edere 今年の梅雨は、やけにあっけなく終わった。まだ7月頭だというのに猛暑日が続き、仕事場へは熱中症患者も多く運ばれてきて、例年より慌ただしい夏の始まりを感じていた。そんな折の、久しぶりに比較的ゆったりとした休日昼下がり。クーラーのきいた涼しい我が家の居間で、チームメイトの一二三君が再度同じ質問をしてきた。
「ねぇ、センセってば、だから、独歩ちんとはどのぐらい仲良くなったの?」
先ほど訊かれたときは、彼にしては言葉を選んだな、と感心した。しかし、2度目となるとそれは気遣いではなく、からかいに近い言葉遊びであることがわかる。
「ですから、独歩君とは恋人として良い付き合いをさせてもらっていますよ。なかなかゆっくりは会えませんが」
彼にならって私も1度目と同じような答えを繰り返した。実際、一二三君が期待するような進展はないのだ。
「だねー、独歩、今日も急に仕事になっちゃって。せっかく先生とデートのはずだったのにね、マジヒサーン」
「お互い大人だから」
仕事の大切さはわかっている、と私が言いかけたところで
「これから独歩ちん来るんでしょ?」
大人だからー、と笑い、一二三君は自身で手土産として持ってきた老舗甘味処の豆寒天を掬う。
「仕事で疲れているだろうから、うちで食事をしようと誘ったんだよ」
私も彼に続いて、手にしたまま行き場のなかったスプーンを、ようやく口に運んだ。赤エンドウのほのかな塩味と黒蜜の甘さが口の中で混ざる。
「うん、やっぱりここの寒天は美味しいね。わざわざありがとう」
「独歩のドタキャンで先生さみしーかなって」
「特別寂しいとは思わないよ」
「大人だから?」
「それもあるけど、慣れてるからね」
一二三君は自分で訊いたにもかかわらず、ふーん、と気のない返事をし、すぐに話題を変える。
「センセー、そういえば今日は浴衣じゃないの? 前に、夏は家で浴衣着ることあるって言ってたっしょ」
「え、あぁ、もう出してはいるよ」
「見たい!」
「……特別面白い物ではないでしょう」
「面白い!見たい!着て!」
身を乗り出し、駄々っ子のようになった一二三君を落ち着かせようと試みたが、俺っちの豆カン食べたじゃん、と言われてしまいしばし黙ると
「早く着てくれないと、仕事遅刻しちゃうっ」
とせかされてしまった。私には関係ないことと思いつつも、渋々自室に行き、濃紺の楊柳浴衣に着替える。途端に、下ろしていた長い髪が暑苦しく感じ、高い位置で一つにくくった。
居間に戻ると、私を見た彼の大きな目が、いつもよりさらに開かれた。似合う、かっこいい、渋い、綺麗、セクシー、夏っぽい、侍、涼し気、と彼なりの誉め言葉を浴びること数分。少し気分の良くなっている自分がいるのだ。彼の言動に振り回されることもあるが、このような素直で明るい性格はとても好ましいと思ってしまう。
「んじゃ、これ」
突然、ナイロン製の黒い大きなトラベルポーチを目の前に突き出される。
「なんですか?」
「独歩ちんの着替え一式」
「泊まる予定はありませんよ」
「えー? 俺っち別にそんなこと言ってないしー。独歩のことだからー、汗だくで仕事先から直行してくんじゃね?って思っただけー」
色々と言いたいことはあるが、飲み込んで小さい溜息1つに変え、手を伸ばす。
「そうですね、預かりましょう」
私が荷物を受け取ると、一二三君は任務完了と満足げな顔をし、ハンガーにかけてあったジャケットを颯爽と羽織った。
「それでは先生、僕の友人のことをお願いします」
初夏といえど例年より暑く、スーツを着て歩くのはなかなか辛いだろう。それでも爽やかな笑顔でカブキチョウへと向かう彼を見送ると、今度は遠慮なく大きな溜息を吐いた。
さて、私は何をお願いされたんだろうか。
独歩君が来る前に夕食の支度をしておこうと、たすき掛けをして台所に立つ。インゲンのスジをとっていると、ぼんやりと一二三君との会話が思い出される。
彼の親友への想いは強い。まるで母親のような、いや、それさえも超えた情を感じる時もある。いっそ私より恋人としてふさわしいのではないか、と幾度と頭に浮かんだこともあった。けれども、あまりにも当然の二人の並びを目にすると、嫉妬なんてものは生まれず、ただただどうして独歩君は私と一緒にいるのだろうと疑問に思うばかりだった。
これも興味深いといえばそうなのだが、年下の恋人に直接そんな無粋なことを訊くほど恋愛に溺れることができない。そんな私を見透かして、彼はあんな質問をしてきたのではないだろうか。ふざけているように見えて、一二三君が思慮深いことは知っている。
野菜が茹で上がったところで、ちょうどインターホンが鳴った。モニターに映る待ち人へお疲れさま、と声をかけて、急ぎ足で玄関に向かう。戸を引くと、スーツの上着とバッグを片手に汗を垂らしながら独歩君が立っていた。音が聞こえるほどの大きな呼吸が、彼が走ってきたであろうことを伝える。
「いらっしゃい」
と歓迎の言葉を投げても、反応が薄い。この暑さだ、体調でも悪いのか、とまじまじと顔を見ると目が泳いでいる。
「独歩君、大丈夫かい? ここじゃ暑いだろう。部屋を冷やしてあるから」
促すと慌てて弁明をされた。
「ぁっ、すみません。その、いつもと雰囲気が違ったので少し驚いてしまって」
「あぁ、浴衣のせいかな。それとも、髪をまとめたからかな」
髪の束の根本を見せるように軽く横を向くと、先ほどは胸元に合った視線が、うなじに移動したのを感じた。独歩君はわかりやすい。けれど私が顔を戻すと、何か悪いことでもしていたかのように下を向いてしまった。それを覗き込むように中腰になり顔を近づける。
「具合が悪いかい?」
「い、いえ、体調は全く問題ありません」
慌てて答える彼の顔は、本当に健康なのか疑ってしまうほど赤い。
「もし嫌じゃなければ、シャワーを浴びてはどうかな」
「しゃ、シャワー? ……確かに、こんな汗だらけでは先生に失礼が。あぁ、でも着替えがないので」
「気にしないで。着替えは、さっき一二三君が持ってきてくれたから」
「え? は? あいつ来てたんですか? わぁぁぁすみませんすみません。何か失礼なことを、それより着替え? え? 」
混乱している独歩君の手を引くように家へ上げ、バスルームはここだから、と半ば無理やり脱衣所へ押し込んだ。
独歩君はわかりやすい。わかりやすいからこそ、どうしていいかわからなくなる時がある。
彼のラップスタイルから、私は勝手な想像をしていた、そういった欲を持てば、すぐに行動に移すのではないかと。しかし現実はその通りではなく、あぁやって遠慮なく見つめておきながら、私が近づくと怯えたように離れるのだ。だからいつしか、その視線をやり過ごすようになってしまった。
とっくに成人した恋人同士が、1度も体の関係を持たないのは可笑しいことだろうか。問題がないことを理解していながら、そんな疑問が過る。恋人にはいろいろな形がある、2人が納得済なら関係性も壊れないだろう。それに男同士では、子供を授かることもない。未来に影響することもない。だから私達に於いてセックスは、他のことでも補える、ただのコミュニケーションなのだ。
ダイニングで独歩君を待っていると、彼が浴衣を着て現れたので驚いた。
「あいつが持ってきた着替え、これだったんですけど」
と、袖口を指でつまんで、腰紐だけで留められた深緑色の無地の浴衣を私に見せる。なるほど、一二三君が何やら楽しげだったのは、こういうことだったのか。それで私にも浴衣を着るように仕向けたんだな。
「先生、帯の結び方を教えていただけますか?」
「もちろんだよ」
私は自分の帯を解くと、独歩君の横に並び実演しながら、手順を教えていった。
「そうそう、巻き終わったら垂れ先を折り返して長さを調節して……」
「こう、ですかね」
手元を確認するために独歩君の方へ体を寄せる。肩と肩が、お互い重荷にならない距離で、じっとくっついている。
「出来ているよ。それでお腹を引っ込めながら……」
シャワーを浴びた直後だからだろうか、彼の体の熱さが伝わりやすい。徐々に短い息も聞こえてきた。
「……襟に気を付けて、結び目を背中へ回せば完成だよ」
髪もまだ乾ききっていないのか、知っているシャンプーの湿った香りがする。
ほら、私たちはこんなに近づいて、匂いまで一緒なのに――
「ありがとうございます」
わざとらしくも聞こえる、丁寧なお礼の言葉が彼と私の間に響いた。独歩君はうつむいている。だから私も、また知らないふりをして彼から離れる。
「それでは食事にしようか」
「何か手伝えることはありますか?」
安心したようにパッと顔を上げた彼の表情が、可愛くて憎たらしく感じる。
「もう茹でるだけなので、大丈夫だよ」
湯気が立ち込める台所で、大鍋に入れた素麺の茹であがりを慎重に待つ。この時間は、冷房が効いていても玉のような汗が流れる。
茹であがった素麺を流水で揉み洗いしていると、頬を伝って雫が落ちた。独歩君がこれを食べることで、私たちが繋がったということにはならないだろうか。体から分泌されたものを摂取すれば、もうそれはほとんど性交ではないだろうか。
冷蔵庫から、冷やしておいたガラス製の大皿を取り出してもらい、素麺を一口大に巻きながら並べていく。私の思惑なんて微塵も感じさせないほど真っ白な渦が、すぐに皿を一杯にした。
徳利型のデキャンタに、作っておいたつけつゆを移し、茹で野菜を小鉢に盛りつけた。
「あ、僕運びますね」
独歩君がお盆を持ち上げたので
「今日はあちらで食べようか」
と、テーブルの先にある、吐き出し窓を指さす。
大きな窓に沿って庭に置かれた縁台に、2人で腰掛け夜風を感じる。それに乗って蚊取り線香の匂いがふわりと鼻を刺激した。
いただきます、と素麺をひと塊箸ですくい、そのまま出汁の香りがするつゆの中へと静かに落とす。渦はほぐされ褐色をまとう。たまたま2人同時にすすったため、音が重なった。隣で独歩君が、美味しいです、と笑う。私も嬉しくなって笑う。仕事帰りでお腹が空いている独歩君の箸にからめとられ、どんどん口に運ばれる素麺、ナス、インゲン、オクラ。私は、君の三大欲求のせめて食欲だけでも満たしてあげたい、と思う。だから、合間に飲まれる麦茶もすべて、今だけは私の代わりだ。ただ、適任ではないかもしれないけど。
口の中で、奥歯に触れたナスがキュッと小さく鳴いた。
ふと夜空を見ると、独歩君も一緒になって見上げて残念そうに呟く。
「今年の七夕は、織姫と彦星は会えたんでしょうか。忙しくて空を見る余裕もありませんでした」
「雨は降っていなかったので、会えたかと思いますよ。シンジュクの夜は明るいので天の川はなかなか見えませんが」
「じゃぁ、秘密のデートですね」
その言い方が可愛くて、フフッと声が出てしまった。
「独歩君はロマンチストなんだね」
「先生だって」
彼はそう言って、手の中の小さな夜空に浮かぶ、スライスされたオクラを箸で持ち上げて笑った。
「星、みたいですよね」
ゆっくりと動く唇から目が離せない。柔らかさを想像して、自分の指先が縁台の上で小さく動いたのを感じた。
「もっと茹でましょうか」
いたたまれなくなり、皿を手にとると
「たくさんいただきました。ご馳走様です」
と制された。そして
「もう少し、隣に座っていてもらえますか?」
と独歩君の熱い掌が、私の骨ばったそれに重ねられる。彼に視線をやると、いつもの目と合った。背中に何かが走る。
今晩こそは、私から指を絡めてみようか、瞼に触れてみようか、それとも顔を胸に寄せてみようか。今日は、浴衣を着て縁側で食事をし、いつもと少し違う2人だから、と都合の良い想いがよぎる。私が一言お願いをすれば、優しい彼は応えてくれるだろう。でも、それは私の望みでは無い。
だから立ち上がり、それらしい理由を告げる。
「冷蔵庫に、桃が冷えているんだ」
彼の視線の逃げ道を作り、何も変わらない朝を迎えるために。