「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりですか?」
浮奇行きつけのカフェで、二人が初めて会った日。突如店員として勤め始めたスハは、この店のオーナーの親戚だという。
にこにこと人好きする笑顔と共に投げられた問いに、数度瞬きをした後、少し言葉に詰まりながらコーヒーをオーダーする浮奇の声には、微かに動揺が滲んでいた。
行きつけということもあり何度も顔を合わせお互い気さくに話せるようになる頃には、あの時の動揺は思わぬ出会いに一瞬にして心を奪われていた所為だと浮奇は自覚していた。
悲しいかな、男運の悪い(趣味が悪いとも言う)浮奇の歴代の彼氏達とは比べものにならない好青年なスハは、見ているだけで心が潤うような、言わば浮奇の日々に彩りを添えるアイドルのような存在になっている。来店した浮奇を見るなり、会えて嬉しいとばかりにぱっと満面の笑みを浮かべる姿に癒しを得るばかりか、時折コーヒーと共にスイーツのおまけをトレーに乗せて「私と浮奇だけの秘密だからね?ないしょ」と囁く優しい声にときめかされる日々。そんな出逢いに感謝する心穏やかな日々に不穏な影が差したのは、スハの一言からだった。
「あのさ、怖がらせるつもりはないんだけれど…最近、変な人に付き纏われてるとかない…?」
いつもより少し人の少ない店内で、仕事終わりのコーヒーといつものおまけのスイーツをゆったりと楽しんでいる所に、接客の合間を縫ってスハがテーブルへと歩み寄る。身を屈め声を潜めて訊いてきた内容に、浮奇はカップを手にしたまま僅かに目を見開いた。
「え? …なに? どういうこと」
「いやね、少し前から気になってることがあって…浮奇が仕事終わりにお店に来てくれる時、少し離れた所に同じ男の人がいるんだよね。浮奇がお店に入ってから暫くすると去っていくんだけど、気付いてから気にして見てたら、それが何度もあるから…その、明らかに浮奇をつけてるよなって思って…知り合いとかじゃ、ないよね…?」
少し言いづらそうにスハから与えられる身に覚えのない情報に湧くのは、嫌悪感や恐怖より「またか」というげんなりとした感情だった。
先述の通り、浮奇は男運が悪い。さらに言えば、人よりも優れている容姿も相まってそういった変質者からの被害に遭うのは、大変不名誉ながらもままあることだった。現段階ではスハの危惧するストーキングの犯人に思い当たる身の回りの人物は浮かばず、浮奇の人生の中でたまに現れる、言うなれば通り魔のような一時的なものだろうと勝手に検討をつけると、僅かに首を傾け上目にスハを窺い見た。
「んー…気付いてなかった、教えてくれてありがとう。…お店に迷惑とか掛かってないよね?」
「それは無いんだけど…そうじゃなくて! 私が心配してるのは、浮奇が危なくないのかってことだよ!」
得体の知れない男につけられているという我が身よりも日々の癒しの場が荒らされてしまうことを真っ先に憂う浮奇の言葉に、思わず大きな声を出してしまったことに慌てて口を押さえ辺りを見渡すスハのなんと可愛らしいことか。
きゅん、などと可愛らしい程度ではなく疼痛を感じる程にときめいた胸元を押さえ、口元をにやけさせながらおかしな声が漏れてしまわぬよう黙り込む浮奇とは対照的に、眉根を寄せた厳しい顔のまま「…浮奇はすごく魅力的なんだから、ちゃんとそれを自覚して気をつけなきゃだめだよ」と続けられた言葉に、手のひらに感じる鼓動が一層激しくなり、比喩でも何でもなく、浮奇の心臓と呼吸は一瞬止まった。
カフェに迷惑がかかることを懸念し、訪店することを控えて約一週間。周囲に気を配ってみたものの、特別変わったこともなく迎えた平和な週末。
やはり一過性のものだったのだろうと検討をつけ、明日の休日は久しぶりにコーヒーとスイーツ、そしてスハを堪能しに行こうと決めながらすっかり暗くなった家路を歩む最中、角を曲がった少し先に今ほど思い浮かべていた人の後ろ姿。思わぬ偶然に「スハ、」と弾んだ声で名前を呼べば、こちらを振り向くエメラルドグリーンの瞳が頬を緩めひらりと手を振る浮奇を捉えた次の瞬間、いつもならば喜色満面の笑みを浮かべる顔が険しくなり、さらに「は?」と聞いたことのない圧のある声とほぼ同時にこちらに駆け出した。
リーチの長い脚で一瞬で間を詰めるスハに気圧され僅かに上体を引くも、浮奇が足を下げるより早く腕を取られ、勢いよく手繰り寄せぶつかる様にその腕の中に囲われてしまう。目を白黒させる浮奇の耳に届いたのは、「あんた、今何しようとした。」と何者かを威嚇する声だった。
一体何が起きているのか理解できないままスハの腕の中で首を巡らせ背後を見れば、どこか見覚えのある人物が刃が飛び出たカッターを片手に忙しなく視線を泳がせているのが写り、思わず「は…? なに…?」と呆然とした声が漏れる。混乱したままさらに口を開き誰かと言及しようとした矢先、スハの剣幕に踵を返し、足を縺れさせながら逃げ出す人物を浮奇が咄嗟に追いかけようとするも、身体を捕らえたままの膂力がそれを許さなかった。
「…浮奇。私、気をつけてって言ったよね?」
いつもは少し高めに作られた甘く響く声が、今は感情を押さえ込んだ様な低い声になっている。その事に気付き、眉根を寄せたままの険しい表情で真上から詰問してくるスハを見上げた瞬間、今ほど感じた身の危険など忘れるほど大きく心臓が跳ね、見入って言葉を忘れてしまいそうになる。
「あ……えっと、言われてから気にしてはいたんだよ…?」
「真後ろにいた人に気付けなかったのに? 全然警戒心がないよね?」
何とか紡いだ言葉も間髪入れず咎められるとついムッとして唇が尖ってしまい、スハの厳しい視線に負けじと睨み付ける様にじっと見つめ返せば、上着の襟元を掴んでさらに距離を詰め言葉を続けた。
「スハ以外目に入らなかったんだよ。そんな風になるまで惚れさせたスハの所為でしょ」
次の瞬間には、浮奇の不満を表していた相貌は目を細めたにんまりとした笑いへと変わり、追い打ちをかける様にスハの鼻先へと可愛らしいリップ音と共にキスが贈られる。
突然の告白と口付けに目を見開き、ヒュッと喉を鳴らし呼吸を止めたスハの顔が暗がりでも分かるほどに赤く染まっていくのを見て、浮奇は満足そうに笑った。