好きと嫌いは紙一重その瞬間、左頬に強い衝撃が走った。暫し、放心し、すぐに目の前の女性に左頬を平手打ちされたのだと気がついた。月島は改めて、目の前の女性――鯉登音之を見つめると、彼女は形の良い唇を怒りで震わせ、不愉快そうに特徴的な生え癖のある眉を顰めている。
「初対面の人にそんなことを言われるなんて不愉快ですっ!」
彼女はそう言うと、くるりと背を向け、もう何も言うことはないと言わんばかりにズンズンと歩いて行ってしまった。月島は今になって、ぶたれた左頬がジリジリと焼かれるような痛みを訴え始め、そこに手を当てる。僅かに熱を持っており、彼女の怒りの炎がチリチリとそこに宿っているかのようだった。月島は溜息を吐いた。確かに悪かったのは不躾な物言いをした自分かもしれない。だからといって、仮にも上司にいきなり平手打ちをかますのは如何なものか。
なぜ、こんなことになったのかを語るには、少々時を遡る必要がある。
◇
鯉登音之は今年の新入社員であるが、ただの新入社員ではない。父が鯉登グループの社長であり、所謂、お嬢様だ。そんな彼女がなぜ、大手会社とはいえ第七師団商事に就職しているのか謎であり、社員の間では噂の的になっていた。鯉登が男漁り――婿探しをしているのだとか、結婚前に男遊びをするためだとか、様々な噂があった。そんな噂がたったのも、鯉登が二度も指導係を変えて欲しいと鶴見にお願いしたためである(彼女は営業部を志望しており、第七師団商事では営業部がほぼ男性で構成されており、必然と指導係も男性となる)。そして、三人目の指導係として白羽の矢が立ったのが月島であった。月島は鯉登とは接点が無かったものの、そんな噂を耳にしていたため、良い感情を抱いていなかった。それは、月島のバックグラウンドも関係している。月島の父は、酒・ギャンブル・浮気を嗜む――ろくでなしであった。月島の母は月島が小学生になる前に愛想を尽かして出て行った。月島を残して。そこからは苦労の連続だった。月島は何とかドン底から這い上がろうと、努力して何とか地元の国立大学を卒業し、第七師団商事に就職したのであった。そのため、遊び半分で仕事に来ている鯉登には関わりたくなく、苦手意識さえ持っていた。
そんな月島の気持ちとは関係なしに、菊田から「来週から、鯉登さんの指導係頼む」と言われたものだから、月島は普段感じない頭痛を感じたものの、会社員である以上は上司の命令には逆らえない。「…分かりました」と承諾したのであった。
そして、先程、鯉登が月島の元へ来て、「鯉登音之です。来週から宜しくお願いします」と頭を下げたのだが。月島は上記のこともあったため、「鯉登さん。真面目に仕事をしない人に教えることはないですから。貴女がどういうつもりで、うちの会社に来ているかは知りませんが。それは覚えておいて下さい」とハッキリ言い、その次に閃光が走り…といった具合だ。
月島は自分のデスクに戻り、すっかり温くなってしまったコーヒーを啜った。入れたてのコーヒーだったら、左頬が更に痛んだかもしれない。不幸中の幸いと思うことにした。しかし、問題は来週からである。どんな顔をして、どんな風に、あの爆弾娘と接したら良いのか――月島は答えが出るはずもない考えを止め、目の前の仕事に集中することにした。
月島の心配は余所に、鯉登は至って普通の上司と接する態度で月島に話しかけて来たもので、月島は拍子抜けしてしまった。そして、噂とは違い、鯉登は優秀、生真面目で仕事熱心な性格だった。どんなこともメモを取り、一度聞いたことは質問しない(きちんと理解出来ているためミスもしない)。彼女は気配りも出来るようで、どんな雑用も率先して行っていたのだった。
(…誰だ。あんな噂を流したのは)
いや、悪いのはその噂を鵜呑みにした自分である。月島は、ふーっと紫煙を燻らせた。昼休憩中、食事を摂ったら屋上で一服するのが習慣になっていた。社内は禁煙であったが、屋上では可…というのが暗黙のルールになっているのだ。それは部長の鶴見も喫煙者というのが大きいかもしれない。
あの強烈な出会い以来、どうも気まずく、月島は業務以外のことを鯉登と話すことが出来なかった。普通の指導係と後輩ならば、一度くらいは一緒に昼食を摂るのかもしれない。今日も休憩時間になると、「じゃあ、休憩終わったら、犬童株式会社に行くから…会社の前で待ち合わせで」と言うと、鯉登は何も言わず小さく頷くのだった。こんなのが毎日続いていた。
「あれー?月島主任、な〜に辛気臭い雰囲気醸し出しているんです?」
「…宇佐美」
宇佐美は上司である月島に気を遣う様子もなく、煙草に火をつけるのだった。鶴見部長だけに気を遣う、彼のブレない態度に月島はある種尊敬の念すら抱く。
「そういえば、鯉登のお嬢とは仲良く出来てます?」
「…いや」
多くを語らない月島の様子に察するものがあったのか、宇佐美は深く掘り下げては聞いてこなかった。それが何ともありがたい。彼は奔放不羈という言葉が似合うが、その一方で、他人をよく見ており、絶妙に距離を保つのが上手なのだ。きっと。
「…そういえば、鯉登のお嬢言ってましたよ。最近は普通に仕事をさせて貰えて嬉しいって…」
「は?」
「え?月島主任、知りません?鯉登のお嬢の指導係が二回も変わった理由」
宇佐美が煙草の火を消し、驚いたように目を丸くする。月島は暫し沈黙し、小声で「…彼女の我儘…だと」と言うと、宇佐美は「はあ〜?」と怒りを滲ませた声を上げるのだった。驚きから怒り、何とも忙しい。表情筋が死んでいると言われている月島とは大違いだ。
「誰から聞いたかは知りませんけど、それ違いますから。前の二人の指導係が、鯉登のお嬢に気に入られようとして、仕事を全部他の人に振ったり、雑用とかもしなくて良いって言って、他の部下に押し付けたりしてたみたいですよ。んで、結局、鯉登のお嬢は指導係の先輩の隣にいるしかなくて、鶴見部長に直談判って訳ですよ」
「…そう、だったのか…」
月島は宇佐美の言葉にドンッと頭を殴りつけられたような衝撃を受けた。そして、初めて彼女に言った言葉を思い出し、やってしまった――と何とも言い難い気持ちになった。そんな月島の様子を見て、宇佐美は「何です?」と首を傾げた。月島は観念して、鯉登との一部始終を話すと、宇佐美は「うわー信じられない。こんな上司、僕だったら、即チェンジ!チェンジ!!ですよ!」と心底嫌そうな表情を浮かべた。
「でも、何でそんな鯉登のお嬢を貶めるような噂が…月島主任、誰から聞いたか覚えてます?」
月島はうーんと目を瞑り、眉間に皺寄せながら、ここ数日の記憶の映像を辿る。そして、給湯室でピタリと止まった。そうだ。ここで、受付の女性社員三人に話しかけられて――。
「うわー!絶対、それ女子特有の面倒臭いやつですよ!!嫉妬ですよ!し・っ・と!!あー、鯉登のお嬢可哀想〜!」
宇佐美がスマートフォンを取り出し、ポチポチと画面をタップしながら叫んだ。何とも忙しいやつだ。そして、宇佐美は「そういえば、月島主任。時間大丈夫です?」と真顔で言うので、ハッと腕時計を見ると休憩終了五分前だった。月島は宇佐美に礼を言うと、慌てて、この場を去るのだった。
「…鯉登のお嬢、可哀想にねえ。今回もチェンジかな」
宇佐美はそう呟くと、またスマートフォンの画面に意識を向けるのだった。
◇
昨日、宇佐美の話を聞いてから、ますます月島は鯉登と何を話して良いのか分からなかった。気まずさがどんどんと膨れ上がっていく。月島は気にしても仕方がないと溜息を吐き、次の会議の準備をしようと、会議室に入ろうとした。その時、隣の空き部屋から何やら話し声が聞こえてきた。月島はピタリと会議室に入ろうとした手を止めた。
(…サボリか?)
それならば注意しなければならない。月島は息を潜め、少し開いていたドアから室内をこっそり覗き込んだ。中にいるのは――鯉登と総務課の杉元だ。杉元は鯉登と同期で、顔に目立つ傷痕があるものの端正な顔立ちの所謂イケメンである。月島は何故だか分からないが、鯉登が男と二人きりでいる様子を見て、心に小波が広がるのを感じた。それが何を意味するのか、今の月島には分からない。
「だから!言ったのかよ?先輩に…」
「…言っても無駄だ。私は先輩に…嫌われてるし…変なこと言って、また仕事をさせて貰えなくなるのも困る…」
「でも!」
何やら言い争っているようだった。先輩、とは自分のことだろうか。月島はジクジクと胸が痛みを訴えるのを感じた。彼女はそんな風に思っていたのかと。
話は終わったようで、彼女がこちらに歩いてくるのが見えた。月島は慌てて、隣の会議室に飛び込んだ。鯉登は気づいていないようだった。月島はホッと胸を撫で下ろし、少し迷ったが、隣の部屋にいる杉元に声をかけた。
「え、あ…月島主任…」
杉元はまさか先程まで話題に出ていた人物が急に出てくるとは思わず、酷く驚いた表情を浮かべた。
「…杉元。悪い。さっきの会話が聞こえたんだが…」
杉元は月島の言葉に黙り込むものの、「俺が言ったことは秘密にして下さいよ?」と言って話し始めたのだった。
「は?私物が無くなる?」
月島が驚きの余り、声のボリュームが大きくなってしまった。杉元はシーっと口元に一本指を当てて、キョロキョロ辺りを見渡した。誰もおらず、杉元は安心したようだ。
「はい。最初は私物のボールペンとかメモ帳だったみたいなんですが、最近エスカレートして来たみたいで。…弁当の中身が女子休憩室のゴミ箱に捨てられていたり…財布の中身が…抜き取られていたり…」
杉元はあまりに酷い内容に話しながら表情を曇らせた。月島も同様であった。しかし、まさか鯉登がそんな目に遭っていたとは。月島は全く気が付かなかった。毎日、顔を合わせているのに、だ。相談しづらい雰囲気を作ってしまっていたのは紛れもなく自分である。出来ることなら、初めて言葉を交わしたあの日に戻りたい。心からそう思った。
「しかし、誰がそんなことを…」
月島は、あっ!と呟いた。思い出したのは、先日の宇佐美との会話だ。じょしとくゆうの、めんどうくさいやつ、しっと――頭の中で反芻する。何か心当たりがありそうな月島に杉元が「何か思い出したんですか?」と尋ねた。月島は給湯室で受付の女性社員三人に鯉登の噂話を教えられたことを杉元に伝えると、杉元も「それは怪しいっすね…」と重々しい表情になる。しかし、決定的な証拠がない。彼女達に聞いたところではぐらかされるのが目に見えてるし、そもそも彼女達が犯人ではないのかもしれない。
「あっ!今日の帰り、空いてますか?助っ人連れて来ます!」
次の会議の時間が迫っていた月島は杉元の提案に同意した。何とか、この件を解決してあげたい。最初の心無い言葉をかけてしまった罪悪感がそう思わせているのだろうか。それでも――彼女のために何とかしたいという気持ちは紛れもない本心であった。
「月島ニシパ、お疲れ様です」
杉元が連れて来た助っ人はインカラマッだった。彼女は経理課に所属し、営業課の谷垣の妻である。
「谷垣や子ども達は大丈夫なのか?」
「ええ。源次郎さんも鯉登さんのことは心配してましたから…最近、元気が無さそうだって」
あまり関わりのなさそうな谷垣ですら、鯉登の様子に気付いていたのか、と。月島は驚き、そして、自分の不甲斐なさに何も言えなくなった。
「場所を変えましょうか」
インカラマッの自宅の近くのファミレスに入り、作戦会議を行うことにした。まず、インカラマッが鯉登の様子がおかしいと思ったきっかけが、女子休憩室で何かを探している彼女を見たことだ。インカラマッは声をかけたら、「…持って来たお弁当が…見当たらなくて…」と眉尻を下げ小さな声で言う彼女を見て、違和感が確信に変わったのだという。インカラマッは鯉登と弁当を探し、まさかとゴミ箱を覗くと、そこには彼女の弁当の中身と弁当箱が捨てられていたのだった。
「そもそも、犯人は簡単に鯉登の弁当に触れられるんですかね?」
杉元が目が覚めるような緑色のメロンソーダを飲みながら首を傾げた。杉元の疑問に対し、インカラマッは、ええ…と頷く。
「お弁当派の女子社員は女子休憩室の冷蔵庫にお弁当を入れて置くんです」
「なるほど…そうしたら、誰でも簡単に弁当を捨てることは出来そうですね」
弁当の件は何となく状況が見えてきた。朝、出勤して、弁当を冷蔵庫に入れたら、昼休憩までは誰でも犯行可能である。誰かに見つからないように注意する必要はあるが。そして、月島はインカラマッに怪しいと踏んでいる受付の女性社員三人について尋ねた。三人は常に一緒に行動しているようで、インカラマッも知っているという。彼女達も弁当派でよく女子休憩室を利用しているらしい。
「それじゃあ、私物が無くなるのは?最近だと、財布の中身も抜き取られたりしているんだろう?」
月島の言葉に、インカラマッは「そんな…そんなことまで起こってるんですか?」と驚きのあまり声を震わせた。
「営業では私物の管理ってどうしてるんすか?」
「そうだな…外回りに出かける時は大抵貴重品は持つし、社内にいる時は個人差はあるが…基本はデスクに置いたままだな」
男世帯であり、その辺は適当な者が多い。几帳面な尾形あたりは、離席する際にデスクの鍵付きの引き出しに貴重品を入れているようだが。
「そうなんですね…営業課の人達がフロアから全員いなくなることなんてないですよね…?そこで私物を盗むなんて可能なんでしょうか?」
インカラマッの疑問に杉元も頷く。月島は、うーん…と頭を働かせる。そんな状況あっただろうか。そして、犯人は営業課の動きに詳しい人物ということだろうか。
「あっ!水曜!外回りが多くて、そのまま外で昼食を摂るヤツも多いし、中で仕事してるヤツらも外で食べたり、食堂に行ったり、煙草吸ったり…殆ど人がいなくなるかも…」
そして、その時でも必ず残る社員がいた。営業の数少ない女性社員の内の一人だ。事務仕事をしてくれており、彼女は自分のデスクで昼食を摂ることが殆どだ。
「めっちゃ怪しいじゃないですか!?」
「でも…決めつけは良くないです。やっぱり証拠がないと」
三人は再び頭を悩ませる。プライバシーがあるため、隠しカメラなんて設置も出来ない。やはり、現行犯で捕まえるしかないのか。
「こちらから、犯人が動きやすい状況を作るのはどうだろうか?」
月島の提案に、杉元とインカラマッは妙案だと目を輝かせた。一つ案が浮かぶと、三人寄れば文殊の知恵とはよく言ったもので、次々と案が出てくる。
「なるほど!それなら、会社の福利厚生の内の一つで、社員の交流のために食事会とかに使える予算あるじゃないですか?それで皆で昼食を摂るってのはどうですか?」
交流会の予算…?月島が「何だそれは?」と言うと、杉元が「ええ!?フミエさんが言ってましたよ。それで、総務は先週、お洒落ランチしましたよ?」と言う。総務課の女帝――フミエがそう言うのなら、そういう予算があるのだろう。彼女は使える物は何でも使えという考えの持ち主で、社則が書かれている冊子(読んでいる者を月島は見たことがない)を常にデスクに置いてあるのだ。
「それは良いかも!!私がその情報を受付の子達にも流します。営業の怪しい子は自分の課のことだから大丈夫ですね」
作戦が何となく形になってきた。あとは作戦が上手くいくことを祈るだけだ。月島はカップに残っているコーヒーを飲み干した。コーヒーの苦味が、作戦が上手くいくかどうかの心配をほんの少しだけ掻き消してくれたような気がした。
◇
作戦決行日。月島は課長の菊田に提案し、新入社員との交流会と称した食事会を昼に行うことを提案した。菊田は会社から予算が出るなら良いんじゃないかと反対することはなかった。そして、月島は会社の会議室で少し豪華な弁当を食べることを計画した。外に食べに行かないのもニつの理由があった。外食に行くとなると、面倒臭いと参加しない者も出てくる可能性があることと、もう一つは貴重品を持って出かける可能性が高いためだ。社内の会議室でとなると、自分のデスクに置きっぱなしにする者が大半である。
昼休憩に入ると、皆がぞろぞろと会議室に移動し始めた。月島はチラリと例の女性社員を見ると、彼女は「片付けておきたい仕事があるので」と、フロアに残ることを菊田に伝えていた。――予想通りである。会議室へ行くと、月島は「忘れ物を取りに行く。先に始めていてくれ」と来た道を戻り、営業課のフロア近くの物置で杉元と合流した。杉元の手にはビデオカメラが握られており、「…上手く証拠撮れますかね?」と緊張した面持ちで呟いた。「犯人がどう出るか分からないが、ここまで来たらやるしかないだろう」と月島が普段と全く変わらない声色で言うと、杉元は「月島主任って絶対緊張とかしたことないですよね?」と苦笑する。月島は「表情筋が死んでると、よく宇佐美に言われる」と言うと、杉元は噴き出して笑った。緊張が解れたらしい。月島も小さく笑った。杉元が「昨日、インカラマッが撮ってくれた証拠もあるし、今度は営業フロア内の犯行の証拠も絶対撮ってやりましょう」とやる気を見せる。
二人で足音を立てないようにし、営業課のフロア内を伺った。例の女性社員だけが残っている。彼女はキョロキョロと辺りを見渡すと、スマートフォンを取り出し、何やら操作し始めた。それが終わると、自分のデスクで食事を摂り始めた。月島と杉元が顔を見合わせる。すると、コツコツとヒールの音がこちらに近づいて来るのが聞こえ、二人は営業課のフロア内にいる女性社員に気付かれないように入り、近くのデスク下に身を潜めた。
「お疲れー!誰もいない感じ?」
受付の女子社員の内の一人が営業女性社員に声をかけた。営業女性社員は「うん。私だけ。…暫くは誰も戻って来ない予定」と答えた。四人はニヤニヤと嫌な笑みを浮かべて、「じゃあ、やっちゃおうか」と話し始める。どうやら、営業女性社員は受付の三人組と共犯らしい。月島は杉元に視線を送ると、杉元は既にビデオカメラを回し始めていた。四人は鯉登のデスクに近づく。
「本当、ムカつくよねー。金持ちで、ちょっと顔が良いからチヤホヤされちゃってさー」
「ねー、コレとかブランドのハンカチじゃん。財布も最新作だし」
「売ったら高くなるじゃない?」
「そしたらさー、飲みに行こうよ!」
四人はそう言うと、ハンカチと財布を鯉登のバッグから取り出した。もはや言い逃れは出来ない。
「何をしている?」
月島が声をかけると、四人は小さな悲鳴をあげて振り返り、幽霊でも見たかのような表情で月島を見つめた。
「つ、月島主任…何で…」
「それはこっちの台詞だ。どうして、君達が鯉登さんの私物を勝手に触っている?」
四人は口裏を合わせようとしているのか、視線を合わせていた。
「鯉登さんに頼まれて…」
苦し紛れの言い訳だった。杉元が一部始終カメラで動画を撮っていることを伝えると、四人は俯き、何も言葉を発しなくなった。それだけで答えは既に出たも同然だった。
「あと、これも確認して欲しいんですけど」
杉元がスマートフォンを取り出し、動画を再生した。スマートフォンの画面には、女子休憩室の冷蔵庫が映し出された。そして、受付女性社員三人がやって来て、「今日もあるよー」、「毎日、毎日、懲りないよね」、「家事も出来ますアピールかよ」と話しながら、鯉登の弁当の中身をゴミ箱に捨て、そのまま弁当箱も捨てる映像が流れた。三人の顔色が益々青くなった。
「杉元さん、これ、女子休憩室ですよね?女子休憩室にカメラを仕掛けていたんですか?これって盗撮じゃ…」
「これは私が撮りました」
インカラマッがニコッと微笑む。しかし、その涼しげな目は笑ってはいなかった。種明かしすると、それは一昨日、証拠を得るために、インカラマッが鯉登の弁当箱を借りて用意したものであった。捨てられると分かってて用意したものの、やはりゴミ箱に捨てられているのを見ると悲しいですね、とインカラマッが言っていて、月島と杉元は申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「どうして、こんなことをするんだ?鯉登さんが君達に何かしたか?」
「だって…あの子、美人でお金持ちで…仕事も出来て…」
「羨ましくて…それでちょっと意地悪をしてやろうと…」
なんだそれは。そんな理由でこんなことをしていたというのか。月島は目の前にいる人間が自分と同じ人間であるということを信じられず、呆然と見つめた。沈黙が続く。中には泣き出してしまう者もいた。月島は杉元とインカラマッの方を見て、証拠もあるし、後は上に報告して、然るべき措置を取ってもらおうと提案しかけた所で、鯉登が営業フロアにやって来たのだった。
「…あれ、皆さん、私のデスク周りで何を…?」
「鯉登さん…?どうして…」
「いえ、月島主任が戻られないので…」
鯉登は状況が分からず、皆の顔を見渡していた。杉元が事の始まりから、現在の状況まで全て説明すると、彼女は驚き、俯いて押し黙ってしまった。それは当然だろう。身近の人間にこれだけの悪意を向けられていたのを知ったのならば。
「鯉登さん、これは犯罪です。まずは上に報告して――」
「結構です!」
「え?」
鯉登の強い口調に、月島は間の抜けた声しか出せなかった。杉元も「何で?」と顔を顰める。加害者四人も鯉登の返答が予想外だったようで、泣いていた者も泣き止んで、鯉登を見つめていた。
「…だって、事が大きくなると、会社に迷惑をかけてしまいますし…私なら大丈夫です。もうしないと約束してくれるなら――」
鯉登は目を潤ませ、唇をぎゅっと噛み締めている。感情を必死に抑えようとしているようだった。
「どうして?噂を信じて君に酷いことを言ってしまった俺が言えたことじゃないけど…会社に迷惑をかけるなんて…そんな理由が、君が理不尽なことを我慢する理由になんてならないだろ?いや、なってはいけないと俺は思うよ」
月島の言葉に鯉登が耐えきれず、ぽろぽろと大きな目から涙が溢れ、宙に投げ出された雫はカーペットに吸い込まれて消えていった。
「…はい。この件は月島主任にお任せします」
鯉登が声を震わせ、そう言い終えると、インカラマッは彼女の肩を優しく抱き、杉元が前山のデスクに置いてあるティッシュ箱を彼女に差し出したのだった。
それから、月島は課長の菊田や部長の鶴見に報告し、程なくして、彼女達四人は懲戒解雇になったのだった。鯉登はそれ以上の罰は望まないと話し、この事件は終結となった。
「本当に…あいがともしゃげもした」
鯉登が形の良い頭を下げて、月島、杉元、インカラマッに礼を述べた。背の高い彼女の頭頂を見るのは何だか新鮮で、月島は思わず、じっと見つめてしまった。
「あの…お礼といっては何なんですが…今日、ご馳走したいです。予定とかありますか?」
「嬉しいのですが、今日は源次郎さんと子ども達と予定がありまして」
「俺も白石とアシリパさんと飯に行く予定」
インカラマッと杉元の言葉に、鯉登は動物の耳が付いていたら、確実に垂れ下げているのが分かるくらい落ち込む。「そうですか…それでは別日に――」と言いかけたところで、インカラマッが何か思いついたようだった。
「あっ!そうだ!月島ニシパと行ってきたら良いですよ!二人できちんと話したこともないんでしょう?」
「え?」
「…月島主任が…嫌ではない、なら…」
鯉登がじっと月島を見つめ、インカラマッと杉元がニヤニヤと笑いながら、事の成り行きを見守る。月島は何だか居心地が悪く、思わず視線を逸らした。
「…嫌では、ないです」
その後は、杉元とインカラマッと別れ、月島と鯉登は鯉登のお勧めの店で食事を一緒に摂った。一緒に働き始めてから、暫く経つが初めてのことだった。彼女は、ふにゃふにゃと笑いながら、「ここは兄さあが連れて来てくれたところで――」と説明してくれるのだった。月島は彼女に兄がいるのも、彼女がこんな風に笑いながら話しをするのも初めて知った。仕事中は気を張っているのか、少しピリピリした雰囲気の彼女であったが、本来の姿はこちらなのかもしらない。そのギャップが何とも可愛いらしい。
(え、可愛い――?)
月島は自分の感情に驚きを隠せず、思わず、食事の手を止めた。鯉登は不思議そうに、「月島主任?」と首を傾げる。それすらも可愛い。自分の気持ちを自覚したら、もうその気持ちは留めておくことは出来ず、少しずつ、少しずつ溢れ出す感覚があった。
食事を終え、鯉登を自宅まで送ると、そこは映画やドラマでしか見たことがないような豪邸だった。月島はやはり彼女は住む世界が違うのだなと思い、この感情に蓋をすることにした。いや、そもそも、第一印象最悪、十歳も上のオジさんを恋愛対象として見てくれることなんてないだろう。月島は頭の中で自ら結論付けた。
「今日はありがとうございました。それでは、また――会社で」
会社で、と付け加えたのは、また一緒に食事したいと思われて、鯉登に気持ち悪がられたらどうしようという不安があったからだ。歳を重ねると無駄に自己防衛の術が上手くなるものだ。
「あ、あの!!」
月島は驚いて振り向くと、鯉登が何か言いたげにモジモジしている。何か忘れていることがあったか、と月島は考え始めるものの、心当たりが全くなかった。
「…月島主任、やっぱり…私、会社を辞めようと思います」
「えっ!?どうして?」
予想外の鯉登の発言に月島は手に持っていたビジネスバッグを落としそうになる。鯉登は気まずそうに視線を逸らしていたが、意を決して、月島の目を真っ直ぐ見つめた。
「…月島主任が…社内恋愛を反対しているのなら…ですけど…」
鯉登の顔が真っ赤になり、耳までも朱色に染まる。流石の月島も、彼女の発言の意図が分かり、心臓がバクバクと脈打ち始める。自分の顔も熱くなるのを感じ、口元がニヤけそうになるのを必死に隠した。――表情筋が死んでいるのではなかったか?
「社内恋愛は…やぶさかではない、です」
――――二人の関係が大きく変わろうとしていた。