泡沫旅行さざ波と湿った風。日が昇ることのない宙。
君さえいれば、完璧なのに。
今も海の香りはしなかった。
あの世界は青く、遠く。
始まりと果ての海王星遠くで波の音。湿った風も。
でも、懐かしさを覚えなかった。覚えている懐かしい香りがしなかったから。大切な思い出とともに思考の深海に沈めるのならばどんなに良いだろうか。
そうやって自暴自棄になる前に行動する。あの日、アドバイスしたことも守れないなんて全くもって情けないな。だから、まず感覚を、次に身体を働かす。風を感じ、肩までのびた髪を揺らされながら、目を開けると強い光に包まれた。熱を感じない、人工的につくられたひどく冷たい白だった。見上げた僕の目に映ったのは宙の黒。
明るさに慣れるまでぼんやりしていると、座っている椅子が金属でできたベンチのようなものだとわかってきた。目が慣れてきたところで自分を確認する。服装はいつもの白衣と青いシャツ、そしてショートパンツ。間違いなく自分はリーゼル・アルベルト・アインシュタインだ。なんでこんなところにいるかは覚えていないが、自分が自分であるという感覚だけはある。あたりを見渡すと目の前には駅の表札のようなものが見える。
「海王星駅?」
海王星という駅があるとは聞いたことは無い。それに準惑星の海王星であるならば、ガスの惑星だ。座っている椅子が地面に自立するわけもないと浮かんだ思考で遊ぶ。しかし、ふと現実に引き戻される。地に足がついた。比喩ではなく、身体的な感覚だ。地面に足がついた。足元の僕が座っているところが地表だと思っていたが、さらに深く地面が見える。本物の地面には左右に線路が横たわっている。見渡す限り続く線路はどこに続くのかはわからないが、小さい小さい星の輝きに飲まれそうになりながら続いていた。星のようにみえたのは砂だ。街灯の偽りの光に照らされて、まぶしい。駅から出て輝きのじゅうたんの上を線路沿いに歩く。砂に足を置くと静かに静かに沈んでいく。限りなく沈むわけではなく、一定のところで押し上げられる。これ以上沈まないようにとでも、祈りが込められているのだろうかと。……まったく困ったことに肌寒い砂浜は、人を簡単に詩人にさせる。冷静に考えるとあの駅はいったいなんのために、誰のためにつくられたのかもわからない。長いこと駅にいたが、電車も来なかった。
なんとなく歩き続けていると感じた懐かしさと上がった体温は、冷たい砂浜と湿った風に流されていった。そのまま海を探す。どうやら風は線路沿いに吹いてくるようだ。さらに歩きつづけると、波の音が近づいてきた。もうすぐ終着点なのだろう。すると砂が足元にまとわりついてくるようになり、違った冷たさが足をさらった。海に着いたのだ。
瞬間、目の前に真っ青な水面が広がった。青としか形容できなかった。ほんの一瞬だけでこの世でもっとも純粋な青だったと感じた。そらがそのまま存在しているようだった。なにも考えられないながらも、なにかに誘われるように水面へと向かう。そのまま、服が濡れるのもかまわず、歩き続ける。水は、くるぶし、ふくらはぎへと上がり、とうとうふとももにまで到達する。ふと、足元に線路があることに気づく。線路はここに続いていたのだ。ひとつの疑問が消えてくが、知的好奇心は消えない。そのまま線路に沿うように歩き続ける。ゆっくりと進む。足が完全に水に浸かったところだった。突然、足元の地面はなくなった。急に水へ飲み込まれ、下へと招き入れられた。沈み切る前に、かすかに汽笛の音が聞こえたような気がした。
水の中では体が軽く、宙に浮かんでいるようだ。冷たい。誰もいないのは、今までと一緒。だが、水面下はそれ以上に孤独を感じる。戻れないと思った。いま自分はどこにいる?せめてもの抵抗に目を開くと冷たい水は燃えていた。眼下に広がるのは赤。青を反射し、吸収された赤。そして海底には何か黒いものが沈んでいる。ひとつの世界のように青と赤とが調和していた。そう思った瞬間、体は限界を迎え意識が遠のいた。夢の間の箒星 大きな音の中に誰かが呼んでる声がする。それは音が聞こえるということ。さらに息もできる。そして頭の下が暖かい。今までなかった感覚だった。少しかたいがベンチよりは柔らかい。寝そべってて、頭だけ高く、暖かいという不思議な感覚。これはなんなのだろうかと思い、目を開けると幻を見た。どうしてという言葉は声にならなかった。代わりに幻は実体を持ち始めた。
「よかった。本当に……本当に……君をもう失いたくない。」
僕を覗きこみながら上から話かける彼にはもう2度と会えないはずだった。感謝祭の日に消えてしまったから。ずっと昔の記憶と一緒の青い髪、柔和な顔立ち。記録に残っていない、記憶からも遠ざかっていた声まで一緒だ。なにもかも確かに彼だった。だから尋ねるしかなかった。
「ヴェルト。本当にヴェルト・ジョイスなのか?だって君はずっと前に世界を守って、もうこの世にいないじゃないか。」
僕の涙は上を向いているせいで溢れなかった。すると、目の前の青年は目を伏せたあとに口を開いた。
「……うん。たしかに俺はヴェルト・ジョイスだ。でも君の知ってるヴェルト・ジョイスではないんだ。だから、ジョイスと呼んでくれ。」
「わかった、君のことはジョイスと呼ぼう。それにしても君が僕の知っているジョイスと違うというのはどういうことなのか?」
「……えっと、ここはデータで作られた世界。その案内人が俺。ここに来たのも一種の旅行だと思って楽しんで欲しい。どうかな、アインシュタイン老博士?一度こう呼んでみたかったんだ。」
最初は焦ったようにしていたが、最後まで言い切るとジョイスは遠くに目を向けてしまってどんな顔をしているかわからなくなってしまった。
「そうか。」
やっぱり夢だったか。僕はそう小さく呟くと今まで膝枕をしてもらっていたところから上体を起こす。僕が身じろぐとさっと手を添えてジョイスは支えてくれた。ヴェルトはもういないという事実と彼を求めて虚構を作り上げた僕の思いの果てがこれかと夢から冷めた気持ちになった。改めて、ジョイスの顔を見ると、知っている通り落ち着いた笑顔だった。ああ、これがデータなのかと手を伸ばす。
「博士、びっくりした。いきなり頬を触るなんて。」
触れてみて、まじまじと観察する。驚いて顔も少し赤くなっている。
「やっぱり実体を感じるな、どういう技術なんだろうか。わかるか、ジョイス?」
「博士がわからないものは俺でもわからない。俺は知っていてわかるものしかできないから。」
「それもそうだな。」
そう言ってあたりを見渡すと見たこともない列車の中だった。なるほど、先ほどから聞こえていた大きな音とは列車が走っている音だったのだ。
「ジョイス、この列車はどこに向かってるんだ?」
「次の駅。1つの星をいくつかの場所に区切っているんだ。そして、天体の名前をつけた。」
「だから、僕が見た最初の駅は海王星だったのか。」
「そういうこと。もうすぐ次の駅だ。」
窓の外を指差した方ではなく、彼の方に目線を向けると純粋な笑顔をしていた。きっとこういう顔を見たくて僕はプログラムしたんだと思うと少し寂しかった。
天王星に雨は降り「着いた。さあ降りよう。」
ジョイスに続いて降りると、雨が降っていた。駅には傘立てがあって、傘がたててある。駅名が書いてある看板もあった。
「天王星駅。そうか、天王星には雨が降っているからか。」
「そう。ここはなぜだか、ずっと雨が降っているからそう名付けたんだ。見せたい場所があって。」
ジョイスが傘をとって駅を出る。入ってと言いながら傘を開くので一緒の傘に入る。雨のざっという音のせいで、会話は聞こえにくい。だけど傘で仕切られた空間は、2人だけの小さな世界に感じた。
「ジョイス、懐かしいな。あの時は雪の日の傘だった。」
「違和感のこと?雪の日の。」
「そうだ。もう自分の感覚になったか?」
「それはそうだな。今は雪じゃないけどちゃんと懐かしいよ。博士は?」
「僕はさっきからずっと違和感だ。君に対しても。」
そう違和感がずっとあるけれどなにかわからない。知っているような知らないような。するとジョイスは曖昧に笑って、こちらに答える。
「この世界にも?」
「そうなるな。」
「俺はアインに言われたよ。その感情の根本は違うことがあるって。」
ぼんやり言ったジョイスを見ながら、ふとこのジョイスもデータだが、この世界には存在していることを実感する。僕の知らない顔だったからだ。
「確かに言ったな。正確には君にではないけれど。」
「博士!それはそうだけど、ちょっと悲しいよ。博士が覚えてるなら、もう俺が言いたいことわかるだろ?」
「何も話してないより楽しいだろ?ジョイス。」
やっぱり懐かしそうに笑いあった。
「もうすぐ着くよ。博士。」
不思議なことに雨が上がっている。
「ここは、雨が降っていない。けどやっぱり暗いままだな。」
「そういうと思って。」
するとパッといくつかの電灯がついた。一気に明るくなった空に浮かんでいるものがある。
「虹か。」
「そう!きれいだろ?」
その虹は不思議だった。暗い夜空に大きな虹の上にさらに色が反転した虹があった。さらにもうひとつ、ふたつ。電灯の周りにも円形の虹とたくさんの虹があった。雨上がりの青空に浮かぶ見たことある虹よりも立体的に感じる虹だった。ジョイスを見ると満足そうだった。僕は手を挙げて虹を指差す。
「あそこで反転しているのは副虹か。気象関係の記事で見たことがある。この虹は空気中の水滴の中を2回反射する。だから、色が反転して地面に近い方が赤、空に近い方が紫になるんだ。そして、あそこの光源に近い光はちゃんと円形の虹になっている。確かに綺麗だし、よくできているな。光源もちゃんと全部の色の波長があるものなんだな。」
いや、これもデータだからは光源も何も実は関係ないのかと思いながらジョイスの方を見ると、彼はポカンとした顔をしていた。目があったジョイスはお手上げと言ったように両手を開き、頭を横へ振った。
「久しぶりに聞いたな。そんな感じの解説。俺にはさっぱりだ。だけど、きれいと思ってくれたならいいや。」
「ジョイス。実は久しぶりに聞けて懐かしくて嬉しかったんだろ?」
「そんなわけあるか!」
目の前のジョイスは真っ赤になって否定した。きっと彼もこんな感じだったんだろうな。そう思うとこの世界は全部僕の想定内なのだろうか。
「天王星に雨が降るっていうことは知っているんだろう。それならその雨の正体ってここで再現できるのか?」
「博士、世界の案内人にそんなことを頼むなんて。……見てて。」
そういうとジョイスは空に向かって手を上げた。その後雨のように降り注ぐものがあった。虹の中、ライトの光源に照らされてそれは七色に光った。
「それは俺にもできるよ。炭素でできてる。……ほら。」
そう言って降り注いだものを渡される。
「ダイヤモンド。知っていたんだな。」
手のひらできらきら光る宝石の内側には、この空間を凝縮したように幾つもの虹があった。
「そうか、この空間こそが天王星の雨だったんだな。」
僕がそう言うと、そこまで考えてなかったけどとジョイスはおどけた。
土星の輪っかを一周して ガタガタと揺れる車内でさっきもらったダイヤモンドを見る。どこで見ても虹は消えない。そっと白衣の中にしまった。
「ジョイス、次は順番的に土星か?太陽系の惑星が駅の名前になっているのかな。」
「正解!もうすぐ見えてくるぞ。」
見えるって駅が?と話す前に窓の外を見ると土星によく似た何かが見えた。輪っかが見えた気がする。
「到着。」
ジョイスの言葉に続いて外に出る。土星駅と表札のある駅とその後ろに電車から見えた物体が見えた。レールと色とりどりの照明。
「遊園地か。」
「土星の輪っかをレールで表してるんだ。」
「なるほど、では行こうか。ジョイス。」
もうなれてきた僕はすすんで前を歩く。いつのまにか昔と同じようについてくるジョイスを見ようと後ろを向く。後ろには腕を組みながらもついてくるジョイスが見れた。俺が案内人だったのに……と何やら言っているが一旦おいておこう。目の前に見えてきた遊園地は、色とりどりの光、様々なアトラクションがある。数日前に作って、今塗装をして完成したかのようにどこもかしこも綺麗だった。しかし随分古い印象を受けた。最近、テレビで偶然見た遊園地でも全然ない。ふと前を見るとぼやけたイルミネーションの光の海の中でくっきりと浮き上がる闇夜の青い色をまとった彼がじっとこちらを見ている。
「博士、どうしたんだ?」
いつのまにか変わっていた位置に僕は立ち止まっていたことに気づく。あと数歩の距離が嫌に遠く感じた。
「ああ、なんでもない。行こうか。」
遊園地の中に入るとコミカルなキャラクターが描かれたポップな看板がたくさん見えたり、楽しい音楽が聞こえる。
「いろいろあるよ。何で遊ぶ?」
ジョイスが尋ねてくる。僕は周りを見渡すと初めに見えた土星の輪を指差す。
「ジェットコースターにしよう!」
しばらくして乗り場まで来る。早速乗り込んでシートベルトを着ける。
「この遊園地、もう少しこうしたいという点もある。ジョイスは何か知っているか?このデータを作ったことすら覚えていなくて。」
さらにどの遊園地を参考にしたのだろうか。ジョイスは、少し曖昧に笑っていた。
「さあ、わからない。博士がそう思うなら案を聞かせてくれ。だけど俺はこれしか……あっベルがなった。もう出発だ。」
ガタガタと音を立てて頂上に向かって上がっていく、あまり高度はなくこの遊園地全体が見えるだけだった。横を見たらジョイスが片手で前を指さしている。前を見るとレールが消えて浮遊感が起こった。僕に警告していた隣の案内人はわかっていたはずだろうが大きな悲鳴をあげている。そんなジョイスを見て笑う。上がったり下がったり空を飛んでるようで眼下の夢のような世界をぼんやりと眺めた。そのうち終わりが来るとわかっていてもこの瞬間は確かに夢でもよかった。
「すごく怖かった。」
うなだれながら想像通りの感想を言ったジョイスを見ながら、やっぱりこの案内人だけは僕の想像の範囲だと感じた。
「博士、もう一個案内したい場所がある。」
「連れて行ってくれ。」
了解と敬礼して、前を歩き出した彼について行くと大きな一際綺麗なメリーゴーラウンドがあった。横には電動オルガンがある。
「この黄金卿のカルーセル。一緒に乗って欲しい。」
そう言いながら差し出された手を取り、夢の国の舞踏会に出かける。全体は木製。アール・ヌーヴォー様式の装飾、着飾った白馬が並び、美しい天使が馬車の上で休憩する。天井では女神が微笑む。煌びやかな光が柱の宝石を輝かせる。屋根を飾る外燈も美しかった。どこに乗ろうか?というジョイスの声が聞こえ、とっさに指差す。二つ並んだ白馬に乗る。
乗るとベルが聞こえ、オルガンがカルーセルの動きに合わせて、サロンミュージックを奏で始めた。ゆっくりと全体は左回りに馬は上下へ動く。2人は同じリズムを刻んだ。ジョイスがぼんやりと口を開く。
「みんなの憧れだ。これに乗るのは夢なんだ。」
「夢か。夢のような体験ばかりだな。知らない場所で目覚め、意識を失い、君に膝枕をされていた。」
「もう言わないでくれ!そういえば、昔逆に膝枕してくれた時あった……」
ジョイスの顔は中央の柱の装飾の赤いカーテンと同じ色になっている。はははと笑いながら、装飾を見る。美しいことには変わりなく黄金卿というのもうなづける。しばらく見ていると中央の柱に料金表が見える。それは読めた。ドイツ語で書いてあったからだ。
「ジョイス、あれって?」
「あれって表札?あー、料金は取らないよ。」
「どうしてドイツ語なんだ?」
「それはこれが昔のドイツで作られたものだから。その後、アメリカに渡ったんだけど。」
「そうか、随分古いものなのか。」
「まあ、当時のままだ。これは。」
と言いながら、ジョイスは新品同様の木製の馬を撫でる。
速度が弱まってきた。美しい夢は本当に一瞬だ。儚い夢を追体験することはできない。
「ありがとう。」
ジョイスはすでに降りていて舞踏会の始まりの時のように手を伸ばしていた。その手を取って馬から降りる。すると手の上に冷たさを感じて重みが加わった。
「はい、記念メダル。」
ちょっと調子乗りすぎたかなと言っているので、いいや、そんなことはないと答えた。
木星で一休み 記念メダルの彫刻は黄金卿のカルーセルの周りにレールが1周している土星の形のようなデザインだった。メダルの中でも輝きは消えていないようだった。そっと白衣の中にしまった。
「案内人さん、そろそろお腹も減ってる、それに疲れてしまったよ。」
「博士、次は休息できる駅につく。窓の外見てくれないか?」
「次は森か……?」
見えてきたのは森で中に一軒の小屋がある。
「ジョイス。まさかとは思うが次は木星だから木ということか?」
「あはは、リラックスできるだろ?」
「なるほど、木には落ち着く力があるということか。」
一度勢いで納得しかけた。いや、これは僕の作ったデータの世界だから発想は僕なのか……頭が痛くなってきた。頭を抱えるしかない。
「博士!落ち着いて。」
ジョイスの声と共に暗闇に包まれた。両手で目を塞いできたのだ。暗闇、手のほどよい暖かさ、ガタゴトというもう聞き慣れてしまった電車の音が心地よい。その音もすぐに止まった。
「ジョイス、急ごう。」
「うん。」
そうやって急いで走り出してすぐに駅を越えて小屋を目指す。駅の表札はやはり木星だった。小屋に着くと木目が綺麗な落ち着く空間だった。
「少し言い訳させてくれないか。木星のガスの動きって木目みたいだろ。それからイメージを得て、こんな空間にしたんだ。」
たしかに、適度に暖かくて安心感がある。
「ここは宿泊用にでも作ったのか?データ内で宿泊というのもおかしな話だが。それにしては、部屋が少ない。」
「まあ、今回は博士と俺が休めれば問題ないだろ?」
ジョイスは得意げに笑った。ここ使ってと2階の1室に案内される。中にはベッドやシャワー、洗面所すべて揃っていた。
「お腹すいてたら一階に来てくれ。」
僕は白衣を脱いで椅子にかける。お腹も減っているので、下に降りる。そして、ダイニングテーブルを見つける。
「博士、何食べたい?想像通りにつくれないかもしれないけど。」
すると台所から出てきたジョイスは椅子を引き、座ってと促した。
「だいぶお腹が空いているな。それでは、スパゲッティを。」
「……ちょっと待った。それってショートケーキじゃないよな。」
「今度は、本当にスパゲッティを。」
そう言いながら、あの時のように下を出して笑う。
「……わかった、少し待っていて。」
台所に消えていってしまったジョイスを見送って、本当に今日は不思議な1日だったと息をつく。結局ここは全部偽りだと思うと悲しい。いろいろとこの世界について考えようとしたころにジョイスの声が聞こえた。
「スパゲッティお待たせ。」
「早くないか?本当にゆでたか?これはスパゲッティなのか?」
「なんてこというんだ、博士!ちゃんとスパゲッティだよ!見てろ!」
いただきます。と言いながら、自分の分の麺をすする。
「ほら、ちゃんとスパゲッティだ。」
「そうか、君が確認したところで僕が自分で確認しなければ意味がないな。いただこう。」
トマトの味が効いていて本当に美味しい。麺の茹で具合も問題なかった。味も再現できているのか。この世界は本当に不思議だな。
「ジョイス、美味しかった。君は料理できるんだな。」
あはは、まあねと笑う彼をみて、そういえば今何時だろうかと思う。
「今何時かわかるか?」
「えっと、今は21時。」
ジョイスは腕時計を見て答えた。
「君、腕時計持っていたんだ。」
「持っているさ。時間を、今はいつかを忘れないように。」
「時間か。もうすぐ1日が終わるな。」
「今日は完璧な世界のいい1日だったよ。」
部屋へ帰る前、これあげるといって、懐中時計を渡された。時間が見れた方が便利だろと。また明日!って言いながら手を振る彼に別れを告げた。
火星の氷が解けるまで 目が覚めた。この世界は窓を開けても一向に暗いだけで朝かわからなかった。そこでふと昨日もらった時計を見ると短針は8のところにいた。昨日は部屋に帰って来てシャワーを浴びて、パジャマがあって、布団に入ったらすぐ寝てしまったのだ。
コンコン。
「博士、起きてるか?朝ごはんあるから支度できたらおいで。」
服に着替えて、白衣を着る。時間がここでも流れていることを教えてくれた時計はそっと白衣にしまった。そのまま下におりて昨日ご飯を食べた場所に行く。すると朝ごはんを用意して待っているジョイスが見えた。ジョイスにお礼を言い、用意してくれた朝ごはんを食べる。
「案内人さん、今日は火星にでも行くのかな?」
「その通り。食べ終わったら出発しよう。」
食べ終わった頃合いをみてジョイスがほら出発するよと先導する。外に出ると急いでいたので気づかなかったが、森のような木は全部はりぼての模型だった。駅から電車に乗る。
「結構次は近いんだ。だけど少し寒いかもしれない。だから着いたらこのコートを着てくれ。」
コートを手渡されるとずっしりと重い。
「このコートいつのまに用意したんだ。」
「うーん、今。」
「君でもそんな冗談言うんだな。」
「失礼だな、本当かもしれないだろ。」
そんなことを話しているうちに、だんだん電車の外が変わって来た。赤い地平に氷が見えている。そのまま列車は駅へと入っていく。
「火星の氷か。」
「行こう、博士。」
目的地にはすぐに着いた。クレーターのところに白く分厚い氷が張っている。白い氷と赤い地面コントラスが綺麗だった。コートを着て、外に出る。ひんやり冷たい空気は寝ぼけた頭の中を流すようにすっきりさせる。氷は鏡のように輝いている。
「ジョイス、ここは。」
「火星駅の氷。実はイメージしたものは火星じゃなくて南極なんだ。前アインが南極に連れて行くと言っていたから。南極ってどんなところかわからないけど。」
「はは、南極だったんだ。行ってみようか。」
「ここではスケートができるから。靴はそうだな、ちょっと目を瞑っていて。」
目を瞑ってしばらくすると、目を開けていいよと声をかけられる。足元を見ると靴に刃が付いている。
「ジョイスは、データを書き換える権限があるんだな。」
「まあ、そんなかんじかな。さあ行こう。博士はスケートしたことあるかな?」
「ないけれど、多分できる。」
氷に足を乗せると転びそうになったので、ぐっと踏ん張る。するとジョイスが支えてくれた。一緒に笑って、支えられたまま徐々に滑り始める。
「このまま、前を見て滑り続けるんだ。ほら、できたじゃないか、博士!」
僕はもう滑ることができていた。遠くから見えた白い氷はいつの間にか星空を映していた。
「博士、ここでは星が氷に映っているんだ。」
「綺麗だな。」
逆転した星空を眺める偽りの天体観測は、ジョイスと僕との関係を表しているようだった。偽りの星空を傷つけながらジョイスと滑り続ける。前を滑る彼はデータの世界で案内人と名乗ったジョイス。では彼はなぜ南極を知らず再現できないのか。僕が知っていればいいだけのことなのに。ところどころ、僕の知らない構造と感覚で作られたこの世界はなんなのだろうか。
「どうしたんだ、博士?大丈夫か?」
「ジョイス、南極について教えよう。」
「教えてくれるのか?」
「もちろん、そうしたらこの火星はもっと南極に変わるか?」
「できる範囲でだけど。」
「南極にはペンギンがいるんだ。君はペンギンを再現できる?」
ジョイスは下を向いて、つぶやいた。
「それはできない。ペンギンのことは知っている。だけど、生命の創造はできない。」
僕は氷の星空を滑り、距離を取る。疑問は氷解していた。
「そうか。ジョイス、聞きたいことがあるんだ。なんでこの世界を作ったんだ、理の律者。」
天体は逆行する「わかってしまったか。」
前を向いた彼は苦しそうな顔をしていた。
「博士はどうして気づいてしまったのか?」
「まず、この世界に僕は知らないことが多すぎる。だけど、ジョイスの知らないものはない。できないことは、構造を知らないものだけ。そして、君は生命の創造といった。だから、それ以外は全部創造したんだろう。それができるのは理の律者しかいない。」
「そう。何も間違ってることはないよ。博士、俺がなんでこんなところにいるのか。聞いてくれるか?」
そう言いながらこちらに近づいてくる。僕はうなづいた。
「ありがとう。実は火星駅でこの線路は終わり。次の星にはいけないんだ。」
「次の星……地球か。まさか君は地球からこの星に来たのか。」
「そうなんだ。俺はあんたの世界の俺とは違って世界を守れなくて逃げた情けないやつなんだ。だから、あの時の名前で呼んでほしくはなかった。」
「落ち着いてくれ、まだ何も知らない。聞かせてくれるんだろ。」
「本当にあんたは変わらないんだな。実はもう1つ駅があるんだ。そこに案内する。」
「案内してくれ。旅の終わりまで。」
電車に乗り込むとジョイスは話し出した。
「あの日、11月24日、俺はみんなを守るためニューヨーク全域にバリアを張った。俺が頑張らないとこの世界からニューヨークが消えてしまう。天命の作ったミサイルの残骸全てを防ぎきれなかった。俺は失敗した。さらに生き残った。意識が不安定になりながらも見えたのは街が火に包まれて行くところだった。博士の英雄とは全然違うだろ。」
「いや、そんなことがあったんだな。続けてくれ。」
「俺はできるだけ人を避難させた。だけど、その中で君にいいやアインに会えなかった。テスラにも。最後に別れたところは、炎に包まれていた。」
「だから、君は離れたのか?」
「ああ。内側の大きな力から無念が聞こえてきたんだ。また、この景色だって。」
「またって第一次崩壊か?」
「そう。起こしてしまったのがこの律者の力。守ることも壊すこともできる。俺は正しく使えるかと思った。さらに守りたい世界の美しさを教えてくれた人はもういない。」
「そうか。」
「だから俺は地球を離れた。そして、この星を見つけた。」
「もしかして今までの景色は君が忘れられない思い出なのか。」
ジョイスは窓の外を指さした。
「そう、今通り過ぎた土星。あれは俺の中のベルリンの人々の夢。移動遊園地、ドイツの人が作った最古のメリーゴーランド。だから、憧れてエルドラドのメリーゴーランドの設計図を知っている人がいた。」
「だから、古いものなのに新品だったんだな。」
「今降っている天王星の雨はもともと。だけど、俺すぐに傘を作れたんだ。」
窓の外には雨が降っている。
「だけど、僕と一緒に入りたかったんだな。」
「言われると恥ずかしいな。」
「真相はこうだったんだな。」
「俺は最低の人間だ。」
「そうだな。否定はしない。君の善性を僕はまだ信じているから。」
「信じるのか?」
「まあな。いろいろ言いたいが、流石に終点なんじゃないか?もう海の前だぞ。」
「いやこのままであっている。もう見たんじゃないか?この海の中に何があったか。」
何があったか、思い出す。僕が追いかけて海に入るきっかけとなったのは。
「線路。まさか、このまま列車で進むのか?」
「そう。よく見ていて。」
そうして、入った海の中はこの旅の始まりの景色だった。青い海の中の線路は赤い底へと向かって行く。そして、そこに溜まっていた黒いものは建物だった。窓から見える景色は彼があの日歩き続けて見たもの、理の律者のコアの30万人の見たものに違いない。
「ジョイス、この景色って。」
「そう。俺の罪。忘れてはいけない記憶。」
「ここが案内したかった場所か?」
「いいや、違う。果ての先。罪の先の景色。」
赤い炎の海を超えた列車は、線路通りに進む。上へ上へと。
月、記憶と虚像「到着した。」
「ここは……」
「俺の忘れたくない記憶。」
「そっくりじゃないか。42実験室に、ロンドンの街並みに。」
街並みがそっくりなのだ。ただところどころ違う。
「建築方法が違うのか。」
ジョイスはうなづいた。
「俺が知ってるベルリンの建築方法で建てた。この体にはたくさんの人の物語がある。天文学者、海洋学者、鉱物学者、建築家、遊園地職員、芸術家、料理人、時計職人、鉄道関係者でもその物語にないことは俺にはできない。でも、俺がいる限り、ベルリンの街を再現することは可能だ。彼らの記憶を再現することも。」
「ここは君の物語の始まりか?」
「うん。俺が俺でいられた場所。守れなかった未来の場所だ。」
そういって歩き出し、42実験室の家へと入っていく。続いて入っていくと、中もそっくりなことに気づく。棚から何まで一緒だった。だけど、本棚には何も入っていない。そのまま、ジョイスの部屋に入ると、ベッドと机などがあった。その中で目を引くのは、カレンダーだった。3月のカレンダー。中頃まで×マークがついている。ふと足元の紙を拾うと11月24日から始まっている11月のカレンダーだった。びっしりと日付にチェックがされている。
「ずっと数えていたのか?」
「今はいつかを忘れないように。」
今は3月中旬。もう少しで春だ。だから僕ができることが1つだけある。この旅行を終わらせるために。
途中下車、自分の足で物語へと「君、ここで物語を終わらせていいのか?」
「博士、どういうこと?」
「前に進みたい意志はあるのかということだ。君はもうこの偽りの世界で列車に乗って3ヶ月も足を止めるのが本当に贖罪になると思っているのか?」
「それは思っていないけれど、俺がしなくてはいけないことがまだあるのか。」
「君はまだまだその力を前に進むために使わなくては。ニューヨークは無事だよ。君が思うほど、人類は弱くない。」
「だけど、アインはもういないんだ。」
「いいや。ここにいるだろ。未来のアインシュタインが。だから、僕は僕が春に目覚めることを知っている。そして、この世界の僕も君が生きているなら1番に会いたいと思うはずだ。そして、力になってほしいと。」
目の前のジョイスは一筋の涙を流していた。
「僕もヴェルトと約束したんだ。崩壊のない世界を作るって。君もこの世界の僕と再会して約束してくれ。前へ進んで自分の物語を続けて、いい世界を作ってくれ。」
彼はうなづいて、ありがとうと言った。他のことも言っているが聞き取ることができなくなり、徐々に見えなくなっていった。
僕は、目を覚ました。紛れもなく、僕の部屋のベッドの上だった。すると、横にある連絡機器が震えた。テスラからメッセージだ。
「ボサ頭!あんたどこいるのよ?昨日の会議、私が代わりに行ったんだから。それよりも本当に心配してるんだから。家にもいなかったしなんかあったんじゃないの?」
おっと、昨日から連絡がたくさん来ている。
「僕は無事だよ。ありがとう。」
と返す。テスラにお詫びのスイーツを買うため出かけるために立つ。その時、白衣に重みを感じた。きている白衣をクローゼットにしまう。新しい白衣に着替えて出かけた。僕の物語もまだまだ途中、次の旅行はまだまだ先でいい。