くるくる。とん、とん。くるり。
今朝「今日これ着るね」の一言で奪われた俺のシャツの裾を翻しながら、数メートル先で踊る恋人の姿。楽しげなダンスのパートナーは長い尻尾をピンと立て、同じように軽やかにステップを踏む。時折ぴょんと跳ねては、浮奇の靴の紐を捕らえようとぽってり丸い前足を一生懸命伸ばして追いかけていた。
そんな奮闘を可愛くてたまらないといった柔らかい表情で見つめながら、器用にも人が少ない方へと誘導するように足を運ぶ浮奇の姿をぼんやり眺め、心地よいあたたかな日差しにうとうととする俺は今、世界一平和な心持ちなんじゃないだろうか。少なくとも、この公園内では一番だと断言できる。
お姫様のご要望でお気に入りのパン屋で今日明日のごはんを仕入れた帰り道、せっかく出掛けたのだからと散歩がてら少し遠回りをして、普段は寄らない公園に足を踏み入れた俺たちを歓迎してくれたのが、浮奇のダンスパートナーであるあの黒猫だった。
パンの香りに釣られたのか、エメラルドのまぁるい瞳で彼の猫好きを見抜いたのか、臆する様子もなく足元に寄って来るなり、頭頂部を浮奇の脛に押し付けるように頭突きをし、そのまま全身を擦り付けるようにゆっくりと横を通り抜ける。そして、くるりとUターンをしてはもう一度ごつん、すり、と甘えた仕草を何度も繰り返した。
そんなあざとい行動にすぐ骨抜きにされてしまった恋人は俺の存在なんか忘れてしまったように彼?彼女?とふらふら遊びに行ってしまい、家の鍵が浮奇のバッグに入っている以上先に帰ることも出来ず、待ち惚けをくらっている俺は適当な柵に腰掛けて袋の中から取り出したクロワッサンでお腹を満たしていく。なんて殊勝なんだろう。
手にしたクロワッサンは、どんなに気を付けて食べたところでサクサクに焼き上げられた表面が崩れてこぼれ落ちることはよく知っている。潔く諦めて大きな口で齧り付き、最高の仕上がりを表す良い音と共に砕けた欠片が服に落ちるのを見送れば、手のひらで雑に払い落しながらじっくり咀嚼するとバターと小麦粉の豊かな風味が広がり、なんとも言えない幸せな気持ちになる。何度食べても変わらぬ美味しさに一人うんうん、と小さく頷きながらさらにもう一口齧ったところで、突然頭上から「なぁ、」と声をかけられ口端についた粉を払いながら視線を向ける。
聞き覚えのない声に、もしかしたら自分に声をかけた訳では無いのかもしれないとそっと伺ったものの、見知らぬ男の目は真っ直ぐ俺の方を見ている。どうやら勘違いでは無いようだと改めて顔を向けると、俺の意識が向いたことに対して嬉しそうな人好きする笑顔を浮かべ、男が再び口を開く。
「食事中ごめんねー。お兄さんさ、さっきあの紫の美人さんと一緒にいたよな?」
「…そうだけど、何?」
「いやぁ、あの人可愛くて良いなって。でもあの美人さんがお兄さんのものなら、勝ち目はなさそうだし諦めようかなって思ってダメもとで訊いてみたんだけど」
柵の反対側に並んで腰掛けるようにして距離を詰めながら俺の顔を覗き込んでくる男は、世間一般的に見たら割と悪く無い顔の造形をしているように思える。ただ、浮奇のタイプでは無い。多分だけど。体格も服の上から見る限り細身だし。
そんなことを考えながらじっと顔を見ていれば、「怒ってたりする?そんなに見つめられると照れるんだけど」なんて小首を傾げて笑うこの男は、きっと“慣れている”タイプなんだろうな、なんて考えながら、首を数度横に振ってみせる。
「いや?ちょっと考え事してただけ。…あの美人が俺のか、っていう質問への答えを求めてるなら、Noかな」
「あれ、そうなんだ?訊いといてなんだけど、恋人なんだろうなって思ってた」
「恋人だよ?俺が、浮奇のものなだけ」
件の人物へと視線を向けると、距離からしてこちらの会話なんて一切聞こえていないはずなのに、全てを察したようにこちらを見て微笑む浮奇と目が合う。
食べかけのクロワッサンを口に放り込み、手や服を払うついでに口の周りも指先で軽く撫でで何もついていないことを確かめ、降参、とばかりに無言で顔の横に手を上げる男に同じく無言のまま笑顔を。ひとときの出会いに別れの挨拶もせず、柵から腰を浮かせ袋を片手に歩幅を気にせず自分の楽なように大股で歩き出せば、あっという間に浮奇の元に辿り着く。
「ナンパされてたの?」
「浮奇のダンスパートナーに名乗り出て良いかって」
「ああ…そっち?なんだ」
「俺がナンパされてるんだと思ってたなら、なんでさっき笑ったの?」
「ナンパするだけ無駄なのになぁ、って思ってた」
地面に横たわり満足気にぷわ、ぷわ、とゆったりお腹を上下させる黒猫へ浮奇の手が伸びていく。膝を折るでもなく前屈をして難なく撫でる姿に、そんな所でも柔軟性をアピールしなくても良いのにと思いながら少しズレて彼の背後に回り、オーバーサイズのシャツがすっぽりと覆い隠す腰を叱責の意を込めて軽く叩くけど、何処吹く風といった様に無視をされる。そんな態度にあからさまな溜め息をひとつ。
何処までも自由な恋人の上体を背後から腕を回し掬い起こすと、そのまま肩を抱いて強制的に帰路につこうとする俺たちに「にゃあん」とひと鳴きして引き止めようとする黒猫を一瞥し、威嚇するように鼻の頭に皺を寄せて歯を剥いて見せれば、腕の中で可笑しそうな笑い声が上がった。