ルシファーの盛大な勘違いについて3 体に重くのしかかる疲労感のまま、ルシファーは四肢を自室のソファに投げ出した。長く深い溜め息を吐く。
結局あの後、アラスターはそう時間も経たない内に眠ってしまった。なんだかんだ忙しい男だ。疲労が溜まっていたのだろう。
お陰でルシファーは苦悶の時間から解放されたが、その頃には既に息子が元気になってしまっていた。とはいえ、無防備に眠る恋人に手を出す訳にもいかない。
ルシファーは一人寂しく風呂場で処理することになった。とても虚しかった。
しかも厄介なことに、アラスターはボディマッサージが気に入ったらしい。あれ以降、度々ねだってくる。
自立心が強く、ほとんどのことを自分で解決するアラスターが、おねだりをしてくるのだ。ルシファーは叶えるしか選択肢がなかった。
おねだりされる度、理性が焼き切れそうになるのを死ぬ気で繋ぎ止める為、最近のルシファーは疲労困憊だ。それでも、ここで欲望に負けてしまえば、今まで培ってきた信頼が一瞬で無に帰す。それは絶対に避けねばならなかった。
例え血の涙を流そうとも。虚しい夜が続こうとも。愛しい恋人の為に。
(辛い……嬉しいけど辛い……)
ただ、ルシファーが苦悶の日々を送ったお陰で、アラスターも肌の接触にはかなり慣れたらしい。もう不意に肌に触れても体が驚く様子ない。
ルシファーは次の作戦を実行することに決めた。
***
「一緒に風呂に入りたいんだ」
ルシファーは恋人に真正面から、堂々とそう告げた。告げられたアラスターはというと、しらけた目でルシファーを見下ろしている。
『……はあ、風呂に……ですか?』
「そうだ」
ルシファーは力強く頷いた。
肌の接触に慣れたのなら、次は裸だ。
急に裸で触れ合おうという訳ではない。裸の状態で向き合うことに慣れてもらい、本番での羞恥を少しでも和らげようという目論見だった。
とはいえ、いきなり裸を見せ合うというのはアラスターには酷だろう。ルシファーはある物を用意していた。
「ちゃんと湯着も作ってもらったんだ」
ルシファーは準備していた物を差し出す。バスローブに似た形をした、白い肌着のような服だ。アラスターはそれをつまらなさそうに検分している。
『ふーん……?』
反応が悪い。これは断られるパターンだ。
しかし、ルシファーには奥の手がある。
「恋人らしいことがしたいんだ。な? お願いだ、アル」
ルシファーは上目で頼み込んだ。途端、アラスターは眉尻を下げて考え込む素振りを見せる。
ルシファーの言う奥の手。それは──“お願い”だ。
意外なことに、アラスターは恋人からの“お願い”に弱かった。ルシファーが頼み込めば大概のことは聞き入れてくれる。
実際“お願い”により、アラスターは生活のほとんどをルシファーの部屋で過ごしてくれるようになったし、ルシファーが用意した色違いのお揃い一式(パジャマ、バスローブ、ガウン)も着用してくれている。
全てを受け入れてくれる訳ではないが、彼なりに恋人に応えたいと思っているのだろう。いじらしい姿はルシファーの胸をときめかせた。
以前、外でカップルジュースを飲みたいとお願いした時は断られてしまった(恥ずかしかったらしい)が、今回はどうだろうか。ルシファーはじっと恋人の反応を待つ。
アラスターは湯着を見つめたまま、たっぷり十分の沈黙を貫き、やがて小さく頷いた。
『……分かりました』
ルシファーは内心でガッツポーズを取る。
それを表に出さないよう必死で隠しながら、恥ずかしそうに目を伏せる恋人の手を取り、ウキウキな足取りでバスルームに向かった。
*
数十分後。ルシファーは後悔し始めていた。
『これ、いい香りですね。どこの入浴剤ですか?』
バスタブに張った湯に浸かりながら半透明のそれを掬い、アラスターは柔和に目を細めた。
バスルームにはスッキリとした緑の香りが漂っている。湯に入れたバスミルクの香りだ。
「確か……もみの木の香りだったかな? ベルが私用に調合してくれた物だから、市販はされてないぞ」
『ベル……ベルフェゴールですか? 怠惰の王の? それはそれは。残念です。好きな香りなのに』
「気に入ったのなら好きに使えばいい」
『よろしいんですか?』
「ああ、勿論」
『ありがとうございます』
珍しくはにかむアラスター。よほど気に入ったらしい。ルシファーもつられて微笑み、ゆっくりと湯気でぼやける天井を仰ぎ見た。
(……可愛いな)
二十四時間三百六十五日ずっと可愛いアラスターだが、今日は一段と可愛い。
最初こそ緊張していてどうなることかと思ったが、ルシファーが頭を洗ってあげてからはリラックスできているようだ。日頃のマッサージ体験が功を奏したらしい。苦しみながも続けた甲斐があった。お陰で想定よりも穏やかなバスタイムになっている。
ただ、一つ問題が発生した。
ルシファーは可愛い恋人を、改めて正面から見つめる。
体温が上がって紅潮した肌。濡れてしんなりと垂れる鹿耳。輪郭を伝う水滴。肌に張り付いて透ける湯着。
そう──透けている。肌を見せない為の湯着なのに、透けているのだ。
(……生地が薄過ぎる!)
ルシファーは下唇を噛んだ。これは想定外だった。
確かに作成を依頼した時、水を吸った時に重くなるのが嫌だから、なるべく軽くしてほしいとは頼んだ。頼んだが、透けたら意味がない。
(何故だ オジーに頼んだのが駄目だったのか)
その通りである。よりにもよって色欲の王に「恋人と一緒に入浴したいから湯着を作ってほしい」なんて頼んでしまったものだから、アスモディアスは「なるほど。そういうプレイか。楽しんで!」とわざわざ透ける素材で作ったのだ。完全に人選ミスで伝達ミスだった。
アラスターは気付いていないのか、それとも湯が半透明だから気にしていないのか、普通に入浴を楽しんでいるようだ。それがなによりの救いだった。
(でもこれは……思ったより辛いぞ……)
正直言って目に毒だ。裸を見るより辛いかもしれない。マッサージの時にも思ったが、中途半端に肌が見え隠れしていると、隠れている部分を暴きたい衝動に駆られてしまうのだ。
(チラリズムってえっちだな……鎮まれ! 私の私!)
ルシファーは一人で大忙しだった。
どれだけ見てはいけないと頭で考えていても体は正直なもので、必死に目を逸らそうとしても気付けばアラスターを見つめている。
熱い視線を向けられているアラスターは、ルシファーが浮かべたアヒル人形を指で弾いたり、湯に波を立てて追い返したりと楽しそうだ。最初は『子どもじゃないんですから』と文句を言っていたのに。彼はたまに、やたらと無邪気なところがある。
ふと、アラスターと目が合った。見られていることに気付いたらしい。
『……何ですか?』
少しムッとした表情。人形で遊んでいる姿を見られて恥ずかしがっているようだ。ここで機嫌を損ねられては困る。ルシファーは慌てて誤魔化した。
「いやぁ、その……改めて、アルがこういったことをしてくれるのが嬉しいなぁって……」
『……一緒に入浴することが、ですか?』
「私の為に歩み寄ってくれていることが、だ」
咄嗟に出てきた言葉だが、嘘はない。常日頃アラスターを見ていれば、彼が如何に他者からの接触を嫌っているのかよく分かる。
潔癖なのではない。とにかく気を許していない相手から自分を好き勝手にされるのが我慢ならないのだ。何事にも主導権を握りたがるアラスターらしい性質だった。
それなのに、ルシファー相手には様々なことを許している。アラスターの肌に触れる度、それを当然のように受け入れる姿を見る度、彼にとってルシファーは特別な存在なのだと実感する。
だからルシファーは、感謝と愛を込めて微笑んだ。
「お願いを聞いてくれてありがとう、アラスター」
アラスターは暫くポカンと、珍しく間抜けな顔をして固まった。暫くして頬にじわじわと赤味が増していき、赤い目が戸惑った様子で右往左往する。徐に湯船から立ち上がるアラスター。
『……先に出ますっ』
そのまま鹿の悪魔らしい素早い動きで脱衣所へと走り去って行った。バスルームがシンと静まり返る。
一人残されたルシファーは、瞬き一つできずにいた。先程見たものが目に焼き付いて離れない。
半透明の湯から抜け出したアラスターの体。濡れた湯着がピッタリと全身に張り付き、所々透けて赤らんだ肌が見えていた。
それが、ルシファーの目の前に無防備に晒されたのだ。しかも何故か、やたらと可愛らしい表情付きで。
「…………」
ルシファーは無言で湯船の中へと沈んだ。