SWEET MEMORIES ~美味しい記憶~(ハザジン)「キサラギ少佐!」
涼やかな声に呼び止められ、ジンは扉に手をかけたまま足を止めて振り向いた。大量の贈り物が所狭しと置かれたせいで何時もより雑然とした執務室の中、赤い髪の秘書官が、慌てたように自分の席を立って小走りに駆け寄って来る。
「あ、あの。すみません、お帰りのところを…。なかなかお渡しするタイミングが見つからなくて。これ、お誕生日プレゼントなんですけど、良かったらジン兄様にって…」
言葉を捜しながらおずおずと差し出された紙袋を、ジンは温度の無い緑の瞳で見下ろした。袋の口から、華やかにラッピングされたプレゼントの包みが覗いている。有名な高級菓子店のロゴには見覚えがあった。毎年、妹分であり現在は己の秘書でもある目の前の少女、ツバキが、誕生日に贈って寄越すチョコレートだろう。
「…ああ。ありがとう」
平淡な声が出る。戸惑うツバキから紙袋を受け取ると、ジンは彼女に背を向けて執務室の扉を開いた。背後で落胆する少女の気配が、乾いた音を立てて閉じた扉に遮断される。
「……」
何時からだろう。夜の気配を纏う人気の無い廊下を歩きながら、ジンは手に持った紙袋に目を落とした。「ジン兄様は変わってしまわれた」そう、ツバキが嘆いている事は知っている。自分では良く分からない。だが、以前は、確かにもう少し気の効いた言葉を口にする事も出来ていたような気がする。妹分の表情が曇れば、どうかしたかと相手を気遣う事もあったはずだ。
それが今では、まるで、積み重ねた経験をリセットでもしたかのように、周囲のことごとくに関心を持てないでいる。
(…どうでもいい)
そして、その状態の己を正そうとする程度にすら、自分自身にも興味が無い。
(どうせ、全ては偽りだ…)
敬礼する警備兵の横を無言で通り抜け、統制機構本部を後にする。外に出ると、途端に突き放すような冷気がジンの肌を打った。ふわりと金の髪が舞い、冬の終わりにひと際冷たい夜の風が、羽織った士官用コートの裾をはためかせる。手に持つ軽い紙袋が風に煽られて、カサカサと音を立てた。
「……ここには、兄さんが居ない…」
唇からこぼれた言葉は声にはならず、ただ白い息が寒空に溶けていく。見上げた空に月は無かった。真っ黒な分厚い雲が天を覆い隠し、今にも降ってきそうなほど重く立ち込めている。
ジンは曇天の夜空から目を逸らし、俯きがちに歩き出した。遅い時間のせいか、すれ違う人間は少ない。コツコツと硬い足音を立てて無心に歩けば、幾らも経たない内に統制機構の官舎が見えてくる。
昨年、戦争終結と同時に昇進した際与えられた部屋は、官舎の中でも一等地に建っている。改装したての真新しい外装は、セキュリティとデザイン性に優れ、人気が高いのだと誰かが言っていた。もちろんジンにはどうでも良い。住む場所など、四方に壁があって寝床さえ置ければ何所でも同じだと思っている。ただ、実家(キサラギ)の息が掛かっていない事と、職場から近い点だけは評価していた。
IDカードを読み取らせ、棟の玄関を開くと、広いエントランスホールを通り過ぎる。エレベータで上階へ上り、絨毯の敷かれた内廊下を進めば、すぐに自室にたどり着いた。監視と防衛の術式が忙しなく本人認証を行い、扉のロックを解除する。いつものように取っ手に手をかけ、ふと生じた違和感に、ジンはピタリと手を止めた。感じたそれが何かを考える暇も無く、まるでタイミングを見計らったかのように、ガチャリと内側から扉が開く。
明るい室内を背に、にこやかな笑顔が扉の影から顔を出した。
「ハッピーバースデイ! キサラギ少佐…って、うわッ!あぶなッ」
ビュン、と風を切る勢いで殴りつけた拳をからくも避けられる。ジンはチ、と舌打ちして、ヘラヘラした笑みを浮かべる相手を鋭い瞳で睨み上げた。
「何故ここに居る。ハザマ大尉」
鮮やかな緑の髪に、長身痩躯。常に着込んでいる黒いスーツのジャケットだけを脱いで、シャツの上から何故かモスグリーンのエプロンなどを装着している不法侵入者は、部署は違うが確かに自分の部下だった。今の地位についてから仕事で係わる事の多い男で、諜報員に相応しい図々しさと胡散臭さは他者の追随を許さない。
「いやだなぁ、今夜伺いますって、ちゃんと一昨日言ってあったじゃないですか」
「了承した覚えはない。あと、そういう事を聞いているんじゃない。どうやってこの部屋に入ったかと聞いているんだ!」
言うまでも無くハザマはこの官舎の住人ではない。エレベータすらIDカードが無いと動かない強固な官舎のセキュリティと、そこからさらに独立した防衛術式に守られる自室の中に、招待した覚えも無い赤の他人が堂々と居座っている現実。訳が分からなさ過ぎて頭が痛くなってくる。
「それはもちろん、企業秘密です。私、諜報部ですので」
全く悪びれもせず、ハザマはニコリと微笑んで言った。ジンの額にピキリと青筋が立つ。もう一度殴りかかろうと振りかぶった拳を、素早く伸びたハザマの手が絡め取った。
「まぁまぁ、いいじゃないですか。細かい事はどうだって。そんな事より少佐、夕飯まだでしょう? 用意はすっかり出来てますから。ささ、上がって下さい。どうぞどうぞ」
グイ、と引っ張られて、ジンはその場でたたらを踏む。
殴ろうとした所を逆に引き寄せられたせいでバランスが崩れた。諜報部のくせに、意外と力が強い。
「細かい事なわけがあるか! それにここは僕の部屋だぞ。何故貴様に招き入れられねばならん!」
「まぁまぁまぁ、いいからいいから、はやくはやく」
怒りを露わにするジンを宥めながら、ハザマは掴まえた細腕をグイグイと引っ張り、本体ごと引き摺るようにして部屋の奥へと誘って行く。
「少佐の帰りが遅いから、せっかくの料理が冷めちゃうかと思いましたよ。自分の誕生日くらい、残業しないで帰って来てくださいね」
「おい、まだ話は、」
「コート預かります。こちらの紙袋はプレゼントですか? 他にも宅配でいっぱい届いてますから、そこに纏めて置いときますね。さ、まずは食事にしましょう。腕によりをかけましたから、期待してくださって結構ですよ~」
「あ、こらッ、話を聞け! この馬鹿者…ッ」
抵抗する間も無く着ていたコートを剥ぎ取られ、ツバキのプレゼントを取り上げられる。強引にダイニングルームへ背中を押されれば、温かい空気と、ふわりと食欲を刺激する匂いがジンを迎え入れた。
入居してから殆ど物を置いた覚えの無いテーブルの上に、きちんと皿に盛られた料理の数々が、彩りも鮮やかに並んでいる。主役のための椅子の前には、銀色に光るカトラリーと磨かれたワイングラス。横に置かれているワインボトルは、好事家垂涎の当たり年ヴィンテージだ。濃緑色の瓶の足元に、小箱に入ったチョコレートが見える。
「これは…貴様が作ったのか?」
予想外の豪華な光景に呆気に取られて、ジンは緑の瞳を瞬いた。肉類が少なめの料理はどれも己の好物で、思わず忘れていた空腹を意識してしまう。ハザマに食の嗜好を把握されている事実に気味の悪さを感じつつも、つい促されるまま席についてしまった。
「ええ。素材から手配して作りました。私、料理には拘る性質なので。はい、お手拭をどうぞ」
「……」
ハザマは甲斐甲斐しくジンの世話を焼き、着ていたエプロンを脱ぐと、自らも向かいの席に腰を下ろした。どうやら一緒に食べるつもりらしい。彼の前には、ジンと同じ食器類とワイングラス。ただチョコレートは無く、代わりに山と積まれたゆで卵の皿が置かれている。
(…一体、どういうつもりだ?…)
何がどうしてこうなった。状況に置いて行かれそうになりながら、ジンは探るような視線を正面のハザマに向けた。何が楽しいのか、満面の笑みだ。いや、普段から胡散臭い笑みを絶やした事の無い男なのだが、今は何時にも増して良い笑顔をしている気がする。
了解も無く押しかけてきて、どころか不法侵入までして誕生日に手料理を振る舞う。世間一般では、この行為を何と定義付けるのか。いまいち常識に疎い自覚があるせいで、どう対応すべきなのか考える程に良く分からなくなってくる。
「何をたくらんでいる…?」
ジロリと睨んで低い声で聞くと、ハザマは大げさに肩を落とし、嘆くように首を振った。
「酷いですよ~、少佐。敬愛する上司の誕生日に、常日頃の感謝を込めて美味しい料理を味わってもらおうという、部下の至極純粋な気持ちを疑うんですか? 人の上に立つ立場なら、たまには下からの慰撫を大らかに受け止めるのも務めというものではないでしょうか?」
相変わらず口の回る男である。しかも屁理屈だ。さらに、いちいち動作が芝居がかっていて癇に障る。
そもそも自分とこの男は、特別に食卓を囲んで誕生日を祝うような仲では断じてない。かなりの頻度で相手から一方的に話しかけてきたり、たまに無理矢理食事や飲みに引き摺られて付き合わされたりはするが、あくまでただの上司と部下である。
「まぁまぁ、そう難しく考えないで。少なくとも、料理に罪はありませんよ。こうして出来てしまっているのですから、食べないと勿体無いでしょう」
「……毒でも入っているんじゃないだろうな?」
「まさか。自分も食べるのに、そんなもの入れるわけ無いじゃないですか」
それもそうかと思い、ジンはまだ釈然としないながらも食卓を彩る料理の数々に目を落とした。艶と言い、盛り付けと言い、目の前の男が作ったとは信じられないほど美味そうである。このまま、どこぞのレストランのテーブルに持って行ったとしても違和感はないだろう。
仕事が出来る奴だという事は知っていたが、思わぬ所で妙にハイスペックな男だ。
(奇妙な事になったものだ…)
先刻職場を出て来た時には、こんな状況に陥るとは想像もしなかった。透明なグラスにワインを注ぐハザマを横目に、ジンは戸惑いつつテーブルの上へと手を伸ばす。
何となく目に付いたチョコレートを、戯れに一つ摘んで口に運んだ。見た目よりも柔らかなそれは、温かい口内でふわりと溶け、独特の強い甘味がねっとりと舌に絡む。
(! この味…)
はっとして、ジンは緑の瞳をほんの僅かに瞠った。懐かしい味だ、と思った。どこかで食べた事がある。どこだったか、思い出せない。
「どうしました?」
チョコレートを小箱ごと持ち上げ、箱の裏側を確かめようとするジンに、ワインを入れて席に戻ったハザマが首を傾げた。
「…いや、どこの店のチョコレートかと思って」
箱に店名が載っていないかと、つい見てしまった。咄嗟に取った自分らしく無い行動に気恥ずかしさが湧き、ジンは細い眉をことさら難しそうに顰めて小箱を戻した。
「ああ、それは私が作ったんですよ。少佐のお口に合いましたか?」
「お前が?」
ジンは驚いてハザマを見た。この数分間で一体何度目の驚愕かと、どうでも良い事を頭の片隅で考える。
それでは、このチョコレートに感じた『懐かしさ』は、気のせいだったのだろう。ハザマが料理を作るのも、自分がそれを口にするのも、今日が初めてなのだから。
「実は、チョコレートを作るのは得意なんです。料理の味付けに必須ですので、研究を繰り返して繰り返して…今やプロにも負けません」
「意外だな」
「趣味と実益を兼ねてってとこですかね。少佐のお誕生日って、バレンタインなんですよね」
「それがどうした」
ハザマは意味深に微笑むと、彼の前に積まれたゆで卵を一つ手に取る。
「自分で言うのもなんですが、私、グルメなんですよ。最高の素材を一番好みの味に調理してパクッといただくのが趣味でして。そのためなら、手間隙を惜しみませんね」
うっとりとゆで卵の白い殻を眺めながら言うハザマに、ジンは今度は本気で眉を寄せ、呆れた視線を投げかけた。言動につかみどころが無さ過ぎる。もしや自分の部下は、人間の理解の範疇を超えた存在なのではあるまいか。
「馬鹿らしい。食事など不味くなければ構わないだろう。どうせ腹に入れば同じ事だ」
「とんでもない! どうせ食べるなら、より美味しい方が良いに決まってるじゃないですか。じゃないとせっかくの素材に失礼です。私の素材に対する愛は並大抵のものじゃありませんよ? 例えばこのゆで卵、イワツチ産です。今朝一番の取れたてを特別便で取り寄せて…」
何かのスイッチが入ったのか、熱弁を揮い始めたハザマからげんなりと視線を逸らせて、ジンは手元のチョコレートを口の中に放り込んだ。やはりどこか懐かしいと感じる味が舌に広がる。気のせいのはずなのに、まるで、失くしてしまった何かを思い出させるかのように胸が疼いた。
逸らした視界に窓の外が映る。厚い雲に覆われた夜空から、チラチラと白い雪が降っている。帰りがけに見た空の状態から降るとは思っていたが、今年も雪の降る誕生日になったようだ。そう考えて、ジンは緑の瞳をふと細めた。
果たして、自分の誕生日に雪など降った事があっただろうか?
雪が降っている。真っ暗な空から綿毛のようにチラチラと落ちてくる雪を目で追いかけ、ジンは白い息を吐いて月の無い夜空を見上げた。
身を切るような外の寒さに反して、体はじくじくと熱を持っている。義理の兄達から『稽古』と称して散々に痛めつけられ、気絶した所を、屋敷の離れに建っている道場に一人閉じ込められたのだ。子供がギリギリ抜けられる大きさの小さな窓を見つけ、なんとか外へと脱け出た時には、すでに日は沈み空には夜の帳が落ちていた。
『今夜は――がいらっしゃる。ジン、お前は必ず夜の宴に出席しろ。主上がお前を見たいと仰っている』
今朝、義理の父であるキサラギ家の当主からそう声をかけられた。何か重要な事案だったのか、周りが酷くざわついたのを覚えている。
この分だと、その宴とやらはもう始まっているだろう。ジンは雪がちらつく裏庭を、傷む体を引き摺って歩いた。ようようたどり着いた回り廊下の端に腰掛け、遠く祝宴のざわめきが聞こえる母屋を背に、ぼんやりと空を見上げる。
故意では無いとは言え、冷酷で厳格なキサラギ家当主の命に背く事になった。今やキサラギ一門に身を置く自分にとって、当主の命令は絶対である事くらいは理解している。何らかの罰は避けられないだろう。死ぬような暴力を振るわれるのか、宗家の籍を外されキサラギから放り出されるか。
別に、どれでも構わなかった。全てがどうでも良かった。ここには兄が居ない。妹が、シスターが居ない。あの温かかった教会はもう何処にも無い。帰る場所など何にも無い。自分のせいで、みんな失われてしまったのだから。
「こんばんは、お一人ですか?」
どれくらいの時間、そうしていただろう。見るともなしに雪を眺めていたジンは、横手から掛けられたもの柔らかな声に顔を上げた。何時の間に側まで来たのか、男が一人立っている。どこかで見た事のある顔だと思った。母屋から漏れる光に照らされる緑の髪に、じっとこちらを見下ろす金色の瞳。自分より5つ6つ年上だろうか。赤いネクタイの、何かの制服を着ている。
ややあって思い出した。士官学校の制服だ。確か、義理の兄の一人が何時だったか、学友として屋敷に連れてきていた男だ。何回か話しかけられた事があったため、覚えていたのだろう。今日の宴は内々のものだと聞いていたが、義兄が招待でもしたのだろうか。だとしたら何故、こんな場所を客人が一人でうろついているのだろうか。
「……」
どうだろうと、自分には関係の無い事だ。ジンは男に返事を返さず、無言で庭の雪に目を戻した。無視すればそのまま通り過ぎて行くだろうと思っていた相手は、しかし、おもむろにジンの隣に腰を下ろすと、夜の風が吹く縁側に並んで座る。
「酷い怪我ですね。ボロボロじゃないですか」
「……」
「今日の宴は貴方が主役でしょうに。今からでも奥の間に行かないんですか?」
「…別に、どうでも良い…」
すぐ側にある他人の気配に居心地の悪さを感じながら、ジンはポツリと声を落とした。唇を動かしたせいで、切れていた口の端がピリピリと痛み出す。こんな、生きているか死んでいるかも分からない自分でも、まだ『痛い』という感覚が残っているのが不思議だった。
「どうでも良いなんて、思っちゃ駄目ですよ。そんな貴方は『不味い』から駄目です。…はい、これをどうぞ」
「…?」
横から伸びた手が、袴を穿いたジンの膝の上に何気ない仕草で小箱を乗せる。何だろうと見上げると、隣に座った男はいたずらを仕掛けるように微笑んで、細い膝上の箱から蓋を取って中身を見せた。
「チョコレート。美味しいですよ。食べてみてください」
「……」
甘い香りが鼻をかすめる。シンプルな四角い箱の中には、艶やかなブラウン色のチョコレートが格子の仕切りに一粒ずつ、綺麗に納められていた。
困惑を滲ませる緑の瞳が、膝上のチョコレートと男の顔を行ったり来たりする。隣の男はそれに笑みを深め、剣だこと傷の目立つ小さな手をそっと取ると、うながすように箱の中へ導いた。
「今日、お誕生日でしょう。2月14日、バレンタインだから、プレゼントはチョコレート。安直ですけど、せっかくのチョコの日ですしね」
「……どうして…」
「知っているのかって? この前教えてくれたでしょう。今日ここに来る事になったから、会えたら渡そうと思って用意して来たんですよ」
そんな話をした事があっただろうか。いくら考えても思い出せなかった。そもそも、今日が自分の誕生日だという事すら忘れていた。恐らく、この屋敷に居る誰も知らないだろうし、誰も興味が無いに違いない。たぶん、目の前のこの風変わりな男以外は。
「バレンタインが誕生日って、いいですね。覚えやすくて」
男が言うのにジンはうつむいて、ためらいがちに指先でチョコレートを一つ摘んだ。口に含んでみると、舌の上で雪のように柔らかく溶ける。口内にじんわりと甘味が広がって行く。
『誕生日って言うのはね、生まれた日の事! 生まれて来て良かったーってお祝いするの。――知らない? そう…なら、みんなのお誕生日を決めましょう! 覚えやすい日がいいわねぇ。サヤは、女の子だからクリスマス。ジンはバレンタインがいいわ! きっと格好良くなるから、チョコレートいっぱい貰えるわね! それからラグナは…』
弾むようなシスターの声。不本意な誕生日を当てはめられて抗議する兄の声。鈴を転がしたように笑う妹の声。
蕩けるように甘いチョコレートの味がつれて来た遠い日の記憶は、あまりにも遠く、遠過ぎて、己の幸福の全てがあったあの場所に、もう二度と手が届かないのだとジンに思い知らしめる。
「…ふっ、…っ」
大きな緑の瞳から、ポタリと熱い涙が零れ落ちた。大粒の雫が、傷ついた手の上に次から次へと落ちて行く。止めようと思っても駄目だった。堰を切ったように溢れ出る感情が抑えられない。ジンは痛みを堪えるように肩を震わせ、濡れた両目をぎゅっと強く瞑った。
悲しい。寂しい。苦しい。辛い。自分が壊した温もりの喪失に傷ついて、失って悲しいと自分を哀れんで泣いている。滑稽で、愚かで醜い。自分なんて死んでしまえばいい。
声を殺してしゃくり上げるジンの手を、隣の男は何も言わずに握り締めた。外に居るせいだろう、冷たい手だった。自分の手も酷く冷えていたせいで、ジンは男の大きな手を冷たいとは感じなかった。
「――大丈夫。貴方は一人じゃありません。この先もちゃんと生きていける。…そうですね、こうしましょう。貴方の誕生日には毎年、私がチョコレートを贈ります。今日と同じものをね。この世界に産まれてきてくれてありがとうと、感謝を込めて」
だからもう泣かないで――囁く声が降ってくる。真っ暗な空から降る白い雪のように、ゆっくりと静かに、ジンの中へと降り積もって行く。
あの教会が燃え落ちた日から凍りついていた感情を取り戻すように、ジンは泣いた。声も無く、ただ泣いた。名も知らぬ男はそれきり口を閉じ、黙って側で手を握ってくれている。たったそれだけの事が、今のジンにはこの上もない救いだった。
やがて、深々と降っていた雪が止む。厚く夜空を覆っていた雲が切れて、淡く光る月の端が姿を見せた。遠くから聞こえる足音と人の気配に、ふとジンは意識を浮上させる。怪我で消耗していた上に泣き疲れたせいか、少し眠っていたらしい。隣を見ると、来た時と同様、いつの間にかあの男は居なくなっていた。一瞬夢かと思ったが、袴を穿いた膝の上に乗っているチョコレートの箱が、先程の出来事が現実なのだと物語っている。
遠くに聞こえていた足音がこちらへと近づいて来るのにハッとして、ジンは腰を浮かしかけ、自分の肩に掛かっている見覚えの無いマフラーに気がついた。深緑色をした男性用の大判マフラーは、少年の細い肩をすっぽりと包み込んで温かい。
「これは…あいつが?」
無意識に手の中のチョコレートの箱を握り締める。思わず動きを止めている間に、聞こえていた足音は人影となってジンの視界に映りこんだ。相手も縁側に座り込んだジンに気付き、早足で近寄ってくる。
「おい、坊主、お前がジンか? 宴に居ないと思ったら、こんな所でサボりたぁ、やるじゃねぇか。キサラギの当主がカンカンに怒ってたぜ…って、何だ、お前泣いてんのか?おいおい、良く見たら傷だらけじゃねぇか」
(しまった…!)
身を隠し損ねて内心うろたえるジンの前で、その顔を覗き込むように大柄な青年が身を屈めた。宗家に縁の人間らしく、正装を着ている。固そうな黒髪、紫の瞳。大きな手に両肩を捕まれて、ジンは咄嗟に身を固くした。
「誰にやられた? まぁ大方他の候補達だろうが…クソッ、こんなチビっこいのに酷い事しやがって!」
「こら、カグラ。急に触ってはいかん。驚いているだろう」
「師匠」
青年の後ろからもう一人、こちらも正装をした、壮年の男が顔を出した。伸ばした髪で髷を作るイカルガ風の髪型をしている。皺の刻まれた目じりの横で、炎が揺らぐ様な不思議な色合いの両目が、穏やかな光を湛えてジンを見つめた。
「やあ、君がジンだね。はじめまして。私はテンジョウと言う。まずは、その怪我を治そうか」
カグラと呼んだ青年と位置を入れ替わり、テンジョウは膝を折ってジンと目線を合わせると、回復術式を起動した。かざした手の平から淡い光が降り注ぎ、細い体の至る所にあった痛々しい傷口をあっと言う間に癒して行く。
「これで良し。…うん、いいんじゃないかな」
「では、師匠? 次のキサラギは…」
体の痛みが消えた事にホッとして、無自覚に力を抜いたジンの頭に、テンジョウはゆっくりと手を乗せた。途端に緊張を走らせる幼い子供の警戒心に苦笑いを零して、そのまま柔らかな金髪を優しく撫でる。
「ああ。私に否やは無いよ。きっとこの子は強くなる。そして、これは私の勘だが…この子には世界を変える力がある」
「世界を変える力?」
「そう、世界を変える力。あるいは、希望――。ジン、今日の事は私からキサラギに知らせておく。大丈夫、悪いようにはならないから安心しなさい。また何かあったら、このカグラに相談すればいい。こう見えてムツキ家の当主だ。成り立てだがね。キサラギにも多少の影響力はあるから、君を守ってくれるだろう」
「……」
「よろしくな、ジン」
大人二人の言葉の意味は、その時のジンには良く分からなかった。ただ、何かが動き出した事だけは感じていた。漠然とした不安が胸を突き、ジンは我知らず手の中のチョコレートの箱を、強く握り締めた。
その翌日、キサラギ家次期当主がジンに確定した事が公にされた。キサラギ家内外からのジンへの風当たりは一時強まるが、ムツキ家当主カグラの後見と、とある人物の密かな支援によって、表立った反発は次第に下火になって行く。そうして時は流れ、ジンは士官学校高等部に進学した。
冬の朝の、冷たく澄んだ空気が肺の中をいっぱいに満たす。寮の門を出たジンは、白い息を吐いて薄く光る灰色の空を見上げた。太陽を覆い隠す雲の下から、チラチラと白い雪が降っている。それを確認して、首に巻いた深緑色のマフラーに口元を埋めると、篭った吐息で眼鏡が曇るのに眉を寄せながら歩き出した。すれ違う生徒達が何処で知るのか、口々に己の誕生日を祝う声をかけてくる。ここ数年ですっかり外面を取り繕うのが上手くなったジンは、眉間の皺を解いて穏やかな笑みを返しつつ、ほのかな雪の中を足早に校舎へと急いだ。
一般生徒は立ち入らない生徒会室に入ると、そこでも詰まれた大量のプレゼントの山に溜息が出る。先に来ていた友人のタロとアカネがそれぞれ「よっ、人気者! 誕プレ年々凄くなってくなぁ」「リア充は爆発しろ」はやし立てるのを適当にいなし、長く使っているせいでやや毛羽立ってきた深緑色のマフラーを外した。ふと手の中のそれに目を落としたジンは、生地の感触を確かめるように柔らかな表面をそっと撫でる。
あの男に会ってから、今日で何度目の誕生日だっただろうか。重ねた年に比例して、自分の体も成長した。あの時肩をすっぽりと覆っていたマフラーは、今では首に巻いて丁度良いサイズだ。あの男――後に『ハザマ』という名だと知った――が使っていた身長に追い付いた。
マフラーを椅子にかけ、ジンはプレゼントの山の中から二つ、探し出して自分の机に選り分けた。一つは妹分のツバキから、有名な高級菓子店のチョコレート。もう一つは何のロゴも無いシンプルな包み紙の小箱。メッセージカードには『ハザマ』の名が刻まれている。
あの日の約束の通り、ハザマは毎年ジンの誕生日にチョコレートを贈ってくれた。時には自分の手で、時にはこうして配送で。そのチョコレートを食べる時、寒い雪の夜に彼が語ってくれたように、自分はまだ生きていても良いのだと、ほんの少しだけ思えるのだ。
「ジンジンが貰って食べるのって、俺らと身内からのだけだよね。そのチョコ、この前言っていた諜報部の知り合いから?」
「ああ。…食べたそうな顔してるが、やらないぞ?」
「ケチ!」
ジンが士官学校の中等部に入った頃、ハザマは入れ違いに卒業したようだった。誕生日以外にも月一回程度は顔を見せに来ていたハザマだが、彼が軍の諜報部へと進んだのを知ったのは、実は最近である。長期化しているイカルガ内戦に諜報員として赴くと、前回会った時に言っていた。今頃はイカルガの空の下だろう。かの地にも雪が降っているのだろうか。
ジンは生徒会室の窓から外を見て、ハザマからのチョコレートを一粒口に入れた。変わらない味が口内に溶けて広がる。あの日、あの時、このチョコレートを食べなければ、きっと自分は今でも死んだように生きていたに違いない。
何故ハザマがこうも自分に係わってくるのかは分からない。ただの気紛れなのか、キサラギの名を利用しようとしてか、それとも真実、この身を案じてくれているのか。どれでもジンには構わなかった。ただ、ハザマが会いに来て帰って行くと、どうしてだか、もう一度会いたいと思うのだった。
ジンがイカルガ内戦に参加したのは、それから三年後、士官学校を卒業して直ぐの事だ。統制機構に対して長期に渡り抵抗を続けるイカルガ連邦の国力は、誰の目にも明らかなほど低下の一途をたどっていた。殆ど抗戦も無いまま敵首領の居城、ワダツミに乗り込んだジンは、たった今、己が氷漬けにしたイカルガ元首の姿を前に目を見開く。
炎が揺らぐような不思議な色合いの両目が、優しい瞳で自分を見ていた――。
ハザマと出合ったあの夜に会った壮年の男。テンジョウ。イカルガ元首の名もテンジョウだ。何故気付かなかったのだろう。あの日、義父は何と言っていた?『今夜は――がいらっしゃる』十二宗家の当主である義父が『主上』と呼ぶのは、世界中を探してもただ一人だけだ。
――今夜は、帝がいらっしゃる。
「これは、まさか…っ そうか、そういう事だったのか!」
統制機構の頂点に君臨するはずの帝が、その統制機構に追われていた。にもかかわらず、内戦のさ中にも帝としてキサラギ当主が遇していた事実。
「だとしたら…何故統制機構は…」
「はい、そこまで」
「」
背後から突如伸びた手に拘束されて、ジンは息を呑んだ。耳元で聞こえた声は懐かしい、聞きたかった男の声。抵抗も忘れて振り向くと、すぐ近くで自分を見下ろす金色の瞳と目が合った。
「いつも思うんです。もう少し、時間が欲しかったと」
「ハザマ、どうしてここに…! 何を言って…」
いつも飄々として、柔らかく自分に接していたはずの男が、今はまるで別人のように見える。その得物を前にした蛇のような表情に、ジンは戸惑い、慄き、悲しんだ。
「もっともっと、育ててから食べたいのに、貴方はいつもここで気がついてしまう」
ささやくように言う、これは誰だ。自分が『ハザマ』だと信じて来たこれは、本当は一体『何』だったのだ。何のために自分の前に現れた。何のために自分に心を与えたのだ。何のために、何のために、何のために。
「もう少し時間があれば、もっと美味しく、もっと『私』を深く刻み込んで、極上の味わいに出来るのに」
冷たい手が愛おしげにジンの頬を撫でる。気付けば涙を流していた。頬を伝う熱い雫を、細く尖ったハザマの舌が舐め取る。
「…ハザマ…、お前は、何を知っているんだ…?」
騙されていたのか。裏切られていたのか。気紛れでも、宗家の権力目当てでも良いと思っていた。だが、あの時かけてくれた言葉だけは嘘では無いと信じたかった。『貴方は一人じゃありません』どんな理由でも、自分の側に居てくれると思っていた。
「嘘は…嫌いだ…」
雪が降っていた遠い日の夜のように泣くジンに、愉悦と期待で光る金色の目でハザマはニコリと微笑んだ。
「大丈夫。側に居ます。全部食べて空っぽになったら、また私がいっぱいにしてあげるんですから。――さあ、今度はどんな『味』なのか。貴方の記憶を食わせて下さい」
嘘でないなら、良かった。ジンは最後にそう思い、牙を剥いた大蛇の顎に意識を奪われ崩れ落ちた。
「…と言うわけで、私の素材に対する愛情と料理への情熱を理解していただけましたか?
」
聞き流していた話が終ったらしい。ジンは雪の降る窓の外から目を戻して、正面に座るハザマを軽く睨めつけた。
「分かったから、もういい加減口を閉じろ。料理が冷める」
「おや、これは失礼。食べる気になってくれたんですね」
「料理に罪はないのだろう?」
ジンは短く溜息を吐いて、ハザマが掲げたワイングラスに自身のグラスを打ち合わせた。チン、と小さく音が鳴る。
「お誕生日おめでとうございます、キサラギ少佐」
私を想う貴方の記憶を食べるのが、私はとても好きなのです。祝いの言葉にそんな意味が込められている事は、ジンにはもちろん知る由もない。
END