カナシイカナシイ病②「チャーリー」
「あ、チェリー。ご飯ありがとう!ゴミも燃やしてくれて助かるわ!」
「無理すんなって。見てるこっちが疲れるわ」
「ぁ…でもあなたには感謝している」
ラウンジに現れたのはチェリーボムである。彼女だけは屋敷ではなくホテルに残っていた。本人から自分は人助けに向いていないと申告があったのだ。その代わりに簡単なものなら作れるのでアダムの手助けとして残ってもらっている。他にもアラスターが出した影もホテルで手伝いをしていた。
「これ燃やしておけばいい?」
「!うんお願い」
「あいよ〜」
チェリーは手袋をはめた手でゴミ袋を掴む。手慣れた手つきで固く二重に縛られた袋を見てアダムのことを以外に思う。もっと雑なやつだと思っていたのだ。
「アイツなんか言ってた?」
「中華そば美味しかったから店出した方がいいって」
「へー、褒め上手〜」
「チェリー、ありがとうね」
「いいって別に。エンジェルがいないならアタシも暇だから」
「…うん」
「…チャーリー、ここは更生のためのホテルなんだろ?」
「え、うん」
「ならアタシがやってるのは、あの変なエクササイズと一緒だよ」
チェリーはカラリと笑うとゴミを担いでフラフラと手を振った。チャーリーも手を振返しながらその背中を見つめる。
彼女はガサツに見えてとても優しい。アダムのこともルシファーのことも彼女に任せておけば大丈夫だと、エンジェルがそう言っていた。
なるほど、天然姉御肌というのはこういうものか。とチャーリーは納得してホテルを後にした。
⭐︎
「ここは…」
見渡す限りの豊かな緑。柔らかな風が葉を揺らし、太陽の香りがあたりに満ちている。キラキラした景色は大変に美しいが、ぼやけていてまやかしのようにも感じる。
状況がわからず、翼を広げてサラサラと流れる川に沿って飛べば、岩場に座る人間を見つけた。
「アダム!」
「てんしさま」
「…どうしたの?」
そばに寄って名前を呼ぶ。
いつも野に咲く青葉みたいに艶やかで気力に満ちている人間は、どうしてか俯いて悲しげである。
「どうしたの?どこか怪我したのかい?」
「てんしさま。てんしさま…」
「?」
人間が下を向いてモゴモゴと話す。
その拍子に川で魚がタポン、と跳ねた。これに意識を持って行かれて人間から目を離す。しかし魚の姿はすでにおらず、残るのはわずかな波紋だけ。
「…てんしさま。どうして私を殺したのですか」
「え?」
急な話題に驚いて見れば人間は天使になっていた。吊り上がった黄色の瞳に凶暴な歯。身長も大きく伸びていて、頭から黒い角が生えている。ヘイローがあるから天使だとわかるが、あまりに凶暴な見た目に思わず後ずさる。
「天使様。どうして私を地獄に堕としたのですか」
「な、なんの話かさっぱり…」
「ルシファー」
「ッヒ、」
天使の胸から刃が突き出して金色の血が吹き出す。恐ろしい光景だがなぜか自分には怖いよりもカナシイという感情が芽生えた。ジワッと目に涙が浮かぶ。
引き攣るような冷たい気持ちと胸の錆びるような痛み、船の錨のように引っ張り留めようとする悲しみ。
これが束になって自分を強く揺さぶる。
「お前のせいだ」
「ぁ、ああぁ…」
「全部お前のせいだ」
「違う、いや、だって…」
「ルシファー」
「うっ、そんなつもりじゃ…」
焦げつく匂い。死体から流れる血。崩れた建物。天使が被っていたマスクを外せば、出てきたのはあの人間であった。
「お前が台無しにした」
「うわっ、うっつ、」
「お前が私を殺した」
「っ、」
「お前が全部ダメにした」
「ア、アダ…」
「……」
「あ!待って…」
天使がため息も吐かずに背を向ける。
途端に天使の肉体がベチャベチャと崩れ始め、大きな泥人形のように動かなくなってしまった。カランと音が鳴って、ヘイローが光を失う。
「ヒィ!」
頭部が一気に崩れ落ちると、金の目玉がコロコロ転がってきて靴の先にぶつかった。綺麗な金ピカの目玉はまだ血管や神経が付いている。
「私がこうなったのはお前のせいだ」
目玉はそれだけ喋るとボロボロと崩れて泥の塊になった。
「ッ〜、ごめんアダム!ごめん…ごめん…ごめん…ごめん…ごめん…
ごえんっ、ヅゔっ、ごめ、」
「嫌だな、悲しいな」
「うぐっ、アダム…ごぺっ」
「悲しい悲しい…」
「ズッー、ふっ、ふうっ、」
「寒いな、持ち上げるぞ」
「あ、ツ、アガっ、」
「ッ…よしよし…いいぞ」
ルシファーがアダムの二の腕に噛み付いた。もちろん相手をアダムではなく、大きなクッションか何かだと認識しているので、力加減は一切ない。
肌はとっくに破られ、肉が食い千切られるほど強く噛まれているが、アダムはビクと眉を顰めただけであまり反応しなかった。
今はひたすら頭を撫でながらルシファーを風呂に入れている。汗や皮脂でベタつく髪を桶でゆっくりと濡らしていく。ぐずるかと思ったが腕に噛み付いているので都合が良かった。
器用に片手を使って小さい頭をシャンプーする。
アダムの腕からは血が垂れ落ちているがこんなことはよくあることだった。むしろ噛む力があって昨日は元気なんだなと思っている。
「あう…ぁ、アダム…」
「よしよし。あったまるぞ」
「ツグ、ヴ」
「ゆっくり入るぞ」
「ウッ、うう」
「あったかい、あったかい」
「…ッ、ズッ、」
カナシイカナシイ病。
罹ったものは夢に囚われるという。とにかく自分が悲しくなるような嫌な夢を妄想して見続けてしまうのだ。
多くの患者が夢現のまま謝るのはそのせいである。
寝てもカナシイ、起きてもカナシイ。
こうして衰弱死していくのがカナシイカナシイ病の正体である。
「ゴベンッ、ズゥッ、ごえン」
「悲しいな、ほら噛んどけ噛んどけ」
「グッ、ゔー…」
「痛くないから」
「グウーッ…」
ルシファーが虚な瞳でアダムから離れる。夢現のまま、いつまでも迷子の顔をしていて焦点が合わない。
アダムは頭を自分の肩口に当てて抱え直すと首筋をルシファーに差し出した。素直なのか、反射なのか、鋭い歯が容赦なく立てられる。アダムの滲んだ肌にはこうしてできた傷痕が無数にあった。
コアラみたいにしがみついて離れない日もあればうごうご暴れて落ち着かない日もある。症状は日替わりでくるが、どの日もルシファーは手加減なしである。そのせいでアダムには生傷が絶えなかったが、カナシイカナシイ病の末期としては良い方であり、むしろ回復傾向にあった。
一番ダメなのは動かない、泣かない、喋らないである。噛んで、暴れて、泣いて、呻いて…ルシファーはまだ望みのある状況なのだ。
⭐︎
「薬の件はうまくいってる?」
チャーリーはあくびを耐えながらヴォックスに尋ねた。彼は椅子をくるっと蹴って回す。顔を合わせて何か言おうとして、もう一度椅子を回すと鞄から何かを抜き出した。飴玉である。
「これ食って少しは寝ろ」
「え?いいえ私は大丈夫よ…」
「これは、私個人の意見だが、大丈夫というやつは大抵大丈夫じゃない」
「わ、私は本当に、」
「それにそんな顔のやつがこの現場を取り仕切れるとは思えないな」
「…ごめんなさい」
チャーリーは細い指でヴォックスから飴をもらう。パッケージに死ぬほど眠れる飴と書かれている。多分売れ残りだろう。
「でも最後に質問。例の交渉の件はどうなったの?」
「それは問題ない。ヴァルとゼスティアルとアラスターを送り込んだ」
「えっ!人選大丈夫!?」
⭐︎
上級悪魔たちが薬を作る話
彼らが優秀で頑張る話
⭐︎
「ワーッ、ウギャッ」
「………」
「ズッ、アッ」
「………ッ、」
「ヤッ、ワア、!」
「…、んっ」
ルシファーがジタバタと暴れる。
グーでベッドを殴り、体を捩って布団を床に落とす。体にまとわりつくような不快感から逃れたくて暴れているのだ。
これがもう本当に大変で、自分の思い通りにならなくて、泣いて暴れる子どもの癇癪と変わらない。
アダムはなんとか落ち着かせようと背中を摩ったり、水を飲ませたりしようとした。しかしルシファーは加減無しで暴れているのでうまく近づくことができない。
「あ」
ルシファーの手がベッドボードに当たって突き抜けた。罠にかかった鳥のようにジタバタ暴れる。しかし尖った木が手首に刺さって抜けなくなっていた。
「ッヒ、ア、ウワッ…」
「まてまてまて…」
「ッ、ウゥッ」
「よしよし暴れんなよ」
アダムはゆっくり近づいてルシファーの腕を掴んでボードから引き抜いた。足でゲシゲシと太ももを蹴られる。翼を使って暴れる体を押さえ込むと、アダムは手首の木片を丁寧に取り除いた。
本来なら大したことない怪我のはずだが、病のせいか自己治癒が起こらない。痛くて痛くて悲しいのだろう。エグエグと涙を流すルシファーに胸が重たくなる。アダムは額に汗をかきながら手首と体を抑えるのに集中した。
「ルシファー、お前はよくなる。よくなるよ…」
ルシファーのズタズタになった手首から血が流れる。これを優しく拭き取ってからアダムは大きな絆創膏を貼った。翼で無理に押さえつけたせいでルシファーの頬に擦り傷がでいている。これに気がついたアダムは軟膏を手に取ると丁寧に塗り広げた。青あざだらけの手がルシファーを優しく慰める。
「あ、ちょっとベッドは…こっちにしな」
ルシファーは触られるのも抑えられるのもイヤがって、シーツを引っ掻いて暴れた。布団に小さな穴が空いて白いふわふわの羽が溢れる。
アダムはこれを腕を掴んでやめさせると、抱き抱えて自分の背に爪を立てさせた。ガリガリやられて安いスウェットはあっさり破れ、アダムの背にピリッと線が通った。
「悲しいな、嫌だな」
「ゴメンッ、うゔ、ぐずっ」
「よくなる、お前はよくなるよ」
大人しくなった隙にルシファーを抱えたままベッドに寝かせて布団をかける。しばらくの間はウゴウゴとして身体を揺らしていたが、温めるように頭を撫で続けるとルシファーは小さな息を立て始めた。
「…ぅ、?、?」
ルシファーが寝たのでアダムはベッドから抜けようとする。しかし目の前がグラッと歪んでアダムは動けなくなった。意識が背中から引き抜かれるよう浮かんで、瞼が勝手に閉じる。そのままアダムは死んだようにびくとも動かなくなった。
⭐︎
「…ズッ、?」
目を開けようとしたが、なぜか視界が狭くぼやけている。それでも一ミリぐらいの視界でキョロリと辺りを見れば、娘の作ったホテルであることが予想づいた。立ちあがろうとして体に力を入れる。けれど全く腕が動かず、上半身が少々揺れただけで終わった。これに混乱していると体に大きく温かいものが被さってきて、キュッと抱きしめられる。
「………ルシファー、寒いのか?」
声に聞き覚えがある。しかし振り向くことができない。でも「ルシファー」と呼ばれてとても温かい気持ちになる。痺れた頭に染み込むようで、もっと名前を呼んでほしくなった。すると、声に出ていたのだろうか。背後の声が自分をあやすように名前を呼んで頭を撫でた。
「ルシファー、ルシファー」
「…ずぴ、」
「ルシファー…ルシファー…」
大きな手で髪をすかれる。全身を温めるように寄り添われ、起きたばかりの意識がまどろみ始める。
「ルシファー、ルシファー」
溶けた思考が額の裏側に集まって反転する。あと何呼吸かで私は眠ってしまう。眠りたくない。せめてこの声が誰のものか知りたい。そう思った瞬間、脳なの奥から冷たい波が迫ってきた。静かな夜の海のような波。けれども力強く、これによってルシファーの思考がカナシイに侵食されていく。
喉が振るえて目が熱くなる。次第にわずかな視界が何も見えない暗闇になり、ルシファーは胸を揺らしてしゃくりあげた。
「づゔ、ううぅ、」
「ルシファー…」
「ヴッ、ズズッ、」
「辛いな、ちょっと動くぞ」
脇の下あたりに大きな手が差し込まれる。これがゆっくりとルシファーの体を回転させた。右耳が下だったのが、左耳が下に変えられる。
その優しい手つきに驚きはしなかったが、依然涙は流れ続けていた。
「悲しいなぁ、辛いな」
「ンズ?、っ、ズビ」
「あったかいね」
「ヴッ、ううぅ」
「ルシファー」
「ズッ、ズ…?」
「お前はよくなるよ」
「……ッグ、」
大きな手に撫でられてあら?と思う。分厚い胸板に顔を寄せてあれ?と思う。体の全てを覆うように抱きしめられ、人肌とも言える心地よい温かさに包まれておや?と思う。
「ルシファー、ルシファー」
頭の上から名前を呼ぶ声がする。俄然自分の意思で動くことはできない。目も見えないため、わかるのは相手の温もりとトロトロとなる心音のみ。それでも、
「ルシファー…眠れない?」
「アぅ、『』ッ、」
「あったかい、あったかい」
「ッビ、えう、『アダッ』」
「悲しいな、嫌だな」
「ブグッ、『アッ』、ぅう」
「時間はあるからな、焦るなー」
「ビズッ、『アウ』、」
「ルシファー、よしよし」
目の前の胸板にビャッと泣きつく。脳が浮腫んで船酔いみたいに心がぐるぐると揺れる。どうして自分が泣いているのか、どうしてこんなに悲しいのか、状況が全く理解できない。頭を撫でられ、温められて意識が朦朧とする。それでも霞んだ意識の中、低く伸びのある声が脳にこだまして、ルシファーは心臓に汗をかいた。
……これ、アダムじゃね?と。