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    ないぐ

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    ファーベリ「ウィークエンド/ワールドエンド」プロローグ部分

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    faberi

    ウィークエンド/ワールドエンド(ファーベリ) プロローグ 週末の雨の下で



     ガタンゴトン。電車の揺れる音が響く車両の中は、静かだった。ローカル線の、終着駅ふきんを走る4両編成の一番手前。休日の昼間にもかかわらず、乗客は数える程しか居ない。路線のもっと中ほどの、人の多い便利な街の駅で、みな降りてしまった。山を越えて県境まで届く終点に、週末のこんなにも明るい時間から、用のある人間はほとんど居ないのだろう。
     電車の窓に、ポツリと水滴があたった。ポツポツと、雲に陰った空から雨が降ってくる。無人の座席に立てかけられた『傘』は、車両の中から雨の気配を察して、傘である自分を忘れて一人駅を降りた主人に思いを馳せた。

     ――雨が降ってきてしまったわ。私を電車(ここ)に置き忘れてしまったから、今頃ご主人さまは、雨に濡れてしまっているでしょう。

     傘がなくて困っている主人の姿を想像して、『傘』は胸を痛めた。しかし、傘は自分では動けない。言葉を発する事もできない。叶うのなら、主人の元へ飛んで行って、この身で雨から守ってやりたいが、傘はただの傘であるため、その願いは叶わない。傘にできる事はただ一つ、主人の頭上に己が身を広げる事だけ。それだって、主人がその手で傘のろくろをぐんと上に伸ばしてくれなければ、出来やしないのだ。『傘』は無力だった。
     『傘』は、古い傘だ。造られてから7年は経っている。だが、主人が丁寧に使ってくれたため、経年劣化はさほど目立たない。まだまだ長く働けるはずだ、と『傘』は思っている。
     紺にも見える紫色の布地には、白の細かい水玉模様。細身の、女性用の雨傘だ。長めに細く尖った石突が優雅に見える。持ち手は合皮で、古くなった表面が剥げかけていた。よく見れば、シャフトに錆が浮かんでいるのが分かる。日よけ機能もないただの雨傘。工場で大量生産されて、店に並んだところを主人に定価で買ってもらった。1980円。それが当時の『傘』の値段だった。

     ――雨が激しくなってきたわ。

     電車の窓をたたく雨粒の音がしだいにその間隔をせばめて、ザアザアと降り続く雨足の強さを伝えてくる。『傘』は主人を思ってソワソワした。どうして自分はこんな所に居るのだろう。雨が降っているのに、しっかりと身を巻いて一本で。主人にさされもせずに、離れ離れになってしまって。
     『傘』の嘆きなど知る風もなく、電車が駅に着いて、扉が開く。途端に雨音が大きくなった。濃厚な雨のにおいが、静かな車両に満たされる。降りる人間はなく、扉はすぐに閉まって、『傘』を主人から遠ざけ、終点まで運ぶために再び走り出した。ガタンゴトン。
     ふと、『傘』は、自身が立てかけられたすぐそばの椅子に、人間が一人、座っている事に気が付いた。男だ。黒づくめの服を着ている。いつの間に。そんな気配なんてしなかったはずなのに。『傘』が驚いていると、その男はこちらに顔を向け、いかにも親しげな声で、気さくに話しかけてきた。

    「やぁ、こんにちは」

     黒い髪に、赤い瞳。なんて綺麗な人間なのだろう、と『傘』は感嘆した。こんなに綺麗な人間は、今まで見た事もない。

     ――こんにちは。あなた、私の言葉がお分かりになるの?

    「もちろんさ。キミの嘆く声が聞こえたから、オレはここへ来たんだ」

     男はなんでもない事のようにそう言って、そっと『傘』の持ち手を撫でた。主人の手とはぜんぜん違う、大きな手だった。男の人の手。でも、たまに見る主人の恋人とは違って無骨なところはどこにもない、優美で、繊細そうな手だった。一度でいいからこんな手に握られてみたい、と思わせるような、うつくしい手。
     『傘』は恥じ入って、身を縮める心地になった。己の剥げかけた合皮の持ち手や、シャフトに浮いた錆が色移りした紫の布地、先の少し欠けた石突。古びた自分の姿を思い返して、うつくしい手の持ち主とのあまりの不釣り合いさに落ち着かなくなる。

     ――驚いたわ。だって、私の声が聞こえる人なんて、はじめて会ったの。同じ傘とだって、お話した事もないのよ。

     持ち手に触れた指先の、肌の白さと言ったらどうだろう。まるで、ただの一度も日の光に焼かれた事がないみたいだ。きっと雨傘の自分とは違う、立派な日傘が、ずっと彼を守ってきたに違いない。

    「そうなんだ。それはさぞかし、寂しかっただろうね」

     ――そうね、そうなのかも。私の声が誰にも届かないのは当たり前だったから、今まで考えた事もなかったけれど。こうしてあなたと話していると、すごく嬉しいから。きっと、私は本当は、他の人や傘とも話をしたかったんだと思う。

     ガタンゴトン。車輪が回って、電車が揺れる。雨の降る山間を、敷かれたレールに沿って電車が走る。終着を目指して。

    「それでどうして、キミは今、こんなところに一人でいるんだい」

     『傘』の持ち手に触れたまま、男がささやくように問いかけた。『傘』は、夢見心地から一転、沈んだ声で、心配事を口にした。

     ――ご主人さまがすっかり私の事を忘れてしまって、一人で電車を降りてしまったの。きっと、今頃困っているわ。雨に濡れてしまっているかもしれない。

    「それは大変だね。困ったご主人様は、キミを取り戻しにくるのかな?」

     ――……。

     ガタンゴトン。
     『傘』は沈黙し、自分の事、そして主人の事を、よくよく考えてみた。持ち手に触れる男の、雨に濡れた後みたいに体温の低いつめたい指先が、『傘』をなぜだかひどく心細い気持ちにさせる。

     ――ご主人さまは…迎えに来てはくださらないかもしれないわ。

     『傘』は、古い傘だ。造られてから7年は経っている。主人は長い間、大事に使ってくれているが、最近は、持ち手の合皮が剥げてきているのを気にしている事に、『傘』は気が付いていた。シャフトにろくろを滑らせて、傘の身を広げるたび、紫色の水玉模様をした布地に錆が色移りしているのを見て、小さく眉をひそめていた事にも。

     ――私は古い傘だもの。ご主人さまが新しい傘を欲しがっているって、本当は知っているの。きっと、私を手放したこの機会に、新しい傘を買うと思うわ。だって、傘なんてどこででもすぐに手に入るから。わざわざ古い私を取り戻すより、新品を買う方が、どう考えてもてっとり早いでしょう。

    「確かに、その方が合理的だけれど。キミはそれでいいのかい?」

     ――仕方がないわよ。それは、ご主人さまが決める事だもの。

     問いかける男の優しい声音に、『傘』は強がってそう言った。だが、内心では悲しくて仕方がなかった。電車の外で降りしきる雨みたいに、自分の内側から水滴が溢れて、ポタポタと落ちていくような気がした。

    「今のキミは電車の中の『忘れ物の傘』だ。このまま終着駅まで行ったら、駅員に回収されて、鉄道会社の忘れ物センターに保管される。一定期間に持ち主が現れなければ、廃棄処分されてしまうよ」

     ――……。

     持ち手に添えられるように触れていた男の手が、黙り込んだ『傘』のそれを、手のひらでもって包み込んだ。一度でいいからこんな手に握られてみたい、と思ったまさにそのうつくしい手で、『傘』の、経年劣化でボロになった合皮のハンドルが握られている。

    「どうだろう。ひとつ提案なんだけど、オレと一緒にいかないか? もちろんキミさえ良ければ、だけど。でも、このまま捨てられるよりは、ずっとマシな選択だと思わないかい」

     ――…!

     思わぬ申し出だった。一緒に連れて行ってくれる? この、綺麗な人が、私を?
     それは、とても魅力的な提案だった。こんなに綺麗な人が自分をさしてくれる。空から降る冷たい雨から、この特別な人を、自分が守ってあげられる。傘として生み出された身に、これ以上の栄誉があるだろうか? これ以上の幸福が?
     『傘』は己に与えられようとしている幸運に舞い上がりかけ、しかしふと、今の自分の状況を思い返した。『傘』は、古い傘だ。造られてから7年は経っている。主人は長い間、大事に使ってくれたが、つい先程、『傘』を電車の中に置き忘れて一人で行ってしまった。自分は『忘れ物の傘』だ。

     ――……ごめんなさい。

     『傘』は、自分の持ち手を握るうつくしい手の男に、寂しそうな声でそう言った。

     ――素敵なお話だけど、私は、ご主人さまを待ってみたいの。もしかしたら、迎えに来てくれるかもしれない。その時に私があなたと行ってしまっていたら、私を取り戻そうとしてくれたご主人さまの気持ちを無駄にしてしまうわ。

    「そうかい。残念だが、仕方がないね。キミの気持ちが優先だ。キミの、心の通りにしたらいい」

     提案を断られた男は気を悪くした様子もなく、やさしく、そっと、『傘』の持ち手から手を離した。雨のようにつめたくて、だが、まるで雨の降る日のように心躍る気持ちにさせてくれる指先が、『傘』から遠ざかって行く。男は、音もなく座席から立ち上がった。ガタンゴトン。電車が止まる。

    「終着だ。それじゃあ、短い間だったが、さようなら。キミと話せて楽しかったよ」

     ――ええ。さようなら。私も、楽しかった。あなたとお話できて良かった。どうかお元気でいらしてね。

     『傘』は、開いた扉から出ていく男の、背の高い後ろ姿を見送った。また会いたい、とは言えなかった。主人がいつかの昔、遠い雨の降る空の下で、『傘』をさしながら彼女の恋人と交わしていた話を思い出す。「さようなら」は「そうならなければならないのなら」という意味なのだと言う。
     そうならなければならないのなら。なんという儚い別れの言葉だろう。寂しさと、あきらめ。今の『傘』の心を表すのに、これほどふさわしい言葉はない。

    「ありゃ、また傘の忘れ物だ。雨の日は多いなぁ」

     無人の車両にポツンと残された『傘』に気づいた駅員が、ため息をついて手を伸ばす。無骨な手に持ち上げられながら、『傘』は思った。あの、うつくしい手を退けてまで、自分は。

     ――あと一度だけでもいい。もう一度だけ、ご主人さまにさして欲しかった。

     『傘』は、古い傘だ。いつかは別れがくると思っていた。それが、もうそろそろなのかもしれないという予感もあった。だが、これほど早く、突然に、主人との離別に見舞われるとは想像もできなかった。
     せめてあと一度だけでもいい。雨の音。濡れた土のにおい。水滴をはじく緑。落ちる水の流れを変えるいじわるな風。しとしと、ザアザア、どんな雨の日だって良い。雨の降る空の下で、もう一度主人が自分をさしてくれたなら。

     ――ちゃんと、さようならができる。

     寂しさ。あきらめ。そうならなければならないのなら。
     灰色の空から静かに降り落ちる雨粒が、小さな駅の古ぼけた屋根に当たって奏でる音色に耳を傾けながら、『傘』は布地を閉じたまま、駅員の手で運ばれて行った。





    「…はい、はい。紺色に近い、紫色の傘です。白い水玉模様で。持ち手はこげ茶の合皮。……え、ある? 良かった。…はい、はい。…うーん、ちょっと、取りに行けないですね…送っていただく事はできますか? …はい。県内の、〇〇市です。…着払い…え、送料2000円!?」

     彼女は、電話口で告げられた値段に驚き、一瞬黙り込んだ。昼間に乗った電車の中に置き忘れた傘。鉄道会社の忘れ物センターに届いていたのは良かったが、傘を取り戻すには片道1時間もかけて保管場所まで出向くか、着払いで自宅まで送ってもらうかしかない。宅配便の送料は2000円。傘の値段よりも高い。その送料で、新しい傘が買えるではないか。

    「……そうですね…。どうしようかな…」

     傘は、古い傘だ。よく利用するセレクトショップで何気なく買って、7年使った。同じ傘を一度も忘れず、失くさず、ここまで長い間使い続けられたのは初めてだった。そろそろ買い替え時だとは思っていたが、愛着もある。自分がこれまで大事に使ってきた傘が、知らない場所で、知らない間に処分されてしまうのは忍びない。

    「うん。はい。大丈夫です。着払いで送ってください。住所は…」

     自宅の住所を告げて電話を切ると、横で聞いていた恋人が首をかしげた。

    「わざわざ2000円も出して取り戻すの? もう新しい傘を買ったじゃないか」
    「まぁ…、愛着があるし。なんか、暗い倉庫で大量の忘れ物の傘と一緒にゴミとしてくくられてる所を想像しちゃって、かわいそうかなって。捨てるにしろ、自分の手で捨てたいと思ったの」
    「変わってるね」
    「そうかな? なまじ長い事使ってたから。あの傘は特別。今までありがとうって感謝しながら捨てたいのよね」
    「ふーん、優しいんだなぁ。いつ頃届くの?」
    「一週間くらいかかるって。次の不燃ゴミの回収日に間に合うかしら?」





     朝。鳥の声はなく、しとしと雨が降っている。空が陰り、辺りは薄暗い。サラリーマンの出勤時間も過ぎた雨の住宅街は、まるで息を潜めたような静寂に満ちている。
     太陽を覆い隠した雨雲から、ひっきりなしに雨粒が落ちてきて、ゴミ捨て場に立てかけられた『傘』を濡らした。
     『傘』は、傘であるのに、もう雨を防げない。しっかりと身を巻いて一本で。新しい傘をさした主人に、雨の降る中、ここへ置いていかれた。「今までありがとうね」優しい手つきで『傘』を撫で、主人は去って行った。――新しい傘をさして。
     ゴミ捨て場の近くに咲いた紫陽花の、雨に馴染む紫色の花弁が水滴をはじく。コツ、と密やかな足音がした。雨音にかき消されてしまいそうなくらい、小さな音。『傘』はふと、自分の前に人が立った事に気付く。背の高い男だ。黒づくめの服を着ている。黒い髪、灰色の空の下で色を深める赤い瞳。『傘』を見下ろす事で伏し目がちになった目の、長い睫毛が頬に影を落としている。一度も日に焼けた事がなさそうな白い肌。雨が降っているというのに、傘もさしていない。うつくしい人。

    「やぁ、こんにちは」

     ――こんにちは。また会えて嬉しいわ。でも、こんな姿でごめんなさいね。

    「いいさ。オレは気にしないよ」

     ――そう? それなら良いのだけれど。

    「キミのご主人さまは、キミを取り戻してくれたんだね」

     傘をさしてもいないのに、途切れる事のない雨の中で、男はほんの少しも濡れていなかった。ああ、この人には、傘は必要ないんだ。『傘』はそう思った。あの時、電車の中で『傘』に一緒に行こうと言ってくれたのは、きっと主人に捨てられようとしている『傘』への、同情のようなものからだったのだろう。

     ――ええ。私は『忘れ物の傘』になるのは免れたみたい。でも、ご主人さまは、結局あれから一度も私をさしてくれなかった。もう新しい傘を手に入れていたの。だから、今は『捨てられた傘』になっちゃった。

    「後悔しているかい?」

     ――あなたと行かなかったこと? …いいえ、後悔はないの。ご主人さまは私をさしてはくれなかったけれど、私を取り戻してくれたから。「今までありがとう」と言ってくれた。ちゃんとお別れをしてくれた。私の言葉は届かないけれど、ちゃんと「さようなら」が出来たから。だから満足よ。

     さようなら。寂しさ。あきらめ。そうならなければならないのなら。
     男に満足だと答えた『傘』の声には、それでも拭い去れない寂しさが含まれていた。『傘』にしとしと染み込む雨のように、透きとおるような蒼い寂しさ。『傘』は満足したのではない。あきらめたのだ。主人にさされたい、ただそれだけ。たった一つの選択肢しか持てない『傘』の、叶わぬ望みを手放す、あきらめ。

    「ああ、綺麗だ。なんて純粋な『寂しさ』なんだろう。なんて寂しい『あきらめ』なんだろう。…どうだい、『神くん』? 彼女の心は、キミのお気に召したかな?」

     『傘』を見下ろす赤い両目が妖しく輝き、男の唇が笑みの形に吊り上がった。片手を黒い上着の胸元にまで持ち上げて、五本の指を、ズブリ、服の上から胸の中に沈める。

     ――えっ!?

     衝撃的な光景に『傘』は息を呑んだ。男の指は服や皮膚を貫通して、ほぼ根本まで自身の胸の中に入り込んでいる。不思議な事に、自傷の暴挙にも関わらず血は出ていない。それどころか、肉も、服の布一辺すらも割けていなかった。まるで泥に手を突っ込むように、男の指は自身の胸の内側から何かを掴み取って、ズルリと表へと引っ張り出した。

    『ああ、とっても綺麗だ。綺麗だね。美しい心だ。これならボクのコレクションにふさわしい』

     それは、目だった。眼球だけの大きな目が、うつくしい男の胸に半ば張り付くような形で埋まっている。どれほど深いのか想像もつかないような、真っ黒な穴のような黒目が、胸から飛び出して盛り上がる白目の部分をギョロリと一回転して、ピタリ『傘』を見つめた。

     ――目? あ、あなた…大丈夫なの? どうしてそんな所に目があるの?

    「気にしないで。好奇心旺盛なただの『神さま』の目だよ。神さまは体が大きすぎて、小さなものが見えないんだよね。だから、同じくらい小さなオレが、神さまの目の代わりになって、彼が見たいものを見せてやっているのさ」

     驚く『傘』を安心させるように、男は口の端に乗せた歪んだ笑みを消して、微笑んだ。黒い袖を纏った腕が伸び、『傘』の持ち手に白い指がそっと触れる。うつくしい手だった。一度でいいからこんな手に握られてみたい、と思わせるような。異形の目に凝視される恐怖も、主人に捨てられた寂しさも、一瞬で夢見心地に塗り替えてしまうような、つめたいけれどうつくしい手。

    「キミの心は美しい。神さまのお眼鏡にかなうほど。キミを見つけられてラッキーだったよ。どうか、その美しい心を、オレにくれないかい」

     ――……。

     ささやくように希う男の声に、『傘』は沈黙した。そうして、よくよく考えてみた。主人の事。自分の事。神さまという言葉、自身の剥げかけた合皮のハンドルに触れる、白くうつくしい手の事。その持ち主である、綺麗な男の人の事を。

     ――良く分からないけれど…私の心が欲しいのね。いいわよ、それでどうなるのかは見当もつかないけれど。私はもう、ご主人さまにさしてもらえないから。こんな私にもまだ価値があるというのなら、どうぞ持って行って。

    「ありがとう。助かるよ。…怖くはない?」

     ――怖い気もするけれど…実は、心ってよく分からないの。私、こうしてお話したのもあなたが初めてなのよ。心をあげたら、今、私がこうして考えている事柄がぜんぶ消えるって事かしら。それは、私が捨てられてぐしゃぐしゃに潰されて、もう二度と誰もさせなくなるのとどう違うの?

    「どこも違わないさ。しいて言えば、今消えるか、消滅の最後までその寂しさを抱えているかってだけかな?」

     稚気に富んだ『傘』の疑問に、男は少し楽し気に笑って答えた。残り少ない『傘』との会話を楽しんでいるように。『傘』もまた、男との会話が好ましかった。

     ――なら、いいわ。

    「本当に? 俺なら最後まで抱えて、誰にも渡したくないけどね」

     ――いいのよ。そうした方が、あなたの助けになるんでしょう。

     『傘』がそう言うと、男は形の良い眉を片方だけ少し上げて、意外そうな表情になる。

    「どうしてそう思ったんだい?」

     ――だって、あなたは困っているみたいだから。あなたの役に立ちたいの。

     雨に濡れない、傘のいらない人。だが、『傘』は傘ゆえに、なんとなく傘を差したいと思う人が分かる。天から降る冷たい雨から、身を守りたいと思っている人のことが。
     神さまは大きすぎて、小さなものが見えないのだと男は言った。そんな大きすぎる神さまなら、目もきっと大きいだろう。大きな目を体に埋め込むなんて、きっと苦しいに違いない。難しい事は分からないけれど、『傘』の心が男の苦しみを少しでも和らげるのに役立つのなら、『傘』は嬉しかった。『傘』は、人の役に立つために造り出されたのだ。

    「…ありがとう。キミは優しい『傘』だね」

     ――あら、比較されるって事は、他に傘を知っているの?

    「いいや。キミだけさ」

     ――本当なら、嬉しいわ。…さようなら。

    「ああ、さようなら」

     さようなら。そうでなければならないのなら。
     『傘』の体から心が抜かれて、『傘』はただの傘になった。心は小さな光となって、男の胸に張り付く眼球に吸い込まれ、こことは違う別次元に巨大な身を横たえる神の座へと届けられた。待ち望んだそれを、神が舐めしゃぶるように弄繰り回すのを感じ、男は不快げに眉をしかめ、沈黙の下りた雨のゴミ捨て場に目を向けた。
     しとしと降る雨。緑の葉に埋もれた紫色の紫陽花が水をはじく。積まれたゴミ袋に立てかけられるように置かれた古い傘が、雨に打たれている。もう、おしゃべりな『傘』はいない。

    「…結局、彼女の望みは叶わなかったが、彼女の主人は一応、彼女を取り戻しはした」

     捨てられる、という結果には変わらないが、その事実は『傘』の心を、いくばくか慰めはしただろう。

    「さて。オレの困った上司は、オレを取り戻してはくれるのかな?…ウフフ」

     男は短く笑い、踵をかえす。既に胸から目は消えていた。神の直接の「観測」から外れた感覚に体が軽い。今ごろは、新しく手に入れたコレクションに夢中になっているだろう。

     男が去って、誰もいなくなったゴミ捨て場にただ、雨が降る。静かな道を、雨のヴェールをかき分けて、車のエンジン音が近づいてきた。定刻通りにやって来たゴミ収集車が、その重たい顎でゴミ捨て場のモノ達をかみ砕き、処分場へ連行するまで、あとほんのわずか。



    続く
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