兎と鯉の追いかけっこ 鯉登が目を覚ますと、体の節々の痛みに顔を顰めた。特に尻の方が痛み、何か挟まっているような感覚がある。鯉登は、己の体の異変を起き上がって確認しようとすると、自分が裸であることに気が付いた。そして、視線を横に移すと、これまた同じく裸で眠る友人の宇佐美の姿が。
「キエエエエエエッ!?」
「わっ!? 何、何ッ!?」
鯉登の朝から聞くには少々ハードすぎる声量の猿叫で、起床ラッパを聞いたごとく宇佐美は飛び起きた。そして、隣の鯉登を寝ぼけ眼で見つめる。
「おはよう、音之進。今日、休みなんだから、もう少し寝かせてよ」
そう言うと宇佐美は再び、ゴロンと寝転んで二度寝をしようとする。鯉登は呑気な彼の体を揺すりながら叫んだ。
「いやいや!! 何で、お前はそんなに冷静でいられるんだッ!?」
まさか起きたら、友人と裸で同じベッドに入っているような事態(しかも、明らかに致した後である)になるとは夢にも思わないであろう。宇佐美と鯉登の関係が恋人同士なら、何ら問題はなかった。しかし、二人の関係は友人同士である。
二人は同じ推しをもつ仲間だ。俳優の鶴見篤四郎のファンで、SNSを通じて知り合い友人となった。たまに、推しに対する熱量で互いにぶつかることはあるものの、友人として良好な関係を築いていた。
そして、毎週金曜日は宇佐美の家で推し活(鶴見が出演している映画やドラマの鑑賞会)をしながら、宅飲みをするのが日課だった。
「えーっと……確か昨日の夜は、いつも通り、お前の家で飲みながら……鶴見さんの映画を観て……」
鯉登は必死に事の流れを思い出そうとする。どうか、自分の勘違いでありますように、と願いながら。
鯉登の言葉に宇佐美は、うんうんと頷いている。宇佐美はどの程度、昨日のことを覚えているのだろうか。鯉登は宇佐美に真実を尋ねたくなったが、彼の性格上、揶揄われる恐れがある。話がややこしくなるのは勘弁願いたい。鯉登は酒が残り痛む頭をフル回転させながら、昨日の出来事を振り返る。
「だ、ダメだ……その後がちっとも思い出せん……」
酒に強い自覚がある鯉登であったが、昨日の夜の出来事について、まるで靄がかかったかのように思い出すことが出来なかった。
「ヤリ逃げなんて酷いなあ! あ、この場合はヤられ逃げかな?」
宇佐美がプ〜ッと頬っぺたを膨らませると、次は自分の言葉でくふふっと笑い出す。忙しいやつだ、と鯉登は彼を呆れたように見つめた。そして、彼の言葉を反芻する。
「ヤ、ヤられ逃げ……? つまり、それは……」
「え? 僕が音之進を抱いたってことだけど?」
「キエエエエエエッ!!!!」
鯉登の回避したかったことが現実になってしまった。鯉登は猿叫しながら、ぐにゃりと後ろに倒れ込む。幸いベッドの上であったため、枕やマットレスが彼の体を優しく受け止めた。
「……ないでそげんことに……?」
「えーと、珍しい海外の酒が手に入ったから、それを飲んでいたんだけど、珍しく音之進が酔っ払っちゃって。それで、音之進が僕の膝の上に乗ってきて、今日は帰ろごたなか♡ って甘えてくるもんだから、誘っているんだと思って」
「お前の脳味噌は下半身に付いているのかッ!?」
鯉登は頭を抱えるものの、原因の半分くらいは自分にあるため、それ以上宇佐美に文句を言うことが出来なくなった。
宇佐美は鯉登をじっと見つめる。彼が音之進と口を開きかけた時だった。
「ッ! き、今日はこれで帰る!!」
鯉登はそう言うと慌てて、脱ぎ散らかされた服をかき集めて着ると、逃げるようにして帰って行ったのだった。残された宇佐美は彼の目にも止まらぬ速さで帰る様を見て、驚きのあまり固まったまま動けないでいた。
バタンッとドアが閉まる音がすると、ようやく、宇佐美は「は?」とだけ呟くことが出来た。比較的小さな声だった。しかし、生活音も何もしていない状況であったため、それは室内に響き渡り、彼に寂しい、という感情を抱かせるには充分だった。
「それで? そいつと連絡が取れない、って?」
紫煙を燻らせながら、尾形は宇佐美に問いかけた。宇佐美は黙り込んだまま頷く。彼にしては珍しく言葉数が少ないため、落ち込んでいることが窺えた。
あれから、鯉登に連絡をする宇佐美であったが、LINEは既読がつかず、電話をかけても繋がらない状況だった。忙しいから、という理由ではないことは明白で。明らかに意図的に避けられている。
しかし、そんなことを認めたくない宇佐美は一縷の望みをかけて、尾形に尋ねてみた。
「なあ、百之助? どういうことだと思う?」
「あ? そりゃあ……なかったことにしたいんだろうよ」
「やっぱり? あーあ……結構本気だったのになぁ……」
「珍しいな? お前がそんな風に言うなんて」
「くふふっ、音之進ってさあ……とおっても可愛いんだ♡ 世間知らずで生意気なところもあるんだけどさ、顔とカラダが良いから許せちゃう」
「あー、そういうところじゃねえの? お前のこと嫌なの」
失礼なやつ、と宇佐美は尾形の脛に軽く蹴りを入れた。尾形は苛立ちを隠さず、眉間に皺を寄せる。
しかし、アンガーマネジメントの研修を思い出し、尾形は頭の中で六秒カウントして荒ぶる感情の波を穏やかなそれにした。意外と研修というのも役に立つんだな、と思いながら、尾形は失恋して落ち込んでいる悪友を見つめる。
「……まあ、なんだ……その、告白してNOって言われたんだったら、さっさと見切りつけてさ……次に行けよ。お前、下半身緩いけど、悪いやつじゃねぇーし」
「……は? 告白してないから振られてないし」
「? ……馬鹿野郎ッ!! 原因はそれだ!!」
先程まで感情コントロールに努めていた尾形の努力は虚しく、宇佐美の言葉によって急速沸騰湯沸かし器のように怒声が発せられる。
宇佐美はなぜ尾形が声を荒げるのか分かっていない様子で、「百之助。何、大声出してんの?」と呆れた顔をしていた。駄目だ。こいつはそういう奴だった。一般的な恋愛の“れ”の字もしらない、答えはベッドの中で確かめるような奴。尾形は宇佐美に負けじと呆れたような表情を浮かべた。
そして、尾形は溜息を吐いて、ある事が脳裏に浮かぶ。面倒くさい取引先との商談が来週あったな、と。友人として、恋愛相談を引き受ける代わりに、その商談の担当を代わって貰おうと尾形はほくそ笑む。世の中、時にギブアンドテイクが大切な時もある。綺麗事だけじゃ、割に合わない。
「何? 原因って?」
「……宇佐美よ、アドバイスしてやっても良いが条件がある……来週のN社との商談担当を代わってくれ」
「いいよ」
あっさりと承諾する宇佐美に尾形は内心ガッツポーズをとる。心の憂いは取り払われた。後は適当に一般的な恋愛感について話してやれば良い。
しかし、尾形は知らなかったのだ。悪知恵が働くのは宇佐美の方が一枚も二枚も上手であることを。来週、谷垣が半べそをかきながらN社との商談から帰ってくるのを発見することになるとは、この時の尾形は想像だにしていなかった。
「……まず、告白していない相手とセックスして、その後も何も言われないとただの遊びやセフレ扱いされていると思う奴が大抵だ」
「え? 好きだからセックスするんでしょ? 僕、好きでもない奴とはしないけど」
「だから! それを相手に言わないと伝わらねぇだろうが」
尾形の言葉を聞いた宇佐美は「なるほどねぇ……だから、音之進は僕のことを避けているのか」と納得した顔で頷いた。そんなことを説明しないと分からないのか、と尾形は宇佐美をまるで特殊生物を見るような目で眺める(自分もまともな人間かと言われたら、はっきりとYESと言える自信がないのだが)。
「さて……逃げる鯉を捕まえるにはどうしたもんかな」
宇佐美はそう呟きながら、トントンッと顎先を人差し指で叩く。何やら考え込んでいる様子だ。
ここまでくると、もはや言うべきこともなく、友人としての役割も充分果たしただろうと考え、尾形は煙草の火を消した。そして、「犯罪には手を染めるなよ」と一言彼に伝え、その場を後にしたのだった。
(どうしよう……)
大学のカフェテリアで、鯉登は思い詰めた様子でスマートフォンを見つめている。あの日から引っきりなしに宇佐美から連絡が来るものの、鯉登は返信出来ずにいた。
それは、友人同士で性交をしてしまい、気まずいということも大いにあるが、鯉登は宇佐美から拒絶され、友人として縁を切られるのではないか、ということを心配していたのだ。なぜ、そのように思うのか。その結論に辿り着くのは非常に容易なことだった。それは、二人の共通の推しの鶴見篤四郎である。
宇佐美の彼を推す熱量を知っている鯉登は、宇佐美が彼のような歳上のダンディな男性が好みだと思っていた。そのため、自分のような歳下の色気もないような男を好きになる訳がないと思い込んでいたのだった。
友人として、いや、それ以上の感情を抱いている宇佐美から拒絶されてしまったら、と考えると、鯉登はスマートフォンの通知をタップしてメッセージを読むことが出来なかった。
「鯉登ちゃーん!!」
鯉登、という名字は珍しく、大学でも自分しかいないだろうと考えている鯉登は迷うことなく顔を上げ、声の主の方へ視線を移した。聞き覚えのある声の主は鯉登の予想通り、白石だった。
白石は鯉登と同じく三年生であるが既に三回留年しており、“長老”という不名誉な渾名がある男だ。
「何だ? 白石、またレポートのことか? 写させんぞ。自分の力でやらないと意味が――」
「違うって!! というか、俺が鯉登ちゃんのレポート写したら、出来が良すぎて疑われちゃうでしょうが! そんなことより、鯉登ちゃんにお客さん来てるよ? 校門の前で待ってる」
「私に? 客?」
「うん。早めに行ってあげて!! 女の子達に囲まれていたから。じゃあ、俺、きちんと伝えたからね〜」
白石は要件だけ伝えると、カフェテリアから足早に立ち去る。本当に伝言だけ伝えるために来たらしい。鯉登はお人好しの坊主頭の後ろ姿に伝えられなかった労いの言葉をかけた。
しかし、自分に客とは一体誰だろう。大学に訪ねてくる人なんて珍しいし、心当たりもなかった。鯉登はすっかり冷めてしまったコーヒーを飲み干すと、マグカップを返却して、校門へと向かった。
校門へ行くと、白石が言ってた通り、三人組の女生徒が一生懸命誰かに話しかけているのが目に入る。
「あっ! 音之進!!」
宇佐美だった。女生徒達は「友達って、鯉登君のことだったんだー!」、「良かったら、五人でご飯にでも行きませんか?」と声が上がる。
宇佐美は男女共にモテる男だった。筋の通った鼻筋、長い睫毛、色気がある唇、色白の肌。来る者拒まず、去る者追わず――そんな恋愛をしていることは、友人である鯉登の耳にも届いていた。
鯉登は何と答えて良いか分からず、黙り込んだまま、視線を逸らしてしまう。
「あっ! また逃げるつもりッ!?」
宇佐美は鯉登の手首を痛いくらいに握り締めた。女生徒達がまた口を開こうとすると、「僕は音之進に用があるのッ! 邪魔だから、どこかに行ってくれる?」と宇佐美は冷たく突き放すように話す。それを聞いた女生徒達はブツブツと文句を言いながら去っていったのだった。
残された鯉登は宇佐美と二人きりになり、ますます気まずく、何とかこの場を去る方法を思案するものの、妙案は浮かばなかった。そして、柔道を習っていた宇佐美には力で勝てないことも鯉登は充分すぎるくらいに理解していた。
鯉登は抵抗の力を緩めると、それを感じ取った宇佐美は「やっと観念した?」と目を細めた。
「……私に用、とは?」
「は? まず、僕に謝ることあるでしょッ!? 連絡を無視してごめんなさいって!!」
「いや、そんなつもりは……だが、結果としてそうなってしまったかもしれない。……すまない」
「ま、僕は優しいから許してあげるけどね! 大事な話があるんだけど、場所移せる? 車、向こうに停めてるから」
宇佐美の言葉にいよいよか……と鯉登は覚悟を決めざるを得なくなる。友人としての縁を切られるかもしない。そうすると、宇佐美と会えるのは今日までかもしれない。そう考えると、じわじわと込み上げてくるものがあり、鯉登の視界がぐにゃりと歪んだ。
それを見た宇佐美が、ギョッとした顔になる。
「えっ!? 音之進、どうしたの!? あ、もしかして…手首痛い?」
「ち、ちごっ……ただ……もうわいに会えんくなっとかち思うと……」
「えっ!? どういうこと?」
宇佐美は鯉登の予想外の反応に一瞬間の抜けた声を上げるものの、すぐに彼の言葉の真意を尋ねた。
鯉登の発言によると、自分に会えなくなることを恐れているようだ、と宇佐美は考える。それは即ち、鯉登は自分を嫌っている訳ではないということ。それが分かると気持ちに余裕が出てくる。
そのおかげで、鯉登がしゃくり上げながら、ゆっくりと口を開くのも、宇佐美は見守りながら待つことが出来た。
「だって、宇佐美は鶴見さんみたいな歳上が好みだろう?」
「は?」
「分かっている……私と関係を持ったのだって気まぐれで……一夜限りだってことも……」
ようやく合点がいった。鯉登が何を気にしているのか。宇佐美は、悪友の『言わないと伝わらない』という言葉を思い出す。それは自分に限ったことではないのだ。
そんな当たり前のことに気付かせてくれた尾形には今度の遠征でお土産を買ってやろうと、宇佐美は頭のTO DOリストに項目を追加するのだった。
そして、目の前の盛大に勘違いしている宇佐美にとって友人であり、同志であり、それでいて好意を寄せている唯一無二の存在感である鯉登の誤解を解くことに集中する。
「いやいや!! ちょっと何勝手に話を進めているのさッ!? 考えてみてよ! 鶴見さんは僕にとって神みたいな存在なんだよ!? 音之進。君は神様とセックス出来るわけ?」
「出来る訳ないだろう」
「だろう? つまりは僕にとって篤四郎さんは崇拝対象ではあるけど、恋愛対象ではないってこと。僕が好きなのは、君なんだけど」
鯉登は猿叫し、「いや、まさか……そんなはず、は……」とブツブツ呟いている。鯉登の煮え切らない態度に苛立った宇佐美は、鯉登の腕を強く引いて、そのまま、彼の唇に勢い任せのキスをした。
尾形と違って、先週受けたアンガーマネジメントの研修内容なんて、宇佐美の頭の中から既に消え失せてしまっている。苛立つ彼の頭の中にあるのは、お互いの関係を明確にする言葉を催促したい気持ちだけ。
「なっ、う、宇佐美……」
「ねえ、音之進。知っての通り、僕って気が短い方なんだ。今すぐ僕の恋人になるって言って、この後優しく抱かれるか……それとも、僕を焦らして激しく抱かれるか。どうしたい?」
「……性格が悪いぞ、お前」
どうやら兎と鯉の追いかけっこは兎に軍配が上がったようだった。
結局、「今度はちゃんと覚えててよ」と言われて、鯉登は宇佐美に激しく抱かれることになるのだが、またそれは別の話。