ルシファーの盛大な勘違いについて1 アラスターと恋人関係になってからというもの、ルシファーは幸せの絶頂期にあった。万年の生の中、これほどの幸せは娘を授かった時以来だ。
ルシファーは愛情表現に余念がなかった。二人きりの時はもちろん、人目があろうがなかろうが、憚ることなくアラスターに愛を示す。
熱い眼差しを向け、甘い言葉を囁き、アラスターに向ける全てが愛で満ちていた。
『……それ、やめてくれませんか?』
「どれだ?」
『それです』
今日のルシファーは、仕事で一日中ホテルを留守にしていた。戻ったのは時計の針が二本とも頂上を過ぎた頃だ。
流石に娘や恋人の顔を見るのは難しいと諦め、ルシファーは一人で就寝の準備を整えていた。
そこへ、帰宅を察知したアラスターが尋ねに来てくれたものだから、ルシファーの疲れは彼方へ吹き飛んだ。
恋人の両手を掬い上げて、ソファへ誘導する。整えられた指先にキスを贈ると、軽やかなリップ音に反応して鹿耳がピルルと揺れた。
顰めっ面になったアラスターが言うのは、どうもこの一連の流れのことを指しているらしい。何が駄目なのだろうか。
『子ども扱いはやめてください』
ルシファーは目が点になる。何故そういう発想になったのか分からなかった。
「してないよ。これは愛情表現だ」
『子どもへのそれでしょう』
「いいや。そりゃあ、チャーリーが小さかった頃は似たようなことをしていたが……」
そこでようやく理解が及び、ルシファーは一旦口を閉じる。
そういえば、アラスターは恋人がいた経験がないんだった。彼の中でこういった愛情表現は、幼い頃に親から貰ったものしか存在しないのかもしれない。
「さすがに今のチャーリーにこんなことはしないぞ?」
アラスターが懐疑的な目を向ける。
『どうでしょう。あなた、未だにチャーリーを子ども扱いじゃないですか』
「そりゃあ我が子だ。どれだけ大きくなっても、私にとってはずっと可愛い子だよ。でもアル、君は違う。私の恋人だ。そうだろう?」
細い腰に手を回すルシファー。肉付きを確かめるよう掌でなぞると、アラスターは目を泳がせた。
ルシファーは恋人を見つめたまま、彼の手を取り甲に口付けを落とす。ようやく目が合った恋人は眦を染め、照れているようだった。
アラスターは暫し逡巡してから飲み込めたらしい。小刻みに何度か頷いた。
そしてルシファーの手を取り、同じように指先に口付ける。いたずらっ子のように笑いながら、小首を傾げて恋人を見下ろした。
『……こうですか?』
してやられた。そう思いながらも喜びは隠しきれず、ルシファーは思いのまま恋人を抱き締めた。
*
アラスターが恋愛関係に不慣れだというのは、付き合ってすぐに実感した。先のように愛情表現を理解できなくて拗ねたり、ルシファーの言動に目を白黒させたりと、ぎこちない様子が多い。
ルシファーはそれを厭うことはなかった。分からないなりに受け入れようと努力するアラスターの姿は微笑ましかったし、こういった初々しい反応は今だけの特権だ。子どもの成長を見守るような心地で、恋人の反応を楽しんでいた。
だからアラスターをベッドに押し倒した時、彼が身を固くしても気にしなかった。よく見る反応だったからだ。
そのままことを進めていき、服の中に手を忍ばせた辺りで、ルシファーはようやく違和感に気付いた。
「……アル?」
いつもならルシファーが触れている内に強ばりが解けていくのに、今日はずっと固いままだ。心なしか肌も冷たい。
ルシファーが顔を上げると、アラスターは顔も体も強ばらせて、何かを耐えるように唇を噛み締めていた。こんな反応をされるとは思ってもいなかったルシファーは狼狽える。
「アル? どうかしたか……?」
こういったことには慣れているだろうに、どうしてそんな反応をするのだろう。
こんな、まるで生娘のような──
そこでルシファーは気付いた。ある可能性が脳裏に過ぎる。
(まさかそんな……有り得るのか? この地獄で?)
ルシファーは怖々と口を開いた。
「……もしかして、セックスは初めてか?」
アラスターは音を立てて固まった。彼がこの手の話を嫌っているからと話題に出したことすらなかったが、その弊害がこんな形で現れるとは。可哀想だが、こればかりは答えてもらわなければならない。
たっぷり時間をかけて復活したアラスターは、これまたたっぷり時間をかけて頷いた。
「……えっ」
ルシファーは思わず声が出た。疑問符を浮かべながら尋ねる。
「君、生前はモテたんじゃなかったのか?」
『……確かに懸想されることは多かったですが、恋人はいませんでした。ハスクから聞いた筈では?』
「それは確かに聞いたが……」
『なら、初めてで当然じゃないですか』
「えっ」
ルシファーは再度声をあげた。
今、凄く地獄に似つかわしくない価値観を浴びた気がする。
「……もしかして、女性ともしたことがないのか?」
『そうですが……』
アラスターは訝しげな顔をする。何を当たり前のことを、と顔に書かれていた。
「……つまり、キスも私が初めて?」
『…………』
無言のまま睨み付けてくるアラスター。だが顔は赤く染まっているし、目は潤んでいる。全く怖くなかった。
あのアラスターが。罪人たちから恐れられているラジオデーモンが。慇懃無礼な、紳士の顔を被った悪魔が。色恋に関してはこんなにも清廉潔白だったなんて。
ルシファーは背後に宇宙を背負った。たった今提示された情報が理解できず、思考が停止する。
だって、彼は罪人である。
ルシファーは万年もの間、地獄に落ちた罪人たちを見てきた。それこそ、嫌になるほどに。
彼らは自由で、残虐で、淫奔だ。ペンタグラムシティにある店の半分はセックスに関係するものだというのに、思いのままそこらで合体していたりと、やりたい放題だった。
そんな罪人の一人であり、罪人の代名詞のような残虐性を持つアラスターも、似たようなものだと思っていたのだ。生前も死後も人気だったようだから、紳士ぶって表には出さないだけで、それなりに楽しんでいるのだろうと思い込んでいた。例え恋愛には不慣れであろうと、セックスには慣れているだろうと。
(だって……恋人にならなくても、セックスはできるじゃないか)
悲しいかな、万年の地獄生活でルシファーの価値観はすっかり歪んでいた。
そこに投下された、恋人の清純な一面。
地獄では見られない筈の、人間の清らかな部分。
ルシファーの脳裏に描いていたアラスターのイメージが瞬く間に崩れていく。
ルシファーに乗りかかり腰を振るアラスターもいなければ、股ぐらに顔を埋めるアラスターも現実にはいない。
いるのはルシファーの一挙手一投足に身を固くして体を震わせる、性を知らない生娘のアラスターである。
「……えっ」
ルシファーは三度声をあげた。全く理解が追い付かない。
石のように固まる恋人に向けて続けるアラスター。
『……この際だから言っておきますけど、私が恋人になりたいと思ったのはあなたが初めてですし、デートもあなたが初めてです』
ルシファーは側頭部を殴られたかのようか衝撃に襲われる。ぐわんっ、と脳みそが揺れる感覚。
(……それはつまり、アルにとって私は初恋の相手で、初めての恋人で、初めてのキスの相手で、初めてのデートの相手で……そして──初めてのセックスの相手になる?)
ルシファーの全身を灼熱が駆け巡る。あまりの衝撃的事実に背中から六枚羽が飛び出した。
ビクリと体を震わせるアラスター。その頭上には大量の疑問符が飛んでいる。
たっぷり沈黙を続けたルシファーは、翼を収納しながら重々しく口を開いた。
「……アル」
『?? はい』
「大事にする」
『? もう十分してもらってます』
「そうか」
ルシファーは恋人の額にキスを落とし、彼の隣に寝転がった。不安げな様子のアラスターを抱き締め、毛布を引き上げる。
「大丈夫。もう何もしない。一緒に寝るだけだ」
何度もキスを繰り返せば安心したのか、腕の中の細い体から力が抜けた。柔らかなストロベリーヘアーに手櫛を通して感触を楽しみながら、ルシファーは決意する。
(ゆっくりやっていこう。当初期待していた、めくるめく熱い夜は遠のいたが……構わない。時間はたっぷりあるんだからな)
枯れ知らずのルシファーに、恋人とセックスをしないという選択肢は存在しない。彼は今も天使の性質を持つ男ではあるが、きちんと地獄に住まう悪魔でもあった。
(絶対にぶち込んでやる)
ルシファーが何を考えているかなど知りもしないアラスターは、恋人の腕の中で微睡み始めていた。