百回やって恋人になるロドフ 何気なく手が触れて、咄嗟に引いた瞬間、笑われた気配がした。きっと他の人間であれば何とも思わなかったであろう一瞬の接触。大袈裟に引いた手、その反応を揶揄うように薄く浮かぶ笑みを、食い入るように見詰めてしまった。
男は、「顔が赤いぞ?根を詰め過ぎるのは良くないな」と優しげな口調で言った。低い声で弾ませるように笑って、「少し休憩したらどうだ?」と勧められるまま、──まだ準備運動の途中、そんなタイミングだったにも関わらず──頷いていた。男を見かけたのは四度目で、名前も知らない。それでもおれは、男のあとを着いて更衣室へ戻り、着替えを済ませていた。
そんな始まり方だった。
怒涛の如く色々なことが起きて、正直何がなんだか分からない。分かることは、その男と寝たこと。日頃の不眠が祟り一瞬気を緩めた間に、男はさっさと帰ってしまったこと。これだけだ。名前も連絡先も知らないが、またジムに行けば会えるものと思っていて、もともと週に二回ほどだったジム通いは、翌日からルーティーンとなった。しかし男は一向に現れない。利用時間を変えた可能性を考えて仕事前に顔を出してみても空振りに終わり、ニヶ月が経つ。もしかしたらもう退会したのかも知れない。連日のジム通いのおかげで代謝は良くなり、食欲もいくらか増した。運動による効果で本来ならば寝付きだって良くなる筈が、──不眠症が原因でジム通いを始めた───結局、男のことが気になってしっかりと眠れないでいる。職場の同僚たちにも心配されているし、トレーナーにも注意を受けた。軽く走ったらすぐに帰ろう。そして今日で終わりにする。もうここには来ない。そう決めたその日、男はごく普通にそこにいて、おれに気付くとなんの気負いもなくひらりと手を上げた。てめぇどこに行ってやがった、あれはなんだったんだ、どういうつもりだ、なんで急にこなくなった、たくさんの文句が頭の中を駆け巡ったが、どれも言葉にはならない。凝視して固まったおれを不審に思ったのか、男はランニングマシンを止めると、ゆったりとこちらへ向かってきた。
最初に男と言葉を交わした日のことを思い出す。ジムに入会してすぐのことだ。後ろから声をかけられて振り返ると、この男がタオルを差し出していた。背の高さと室内にいるのにサングラスをしている派手な風貌に驚いて一瞬身構えたが、すぐにそのタオルが自分のものだと気付いた。礼を言ったおれに「気にするな」と男が短く答える。会話とも呼べないそれが、ファーストコンタクトだった。毎回会うわけではなかったけれど、それからは男がいれば自然と近くのマシンでトレーニングをするようになった。おれが何気なさを装って見ていることを、きっと男は知っていたのだろう。自分でも自覚していなかった淡い好意を、この男は見抜いていたのだろう。
「ひでェ顔色だな。大丈夫か?」
大丈夫なわけあるか、お前のせいでこっちは満身創痍なんだ、責任とれ、この野郎、心の中では罵倒していたが、実際におれがやったことは男の腕を掴んだだけだった。がっしりと指を回し、絶対に離さないという意思を込めて睨みつける。
「あーあー、相当やべェな。名前は……そういや聞いてなかったな。おい、移動するぞ」
引き摺られるように歩かされ、ベンチに座らせられる。何か言おうとして考え込んでいる間に、男は駆け寄ってきたスタッフに何事かを頼んだようだった。救護室にでも連れていく気か、冗談じゃねぇぞ、と思っていると、上から「知り合いでね。連れて帰るよ」という声が聞こえてくる。ロッカーから荷物を持ってきたスタッフに男が礼を言うのぼんやりと眺めて、気付けばおれは男の車に乗っていた。
そんな場合ではないのに、高そうな車だな、と思う。思った言葉がそのまま出ていたらしく、隣で男が笑った。
「家まで送ろうか?」
頷けば、本当に家に送ってくれそうな優しげな声色に問われて、おれは首を振った。
「……なんだったんだ、あれは」
「あれ?」
「前回の…… 」
明言するのを避けたが、男は「あァ」とすぐに察したようだった。
「何か問題でもあったか?合意だったろ?」
問題は大有りなのに頭が回らない。合意か否か、そんなことを言いたいわけではなくて、じゃあ何が言いたいのか、考え出すと思考が動きを鈍くする。男は言い淀むおれを暫し観察して、突然すっと体を近付けてきた。驚いて目を閉じる。キスをされるのかと思ったら、ただシートベルトを閉められただけで、おれの反応に薄く笑った男は、静かに車を発進させた。
「あんたが来るのを待ってた… けど全然来ねェし……余計眠れなくなって……何がなんだか分からない… 」
心地良い揺れと、芳香剤か男自身の香りか、よく分からないが車内は良い匂いがして、おれはほとんど独り言のようにそんなことを言った。耐えられない程の眠気に襲われて、ハッと目を見開き「家には帰らない」と宣言すると、男は最初から分かりきっていたかのように、「オーケー」と軽く答える。
例えばおれがもう少しちゃんと眠れていたら。また結果は違ったのだろうと思う。おそらく男の思惑からは外れた展開で、おれにとっては良い結果を齎した。恥はあるが。
目が覚めると、呆れ果てた、という顔をした男が目の前にいた。文字通り目の前。密着している。嫌味たっぷり、といった雰囲気で「おはよう」と男が言った。
「……寝てた、よな、」
「あァ、そりゃあもうぐっすりとな。しかもがっちりホールドしたままで」
言われれば確かに、おれの腕は男の腰に回っていて、左腕は痺れてほとんど感覚がない。ジムを出た時のままの格好で、男もおれも、ベッドの上にいる。
「フフ、よっぽど睡眠不足だったらしい…このおれを抱き枕代わりにするとはな」
男が体を上げたので、そろそろと左腕を抜いた。
「わるい……」
「まァいいさ。もうそんな気分でもねェし。シャワー浴びて帰る。お前はどうする?」
男が立ち去ろうとしていることに気が付き、ぼやけた頭が一瞬でクリアになった。
「そんなことよりあんた名前は」
「あァ、そういや名乗ってなかったな。ドフラミンゴだ」
ドフラミンゴ。一度聞いたらなかなか忘れ難いインパクトのある名前を口内で呟く。ベッドに腰掛けて、気怠そうに首を傾けてこちらを見ているドフラミンゴを睨んだ。
「これでまた行方を眩ます気か。連絡先くらい教えろ」
「フフ、ちょっと出張に行ってただけだ。お前に弁解することでもないがな」
「連絡先を教えることに何か不都合があるのか?」
「いやァ?特にないが…」
言って、視線をふいと横に投げると、ドフラミンゴは得心したように瞬いた。
「なァ、まさかとは思うが、一回寝たくらいで恋人気取りでいるんじゃぁねェよな?」
あまりの言葉に衝撃を受けて、口を開いたまま固まってしまったおれを見て、愉快で堪らないといった風にドフラミンゴは笑う。
「フッ、フフフ…そのまさかか。なるほどなァ… そりゃ悪かったな。勘違いさせちまったみてェだが、おれにその気はない。ちゃんとした相手が欲しいなら他を当たるんだな」
子供にでもするように頭に手を置かれても、おれは動けないでいる。別に、恋人気取りだったわけではない。けれど、セックスをするということは、それなりの関係になるということだと思っていた。「一人で帰れるか?」と声を掛けられたが、おれは何も返せなかった。怒りと羞恥に震えるおれを置いて、結局シャワーも浴びずに、ドフラミンゴは出ていった。
それからも。おれはジムに通った。週に一、二度はドフラミンゴと顔を合わせて、近くで黙々とトレーニングを行い、そのままの流れでホテルへ行くのがお決まりのパターンになっている。あの一件の直後、ドフラミンゴはおれを見て少し驚いた顔をした。「このあとどうだ」と聞けば、すぐに口角を上げて、「おれは構わないが、お前は良いのか?」と楽しそうに言った。腹が立つくらい余裕の態度で。あれほど高慢に、美しく笑う男をおれは他に知らない。
ジムで汗を流しているため、ホテルに入れば即物的にセックスをした。筋力も体力もおれより上のドフラミンゴだが、抱かれるというのは消耗が激しいようだ。ベッドの中のドフラミンゴは可愛い。おれは外したゴムを丸めて、ゴミ箱に放った。胸を喘がせながらぼんやりとした視線を天井に向けているドフラミンゴの足を掴み、新しくゴムを装着した切先を押し当てる。
「さっきので十六回だ。これで十七回目…… なァ、何回寝たら恋人になるんだ?」
唇を噛んで挿入の衝撃に耐えているドフラミンゴの腹を撫でながら聞くと、「やめろ、」と上擦った声が言う。
「あんたがイッた回数ならもっと多いよな。一晩を一回とするなら…まだ六回目だ」
「っん… ベラベラうるせェ… 不眠が治ってすっかり元気だな…」
「あァ、あんたのおかげでな。すこぶる健康だ」
「フフ、そりゃ、よかったな」
「なァ、あと何回だ?」
焦れるおれを見て楽しそうに笑うばかりの男は、明確な答えを何も寄越さない。宥めすかすような仕草でドフラミンゴが足を絡めてくる。足じゃなくて、手を繋いだり。セックスだけじゃなくて、映画をみて買い物をしたり。喧嘩して許し合ったり。そういうことをいつかしたい。
腰に巻き付いてきた足を引っ掴んで肩にかけた。
「ドフラミンゴ、答えろって」
早くあんたの恋人になれるように頑張るからさ。