救われる「これは何かの間違いなんだ!俺は何も悪いことなんてしてないんだ!」
「はい」
悪魔は木の椅子に腰掛けながら膝をガタガタと揺らす。そうして片手を胸に当てるといかに自分の主張が正しいかを力強く訴えた。
「暴力なんてそんな恐ろしいこと…俺はやってないんです!俺は妻を愛していました…誕生日には花を贈ってやりましたし、彼女が困らないようにキチンと仕事だってしていたんです!」
「はい」
身なりの整った汚れひとつないスーツを着た悪魔は、目の白い部分が黄色く濁っている。
これがこの悪魔の本来の姿なのか、はたまた興奮からくる状態変化なのか検討がつかない。
「大体暴力やDVというものは一方的なものです。ただのストレスやエゴの発散です。そんなもの俺がするわけないんです!俺は妻を愛している。それは今も変わらないんです!」
「はい」
「妻は美しく、それでいて抜けているところがありましてね…時々心配のあまりに、つい厳しくしてしまうことはありましたよ。でもあれは躾けです。子供がいけないことをしていたら叱るのが当たり前でしょ?それと同じなんです。それなのに…」
「はい」
言いながら気持ちが昂ったようで、悪魔は椅子を倒しながら立ち上がると2、3歩前に出て来て跪いた。
黄色口走った目からは濁った涙をダクダクと流している。
「信じてください。信じてください…俺はやってないんです……」
「……」
悪魔は真剣な目で自分の主張を押し付ける。
そうして〝私〟に許しを求めた。
まぁ、なんと愚かしいことであるか。
ここに来たのなら、それは間違いないことなのだ。
この悪魔が妻へDVを行い、挙げ句妻を死に至らしめたのは変えようもない事実なのだ。
私は微笑んで、悪魔を安心させるように深くゆっくりと頷いた。
「分かっています。貴方が真実を述べていること、貴方の愛に偽りがないこと。どうか涙を止めてください。貴方は正しいことをしたのですから。」
「…あ、ありがとうございます」
「手違いがあったのです。大丈夫です、貴方は救われます。直ぐにでも救われて天国にいる奥様と再会できることでしょう。」
「そ、そうですよね」
「奇蹟は起こる 信じる者に主の救済を」
私は良く良く微笑んでから目の前に両の手をあわせる。そうすればこの悪魔も慌てて両手を合わせて祈りを捧げた。
悪魔は涙を流しながら長く祈っている。これを薄らと目を開いて見つめる。そうして悪魔が祈り終えるのを確認すると、私は悪魔よりもずっと長く祈りの体勢を保った。
この様子に悪魔はいたく感動したようで〝私〟に向かって何度も感謝の言葉を発した。
「ありがとう…ありがとうございます〝ウォーロック〟様…」
とうとう悪魔は首を垂れて〝私〟に祈りを捧げ出す。
私は綺麗に綺麗に笑った。
_______________________________
「……」
「…以上がその団体の概要でございます。」
ルシファーは眉の一つも動かさずに部下の報告を聞く。
最近、このペンタグラムシティに妙な雰囲気が漂っていた。
折角娘のホテルを建て直したのに罪人達は罪人達で集まって、何やら怪しげなことを行なっている。
そのせいかわからぬが、此の所妙に肌が粟立つような感覚に襲われていた。
「…祈りを捧げてここから抜け出せるのであれば、そんな楽な話はないね」
「はい。そうですね。」
「どうせそろそろボロが出始める頃だろう」
「どう対処致しましょうか?」
「…」
部活が尋ねると、ルシファーは知らぬ存ぜぬという顔をした。そうして肘掛けに両足を掛けてだらしなく座り込む。
これ以上話すことはない。というポーズだった。
部下はパキッとした笑みを浮かべると、軽く礼をして部屋を去って行く。
まぁ、どうとでもお好きなように。という笑みであった。
「………ハァ」
ルシファーは部屋で一人、深くため息を吐く。
洗脳である。
〝奴〟は、ただ自分の思い通りになる駒を作って僕にしている。そのために地獄の住人達の不幸を利用し、踏みつけている。
別に珍しいことではない。
地獄でこんなことをやっているのは〝奴〟だけでは無い。
もっと強引なやり方で下僕を増やして私腹を肥やす輩もいるわけで、王直々に何か行動するような必要性や緊急性があるわけでも無い。
それでもルシファーは考えることをやめられなかった。
どうにもならないし、どうにもしてやれないことをグダグダウジウジと考えては鬱になる手前まで思考する。
〝奴〟は下僕にした悪魔達に貢物をさせて生き延びているそうだ。そうして誰ともわからぬモノに祈りを捧げればこの地獄から脱することが出来ると吹聴しているらしい。
胸の奥がぐちりと痛む。
さっきから肌がザワザワと粟田って嫌な予感が治らない。
椅子に腰掛けながら首をグッと後ろに反らすと天窓からペンタグラムシティの惚けた日月が見えた。
カチカチと空気を裂くような秒針に耳を傾けながらルシファーは深く深くため息をつく。
地獄の王の嘆息であった。
_______________________________
「ウォーロック様っ!…待ってください!、お願いします…!」
悪魔は足に縋り付くと無様に泣き喚いた。
ああ、と思う。
この程度か、とも思う。
私は神経質に眉を顰めて、優しげな笑みを作って微笑んでやる。
「全て捧げろ 主に祈りを」
足にまとわりつく腕を振り払えば悪魔は傷付いたと言わんばかりに目を見開く。
背を向けて歩き出せば後ろから耳障りな怒声が投げつけられた。
「惜しんでるくせに」
真っ黒い声で吐き捨てるように呟くと彼は確かな足取りで廃墟の中へ入って行った。
ゴミが散乱し、不安定な電気がバチバチと光る通路を通ると金メッキの剥がれたドアノブを回す。
中を伺うようにゆっくりと押し開け、誰もいないことを確認すると内側へ体を滑り込ませた。
「……」
朽ちた室内には何故か大変に美しいステンドグラスが設置されている。
嵌め殺しにされていそれには人物絵が描かれていた。
全くもって知らない人物であるが、私はそれに向かって手を合わせて祈る。
「・・・・・」
祈ることができる
私はまだ祈ることができる
「・・・・・…」
ゆっくりと左右の目を開ける。
地獄にあるにも関わらず、目の前のステンドグラスから僅かな神聖さが感じられる。
これが私をヒトでいさせてくれた。
立ちあがろうと片足をつくと左に身体がよろける。左の額から黒く大きな角が生えているのを忘れていた。これがあるせいで重心が大きく左に傾いているのだ。
「………」
自分の置かれている現状について考えると眠たくなるほど気分が降っていく。
何もかも捨ててしまいたかったが、そう出来るほど私は身軽では無いようだ。
一枚と残らず黒く染まった翼を撫でる。
ふと視界に黒と赤が混ざったような色をした肌が映った。
「もうダメかもしれない」
声が出たかわからない。
でも出ていたら、それはきっと辛いということなのだろう。
「っう"、ぶぇ"」
性急に何かが迫り上がる感覚に襲われて、顎が砕けるほどの力を指に込めて口に蓋をした。
肩や喉に力が入り、ぶぅんとハエが飛ぶような音が耳に鳴る。
涙管から痛いくらい熱い涙が流れ、思わずステンドグラスにもたれ掛かかるとピキッという音が聞こえた気がした。
「ぐう"ッ…」
腹がグッと持ち上がって立っていられなくなると、殴られたみたいに身体を丸めて床に座り込む。腐った木の床からは雨とカビの生えた乳製品の匂いがした。
「っお"ぇ"」
耐えきれなくなって咳き込む様にえずく。
口を抑えていた手をバンと床に付いて下を向くも、吐き出されるのは胃液のみ。
元々何も食べていなかったのだから当たり前であるが、胃液を吐くだけでも随分と体力を使ってしまうもので、掃き溜めの横に身体を横たえると必死になって空気を吸い込んだ。
鼻水や涙なんかが顔に付いて不快だったが、疲労感から腕を持ち上げることが出来ない。
胃酸で喉が焼けたようにジクジクと痛む。
ぶぅん、ぶーん、ぶん。と太った蝿の飛ぶ音が頭に響いた。
「…・・・・・」
祈る
「・・・・・」
ただひたすらに
「・・・・・」
独り祈る
「・・・・・」
ただひたすらに
濁った純金の瞳と澄んだ赤い瞳を涙で濡らす。
頭の中に湧いたウジが一斉に強く羽音を鳴らした。
それでも私はまだ祈らせてもらえる
______________________________
「反乱…」
「はい。曰く彼に騙されていたと気がついた悪魔達による制裁だそうです。」
「そうかい」
「はい。それと、僅かにですが上級悪魔達の下僕にも手を出していたようです。そのせいで、ここまでの大ごとになった模様です。」
「…わかったよ」
ルシファーは部下から目を逸らしてうんうんと頷いて黙り込む。
反乱の規模には興味がないようであるが、〝彼〟のことはどうにも気がかりな様子である。
部下は若干迷ってから一歩下がって壁際で待機した。主人が何か話したげであるのを感知しての行動である。
ルシファーは僅かに瞳を動かして部下が居ることを確認するとニコッと笑った。
「夢を見るんだ」
「…」
「彼が目の前で刺されて倒れるんだ」
「…」
「でもその後に起き上がってね…まるでどこかの救世主みたいにさ…」
ルシファーは手を見つめながら気の抜けた声で話した。
「けれども彼は救世主なんかでは無い。彼は終わったから堕ちてきただけなんだ」
「…」
「堕天なんて大層なものじゃ無い。彼はただ堕ちただけ」
「…」
「そうして私に助けを求めるんだよ。何度も独りでさ」
ルシファーは操られているみたいに手を上に伸ばすと背もたれに寄りかかって遠くを見つめる。
夢の話と言うが、夢では無いのだろう。
目の下に薄らと暗い影が伸びていた。
もうずっと深く眠りにつくことが出来ていないのだろう。
「でも今更どうしろと言うのだ」
「…」
「私は彼に手を伸ばすことすらできないというのに…」
「…今からでも遅く無いのでは?」
「なんだって」
「伸ばしたいのなら伸ばせば良いじゃ無いですか。貴方は地獄の王、ここでは貴方がトップです。」
暗がりから部下がはっきりした声で述べた。
ルシファーが紅と黄で彩られた目を見開いて部下を見つめる。
「簡単に言ってくれるな」
「そうですか?磔にされるのは本日の13時だそうですよ。」
部下は鋭い目つきを物ともせず言い放つ。
これに少し呆れた様子を醸すとルシファーは緩く首を摩った。
______________________________
「よくも…よくも騙したな…!」
「死んで償え!!ウォーロック!」
「貢いだものを返せ!このイカれ野郎ォ!」
「…」
ぶぅん、とハエが飛び交う。
不快な音だった。
聞き苦しく、見苦しく、醜い。
「聞いてんのかッ!クソ野郎っ!」
「ッ…」
誰かが私に石を投げた。
それが額に当たって血が流れる。
地面がポタポタと赤く、赤く濡らされた。
「…」
身体の自由が効かない。
私は誰であったか。
ウォーロックが私の名であったか。
身体も心も捧げた私は救われるのはずだ。
真っ赤の双眸を閉じると頭を左に傾けて項垂れた。
救われる
そう考えただけで沈みきった心が僅かに軽くなって自然と笑顔になれた。
「…全て捧げろ?主に祈りを?馬鹿がッ!」
「それで救われてりゃ地獄はいらねぇんだよ!この勘違いヤロウ!!」
「アイツ笑ってやがる!到頭おかしくなったか!?」
「ザマァねえな!俺たちが救ってやるよ?!アッハハハ…?」
「…あ?」
悪魔達は異変に気がつくと騒ぐのをやめてよくよく彼を見つめた。
さっきまで死に顔を晒して俯いていた〝ウォーロック〟はいつの間に血塗れ双眸を丸く開いて我々の少し後ろの高い所を見つめている。
まるでナニカがいいる様なその目は現実味を帯びていた。
「アダム」
悪魔達は一斉に振り返る。
まさか地獄の王直々のお出ましだなんて思いもしなかったのだ。
「去ね。それとも私に救われたいのか?」
ルシファーは滅多に見せることのない六枚の翼を空いっぱいに広げると周囲を火の海にした。
悪魔達は〝ウォーロック〟どころではなくなり、鼠のように一斉に散り散りになった。
「負け犬根性逞しいな。私が逃すほど慈悲深く見えるのか?」
ルシファーは空で羽ばたくと不様で愚かしい悪魔達の最期を芥を見る目で眺めた。
「…」
「なんだアダム。そんなに貧相な身体でどうした?」
アダムの身体は見た目でわかるほどに痩せ細っていた。
磔にされ、縛られた腕が自重に耐えきれず千切れそうになっている。
黒いローブを身に纏っているが赤い血を吸い込んだ服は着ているというよりアダムに干されているようだった。
「てっきり信者に貢がせて、でっぷり肥えているかと思っていたのだが?」
「…」
「え、なんだって?」
アダムは両の目をキラキラと輝かせて何かを呟いた。
憑き物が取れたようなその顔は業火に照らされているにも関わらず希望に満ち満ちている。
嫌な予感がした。
ルシファーは飛んで近づくとアダムの口に耳を寄せる。
「アダム。もう一度行ってご覧」
「…ほら、私は 。」
つづく
テーマソング
『オルソドクシア』「ぐちり/Guchiry」