ぜんぶ雨のせい あまりよく覚えていないけど、あの日は確かに雨だった。
ぼんやりとした記憶だが、雨の日なのに夜に突然恋人のおひいさんが新作のアイスクリームが食べたいからコンビニに買いに行けと言ったのだ。
その時オレはむしゃくしゃしていた。
その日の仕事のスタジオ収録でおひいさんの機嫌が悪くなりスタッフと険悪になったのをなんとか取り繕いつづけたら何故か2人の矛先がオレの方に向いて何かと嫌味を言われ続けたからだ。
確かその後は星奏館のおひいさんの部屋に2人きりでいたと思う。
その新作のアイスクリームは話題で昨日も見たが売り切れていた。もう疲れていたし、お風呂にも入っていたのにまた着替えて外に出て濡れるのが嫌だった。
「嫌です」
思った以上に冷たく言い放つ。
そして、その日はおひいさんも機嫌が悪かった。
朝からの雨で空気がじっとりとしていて髪の毛がずっとまとまらず朝からイライラしていた。
「ジュンくん嫌い」
冷たくオレに言い放った。
「もう、あっちいって」
不機嫌なあの顔をした。
「ああ、そうかよ」
オレの中でその時猛烈に怒りが込み上げる。
「あんたはいつもそうだよな」
思った以上に大きな声になる。
「結局付き合ったところで、オレは奴隷のようにあんたのわがままを聞かなきゃいけないんだ。うんざりする」
こういうの、キレたって言うんだろう。
「なに、ジュンくん。恋人のぼくのわがままがきけないの」
「そうですねぇ」
「じゃあ、恋人でいる意味ないよね」
その言葉にカチンときた。
「ああ、そうですか」
おひいさんはずっと背を向けてぬいぐるみを抱きしめていた。
「わかりましたよ」
荒々しく自分の荷物を手に取って、矢継ぎ早にその部屋を出て行った。
廊下を歩き自室に戻りながら、ずっとドロドロとした怒りを抱えていた。
廊下の床は雨のせいで湿気てツルツルと滑りそうになった。
ああ、最悪だ。
雨音が閉じた窓からも聞こえるほどだった。
雨のせい、雨のせいだ。
全部今日雨が降っているせいだ。
オレはむしゃくしゃな気持ちを眠らせようと、滑りこむように自分のベッドに移動した。
ああ、腹立つ。
耳を塞ぎたくなるほどの雨音を遮断するかのように布団の中で丸くなって眠った。
びっくりするかもしれないが、これでオレ達は別れた。
数日後におひいさんと再開した時、おひいさんはあたかも付き合う前みたいに振る舞った。それがまたオレを苛立たせた。そうして1日、1週間、1ヶ月とお互い謝らないまま月日が経過していく。
オレ達が付き合ったのは、1ヶ月丁度だった。
でもその1ヶ月はよく覚えている。
まるで線香花火みたいだった。
もともと、おひいさんのことを好きだと思った事、もしかしたらおひいさんもオレの事を好きなんじゃないかと思った事、そしておひいさんに好きだと告げたこと。そのすべてに沢山時間がかかっていた。
「もう、待ちくたびれたね」
好きだと告げた時おひいさんにそう言われた。
それからは華やかにパチパチと弾ける花火のようだった。
オレ達は少しの時間でも2人きりになろうとした。
それは本当に1分しかない時もあった。
その1分間、存分にキスをしたり抱きしめあった。
特にキスはその1ヶ月数え切れないくらいした。
星奏館の各々の部屋でもそうだし、トイレでも、お風呂でも洗面所でもクローゼットの中でもした。廊下でも階段でもしたし、夜中の共有ルームの死角、共有キッチンでもダイニングでも隠れるようにキスをした。楽屋でもレッスン室でも舞台袖でさえもした。
爆ぜる線香花火のように一回一回のキスは激しくて熱かった。
だけど、それは1ヶ月で儚げに消えた。
あの雨の日にだ。
それから、実は何年も何年も経過した。
オレは立派な大人と言える年齢になった。
おひいさんとは少しずつ少しずつ離れていった。突然呼び出されて荷物を待たされる事も、一緒に待ち合わせて仕事に行く時に来なくて探し回ることも、休みの日に突然おひいさんのサークルに呼び出されて一緒に参加させられることも、本当に少しずつ誰も指摘しないくらい少しずつ減って、一つずつ無くなっていった。
今では一緒に仕事をすることが年に数回あるかないかという感じだ。
Edenのメンバーがそもそも、各々で好きなように活動している。ナギ先輩は数年前に趣味でしていた考古学の発掘で歴史的発見をし、今では米国のとても有名らしい権威ある大学の学生をしながら、仕事があれば帰国するという生活をしている。茨は青年実業家としてかなり成功して茨塾というオンラインサロンだけで食っていけるのではと言うくらい人気だという。
おひいさんは1番謎だ。どうやら巴財団の仕事をしているみたいだが、年に一回くらい何かの映画かドラマに準主役くらいで出ている。あとはCMだ。1番割にあっているのか、芸能人の中でもトップクラスに多い。だからゴールデンタイムや人気の動画を見ていれば必ずおひいさんの顔を見る。
オレは1番真っ当に芸能活動をしている。舞台やドラマ、ソロでも歌って、ツアーもこの前した。レギュラーでテレビの仕事を何本か持っている。
オレのアイドル人生は順調だといえばとても順調なのだ。
じゃあ、おひいさんとのことは全く終わった事になっているか、と言われたらそうではなかった。
おひいさんとはあれから衝動的に抱き合うことが何度もあった。
必ずライブやツアーが終わったその日の夜にオレ達は抱き合う。
最初はあの別れから半年後くらいにあったEveのツアーの打ち上げの後の事だった。
まだお酒を飲み慣れてないオレとランナーズハイのような感じで高揚としていたおひいさんが肩を寄せ合って打ち上げ会場の近くに取ってもらったホテルの部屋にそれぞれ戻っていった。
寝る前にシャワーを浴びようとしたら全然お湯が出なかった。オレは隣の部屋にいるおひいさんの部屋のドアを元気よく叩いた。多分オレも少し酔っていたんだろう。おひいさんがドアを開けると少しお酒の匂いがした。なんだかそれが嫌で、なんだかあんたが汚されたような気がして、気がついたらおひいさんに覆い被さってキスをしていた。
おひいさんを抱く時は酔っているのと疲れているのが混ざり合ってほとんど覚えていない。ただ、最初衝動的に押し倒した故に何も性交渉するための道具がなくて、あ〜っと思っていたら、おひいさんがカバンの中から避妊具を一つ出して渡してきたのは覚えている。
なんだか、それがめちゃくちゃ嫌だった。
そう、なんだか腹立たしかった。
でも結局オレはそれを使った。
その後からはオレがきちんと用意するようにした。2回目にそう言うことになった時、おひいさんは繋がる時に痛そうに顔を歪めていることに気がついた。そうだ。オレ達は男同士なんだから、滑らかにする為には潤滑剤が必要だった。だけど、それをわざわざ用意する気は毛頭なかった。そんなのを用意するなんて、あんたを抱きたくて堪らないって言っているみたいでできなかった。だからせめて、オレが用意する避妊具にはローションがたっぷりついたものを必ず選ぶようにした。年に数回、ここ数年は年に一回、必ずオレは用意した。
終わったら、部屋に来た方が自然と朝までにいなくなった。そういうルールになった。そして次の日から何もなかったみたいに日常が始まるのだ。
おひいさんを抱いている時はあまり記憶がない。でも、決して好きだとかは言っていないと思う。
決して、決して、決して言っていない。
ただずっと後悔している。
どうしてあんなふうにあんたの顔を見ずに部屋をでていったんだろうか。
雨に濡れてでも行けばよかった。
いや、それならもう少し優しく言えばよかった。
いや、次の日にきちんと謝ればよかった。
あんなに好きな人だったのに。
月日が経つにつれて夢のように感じた。
おひいさんを抱いた時だけ、あれは夢じゃなかったんだと感じれた。
どうして、あんなふうに別れたんだろう。
別れたいなんて一度も思ってなかったのに。
どうして、どうして。
オレはずっと何年もここに立っている。
『今年は空梅雨だったので、今日の雨は恵みの雨になるでしょう』
朝の空港の待合ロビーのテレビからそう聞こえてきた。珍しく、今日は地方でおひいさんと一緒に仕事だ。
朝イチの便で行って、最終便で帰る。
分刻みのハードスケジュールだ。
外はパラパラと雨が降っている。
雨は嫌いだ。
雨が降るといいことがない。
雨はどんどん強くなっていった。
見たことがないくらいの激しさだった。
それがすぐに弱まると思っていた。
しかし雨はおさまらない。
バケツをひっくり返したような雨が永遠と降る。
予定通り仕事を終えて帰ろうとなった時、スタッフが難しい顔をしてオレ達のところへ来た。
あまりの大雨で飛行機が飛ばないらしい。
それどころか、電車さえも止まったらしい。
オレ達はどこにも移動できないとわかった。
さっきからスマートフォンの警報が何度も通知される。
建物の外に出ると怖いくらいの大雨が降っていた。
「本当にすみません〜」
「ううん、天災だから仕方ないね!ホテルをすぐとってくれてありがとう」
迅速に現地のスタッフが割と良い部屋を日和とジュンそれぞれに押さえてくれた。とりあえず今夜はそこで雨が止むのを祈りつつ一晩過ごすことになった。
移動さえも大変で傘を刺してもびしょびしょになった。建物から見える歩いていける距離のホテルでさえもスニーカーがぐずぐずになって、変な音がしだす。
スタッフがホテルに説明をしたり手続きをしてくれる間、オレはおひいさんとロビーで待っていた。
広いロビーは突然の大雨で混んでいた。
オレとおひいさんは隠れるように1番端の壁側に立って待っていた。
「お待たせしましたー!あとこれ、うちのスタッフが買いに行ったんでよかったら召し上がってください〜」
「わー!これここの名物だね。食べてみたかったね!雨の中ありがとう」
日和は目立つような大声で喜んだ。
「おひいさん、声」
自然とジュンが2つ荷物を受け取る。
「一応1番いい部屋を2つ取れたんで、ゆっくりとは難しいと思いますけど、しっかり休んでください。本当にすみません…」
腰の低いスタッフがペコペコと謝りながら鍵を渡してくれた。
「君たちは大丈夫なの?」
「はい、私達はこの辺りに住んでいるので大丈夫です。何かありましたら駆けつけますし、飛行機の段取りが取れたらまた連絡します」
「うん、帰りは気をつけてね!帰ったらすぐに着替えてあったかくするんだよ」
半分くらい濡れているオレらにも言えることだ。
早く部屋に入ってそうした方がいい。
濡れているとホテルのクーラーは寒く感じる。
スタッフを見送ると、日和とジュンはホテルの部屋に向かおうとロビーを歩いていく。
「待ってジュンくん」
日和は立ち止まった。
「赤ちゃんの泣き声が聞こえるね」
確かに、ドアが開くたびにけたたましい雨音が響くロビーのどこかから赤ちゃんの泣き声が聞こえる。日和はその泣き虫を探しにいく。
「おや。君かな」
不安な顔をした母親がスマートフォン片手に操作しながら、もう一つの手でベビーカーを揺らしながら赤ちゃんをあやしていた。でもとてもじゃないくらい赤ちゃんは泣いている。
「こんにちは。大丈夫?何かこまっているのかな」
日和は優しく微笑みかけた。
「え、あ…あ…」
オレらを見てまず動揺したが、それどころではない状況で薄く母親が反応をした。
「赤ちゃん抱っこしても大丈夫?」
母親はこくこくと頷くと、日和はベビーカーから赤ちゃんを降ろして優しく抱っこした。
「よしよし、世界一キレイなお兄さんが抱っこしてあげようね」
赤ちゃんは最初は嫌がったものの、すぐに大人しく日和に抱っこされた。
「ふふふ、いい子だね。こんなにいい子だとぼく、連れて帰っちゃうからね。あったかいね。…それで、もしかして部屋を探しているの?」
「そうなんですけど…ここも周辺もどこも満室みたいで…」
絶望的な顔で話す。かなり歩き回ったのか疲れた様子だった。
「じゃあ、ぼくのお部屋をあげるね」
日和は迷わず言った。ジュンも多分言うだろうなと思った。
「いえ、あの、その…」
「何か食べたの?早くお部屋に入って着替えた方がいいね。ぼくはジュンくんのお部屋に泊まるからね。顔色が悪いね。風邪をひいちゃうかもしれないね。ほら、行こう。1番上らしいから。ジュンくん。案内してくれる?」
「はいはい」
案内しろという割に、勝手にスタスタ歩いて行ってしまうのがおひいさんなのだ。
母親はまだ動揺して遠慮がちにしていた。
「あの、気にしなくていいですよ。あの人しょっちゅうこんなことしているんで。言うこと聞かないとむしろ不機嫌になっちゃいますし」
「でも…」
「あの人不機嫌になるとめちゃくちゃめんどくさいんで、オレを助けると思ってついてきてください」
ね?と微笑みかける。
ふふ、っとやっと母親は安心したように笑った。
「ジュンくーん、エレベーターきたよ!!」
日和はやっぱり大きな声で呼んだ。
「ほら、いきましょう」
日和の腕の中で赤ちゃんはすやすやと眠りだした。
「かわいいけど赤ちゃんは大変だよね」
「…ですね」
「おひいさん抱っこめちゃくちゃ上手なんっすね」
「ふふん、まあね。お兄さんの天使ちゃん達を可愛がっているからね」
そうなのか。知らなかったな。
なんだか久しぶりに、オレの知っているおひいさんと会えている気がした。
結果として大きなダブルベットの広めの部屋に2人で一夜を共にすることになった。
自然とドキドキしてしまう。
結局日和はお弁当さえも彼女に渡して、オレと半分こして食べた。
久しぶりに昔のように話す。
2人とも着替えなんてないから、ホテルの備え付けのパジャマに袖を通すしかなかった。
雨は強く降っていた。
建物全体が雨が建物に当たる低音が常に付き纏っていた。
寝て起きたらきっと晴れているだろう。
オレは早々にベッドに横になる。
おひいさんはダイニングテーブルでずっとパソコンやスマートフォンを操作して何かしていた。
おひいさんが同じ空間にいることが久しぶりだった。
それだけでオレはなんだか安心してスッと眠りの国へ入ってしまった。
ふと、目を覚ますとおひいさんが横で膝を抱えて少し震えて座っていた。夜の漆黒の闇の中で力強く雨が大地に降り注いでいく。
「大丈夫すかぁ」
時間を見るとまだそこまで遅くなかった。
「起きたの?」
少し寂しげにおひいさんはオレを見た。
「雨苦手でしたっけ」
「うん…」
おひいさんは呟くように言った。
「雨は嫌い」
オレもだ。オレも雨は嫌いだ。
「ねえジュンくん、少しそばにいってもいい?」
思わずおひいさんのすぐ横に座る。
肩と肩が触れ合う。おひいさんはオレにもたれかかる。
「ねえ、なにか話して」
「えー、無茶振りな…じゃあとりあえず最近あったことでも話しますかね」
オレは口を開いた。今年あったこと、去年あったこと、一昨年あったこと、でもすぐに話し終わってしまう。
ピリリリリ♪
オレのスマートフォンが鳴る。
相手を見てすぐに通話ボタンを押すと玄関に移動した。
「うん。大丈夫。そう、ホテルで…そうなんすねぇ。ここは離れてるから大丈夫だと思うけど。うん。ありがとう。じゃあ明日」
彼女の〇〇ちゃんからだった。
ちょっと離れた地域が結構大変なことになっているらしく不安になって電話をくれたみたいだ。
「〇〇ちゃん?」
「そうっす」
「うまくいってるんだね」
「うまく…まあ、一緒には住んでますね」
実はおひいさんと別れてから、今まで何人も付き合った。お付き合いしたというならばおひいさんとが初めてでそういうことをしたのも初めてだった。
その後からぽつぽつとだが、ドラマや舞台で一緒になった縁で告白されて、話しやすいなとか楽しそうだなとか思えたら、よろしくお願いしますと返事をした。しかし、オレはどうやらつまらないらしい。だからか半年も待たずにフラれてしまう。
今の彼女とは珍しく一年続いている。第一印象がオレに似ていると思った。だからか、一緒にいて気が楽な相手だった。タイミングもあって、気がつくと一緒に暮らしていた。
でも、なんだか今思い出したくはなかった。
現実に連れ戻されたみたいで。
ピリリリリ♪
今度はおひいさんの電話が鳴る。
「〜Bonsoir」
多分フランス語だ。
今度はおひいさんが玄関に移動した。
知らない言葉を流暢に話す。
でも、オレはなんとなく相手のことを知っていた。
おひいさんは今、その電話の相手のフランス人と日本人のダブルの男性モデルと暮らしているようだった。
そのモデルは超がつくくらい有名で、世界有数のコレクションでは必ず起用されるくらい人気なのだ。
そのモデルがおひいさんに夢中で、わざわざ日本に住んでるらしいという噂を聞いた。主に茨から。
「ふふ、je t'aime…」
耳がぴくっと反応した。
その言葉くらいはわかる。
おひいさんはちゃんとその相手を愛しているのだ。
「ふう…」
少しため息めいた声を出して戻ってきた。
「パートナー、すか?」
「うん。まあ、そうなるかな?正しくは居候?」
とっても図々しい居候かな?と楽しげに笑う。
なんだか、本当に嫌だった。
当たり前だけど、オレ達はそれぞれ大人になった。
こんなにもあの1ヶ月が忘られないのはオレだけなのかもしれない。
オレはしょっちゅうあの時のことを考えてしまうから、何度も2人きりの時に謝ろうと思った。
どうして、どうしてと。
だから、それを終わらせたかった。
きっとあんたなら
「あはは、まだ覚えているんだね」
と笑う気もしていた。
それが、嫌だった。
もしそう言われたら耐えられないと思った。
オレは本当にあんたのことが好きだった。
今もあの時の気持ちが亡霊のようにオレにまとわりついて、本当に好きだったのか、それとも執着なのかもわからなくなっている。
もう嫌だ。
もうこんなふうにずっとあんたの事を考えて生きていくことに疲れてしまった。きっとおひいさんはそんなこと微塵も感じていないのに。
終わらせたい。
もういいんだ。
終わらせて、彼女のところに帰ろう。
なのにその言葉は出てこようとしない。
結局堂々巡りなのだ。
日和は部屋の大きな窓を触った。
常に大きな雨粒が窓に刺さるように当たってきた。
「…まるで、あの時みたいだね」
おひいさんはそう囁いた。
悲しそうな苦しそうな顔だった。
オレは驚いた。
その表情はオレの背中を押すには十分な力があった。
「……すみません…でした…」
ついにオレはその言葉を口にした。
日和の顔がゆっくり歪んだ。
「…え?」
「あのとき、オレ…」
突然せき切ったように感情が溢れた。
こんな豊かな感情が眠っていたのかとびっくりするほどだった。この豊かさがあればもっと表現者として素晴らしい作品になれるだろうに。
「あのとき…」
ぽろっぽろっと目から涙が出た。
一粒一粒丁寧に目から溢れていった。
「オレは、あんたのことが、大好きだったんだ」
過去形が、オレの心もえぐる。
ゆっくりとおひいさんはオレを抱きしめた。
「うん」
「だいすき、だったんすよぉ」
「うん、ぼくもだね」
「なのにあの日…」
「うん。ぼくもごめんね」
「オレもあんなに冷たく…」
あまりにくだらない理由。最悪なタイミング。それが単に重なっただけ。それで、オレたちは別れた。
次の日にそう言い合えればよかったのに。
そうしたらこんなに何年も何年も亡霊のように生きなくてすんだのに。
「ごめんね、ごめんねジュンくん」
あんたも少し声が震えている。
「ぼくね、あの日ね、ジュンくんとお付き合いしてちょうど1ヶ月だったからね、秘密でケーキを買っていたんだね。それをね、なんとかジュンくんがいない間に準備したかったんだね。ジュンくんが喜んでくれるって思って」
そうだったんだ。
だからあんなにも買い物をゴリ押ししたのか。
「でもね、違うってその後に気がついたんだね。ぼくはその記念日ってやつが嬉しくて、どうしてもサプライズしたくてあんな事を言ったんだね…でも、ジュンくんを嫌な気持ちにさせてまで言うべきじゃなかったって…」
この人もまた後悔していた。
「ごめんね…ごめんね…ジュンくん」
そして深く謝罪した。
「オレ、本当は別れたくなくて」
「うん、ぼくも」
「でも、謝ることができなくて」
「うん」
それでこんなに何年もかけてしまったのだ。
ちゃんとデートしてみたかった。
誕生日をお祝いしたかった。
恋人としてクリスマスを過ごしてみたかった。
少し長い正月休みも一緒にいたかった。
遊園地に行ってみたかった。
映画館にも行ってみたかった。
旅行だって行きたかった。
オレはおひいさんとしたかった過去をすべて話す。
その間、うんとか、ぼくもとか、そうだねとか、ずっと優しく相槌を打ってくれた。
でもそれは過去の話で、オレは大概それを別の誰かとやったことがあった。おひいさんとはできなかったと思いながら、そうやって過ごしてきた。
謝るのはこんなに簡単なはずなのに、あの時のオレは子供すぎた。
そして今は大人になりすぎた。
時間が経ちすぎた。
でも、それがもう今日で終わる。
その全てを受け入れることにオレは時間がかかりすぎた。
おひいさんはずっと優しくオレを抱きしめてくれていた。温かかった。おひいさんはちゃんと生きた人間だった。
「おひいさん」
「なあに」
「大好きでした」
「うん、ぼくも」
日和はやさしく心を込めて伝える。
「ぼくも大好きだったよ」
ああ。
終わるんだと。
今日はおひいさんとの恋のお葬式なんだ。
「ありがとうございます」
凄く悲しかった。
でも、もう時間がかかりすぎた。
あの頃のオレを引きずりながら生きるにはもう歳をとりすぎた。
「うん、ぼくの方こそありがとうね。ありがとうジュンくん。ぼくのことをいっぱい好きになってくれて」
初恋だった。
あんなに人のことを好きになったことはなかった。
オレに色々なことを教えてくれた。
オレを人間にしてくれた恋だった。
だけどもう終わらせないといけない。
おひいさんはずっとオレを抱きしめてくれた。
今日が雨でよかった。
オレの嗚咽も、唸るような雨音でかき消してもらえた。
背中から伝わるおひいさんの心音が心地よかった。
一晩中オレ達は寄り合いながら抱き合いながら寝た。
あの日の夜も本当はこうしたかった。
何年も何年もかかって、ついに希望を叶えた。
「うん、わかったね。ありがとう。うん、そう。お隣さんは寝ているかもしれないからね。そうしてあげて」
おひいさんの話し声で目を覚ました。
目の前には明るい雲ひとつない青空が広がっていた。
「起きた?朝イチの飛行機、飛ぶみたいだから1時間後に車で迎えに来てくれるって」
そういえば一晩中一緒にいたことはなかった。
朝からおひいさんは元気な声を出した。
「ありがとうございます…」
目は重たいけれど、今日は撮影の予定はなかった。こうなった時点で茨がある程度調節してくれていた。
「準備します…」
ゆっくりと起き上がる。
体は鉛みたいに重たかったが、ずっとオレにまとわりついていた亡霊はもういなくなった気がした。
「おひいさん」
身支度を終えて、部屋で時間まで待っていた。
「なぁに?」
「お願いしてもいいですか」
「え?なに?」
「最後に、キスさせてください」
自分の中で一つ確認したいことがあった。
「え…?ん〜…いいよ」
挑発的な目でオレを見た。
おひいさんの間合いに入る。
結局オレはおひいさんよりデカくなることはなかった。
ゆっくり目を伏せたおひいさんの唇に近づく。
指ですっと避けられるかもしれないと思った。
でも、おひいさんはそのまま静かにオレにキスされた。
久しぶりだった。
あの時あんなに夢中になった唇だった。
唇を重ねただけの、たった10秒にも満たないキス。
「…気が済んだ?」
「はい」
おひいさんはオレから離れようとした。
オレは咄嗟におひいさんの腕を掴む。
「わかりました」
「え?」
「…好きです」
わかった。
あの怒涛の別れから、何度も衝動的に抱いて、その間たまに触れたあんたの唇にやっと、まともにキスをして、すんなりと腑に落ちた。
「……え?」
おひいさんが苦そうに顔が片側だけ笑った。
「オレはもうあんたしか愛せない」
はっきりとした自覚だった。
それはもう鮮明で、悪いけどあんた以外に触れた経験が、本能が物語った。
「…」
驚いたアメジストの瞳をこんなにじっくり見つめたのもまた久しぶりだった。
「でも、あんたの迷惑なら忘れて欲しい」
それもまた覚悟した言葉だった。
「そう言うことなんで」
笑ってみせた。
オレは結局この気持ちをちっとも弔えられない。
そんな自分に笑えてくる。
結局オレはずっとここにいるんだ。
でも、もうオレは逃げない。
ちゃんと最後までこの気持ちと向き合うつもりだ。
「あはは」
おひいさんは軽く笑った。
「ジュンくん、悪い大人になったねぇ…」
そうかもしれない。
「でも…ぼくも同じかもしれないね」
そう言っておひいさんはキレイに微笑んだ。
「〇〇ちゃんはどうするの?」
「そっすねぇ…怒るんじゃないすかぁ」
半笑いで答える。
「おひいさんはどうなんすか」
「まあ…大変だろうね…」
血を見るかもしれないね!と明るく言った。
おひいさんのスマートフォンが鳴る。
どうやら迎えがロビーについたらしい。
「ジュンくん行こうか」
おひいさんが部屋のドアを開ける。
「好きです」
耳元でささやいた。
ふふっとおひいさんは笑う。
そのままエレベーターまで歩いていく。
エレベーターはすぐ来た。
2人で並んで入る。
「ジュンくん、違うね」
おひいさんはエレベーターの階の下のランプを見ながら囁いた。
「愛してる」
チンっとエレベーターはロビーについて扉を開ける。
耳に甘い言葉が残る。
ロビーの前にはスタッフのワゴン車が停まっていた。
ホテルからワゴン車に向かって歩いていくと、昨日の曇天とは異なって、空が高く濃い青色をしていた。
雲ひとつない空で、そこには眩しい夏の太陽が輝いていた。
「あちい」
オレはワゴン車に乗り込んだ。
ワゴン車のラジオからニュースが流れてくる。
観測史上1番早い梅雨明けをしたそうだ。