは、オレの憎しみはどうすればよかったんだ……!?」
「キミは光であればよかった。私たちが愛した歌をうたっていればよかったんだよ。私たちの神が……キョウが愛した、優しい光の天使。それがキミだ」
ラファエルが突き付けたのは、剣よりも痛くルシフェルを切り裂く真実だった。なんて、くだらない物語だろう。
いつだって、オレの気持ちは伝わらない。愛されたかった神のオレは最初から愛されていて、愛されていたと思っていた天使のオレが知っていたのは最初から幻想の愛だった。返らない日々の幻想に捕らわれた想いが、美しい光の天使を殺して、醜い殺戮の天使を生み出したなんて。そんなことがあるだろうか。
「キミはたくさんの命を殺した。しかし、その全てに慈悲があった。キミが殺した命は皆罪なき者となり楽園を通り抜け転生の時を待っている。その優しさは真実だろう。」
「……だから、どうなる」
「キミの罪は、私の言葉を忘れたことだ。キミが光である限り、どこにいても私たちはキミを愛していると言ったのに。キミは光を捨て闇を取り込んだ。そして愚かにも我らが神を憎んだ」
ラファエルは剣を突き付けながらルシフェルを追い詰めていく。黒く染まったその姿こそ神に反逆した者の証のはずなのに、彼の心は神に仕える信仰深き天使に他ならない。そして、堕天使は粛々と刑を執行する。手向けの歌をうたいながら。
「キミの魂を神が許すのなら、生まれ変わって地獄で会おう」
ラファエルの断罪の剣がルシフェルの身体を突き刺し、彼が行ったすべての罪を裁いた。聖なる衣の白も、魔の力に侵された黒も、全てが赤い血に染まる。ジワリと広がった赤はやがて黒くなり、光の天使の胸に大きな闇の花を咲かせた。
「オレは、オレの歌をうたい続けた、それすらも、幻想」
眠りに誘うように、溢れた血がルシフェルを包み込んでいく。永遠に目覚めなくていいと思った。誰にもこの想いは伝わらない、オレの憎しみも、オレの悲しみも、オレの喜びも、オレの愛も、全てオレの中で消えていけ。
幻想に踊らされた、優しい天使の物語。
悲しみの歌を乗せ、滅びゆく世界に舞う風は、失われた天の光。
第五楽章・幕
そして魂は生まれ変わり、幻想を越え産声を上げる――
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Cast
聖職者/天使 高良京
吸血鬼 レイ・セファート
医者 来栖真琴
海神 小金井進
嘘吐きの魔女 マイリー
成長の魔女 ミント
吸血鬼の恋人 ■■■
裁きの堕天使 ラファエル
天の神 高良京
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