クズ保険医ティキ×高3ラビ高校3年生の夏、ラビは一度も訪れることのなかった一室に足を踏み入れようとしていた。
「うわ…」
そこには「不在」の2文字。
帰宅部のラビだが、今日は助っ人としてサッカー部の練習試合に参加していた。
高校入学当初から入部を促されるほどの運動神経を持ち合わせていたが、相手選手とボールの取り合いになり運悪くその指先が左頬をかすめてしまった。
軽い擦り傷だったが、消毒だけでもしてもらおうと、部活後にここ保健室を訪れたのだ。
(消毒と絆創膏くらいなら勝手に取っても怒られないだろ)
そう思い至ったラビは、挨拶も無しに戸を引き入室する。しかし、すぐにその浅はかな考えを後悔することとなる。
「きゃっ」
「へ?」
保健医が不在なら、無人であろうと考えたラビだったが、確かに戸に鍵はかかっていなかったし誰か休んでいたところを起こしてしまったのだろう。
それは悪いことをしたと謝ろうとした矢先、脱兎のごとくラビの脇を女生徒が走り抜けていったのだ。
小さくなる彼女の背を見送りつつ、ラビはこの保健室の主の良からぬ噂を頭の隅から引っ張り出していた。
「ちょっと君、不在の文字が読めなかったのかな」
いかにも面倒ですといった表情で、ベッドのカーテン裏から姿を表した男こそ、保健医のティキ・ミックである。
そしてこの男の良からぬ噂というのは、"気に入った生徒に手を出している"という倫理的秩序に反するものなのだ。
火のないところに煙は立たないというが、パーマのかかった黒髪に左目には泣き黒子、気だるげな様子だがスラリとしたスタイルというのがティキ・ミックなのである。
現に今この男は、全開になったワイシャツのボタンをとめ直しており、誰がどう見ても色事の最中であった雰囲気を醸し出している。
「それに、男はお呼びじゃないんだよね」
「俺だってアンタに呼ばれたわけじゃねェし、手当してほしいだけなんだけど」
今まで一度も怪我をせず保健室を利用していなかったラビだが、この男の噂を耳にしてからは触らぬ神に祟りなし、意図して近づかないようにしていたのだ。
しかし、起きてしまったことはしょうがない、けれど極力面倒事にならないよう手短に済ませようと努める。
「はいはい、んじゃどこ怪我したのかな、3年A組のラビくん」
「…なんで知ってんの」
確か保健室を利用する者は、名簿にクラスと氏名、利用する理由を記入するんだったと考えていたら、既に名簿に記入し始めているティキの姿が目に入った。
「なんでってそりゃあ、女の子たちから君の話をよく聞くからね、かっこいいって」
「アンタに手ェ出されてる子に言われててもな」
「あっはは!それは確かに!」
最大限の皮肉を返したつもりだったが、この男にとっては痛くも痒くもないらしい。
むしろ開き直っているようにさえみえる。
「でもかっこいいだけじゃなくて、頭もいいし運動もできるんでしょ?ちょっと贅沢すぎない?」
「俺が持って生まれたもんなんだからアンタに関係ないです〜」
こっちは絆創膏をもらって早く話を切り上げたいのに、存外ティキは話好きのようだ。
ティキが話すように、ラビは文武両道、加えて赤髪に翠眼、その瞳の片方は常に眼帯に隠されているという目立った特徴があり、当の本人は素知らぬ顔をしているが女生徒たちからはかなり人気があるのだ。
「てか、早く手当てしてほしいんだけど」
「わかったよ、その頬の傷かな。よかったね、下手したら目にあたってたよ。あ、でもそしたら両目とも眼帯になっちゃうね」
ふざけたことを言いながら、ティキはまた名簿の空欄を埋める。
またしてもなぜ怪我の理由を知っているのかと、ラビは訝しげにティキを睨めつける。
ティキもその視線の意図に気づいたのか、薬品棚を漁りながら口を動かし続けた。
「今日来た子が、君が今日はサッカー部の助っ人してるから見たいって言ってね。ほら、ここからグラウンドってよく見えるだろ」
確かに保健室は1階で、グラウンドに面しているのだ。
しかしこの保健医、最初からではあったが自分の行いを隠そうという素振りが欠片も見えない。
「アンタそんな話していいのかよ、俺が言いふらしたりとか…」
「えー、そんな話ってなにかな。俺はただ、保健室に来た子がラビくんのサッカーしてるところを見たいって言ってた、としか話してないんだけど何を想像したのかな健全男子高校生くん?」
「っ…うるせぇ!さっさと手当するさ!!」
まんまとティキの手のひらの上で転がされてしまったラビだが、噂を聞いたときからこの男とは相性が良くないだろうと思っていたのだ。
ずい、と左頬を差し出し早くやれと意思表示する。
顔を固定するために顎を捕んだティキが、ちょっとしみるかもよと声をかけてくる。
「うっ」
消毒液の染み込んだ脱脂綿が傷口に当てられると、ピリピリと傷んだ。
やはり深い傷ではなかったが、広範囲にわたって擦り切れていたようだ。
「もうちょっとそのままで。今ガーゼ当てるから」
ラビは所在無げにティキの手つきを見ていてが、伊達に保健医としてこの学校に在籍しているわけではないらしい。
テキパキと使用済みの脱脂綿を処分し、ガーゼを傷の大きさに合わせて切っていく。
手当をしているときは集中のためか、口数の少なくなるティキにラビは少し居心地の悪さを感じ、目を閉じる。
再び顎を固定され、ガーゼが頬に当てられる。
「じゃあテーピングもしちゃうね」
ティキはそう言うと、サージカルテープで丁寧に処置をしていく。
ただの擦り傷で見た目が大げさではないかとラビはふと考えたが、時すでに遅し、考え始めたときには既に処置は終わっていたのだ。
「ラビくん?終わったよ」
「あ、おー。ありがと…」
瞼を持ち上げて、お礼を告げようとしたが、彼特有の語尾はティキの唇に吸い込まれた。
軽く、触れるだけの口づけで、ティキは顔を離す。
「お礼はこれでいいよ」
「は…え?」
ラビは何が起きたのか見当もつかない様子で、その翡翠が溢れそうなほどに目を見開いていた。
そんなラビの表情に、ティキはくつくつと笑いながらまるで面白いおもちゃを手にした子どものように、しかしその美貌でこちらを引きずり込む悪魔のように囁いた。
「俺は、"気に入った生徒"に手を出す悪いやつなんだよ」
✦✦✦
「おいっ、ラビ!!」
「あ」
(くそ…もう絶対近づかないと思ったのに)
初めて保健室を訪れたあの日から3ヶ月。
またあの厄介な保健医に絡まれたくないと過ごし記憶も薄れ始めた今日、再びその戸を叩くことになるとは。
サッカー部の同級生達は夏の公式戦で引退はしたが、受験勉強の合間を縫ってはグラウンドで集まっていた。
ラビは勉強なんかしなくても大学受かるだろうとまた呼び出しがかかり、ラビ本人も息抜きにと加わったのだ。
しかし"グラウンドでサッカーをする"という状況に、ラビが忘れようとしても忘れられないあの日の記憶が蘇ってしまった。
(たしかに、こっちからも保健室ってよく見えるんだな)
「おいっ、ラビ!!」
「あ」
なんて試合中に意識を逸らしていたら、味方からのパスを取り損ね、挙げ句バランスを崩したラビは咄嗟に地面についた右手首を捻り痛めてしまったのだ。
(前回のアレで気まずすぎさ…いやでも、こんな覚えてるの俺だからか?アイツは誰でも構わず遊んでるだろうし…)
「し、失礼しまーす」
失礼なことを考えながらも、今回は挨拶をしてから入室する。
ちゃんと入口の不在の札がかかって無いか確認したし、間違ってもこの間のような場面に出くわしたくはなかった。
「いらっしゃい、眼帯くん。待ってたよ」
「だから呼ばれたわけじゃないさ」
「つれないな〜」
そうため息をつくティキは、窓際のデスクの前に座っていた。
ワイシャツを第2ボタンまで開け、白衣こそきているが、所々シミの付いたそれは清潔感のかけらも感じられない。
なぜこんな男が女子たちから人気があるのか、ラビには全く理解ができなかった。
否、理解したくもなかった。
「はい、じゃ早く手、見せて」
「また見てたのかよ」
ティキの前に用意された丸椅子に腰掛ける。
見られていたことに少し恥ずかしさを覚えるも、先程から痛みが増している右手首を素直に差し出した。
その手を取られ、軽く触診をされる。
やはりかなり強くひねってしまったのか、触られると鈍い痛みが襲ってきてラビは思わず顔ををしかめる。
「湿布すれば大丈夫だろうけど、すこし腫れるかもね」
「ついてないさ…」
「まったく、俺に見惚れてたからだろ」
「はあっ!!?」
ティキの思わぬ発言に、ガタタッと音をたてて立ち上がってしまった。
たしかに、転んだところを見られたのなら、ラビが保健室の方を見ていたこともバレているのだろう。
だが実際には、保健室の窓にはレースカーテンがかかっており、中の様子までは見えなかったのだ。
断じて、窓際からグラウンドを眺めていたであろうティキに見惚れていたわけではない。
「ほら、急に動かない。座って」
「〜〜っ!」
言い訳を並べたところで、またこの男の良いように解釈されるであろうことは分かりきっていた。
そのまま大人しく、処置が終わるまでやり過ごす。
「よし。あまり動かさないようにね、まあ利き手だから何かと不自由だろうけど。先生に手伝えることがあれば言うんだよ」
「はあ?先生なんだから当たり前だろ、仕事するさ」
「うーん、眼帯くんってば意外と鈍感…」
ティキの噂を知っており、尚且つ先日の出来事があればティキの下心などとっくにわかっていそうなものだが、ラビの口からは至極真っ当な言葉が返ってきた。
現に、ラビはティキを警戒してなるべく接点を持たないように過ごしていたのだ。
ティキのことを意識していないはずがなかった。
「じゃ、あんがとさ」
「痛みが続くようならまた来るんだよ?」
「へーい」
下心があるとはいえ、ティキも一保健医なのだ。
生徒の怪我は心配なのだが、それもわかっているのかいないのか、ラビは生返事で後ろ手に戸を閉めていった。
(手を変えたほうがいいのか…)
今までティキのもとには、向こうから好意を持って近づいてくる者たちしかいなかった。
しかしラビはティキに興味がないどころか、噂のせいでティキの印象はマイナススタートである。
✦✦✦
「あ」
「げ」
ニ度目に保健室を訪れた日から丁度一週間。
下校する生徒たちで賑わう昇降口でティキと出くわし、ラビは思わず眉をしかめてしまった。
「なんだよ、げって」
「アンタには極力会いたくないだけさ…」
「眼帯くんひどいな〜。俺達キs」
「うわああ!!ちょ!ストップ!!!」
この男は何を言い出そうとしているのか、ラビは慌ててティキの口を手で塞ぐ。
ただでさえ、良くも悪くも学校で話題になる二人が人の多いこの場所にいるだけで注目を集めるのだ。
そこへ超特大の爆弾発言が投下されてしまえば、ラビの卒業までの平穏な学校生活は一瞬にして焼け野原になってしまうだろう。
というか、ティキにとっても、男とはいえ生徒に手を出したなどという発言はもってのほかではないのだろうか。
「アンタ…ほんとにわけわかんねぇ」
「眼帯くんみたいなタイプは、外堀埋めるのがいいのかと思って」
「いや全然意味わかんねぇから……」
ラビは理解の追いつかないティキの言動に頭痛を覚えた。
そしてさらに人だかりができ始めているこの場所から一刻も早く抜け出そうとしたが、ティキに腕を掴まれ叶わなかった。
「この前の怪我、もう平気なの」
「…大したことなかったさ」
「そう?なら良かったけど」
「あっ」
掴んだ右腕の具合を確かめるように、ティキは軽く指先に力を入れる。
怪我は本当に治りかけていたのだが、突然指圧されて鈍い痛みが走った。
思わず上ずった声をあげたラビに、チラチラとこちらの様子を伺うだけだった周りの視線が一気に集中し静まり返る。
ラビは恥ずかしさのあまりうつむいてしまった。
これにはさすがのティキも、ラビに悪いことをしたと反省する他ない。
「えっと、ほら、やっぱりまだ手首痛むんだろ。新しく湿布貼ってやるから保健室行くぞ」
「……」
ティキの必死のごまかしに、果たしてその場にいた何人が騙されてくれただろう。
ラビの腕を掴み直したティキは、下校する生徒の波に逆らいながら半ば放心状態のラビを保健室まで引きずっていく。
そんな珍しい組み合わせ、異様な雰囲気の二人のあらぬ噂が囁かれるのに時間はかからなかった。
「あーっ、いたぁ」
保健室に向かう途中、女生徒に声をかけられる。
上靴の色からして2年生のようだ。
「ティキ先生、保健室いないんだもん探したよ」
どうやらティキを探していたようだが、怪我をしているようにも体調が悪いようにも見えない。
まさか、とラビは思った時には、彼女は既にティキの腕に抱きつき甘えるような声音になっていた。
「せんせー、今日あたしと約束したでしょ」
「悪い、他に用があって」
やはり、ラビがあの日保健室で出くわした彼女ではないが、この子もティキとそういう関係なのだろう。
こちらを気にすることなくグイグイとティキに迫る彼女に、ラビはいたたまれず視線を彷徨わせるしかなかった。
「用ってなによ?」
「コイツだよ」
「はっ?」
またしてもあられもない声を上げてしまう。
痴話喧嘩(?)に巻き込まれないよう、ティキの手から開放されないままであったがなるべく気配を消していたのに矢面に立たされる。
「コイツが怪我したから見てやんないといけないからさ」
「ふーん…」
なにやら品定めをするかのような視線で見上げてくる年下の彼女に、ラビはたじろいでしまう。
ティキの方を見ても、話合わせてくれとでもいうかのように困り顔で笑っている。
なんの言葉も紡げずにいると、彼女は勝手に納得したのかまたティキの方に向き合っていた。
「今日はもーいいけど、また今度ねせんせぇ」
「はいはい、気を付けて帰れよ」
彼女は踵を踏みつけた上靴をパタパタと鳴らしながら、小走りで走り去っていく。
眼の前で起こった出来事に、ラビは黙って彼女の背を見送ることしかできなかった。
しかしティキは、こんなことは日常茶飯事、何事もなかったかのように、再びラビの手を引いて歩き出した。
✦✦✦
「なー、もー離せって!」
「だめ」
ズンズンと廊下を進んでいき目的地に到着する。
ティキは、保健室に無理矢理ラビを押し込み、入口の不在の札はそのままに戸を閉めると後ろ手に鍵を掛ける。
今ならまだ間に合うとラビは抵抗してティキを退かそうとするが、簡単に腕をまとめて掴まれてしまった。
そのままティキはベッドのカーテンを雑に開けると、ラビを仰向けに、放り投げるように押し倒す。
若干ではあるがティキのほうがラビより身長が高く、どうやらそれなりに鍛えているようだ。
これまで一切の抵抗を許されなかったことにラビは歯噛みしてティキを睨みつけるが、当の本人は歯牙にもかけていない様子でベッドに乗り上げてくる。
「女の子にもこんな扱いしてるんさ?」
「まさか。でも男の子相手だと多少乱暴にしても平気でしょ」
やはり、この男には力だけでなく口も敵わないのか。
しかしなんとかして抜け出そうとラビはもがく。
ここまできて、これから何が起こるか察せないほど鈍感ではないのだ。
「こンの…はな、せって…!!」
「はぁ〜、往生際わるいんだから」
ティキの脇腹目掛けて蹴りを入れようとすれば膝の上から脚で押さえつけられ、顔面に拳を叩きつけようとしても掌で受け止められ、挙げ句両腕まとめて掴まれる始末だ。
「ほら、こういのってムードが大事でしょ」
「アンタと雰囲気づくりなんて、願い下げ…っ」
ラビの抵抗を完全に封じたのを皮切りに、ティキの顔が近づき唇が重なった。
最初はついばむだけだったが、顎を捕まれ無理やりに口を開かれるとその重なりが深まる。
お互いの舌も絡まり合って、ラビの口端からは溢れた唾液がたれる。
「っ…はあっ!」
「…息は止めなくて良いんだよ」
ふっと笑われ、ラビは酸欠で赤らんだ顔をさらに染める。
そんなこと、わかるわけないのだ。
「もしかして、初めてだった?」
「わりぃかよ!!」
初めて保健室で会ったときもそうだったが、キス一つで初心な反応をするラビに、ティキは嗜虐心を煽られる。