電気を全て落とした室内をぼんやりと照らすテレビ画面では、本日5本目となる映画がクライマックスへと差し掛かっていた。
世界に原因不明の感染症が蔓延し、罹患したものは先ず嗅覚を失い、その後五感をひとつひとつ失っていく。人々は怯え、苦しみ、パンデミックに荒廃していく世界の中で出逢った男女の恋愛模様。嗅覚、味覚、聴覚を失った彼らは、今まさに視覚をも奪われようとしている。そんな二人の行く末を見届けたのは、俺一人だった。
背もたれにしているベッドから聞こえる、規則正しい寝息。途中腰が痛いと言ってベッドに上がってしまったスハは、最初こそ寝転びながら大きな枕を抱え込み真剣に画面を見ていたものの、気づけば夢の中へと旅立っていた。そんなスハを置き去りにして進む彼らのストーリーはエンドロールを迎え、ついに画面がチャプターへと切り替わったのを期に腕を上へ向け大きく伸びをしてゆっくり息を吐く。
「…どうしようかな」
残りわずかになっていたペットボトルの中身を飲み干し後ろを振り返れば、薄明かりに照らされたすやすやと気持ち良さそうに眠るスハの顔が見える。彼がベッドに上がる際「浮奇も来る?」なんて聞かれたけれど、薄暗い室内で同じベッドで寝転ぶ勇気なんてなかった俺は、その下心なんて一切ない善意の申し出を丁重にお断りした。俺だけが意識してるようで悔しい、なんて思うこともない。だって、事実そうなのだから。これは俺の片想いでしかなくて、スハが俺に向ける感情は友愛でしかない。
「スハ…ねぇ、スハ。俺帰るから」
何も言わず帰るのは何となく忍びなくて、軽く肩を叩きながら起こす気も無いほどの潜めた声で名前を呼ぶと、予想外にも彼は微かな呻き声と共に身動ぎ、震えた瞼がゆっくりと上がり焦点の定まらない瞳がこちらを見上げる。そのまま数度瞬きを繰り返す姿が何だか猫のようで可愛らしくて、薄ら寝痕のついた頬にかかる前髪を流すように頭を撫でながら「寝てていいよ、鍵はポストに入れていくから」と先ほどよりも少しだけボリュームを上げて伝え、テーブルの上だけでも綺麗にして帰ろうと前に向き直る。と言ってもそれ程片付けるものも無く、空になったペットボトルとお菓子の袋を集めようと手を伸ばし前のめりになった、次の瞬間。
︎︎ガラ空きになった脇の下に大きな手が差し込まれ、服越しに指先が俺の肌に食い込んだ直後、腕の力だけで身体をベッドの上へと引き上げられてしまい何事かと驚きに目を見張った。
「え、え…?」
「あした…車で送るから…」
スハはまだ半分寝たような低く掠れた声で短く答えながら布団を蹴ってマットを覆うシーツをあらわにすると、ずる、ずる、と呆気に取られたままの俺の身体を壁との間に仕舞い込むように移動させる。そのまま二人まとめて倒れ込むと右の二の腕を枕にするように差し込まれ、器用にも足先にひっかけて摺り上げた掛け布団をもう片方の手で掴み引き上げた後、その手を俺の背に回しあっという間に眠ってしまった。そんなスハを布団から目元しか出ていない格好のまま、信じられない気持ちで見上げる。
そのままいくら見つめてもぴったりと閉じられた瞼は震えることすらなく、そんな気の抜け切った顔に反して、俺の身体を抱き枕にする腕の力は思いの外強いままで。
「…いい気なものだよね」
暫し眺めた後ため息まじりに小さな悪態をついたところで目覚めるわけもなく、一人動転しているのがバカらしくなってきた。スハはそういう人だから、呆れはするけど期待なんてしない。
早々に諦めがつけば、このまたと無い機会を少しでも快適に過ごそうと体制を整え、眠る準備に入る。少し身体を引くことで出来る隙間から出した手で顔を覆う掛け布団をもそもそと押し下げ、思いっきり頭の下敷きになっているスハの二の腕が首の隙間に入るよう少し上がって、マクラの端に頭を乗せにいく。名前の通り馬鹿正直に腕を枕にするのは不正解で、正しくは首の下に入れるか、肩に頭を乗せるべきだと、溜息を殺しつつ仕方なく正しい位置へ自ら移動する。このまま朝を迎えて無様に腕の痺れに苦しめばいい、なんて思ったりもしたけど、もしかしたら彼は誰かに腕枕をしたことが無いのかもしれない…なんて、そんな僅かな可能性に勝手に気分が良くなり、結局は惚れた弱みでスハに負担のない位置に落ち着いた。残る自身の腕もそれなりに収まりの良い場所に移した後はいくら片想いの相手の腕の中でも眠気が全く来ないなんて可愛らしいことも無く、目を閉じ深呼吸を繰り返せば、何処か落ち着くスハの匂いにとろとろと眠りへと導かれていった。
眠りに落ちてどれくらい経っただろう。
気付けば押し下げたはずの掛布団がまた引き上げられ、体温が高めのスハに囲い込まれている所為でじんわりと汗をかくほどに暑さを感じ、寝苦しさに意識が浮上する。とはいえ眠気はまだ色濃く残り、瞼を上げられないまま眉間に皺を寄せながら身動ぎ、再び何とか布団から顔を出す。スハの微かな唸り声が聞こえてきたものの、どうせ起きはしないだろうと言葉をかけることも無く相手から僅かに距離を取ろうとした矢先、首の下に通された腕の筋肉が動くのを感じた直後に背後から頭に手のひらが覆い被さり、探る様な手つきで数度髪を掬い撫でたかと思えば額に乾燥した唇が触れ、更に鼻の天辺を舌先が撫でた。
「ん……ふふ、あせかいてる…、」
まだ眠りの世界に身を委ねたままの、舌っ足らずな甘い声。
抜ける様な笑いと共に吐息混じりに呟かれた言葉にカッと体温が上がり、あんなに重かったはずの瞼が一気に開いてしまった。今すぐ腕の中から逃げ出したいとさらに身動いだ瞬間、それを阻むかの如く腰に触れていた彼の手の平がずるりと俺の背を一気に撫で上げ、肩甲骨の間に大きな手のひらが入り込む。背骨を撫でられる感覚に一気に肌が粟立ち、堪らず背を反らした事で浮き上がる肩甲骨をなぞった指先が窪みへと潜り込んだ瞬間、上擦った声が漏れてしまい、慌てて口を覆った。
「ゃ…、ぁ…!」
自分の耳に届いたあえかな声はスハに聞かせるに耐えない浅ましいもので、焦りと羞恥に早鐘を打ち口から飛び出しそうになる心臓の音が、耳の中で大きく響く。
どうか、どうか起きていませんように。
そう願いながら、恐る恐るスハの顔を仰ぎ見た。