カナシイカナシイ病③「アンタさ。休まないと死ぬよ」
「………かもな」
チェリーはカウンターで足を組んだままアダムを見下ろした。髪型も服も清潔に保たれているがスウェットから見える肌は青あざ噛み跡だらけでちっともセクシーじゃない。目の周りなんかは塗ったみたいに真っ黒で、ちゃんと三食食べているはずなのに体が不自然に痩せている。
どうして動けているのかがわからない。
「アンタ、今日は何曜日?」
「月曜日」
「チッ、間違えたらよかったのに」
「ルシファーの娘にも言ったが、私は大丈夫だ」
「どんなツラして言ってやがる。アンタも罹ってるんじゃないの?」
「抗原検査は陰性だった。知っているだろ」
「じゃあ違う病気だ」
「大丈夫だ。お前が作ってくれた飯もちゃんと食べてる」
「ぐだぐだ言わないで休みなよ。アタシが代わりに面倒み…」
「ダメだ。」
カチャリと音を鳴らしてアダムが食器を置く。今日の昼ごはんはチェリー特製のきつねうどんである。カツオと昆布で丁寧に出汁をとり、甘しょっぱく味付けした汁に大きな油揚げを入れた。刻んだネギと鶏肉まで入れたのはチェリーの優しさである。
アダムはこれをスープまでしっかり飲み干す。体が自然と栄養不足を補おうとしているのだ。
「…なんでそんなに頑ななんだ」
「別に…何でもいいだろ…」
「理由がわからない。それとも天使ってのはみんな慈悲深いのか?違うよな。アンタはペンシャスを殺した。他の悪魔も殺しまくった。アタシは一生忘れない」
「それは、」
「でもアタシもたくさん殺した。アンタには負けるだろうけどたくさん。別にこれを責めたいわけじゃない」
氷を浮かべたウィスキーグラスを軽く煽るとチェリーは大きな瞳の目元を柔らかくした。
アダムはなんとなく気まずくなって目を逸らす。こういう仕草が彼をより一層人間臭く見せた。
「アタシはチャーリーに、友達にお願いされたからここにいる。じゃあアンタはって話だ。なんでルシファーを看病したい?」
「わたしは……もう、戻る」
「そ」
「お嬢ちゃんにルシファーはよくなってると、伝えてくれ」
アダムは俯いてチェリーから目を逸らすと逃げるように席を立った。ゴボッと肺に水が入ったみたいな咳をして、古い振り子時計みたいにぶれながら廊下を進む。
「………げほ、」
なんでルシファーを看病したいのか。
チェリーの透き通る声が耳に刺さって脳をめぐる。スリッパを鉄靴のように重たく感じて、壁に寄りかかって足を引きずる。どうしたって翼が重くて動きが鈍る。
バランスを崩してよろけた瞬間、胃に入れたうどんが逆流しかけてズルズルと床に蹲った。手で口を抑え、片手で首を絞めて耐える。甘い揚げ出しの味と酸っぱい胃酸の味が食道をズルズルと行き来する。飲み込んだものが飲み込んだまま口まで戻ってきて息苦しくなる。
ついには胃ごと口から飛び出しそうになりアダムは鼻を抑えて上を向いた。凄まじい不快感に涙を流しながら時間をかけて飲み戻す。
もしここで吐き出したらルシファーの世話をさせてもらえないかもしれない。そしたらルシファーが回復しないかもしれない。
そしたら……
「ぐ……ヴグッ、…ヅッカ…」
吐瀉物を飲み込み続けると、グルッと目が回ってアダムは床に倒れかけた。しかしルシファーについて考えてなんとか踏みとどまる。
最後の一飲みをし、口をガパッと開けて空気を取り入れる。
手足が痙攣して頭の中で金属がキリキリと擦れる音が鳴り響く。心臓が破裂寸前まで拍動して身体中から一気に汗が吹き出した。
無理なのだ。
アダムが病人を面倒見るなんて出来ないのだ。
それでもしばらくの間、殺人鬼から逃げるみたいに息を潜めて蹲っていれば、ちょっとだけ回復した気分になる。
「フ、ッナ………がなきゃ」
アダムは壁に手をついて立ち上がると、腐った死体みたいにフラフラと歩く。強迫観念にも似た、ある使命感がアダムをひたすらに突き動かしていた。
一方その頃ルシファーは。
「フウ、ッ、ゔーッ!」
喉が渇いて咽び泣いていた。
どつにも体が動かなくてうつ伏せのまま、枕をしとどに濡らす。
しかしこの涙はカナシイ半分と苛立ち半分である。
◯
「…ッヴァ、」
信じられないほど声がしゃがれていて、ルシファーは枕に顔を埋めたまま首筋にびっしりと汗をかいた。血管に鉛が走っているのかというほどに怠く、五感がぐらついて脳の近くでキーンと金属音がする。
一体何が起こっているのか。
体を起こそうにも指先を動かすのが関の山でちっともうつ伏せから変われやしない。
「フッ…ヴゥッ…?」
困惑しているとジワーッと目頭が熱くなった。首裏が冷えていって、特に悲しくなんてないのに心が沈んでいく。何かを思考するたびにハッピーセットのおもちゃみたいにカナシミがついてきて、カナシムと意味もなく涙がダバッと流れて呼吸が引き攣った。
これがひどく煩わしくって、ルシファーの中でカナシミとせめぎ合うように苛立ちが募る。全くもってハッピーではない。
しかし次第に苛立つことにもカナシミがまとわりついたので、ルシファーはこと異常性さに気がついた。
自分が二人いるような、体と心が分裂しているような…とにかくルシファーはカナシミながら思考を続けた。
何かの呪いなら凄まじい。
なんせルシファーは魔法の類が一切使えなくなっていたからだ。
「ヅ…、あ、ふっ、」
うつ伏せのまま息を吸えば喉が燃えるようで、口に流れた涙でさえ甘く感じて、ルシファーは水を求めた。何とかして震える手をベッドにつく。しかし全く力が入らず起き上がることができない。
ダクダクと涙が溢れる。
濡れた布が神経にヒタヒタと触れるようにカナシミが打ち寄せて、ルシファーは喉を引き攣らせながらエグエグと声をあげて泣いた。
「(泣いてどうするんだ!)」
耳に入る自分の声が不愉快で喉に力を入れて抑えようとする。しかし泣くことに体がいっぱいいっぱいで、ルシファーはさめざめと絶望した。
仰向けのまま無抵抗に体をベットへ沈めたまま
まともな思考を試みる。
どうしたと言うのだ…カナシイ…わ、私の鬱はこんなにも酷かったカナシイ…いや、あまりにも思考がカナシイしすぎて、カナシイ…クソッ、カナシイ…邪魔だ!カナシイ…私は悲しんでなんか…カナシイカナシイ…ッ、
しかし考えれば考えるほどカナシミが邪魔をする。
しっぽすら満足に動かせないなか、ルシファーは視界の端にペットボトルを見つけた。そうだ喉が渇いていたんだ。
涙で視界が歪む中ボトルを見つめて…何もできない。どう頑張っても体は動かないし、出来ないといことに悲しくなってカナシむ。
「ヴッ、ンンッ、ゔーっ!(嘘だろ…何も出来ないのか…)」
「ルシファー」
「(!)」
背後に誰かが立っている。
必死のあまりか気配に気づきもしなかった。
「ルシファー…水が飲みたいのか?」
ボトルをとらえた視界に大きな手が映り込む。擦り傷と噛み跡だらけのその手に胸が飛び跳ねた。何の動きも取れずボーっとしていると、温かいものに体を抱きしめられる。
「今日はおちついてるな…よかったなぁ」
「グ…ううぅ、」
「ちょっと冷たいけど、大丈夫だ。チャーリーが用意した水だからな」
「ンッ!(チャーリー!!!)」
「…お前は娘が大好きだな。チャーリーの水だから、ほら…」
大きな手は水をマグカップにそそぐと、大きな匙でちょっとずつ掬ってルシファーの口に流した。一滴ずつ、乾いたのどをトクトクと水が伝う。この手つきがあまりに丁寧で温かいものだから、ルシファーは眼の奥が痛むのを耐えながら、キロっと視線を上へと動かした。
頭の裏でドクドクと波打つ腕は温かいが、グレィのスウェットから覗く肌は冷たい色をしている。
この献身は一体誰のものか。リリスがいいな…リリスに違いない。体格がずいぶん立派にな気もするし、声もかなり低くなったような気がするが、きっと離れている間に何かあったのだろう。性転換したのかもしれない(?)うん。どんな姿になっても君を愛するよ。だから頼む!リリスであってくれ!!
鉛の詰まった後頭部をのっそりと傾けて視界を持ち上げる。首が痛んで、カナシミが舞い上がる。しかし涙は涙管を出る前に留まった。
「どうした?」
「……ァ、」
にわかに後悔する。
そこにはリリスとも記憶の内にも似つかない原初の男がいた。
目の下の隈は不気味に深く、眦は赤く腫れている。顔にはいくつもの赤い線が走り、前髪は輪ゴムでちょんと止められている。
「ルシファー?」
柔らかな微笑みが向けられる。
目じりが柔らかに下がっているのはきっと疲労感からだ。赤子を見るような目を向けられるのも、はちみつのような声音をかけられるのも、緩やかに持ち上がった口の端も、取り繕うのが億劫なほどにつかれているからだ。そうでなければ…
「水はいらない?なら眠ろうか」
そうでなければ、アダムがこんな態度をとるわけがないんだ。
思考力が落ちていても見ればわかる。アダムを傷つけたのは私だ。鋭い歯形も縛ったような跡も見覚えがある。
アダムが親指で優しく口元をぬぐう。カサついて骨ばった手は染み出すように温かい。
ルシファーがわずかに肩を揺らすと、アダムは脇に手を入れて体をベッドの上に倒した。バックハグの体制で横になると、金の翼で布団をかける。ストレスだろう。翼の一部が脱毛症のように剥げている。手入れもしていないのだろう。
「……グスッ…ずぴ、」
「あったかくして寝ような、あったかい、あったかい」
肩をトントンされ、ルシファーはボロボロと涙を流した。
すごく安心する。背中に寄り添う温かさが、トクトクとなる心音が、絶え間なく掛けられる言葉が…アダムの心を感じさせる。
ルシファーは母からのぬくもりを知らないが、きっとそれに似ているのだろう。
昔、幼いチャーリーが熱を出した時にリリスが一晩中でも一日中でも抱きかかえて面倒を見ていた。彼女の細い腕では辛かろうと思って私が魔法を振るうと、彼女は激怒した。私から遠ざけるようにチャーリーを抱きしめて、目を虎のように鋭くした。突然どうしたのかと私は彼女に尋ねたが、彼女は唸るばかりで答えは得られず。そのうち私がチャーリーもろとも抱きしめて謝ると、彼女は落ち着きを取り戻した。
あれは本能だ。天使以外の生命が持つ、他者を慈しみ愛する心だ。
私はそれを見知った時彼女と娘を一等深く知ることができたのだ。そして真に愛すると言うことが何なのかを学んだのだ。
「ッア…アダムっ、うぐっ、アダ…」
「……よくなる。お前はよくなるよ」
「ゔ、ズぅッ…あ、ごめっ、んうっ」
「温かいなー、あったかい」
震える指をアダムの腕に添わす。薄い布越しに伝わる熱が愛おしくて、大切にしたくて、カナシクて、ルシファーはボタボタと涙を流した。
「うっ、うん…アダムッ、」
「よくなる…すぐ治るよ」
優しい声が耳にかかる。
アダムが一体どんな顔をしているのかわからないが、きっと優しい顔をしているのだろう。白くてふわふわの羽毛のように温かく微笑んでいるのだろう。
あぁ、守らなくては。
こいつはもう居場所もないんだ。居場所がないということは後ろ盾がないということで、このホテルから追い出されたら遊戯屋に転がり込むしか道はないのだ。
そう思うとルシファーはカナシイよりも先に安堵がきた。早くこの謎の現状から脱却せねばと希望が湧く。
だってこの地獄で唯一アダムを囲い込んで護れるのは王である自分だけだからだ。
「ルシファー、よく眠れ」
フッ…と意識を失った。これまで散々な扱いをしてきたが、これからは噛み締めるように愛しつくそうと思った。
この2日後のことである。
「よくなる…ぉ、お前はよくなってるよ…」
「嘘ばかりだ。お前は私を謀っているのか」
「イッ、」
青あざの重なりにツンと指を立てられて、アダムが眉をビクッと震わせる。ルシファーは腹の上に跨ると、アダムをベッドに押し倒した。
「悲しい…悲しいよアダム」
「ルシファー、悲しくなんてない…もう、時期に良くなるから」
「そうは思えないな。本当は私を治す気なんてないんだろ」
ルシファーが黒飴の溶けた虚な目をしてアダムを見下ろす。半開きの口から白い泡を垂らしながら、震えるしっぽをアダムの太い首に懸命に巻きつける。
「お前が…違う。私はそんな…違う、違う、違う…」
「っ、ゔ…」
親指で折り重なった噛み跡をグリグリと抉られてアダムが低く唸る。ルシファーは肩を震わせると怯えた目をして、しかしニコニコと取り繕った。
どう考えてもまともではない。
しかしアダムの言う通りルシファーは治りつつある。元気に動けているのが何よりの証拠だ。ルシファーは今自分の意思で体を操っている。
しかし依然心はカナシイに囚われていて、アダムが少しでも離れよう者なら胸が張り裂けそうなほどの寂しさとカナシミと辛さと恐怖に押し流されてしまう。
「なぜ…私をこんな部屋に閉じ込めて…どうするつもりか」
「ルシファー、お前は病気に罹っているんだ」
「そんなわけない。私は健康だ」
「そっ……だな、でも…」
「アダム。私は間違っているのか」
「ゔぅっ、そんな、こと…ッ」
アダムは背中を逸らして歯を食いしばる。喉を締めるしっぽが皮膚に食い込んで息が苦しいのだ。
ルシファーはアダムがどうして顔を背けているのかわからず、震える指で首を掴んだ。殺そうとしたのだ。そうすれば嫌でもこちらを向くと思った。
しかし痩せて浮き出たアダムの首筋には、玉のような汗が並んでいて力がうまく入らない。「?」「あぅ、」と困惑した目をパチパチさせて、ルシファーがやわやわと首を掴む。
それでも。アダムは決して抵抗せず、ただルシファーの腿のあたりをトントンと叩いたり摩ってやっていた。
「ぉ前は…ッよくなっ、ヴッ…」
「お前はそればかりだ。本当は私に毒でも持っているのであろう」
「るしファッそんなこと…カッ!」
パァン!とルシファーがアダムの頬を叩いた。
ギリギリ歯は折れなかったと思うが、乾燥して痛んでいる頬がビリビリと痺れる。息ができなくってアダムは目に生理的な涙を溜めた。
「私を裏切るのか…お前も私を見捨てるのか」
「フッ…フッ……」
「どうして…どうして私の周りからみんな去っていくんだ……」
「フゥ…ッ、」
「ア、アダム…お前はいなくなるのか…?」
「ッ、…ルシファー、そんなことないから…」
「ッずび、うっううぅ、すまっ、すまないっ、」
「る、るしふあ…、」
ルシファーは首から手を離すと、ボタボタと紅の涙を落としながらアダムに抱きついた。
とにかく不安なのだ。
今ルシファーはアダムをアイしている。自分に向くアダムの柔らかな優しさが嬉しくってたまらない。
しかしこれは病のためであって、ヤンデレの愛し方に少し似ている。いわゆる依存というやつだ。
もうルシファーはアダムがそばにいてくれないと息ができなくって、カナシくて、深く暗いクレバスで明けない夜を過ごすような気分になるのだ。
「アダム、、なんでっ、ごべん…ずぴ」
どうしてこうなったのか。
朝のことである。
ルシファーはアダムを抱きしめながら眠っていた。翼の付け根を力任せに掴み、決して離れることがないようにした。
しかしどうだ。目が覚めるとアダムの姿がどこにも見えなかった。ルシファーは真っ暗な部屋で一人きり、冷たい布団で寝かされていたのでひどく動揺したのだ。
動揺がカナシミになり、カナシミが寂しさにり、怒りがカナシミになり、カナシミが憎しみになり、恐れがカナシミになり…こういった感情の錬金術がルシファーの中でドミノ倒しのように起こっていた。
「グ、(まずい…死ぬ、かも…)」
アダムはなんとか落ち着かせようと残る力を振り絞ってルシファーの細い体を抱き締めた。しかし尻尾の力は強まるばかりで、アダムは白目を剥いた。
「る…し…」
「ううっ、ごべっ、ごめんアダムッ、」
今ルシファーはアダムが自分を置いていなくなると思い込んでいる。もう二度と抱きしめてくれないと。果実の蜜のように美しい瞳を向けてくれないと。
実際アダムは飯を食いに降りただけで、離れた時間は1時間もなかったのだが、ルシファーにはこれが永遠と相違ないほどに長く感じられた。
寂しくて辛くて苦しくて、ルシファーはアダムの香りが残るベッドで体を震わせながら眠ろうとした。
しかし夢を見ると例の目玉がルシファーに嫌なことばかりを言ってカナシくさせた。起きればアダムが居ないことに傷ついてカナシくなる。
自分のことをめちゃくちゃにするアダムが愛しくて憎くて恨めしくてルシファーは頭がおかしくなっていた。
「!」
自分を抱きしめる手が緩められる。ガクッと脱力した巨体がずしりとベットに沈み込んだ。
ルシファーはバッと顔を上げて、巻きつけていた尻尾をスルリと解いた。愛したいのに殺したい。そんな道理の通らぬ自分の行為に絶望してカナシくなる。
「アダム!すまないっ、ッアダム、」
「……」
ルシファーはアダムの胸元に顔を寄せるとワーッとおもちゃをねだる子どもみたいに泣きじゃくった。グレィのスウェットがいろんな液体でぐっしょりと濡らされる。
アダムはそれから一時間後に目を覚ましたが、ひたすらに困った顔をしてルシファーを見つめた。泣き疲れたルシファーは眠っていたが、今度離れたらどうなるかわからない。治りかけのルシファーは錯乱しつつも、明確な意図を持って力を振るう。普通のケガと一緒だ。治りかけが1番酷い。
しかしルシファーはパチリと目を覚ますと、穏やかにニコニコと微笑んだ。何も覚えていないのだろう。
「あ、アダム。その、カナシイカナシイ病?(笑)私はもう治ると思うんだ。どうかな」
ゆっくりと穏やかに笑う。
アダムは背中に汗が伝うのを感じながら頬を持ち上げた。
「そうだな…もうよくなるよ」
優しく丁寧に微笑んで言う。
ルシファーは「そうだよねー」とニッコリしてから再び眠りについた。
アダムが顔を見て笑ってくれる。
温かい声で話してくれる。
それだけで互いの心がわかるような気がしてルシファーは嬉しくなった。
背中を摩るアダムの手が温かくて、きっとベッドの上でも熱く交われるのだろうと未来に対して前向きになれた。
◯
「あ!王様元気になったのー?」
チェリーは台拭きを握ったまま、ソファで優雅に足を組むルシファーに声をかけた。糊の効いたシャツに身を包み、セットされた髪は艶やかである。
「ふふ…」
ルシファーは完治した。
体はとても清らかで、思考の何処にもカナシイなんてものはない。花嵐の吹く春昼のようにのように晴れやかでスッキリとしている。
しかし心のうちは荒れ模様でジットリと油汗をかいていた。
「ははっ、」
「何笑ってんのキモ」
「いやいや…お嬢さん、これは笑わずにいられないのだよ」
「そ。チャーリーに連絡しとくね」
「あぁチャーリー…今すぐに吸いたい…」
「通報した〜」
残念ながらルシファーは通報されてしまった。
まもなく警棒を持った上級悪魔たちがぞろぞろとやってくるのだろう。しかしそんな不敬に気を悪くできるほどルシファーには余裕がなかった。
うすら笑いを傾けて麦茶を煽る。ひよこの描かれた可愛いプラスチックのカップはアダムが用意したものだ。
ルシファーは病が治ると同時に霞んで白けていた記憶を全て思い出したのだ。
偽りのカナシミに囚われ、何もわからないままアダムを殴りつけてアザを作ったのも。肉を噛みちぎる勢いでザクザクと噛み付いたとことも。一晩中しがみつき、少しでも動こうものなら首を絞めてベットに押さえつけたのも。
全てを思い出してしまった。
「〜〜〜〜ッ、アッア!!」
「え、コワ」
おまけに最悪なのはアダムに対し愛情を抱いてしまったことだ。泣き言一つ言わず献身的に世話をしてくれたアダムにルシファーは心からの感謝と愛を抱いていた。
傷だらけの体で優しく温かに抱きしめてくれたことが、疲労に塗れた顔で柔らかに笑ってくれたことが、どうしても脳裏に染み付いて離れない。
「うわあぁぁあぁあぁああ!」
「おっさんマジ面白いね」
ルシファーが頭をぐしゃぐしゃにしながら大声を出す。アダムに愛情を抱くなんて誤作動も甚だしい。これまでリリスとチャーリー以外に優しくされてこなかったので感情がバクを起こしたのだ。これではパパ活で娘に優しくされて本気になるど変態と何ら変わりないじゃないか。
「ヒィ〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
「ウケんね」
チェリーはスマホをいじりながこれを眺めた。
別におかしいことではない。カナシイカナシイ病が治った者は須くこうなると屋敷で看病に努めるエンジェルから知らされていた。
カナシイカナシイ病に罹り、治った者はどんな悪漢でも、泣き喚き、嘆き苦しみ、醜態を晒したことを恥いる。その上見ず知らずの相手に泣きつき幼児よりも手厚く面倒を見させたのだ。命あっての物種というが命あるから黒歴史である。
ちなみに屋敷での看病にあたっていたエンジェルダストとヴァギーには完治した罪人たちによるファンクラブが作られ、地獄一生働かなくてもいいほどに貢がれて大変なことになるがそれはまたの機会にする。
エンジェルダストにAVを撮らせる撮らせない論争や、ヴァレンティノ黙殺計画、ハスカーを上級悪魔に立候補させる会、チャバギのためにホワイトチャペルを立てる運動などが起こったが余談である。
「アダム…アダムめ…くそっ、」
「どうしたルシファー」
「どわあっああァぁア!?」
「?」
肩をポンと叩かれてルシファーは猫みたいに飛び上がった。ギクシャクしたポーズで振り向くと、首を傾げたアダムが居た。
全身がグワッと熱を持つ。
心臓がバクバクと高鳴って、爆発寸前の感情が目に涙を浮かばせた。
「治ったはずだが、まだカナシイのか?」
「っ、」
アダムがルシファーの額に左手を当てた。冷たくて気持ちがいい。右手も小さな顔の輪郭に沿わされて、ジッと見つめられる。金の瞳が急に近づくものだからルシファーはベッドの前の童貞みたいに立ち尽くして目を泳がせた。
「あったかいな。大丈夫だな」
「あっ、うっ、」
ルシファーはビビビと固まってまともな言葉が出なくなってしまった。今ので完全に惚れ込んでしまったのだ。
その上で、もう一度アダムをしっかりと見つめる。
「安心しろよルシファー。もう時期にお嬢ちゃんが来る。だから」
「アダム」
「?」
絆創膏や包帯が巻かれた顔で「どうした」と微笑まれる。
肺がグッと持ち上がる。
ほとほと、病に罹らなければこんな気持ちにはならなかったであろう。
「アダム、私は」
「パパ!!!!」
「ゴフッ!!!」
「わ」
白星が走って、ルシファーを弾き飛ばす。驚いて見上げれば何よりも愛おしい娘であった。
「パパ、よかったっ、ううっ、」
チャーリーはルシファーに抱きつくとアーンと幼い声で泣き始めた。
赤く腫れた宝石の目に涙がたまる。
やっと父とわかり合えたと思った矢先に病が流行り始めたのだ。
カナシイカナシイ病人は死に至る病である。それがプライドリングで大流行していた。
王の不在の中、次期王である彼女に悲しむ暇などない。協調性皆無の上級悪魔は彼女が居なければ麦チョコの最後の一粒を誰が食べるかで核戦争を起こそうとするのだ。
目まぐるしく動くことで彼女はルシファーのことにシリアスにならないようにしていたが、愛情の深い彼女にとっては心に巣食う不安の種であった。
だから、チェリーが「警察呼んで〜」というメッセージと共に早口でテーブルに頭を打ちつけながら痴態を恥じるルシファーの動画をシンスタグラムに投稿したのを見てチャーリーは心から脱力して床に崩れ落ちた。
これに気がついた上級悪魔はきのこたけのこ戦争を取りやめて彼女を直ちにホテルへ連れて行ったというわけである。
「よかった…よかったよぉ、」
「チャーリー…チャーリー、チャーリー!」
ホテルの真ん中でルシファーとチャーリーは恋人のようにギチギチと抱きしめ合うと生理的ではない、熱の通った涙を流した。
そんな二人を囲うように上級悪魔たちが広がる。
アラスターがレコードで音楽を流し、ヴォックスがムードを作る。ヴェルヴェットが配信の準備をし、ヴァレンティノが歓談スペースを整える。しばらくすれば屋敷組も料理を持って到着するだろう。
こうしてカナシイカナシイ病はついに、みんなで歌って踊って笑う大団円を迎えようとしていた。
「ルシファー、よかったな」
とろん、と甘い声が響く。
見ればアダムがしっとりと微笑んで立っている。ルシファーは涙を拭うとチャーリーと起き上がった。
「アダム……これまですまなかった」
ルシファーは娘の手を握ったまま、アダムに微笑んだ。その顔は若干痩せているが、その笑顔はまるでダイヤモンドのように美しい。
「お前の献身のおかげで、私はこうして娘と会えた。病の淵から戻ってこられた。本当に感謝しているよ」
「…よかったな」
「ああ、本当によかったよ。ありがとう」
「気にすんなって」
ルシファーはアダムに残る夥しい数の傷跡を見て、染み入るような申し訳のなさと、むせかえるような愛おしさを感じる。
今すぐにどうこうしようとは思わない。アダムには療養が必要である。しかしその前にルシファーには言うことがあった。
「アダム。せめて、お前を自由にするよ」
「自由って別に……ゥ、」
「ごめんよ、アダム。それで何だが、これからはちゃんとお前と向き合っ……え?」
アダムがゴン、とルシファーにもたれかかった。そのままズルズルと脱力して、自立できなくなる。
ルシファーは慌ててアダムの背に手を回した。
「あ、アダム?」
アダムは一言も話さなくなるとパタンと目を閉じて、ルシファーの肩に腹を埋めて二つ折りになった。
「急にっ、て、照れるなぁ…どうした?」
「………」
「え。」
この様子を眺めていた全員がサッと青ざめて目を大きく見開いた。
こんなことが起こるなんて思ってもいなかったのだ。
「えっと、積極的なのは嬉しいが重いから自分で立ってもらえるかな?」
「ちょっと!パパ退いて!」
「ふえ?」
アダムが腕をぐったりと垂らしてルシファーにもたれかかる。
チャーリーは驚いてアダムを支えると、ルシファーに床に下ろすように指示をした。
恐る恐る額に触れる。血色の悪い肌は氷のように冷たく、悪紙のように乾燥でごわついていた。
チャーリーはワナワナ震える手で口を押さえると、悲鳴にも似た大声をあげた。
「これは!…カナシイカナシイ病よ!」
「……え?」
さて、アダムはカナシイカナシイ病に罹ってしまった。しかも初っ端から末期症状、動かない、泣かない、喋らないの三拍子揃った一番ダメな状態である。
ルシファーはイトしさからアダムの看病に立候補したが、果たしてルシファーにカナシイカナシイ病末期のアダムを世話することが出来ないのか?!それとも出来ないのか?!
という話です。
元気だったら7月の本にしたいです。