ニャンとも鳴かない ドフラミンゴが猫になった。何を言ってるのかと思うだろう。おれもそう思う。ドフラミンゴが猫になる?頭でもぶつけたのか?ロシナンテさん。そんな会話をしたのはいつのことだったか。ロシナンテさん曰く、昔近所に住んでた野良猫の霊ではないかと。
「すんげェ人懐っこくて、おれもドフィと一緒によく餌やってたわけ。地域猫、とかっていうやつ?みんな可愛がってたけど、ドフィには特別懐いてたな。でもいつからか見なくなった… 猫って、死に際にいなくなるっていうだろ。多分その猫なんじゃねェかなぁ……憑依した、としか言えねェんだよな。ア?なんだその顔。嘘ついてると思ってんだろ?こんな嘘つくか!見れば分かるから。いつものドフィじゃないの。パッと見で分かるから。ローも絶対」
アルコールで赤くなった顔で、ロシナンテさんはムキになって言った。分かった分かった、とおれは答えて、猫耳と尻尾が生えたドフラミンゴを想像する。なかなか悪くない。悪くないどころか実に良い。エロくて良い。是非とも見てみたいものだ。ちゃんと「ニャン♡」と鳴くのかな。エロいな。まァそんな非現実的な話は有り得ないと、酔っ払った頭でも思っていたわけだが。
休日の朝。正確には昼。リビングに出て仰天した。ドフラミンゴがフローリングに倒れていて、咄嗟に駆け寄ると閉じられていた瞼がパチリと開いた。眩しそうに目を細め、ふいと首を逸らしてまた目を閉じてしまった。声を掛けても返事がない。体調が悪そうということもなく、頬や額に触れて確認したが平熱であることは確かだった。ドフラミンゴはなんの躊躇もなくフローリングに寝転がり、当然という顔で寛いでいる。長い足を折り畳み、丸くなって。おれは動揺が抑えられなかった。普段のドフラミンゴなら絶対にこんなことはしない。サングラスもせずにリビングに出てきていることも驚きだが、そんなことより、床に寝転ぶなんて!絶対にしない。有り得ない。頭でも打ったのか。何かやばいモンでも口にしたのか。おれが何を聞いても、しても、反応はなかった。時々迷惑そうに目を開けるだけ。オロオロとしながらも、おれ、何かしたか?と考える。怒らせるようなこと。いや、そもそもドフラミンゴは怒ってる時程饒舌になるタイプだ。というか怒ってるようには見えない。カーテン越しの日差しを浴びて、気持ち良さそうに伸びをしたかと思えば反対側を向く丸まった背中。体調不良でもない。機嫌も良い。なんだこの状況は……
「……あ。」
そうして漸く、おれは随分前に聞いたロシナンテさんの珍妙な話を思い出したのだった。
「ドフラミンゴ。おい。猫になってるのか?」
ここで〝そうです〟などと返事がくるとは思っていなかったが、答えは当然なく。
「にゃ… にゃーん」
恥を忍んで猫語で呼び掛けてもダメ。あまりの羞恥に打ちのめされながらも、おれはいよいよ確信を深めていた。平時のドフラミンゴなら絶対に揶揄ってくる場面である。フローリングに額を着いたまま十秒待った。応答なし。笑い声もなし。よく分かった。ロシナンテさん。あんたが言ってたのは、これなんだな…
猫耳も尻尾もなく、ニャンとも鳴かない。こんなつまんねーことあるか。これで猫とか。恋人が突然の猫化。ふつう、もっと美味しい展開になる筈だろ。男のロマンってものが分かってない。お前はいつもそうだ!───と、憤っていても仕方ない。おれは立ち上がり、寝室へ向かった。デカくて重いベッドを死ぬ気で押して、窓際までズリズリと移動する。そしてリビングへ戻り、窓を開けて普段は使わない雨戸を下ろした。完全に日が遮られたことに不満気な顔をするドフラミンゴの腕を引っ張る。いくら猫でも体は人間。長時間地べたに寝転がっていたら痛くもなるだろう。四足歩行とか始めたらどうすりゃいいんだ…というおれの不安をよそに、ドフラミンゴは両足で立ち、大人しく着いてきた。寝室まで来ると、陽だまりに引き寄せられるように、自然とベッドに乗り上げる。コロンと寝転んで寛ぎ始めたドフラミンゴの隣に、おれは腰を下ろした。緩く握られた手を触ってみると、すっと引っ込められる。薄く瞼が開いて、すぐに閉じる。相変わらず迷惑そうな色を浮かべてはいるが、警戒はされていなさそうだった。そうっと髪を触る。普段のドフラミンゴなら嫌がるところだが、おれの手は受け入れられたらしい。頭を撫でてみると、掌に押し付けるように首が伸びた。耳から頬を撫でて首をくすぐると、明らかに反応が変わった。
「気持ちいいのか」
薄く開いた瞳がおれを見上げてくる。ゴロゴロ、という音が聞こえてきそうな顔をしている。完全に幻聴だが、それくらい、ドフラミンゴは気持ち良さそうにおれの手に懐いていた。これは、かわいい……。顔を寄せると、裸眼の瞳が真っ直ぐに見詰めてくる。こんなに至近距離まで近付いているのに閉じもしない瞳を見据えたまま触れるだけのキスをすれば、ドフラミンゴはキスを返すようにすりすりと鼻先を触れ合わせてきた。
「ぐ…… う……」
エ?やばいぞこれ。可愛い過ぎじゃないか。中身が猫だから?ちょっとどうにかなりそうなくらい可愛い。苦しい……可愛いの過剰摂取で死にそう。唐突に胸を抑えて倒れ込んだおれを心配してか、こつんと頭がぶつかってくる。なんだその目は。ていうか近い。やめろやめろ。ちょっと待ってくれ。……いいのか?これ、手ぇ出しても?と、つい不埒なことを考えて、おれはあることに気付いた。目の前にいるのが猫が憑依したドフラミンゴだとして、中身は一体どこにいったのか。つまりドフラミンゴ自身の……魂?ロシナンテさんはなんて言ってた?元に戻ったのは間違いなくて、しかし、どれくらいこのままなのか。元に戻すための方法は?幽体離脱というやつだとして、魂は、いつまでも体を離れていて大丈夫なのだろうか。こんな話をしたら正気を疑われるところだが、幸い経験者が身近にいる。取り敢えず連絡してみよう……
「ぐえっ……」
ずっしりとした重みに潰れたような声が出た。スマホを取ろうとしたおれの上に、ドフラミンゴが乗り上げている。いや重……っ!重いなこいつ!?
「おい、ドフラミンゴ… おも…じゃなくて、ちょっと、スマホ…… ふぐ…」
バランスを取るように動かれて、その度体が悲鳴を上げる。普段ドフラミンゴがどれだけ体重を掛けないよう気を遣っているのか、この時初めて身をもって知った。子供扱いとも思えるそういった全て──外食でおれに支払いをさせないこと、頼ってくれないこと、いつまでも対等な関係にさせて貰えないこと──が不満でもあったが、完全に力を抜いたドフラミンゴはその細身からは考えられないほど重量がある。押し潰される肺でヒュウヒュウと呼吸を繰り返し、骨を軋ませながら、おれは笑っていた。甘えるみたいに胸元に擦り寄ってくる体温。自分より上背のある、年上の男の確かな重み。ずっとこれが知りたかった。全身でもって寄りかかられるのは、なんと息苦しいことだろう。これが至福の重み…………か……
べちりと頭を叩かれて、おれは驚いて跳ね起きた。
「ロー、なんだこれは。どうしてベッドがこんなにズレてる?」
「ドフラミンゴ……だよな?戻ったのか…」
「ア?何訳分かんねェこと言ってんだ。寝惚けてンのか?」
サングラス。腕を組んだこの偉そうな態度。間違いなくドフラミンゴだ。
「なんでもない。どっか変なとこねェか。不調は?」
「なんだ、別にねェよ。…ちっとばかし体がいてェような気もするが」
「そりゃ床で寝てたからだ」
「フッフッフッ…おれが床で?んな訳あるか」
まァそうなるよな。おれもそう思う。突然笑い出したおれに、ドフラミンゴは不審げな目を向けている。都合の良すぎる夢を見た、そう言われる方がまだ納得できる。既に事態は収束しているが、今回のことはしっかりロシナンテさんに報告しよう。
寝室を出ていく背中を見送って、窓の外を見る。いる筈もない猫の姿を探したが、普段通りの静かな通りがあるのみだ。
「ベッド戻しておけよ」と遠くから聞こえた声に舌打ちをして、今に見てろよ、と思う。
夢で終わらせてなんてやらねェからな。
終