育むもの ナギニ ケダモノの中には、人間や動物を育てる者がいるという。
その理由は孤独を埋めるためかもしれないし、大きくなってから食べるためかもしれない。
だがしかし、何かを育てるということは、そのケダモノが「親」の役割を持つことを意味する。
闇の森には外の世界に繋がる回廊がいくつかあるが。
その日、本体の姿でのんびりと散策を行っていたナギニは、そんな回廊のうちの一つの傍を通りかかった。
本当に通りかかっただけであり、そのまま通り過ぎるつもりだったが。
ふと、闇の森に似つかわしくない、おぎゃあおぎゃあという生命力に溢れた泣き声が聞こえて。ナギニは這うのをやめると、回廊に近づいて泣き声の元を探った。
回廊の傍には、一人の老婆が倒れていた。老婆からはすえた臭いがしており、瞳孔が開いてだらしなく舌が出ていることから、既にこと切れているのが一目でわかった。
だが老婆の傍、彼女が抱くように手を添えているおくるみの方からは、まだ生命の気配があった。小さいが旨そうな、魂の気配。
舌先の疑似餌を下ろし、ナギニがおくるみに近づいて覗き込むと。包まれていた赤子と、疑似餌の目が合った。
赤子はその赤みがかった瞳でナギニを見つめると、また大声で泣きだす。このまま放っておけば、そう遠くないうちに他のケダモノに気付かれ、貪り食われるだろう。
だったら今この場で、ナギニ自身がさっさと貪り食ってしまうのが得策だが。
「……どうしようかねえ」
ナギニはしばらくの間、泣き叫ぶ赤子を見つめていたが。やがて疑似餌を近づけると、その手に赤子の包まれたおくるみを抱いた。
旨そうな魂の臭いに、食欲がそそられるものの。幼い故にまだ小さい輝きに、何とか欲望を抑えることが出来た。
「私も物好きだねえ。他のケダモノにこんなところを見られたら、腹抱えて笑われるだろうね」
やや自嘲気味に呟きつつも、ナギニは疑似餌に赤子を抱いたまま、己の住処に帰ることにした。
サーペントは、時折無害な存在へと脱皮を果たし、人里に降りて暮らすことがある。
それはナギニも同様で、過去に人の村で暮らした過去があった。
だからこそ、人間を育てるということに、ある程度の知識を持っており。赤子はナギニの住処で、すくすくと健康に育っていった。
「トム」
そう名付けた少年の名を呼ぶと、ナギニが撮った木の実を食べていたトムは、顔を上げて振り向いた。
「なーに?」
純粋そうな瞳が、ナギニを真っ直ぐに見つめる。成長したことにより、その魂は一層輝きを増していた。
もし自分が空腹だったならば、今この瞬間にでも貪り食っていたことだろう。少し前に魂を頂いた、修道女のことに思いを馳せつつ、ナギニは疑似餌を出すと、彼に近づいてそっと頭を撫でた。
ケダモノは人間と契約を結んで、願いを叶える代わりに魂や金品などの対価を求める者だが。
その中でも特に気に入った人間を、伴侶や我が子とする者も多いという。ノスフェラトゥの冥婚なんかが、その代表的な例だろう。
トムを育てながら、ナギニはそんなケダモノたちの気持ちが良く分かる気がした。とっておきの人間は、こうして手元に置いておきたくなるものだ。
それが情愛か食欲かは、ケダモノの性として曖昧なのだが。少なくともナギニは今、トムとのこの暮らしが、悪くないものだと感じていた。
やがてトムが成長し、十二を超えた頃になると、ナギニは彼を連れ立って、度々人間の世界を訪れるようになった。
今までもトムの世話をするために、何度か訪れたことはあったが。トムの身を案じて、彼を連れていくことは無かった。
だがトムも十二を過ぎ、そろそろケダモノ以外の存在についても、教えた方が良いと思い。彼を連れて人間の世界を訪れることを、ナギニは決意した。
人間の行きかう闇の森の外の世界に、トムはとても驚くと同時に、強い興味を惹かれているようだった。ずっと闇の森で育ってきた彼にとっては、自分と同じ人間がこんなにもいる場所があるなんて、夢にも思わなかっただろう。
商店で林檎を買い与え、美味しそうに食べるトムを見つめる。道を行きかう人々には、親子か姉弟のようにでも見えているのだろうか。
もし、トムがこの世界で生きたいとナギニに言うなら、ナギニはトムを喰らうつもりだった。自分の手元から去ってしまうというのなら、その前に腹の中に入れてしまうのが得策だ。
だがトムは人間の世界を訪れるようになっても、変わらずナギニの傍にいてくれた。そのことをナギニは嬉しく感じると同時に、どこか残念に思ってしまう自分に気付いていた。
もっとも。それはあの日の午後、トムが市場の片隅で鎖に繋がれた、奴隷の男を見つけるまでの話だ。
「ナギニ、あのひとはなんで繋がれているの?」
不安そうな表情で男を見つめながら、トムはナギニに尋ねる。
「あれは奴隷。人間でありながら、モノとして扱われるから、どんなに酷いことをされても買った人間に逆らえないのさ」
「どうして?あの人がなにか悪いことしたの?」
「いんや……強いて言えば、戦争に負けた国の人間だからだろうね」
当時はセルペンス帝国という巨大な国家が、他国への侵略を繰り返しており。敗戦国の人間は、もれなく奴隷にされて酷使されていた。
ケダモノであるナギニとしては、人間が奴隷にされようとどうでも良いことだったが。同じ人間であるトムは、そうは思わなかったらしい。
「ナギニ、どうにかしてあの人を助けられない?」
ねだる様に言って、奴隷の男を指さすトムに。ナギニは静かに、被りを振って見せた。
「無理だね。たった一人助けたところで、奴隷制度がなくなるわけじゃあない。それに可哀想だから、なんていう理由でいちいち誰かを助けていたら、いつまで経ってもキリがないね」
「そんな……」
「さあ、そろそろ帰るよ、トム。美味そうなパンが手に入ったから、帰って夕食にしようじゃないか」
それでもなお、奴隷の男を見つめるトムの手を引いて。ナギニは回廊へと向かうと、闇の森へと戻る。
ナギニがこしらえた夕食を食べる間、トムはずっと無言で、俯いていた。
その日の晩のことだった。
夜の散策からナギニが戻ると、住処にあるトムの寝床が空っぽになっていた。
しまった、トムを一人にするんじゃなかった。湧き上がる後悔と自責の念を押し込んで、ナギニは回廊へと向かう。
トムの向かった先は、あそこしかないだろう。回廊をくぐると、ナギニは真っ直ぐ夜の市場へと向かう。
市場はしんと静まり返っていたが、ナギニの知覚にはすぐに反応があった。立ち並ぶ焦点の裏通りに、複数の人間とあの子の熱反応がある。
「トム!」
すぐさまナギニが裏通りへ向かうと、そこでは奴隷商人の男たちに囲まれて、トムが手酷い暴行を受けている所だった。
ナギニの存在に気付くと、トムは青あざができ、晴れた顔を上げる。
「な、ナギニ……」
「ああん、何だお前は」
同時に、トムを袋叩きにしていた屈強な男たちが、ナギニの方に視線を向ける。
「こんなところに何の用だ。用が無いなら、邪魔をしないで貰えるかな」
「……トムを」
「あん?」
「傷つけた報いを、受けてもらうよ!」
叫んで、ナギニは本体を現す。男たちが絶叫を上げる間もなく、大口を開け、一人一人丸呑みにしてゆく。
飲みこまれた男たちの肉を、消化液で溶解し。美味くはないが腹の足しにはなる魂を吸収すると。
ナギニは疑似餌を出しつつ、ボロボロのトムに駆け寄った。
「トム!」
「ナギニ……」
「今助けてやるからね。しっかりするんだよ!」
疑似餌でトムのことを抱え上げると、トムはナギニに対して弱弱しく笑って見せた。
「あの人、助けられたよ。おかげでこんな目に遭っちゃったけど……」
「馬鹿!助けたって無駄だって、言っただろう?それなのに、なんでそんなこと」
「それでも。無駄でも、僕の手が届くなら。僕はその人を助けたい、助けられる人は助けたいんだ」
そう言ってトムは目を閉じると弱弱しく微笑み、片手を伸ばして疑似餌の頬に触れる。
「ねえ、ナギニ。ケダモノは、人の魂と引き換えに、願いをかなえてくれるんでしょ」
「……」
それは、ほかならぬナギニが教えたことだった。
「僕の魂をあげるから、どうか、苦しんでいる人たちを助けてあげて」
「……は」
ずっと食べたかった、トムの魂は。今この瞬間、とても美しい輝きを放っていた。
大口を開けて、ばくりと飲みこむことは容易いだろう。契約は結ばれるものの、解釈はいかようにでもなる。
だが。ナギニはトムを食べる代わりに、疑似餌の腕でそっと彼を抱きしめた。
「それはお前が自分自身でやるべきことだよ、トム。もしその過程でお前を傷つける奴がいたら、さっきみたいに私が食べてやるからねえ」
「ナギニ……」
ナギニの言葉に、トムは大きく目を見開くと。そのまま涙を浮かべて、嬉しそうに微笑んで見せた。
それからトムは、人間の世界で奴隷を解放するようになった。
最初はナギニの力に頼っていたものの、さらに成長し、解放された者たちから信望を集めるようになると、ケダモノの力に頼らなくても解放活動を行うことが出来るようになった。
当然奴隷商人や、時にはセルペンス帝国の騎士団と衝突することもあったが。ナギニの助力はもちろん、トムには人を率いる才能があったらしく、解放した者たちと共に次々と敵を打倒していった。
やがて解放された人数も膨大になり、セルペンス帝国も無視できないような、一大勢力となった頃。
「国を、作ろうと思う」
立派な青年へと育ったトムは、傍に付き従うナギニに、そう打ち明けた。
「セルペンス帝国の南東に、巨大な地下空洞があるだろう。そこに皆で移住し、地下王国を作ろうと思う」
「それは、随分と大した考えじゃないか」
「ああ。その国では奴隷として虐げられる者もなく、皆が平和に暮らせるんだ。自分で言うのもなんだが、素敵な考えだろう」
そう言って笑みを浮かべるトムは、成長こそしているものの、幼いころの面影がはっきりとあり。
ナギニは疑似餌の顔に微笑を浮かべながら、彼に頷いて見せた。
「なんというか、あんたらしい考えだね。いいじゃないか」
それからほどなくして、セルペンス帝国南東の地下空洞に、トムを王とするサアプ王国が建った。王になると同時に、トムはその名をナーガラジャ一世と改め、セルペンス帝国の第二王女をその伴侶とした。
ナーガラジャ一世は帝国との関係や地下空洞の整備に苦悩しつつも、その言葉通りに平和に国を治め、王妃との婚姻を縁に帝国とも対等な同盟を締結した。
国民はもちろん、他国の人々からも慕われて評価される、立派な賢王となり。王妃との間には子宝にも恵まれて、彼は王としての責務をこれ以上ないほど立派に果たしてみせたのだ。
そんなナーガラジャ一世の活躍を、ナギニは地下空洞の片隅から静かに見守っていた。
ナーガラジャ一世が神殿を建ててくれたことにより、魂には困らなかったが。守護神として祀られることは拒み、王国の片隅に小さな民家を貰いそこで隠れ住むことにした。
サーペントの力で、自分を無害な存在に脱皮させ、人に交じって暮らしながらも。ナギニは自分の育てた少年の築いた国の発展を、ただ静かに見守り続けた。
そんなある日のこと。民家に一通の文が届いた。
そこには、老いたナーガラジャ一世がナギニを呼んでいるとの旨が書かれており。ナギニは迷ったものの、脱皮してケダモノの力を取り戻すと、彼の待つ離宮へと向かった。
ナーガラジャ一世はここ半年ほど体調を崩しており、政務のほとんどは息子に引き継いで、この離宮で静養しているとのことだった。
蛇の紋章が刻まれた扉をくぐって、ナギニは離宮の中に入り、彼の待つ寝室へと向かう。
部屋の中に入ると、ベッドに横たわっていたナーガラジャ一世が、ゆっくりと体を起こした。しばらく会わないうちに、すっかりと衰え、やせ細ってしまった彼は、それでもナギニの姿を見ると、嬉しそうに微笑んで見せた。
「ナギニ、よく来てくれた」
「元気だったかい、と言いたいところだけど。どう見ても元気がなさそうだねえ」
ナギニの言葉に、ナーガラジャ一世は静かに目を伏せる。
「そうだな。わしはもう長くない。今月いっぱい、生きられるかどうかというところじゃろう」
「それは……」
「だからこそ、お前を呼んだんじゃ、ナギニ。遠い昔の、約束を果たす時が来た」
そう言って、トムは手を伸ばすと、疑似餌の頬に触れる。永遠に近い寿命を持つナギニにとっては、つい昨日のように思えることも。人間であるトムにとっては、はるか昔の出来事なのだろう。
「ナギニ。わしの、魂を喰らっておくれ。今までわしのことを、助けてくれた対価じゃ」
「……」
黙り込むナギニに、ナーガラジャ一世はしばらく見つめていたが。やがてふっと形相を崩し、静かに目を閉じた。
「何ていうのは、建前での。本当はお前さんだから、魂を食って欲しいんじゃ」
「それは」
「ケダモノでありながら、わしを育て、見守ってくれたお前さんじゃ。死ぬときは、その手で死にたいと思うのは、悪いことじゃろうか」
「……いいや」
彼の言葉に、ナギニは静かに被りを振って見せた。
「悪くはないさ。むしろお前らしい願いだねえ、トム」
「……その名前で呼ばれたのは、久しぶりじゃな」
「何を言うんだい。私の中でお前はずっと、小さな可愛いトムだよ」
そう言ってナギニは疑似餌の手を伸ばすと、トムをそっとベッドに寝かせる。
横になったトムは、手を組んで目を閉じ、微笑みを浮かべてナギニに言った。
「ありがとう。おやすみなさい、かあさん」
「……」
返事は返さず、ナギニはそっと、トムの胸に触れる。その胸から、拾った時と変わらず、いやより一層美しい輝きを持った、魂を抜き取り。それを自らの胸の中に取り込むと、そっと立ち上がった。
トムに対して、人間の言う母性のようなものは、ただの一度も感じたつもりはなかったが。それでも彼の魂を得たせいなのか、離宮を去るナギニの心は、いつになく満たされた気持ちでいっぱいだった。
それから。ナギニはナーガラジャ一世の死後も、彼の興した地下王国が滅びるその日まで、ずっとそばから見守り続けた。
やがて王国が滅びた後も、闇の森に取り込まれたその跡地を住処として、世界各地に散らばった彼の子孫を見守り続けた。
それでも時折、どうしようもなく虚しくなって。そんな時は自分で自分をを石化させ、朽ちた離宮の廃墟で眠りについた。
どれぐらいそうしていただろうか。ふと、誰かが自分を呼ぶ声がした。
「ケダモノ様、ケダモノ様!どうか我らの願いをお聞き届けください!」
END