夜はこれからまだ長い 消灯を過ぎたハーツラビュルは静まり返っていた。オレは小さな灯りと、身体で憶えた方向感覚を頼りに、一年生の四人部屋があるフロアから三年生や寮長の個室が並ぶ上階へ向かう。不必要に長くて複雑な廊下を渡り、並んだ個室の扉のうち、ひとつの前で迷わず立ち止まる。
『着いたよ』
スマホで一言メッセを送ると、目の前の扉の鍵がかちゃりと回る音。扉を開ければ部屋の灯りが廊下の暗がりへ、すうっと差し込んでくる。
「入りまーす」
「やほ」
部屋の主であるケイト先輩は、開いた扉の前で両手を広げて……ではなく、ベッドの天蓋の中でスマホを弄りながら、ひょいと片手を上げてオレを出迎えてくれた。鍵を片手間の魔法で開けてくれるのもいつも通り。
昼のうちに約束を取り付けて、消灯後に部屋に呼ばれて、隠れて買っておいたスナック菓子を広げて、今日あったことなんかを思い出した順に喋りしながら、それをつまむ。オレとケイト先輩が付き合い出してから取り決め、定着しつつある週末の夜のルーティン。
「借りてた雑誌、持ってきましたよ。お菓子もちゃんとある」
「ん、机置いといて」
両手に持っていたそれらを見せる。一部の寮生で回し読みしているファッション雑誌と、箱入りのスナック菓子。スマホやこのあと使うアレコレは、スウェットやパーカーのポケットに収めてある。やっぱルームウェアはゆったりサイズに限るね。
「エースちゃん、お菓子またソレ持ってきたの?」
「安定っす」
持ってきたのは、独自のスパイスが効いた輪っか状のポテトスナック。量は少なめだけど味が濃くて満足感はあるやつ。味の濃いスナックと、キンと冷やした葡萄のスカッシュを一緒に流し込むのが先輩のお気に入りだっていうからオレも真似してみたら、まんまとハマったのだ。
「好きだね〜」
「アンタが教えてくれたんじゃん。ね、ジュース冷やして!」
「はいはい。先輩づかいが荒いな〜」
そう言いつつも先輩は満更でもない様子でペンを使わずに氷の魔法を放つ。光の粉は氷の結晶を象って空気に溶けていき、やがてペットボトルにうっすらと霜を纏わせた。
「ほい、いっちょ上がり」
「すげ〜、完璧」
シンプルな魔法でも、美味しく飲むための温度調節や効果の範囲を正しく指定するには実践の経験とテクニックが要る。オレも何度かトライしたけど、周囲に氷柱が生えてヤマアラシのようになったり、中身がカチコチに凍ってしまったりと散々な結果だった。
「やっぱ持つべきは色々知ってて魔法もパパっとできちゃう年上の彼氏っすわー」
「調子いいなあ」
心からの煽てるセリフを適当に並べ、それを受け流されながら晩酌の準備を進める。ベッドにぴったり並んで腰掛けて、椅子の上にジュースの入ったカップとお菓子の袋を並べるスタイル。試行錯誤の末、これに落ち着いた。
今日はバスケ部の先輩の機嫌がマシだったとか、こないだ動画で見た手品をもう少しでマスターできそうとか、いつものように適当な話題を回す。
ケイト先輩は相変わらずスマホから目を離さず、マジカメ巡りのルーティンの最中だった。その傍らでもしっかり話は聞いて返してくれてるから、責めるに責められない。マルチタスク得意なのは分かるけど、顔見せて喋ってくんねーかな。サイドに垂れるウェーブヘアの隙間から上向きの睫毛の先ばかりを見つめているうちに、ふと話したかったことを思い出して切り出す。
「話変わるんだけどさ、雑誌に載ってた謎解きのイベント面白そうじゃないすか? 今度一緒に行きたい」
「ほえー、そんなのあった?」
よほど興味が無かったのか、間抜けな声で返事をされた。今オレすっげえ傷ついた気がする。泣いて怒りたいけど、些細なことでそんな姿を見せて、平穏を望むこの人に嫌われたくない。
夜はこれからまだ長い。だから我慢だ。心の中で深呼吸をする。
「……あったんすよ。おすすめデートプラン特集やっててさ。輝石の国の……なんて街だったかな」
さっきの雑誌を手元に引き寄せて開き、巻頭に近い特集ページをパラパラと捲る。この雑誌はファッションが中心のものだけど、若者向けのカルチャーの情報も幅広く載っている。
その中にあった、期間限定のイベントやアクティビティを紹介するコーナーの一部を指し示した。
「これこれ! 併設のコラボカフェとかあるらしいっすよ」
「あ、カワイイ〜。カップとか持ち帰れるんだ」
先輩はずっと弄っていたスマホをやっと伏せて、オレの指差したカフェのオリジナルメニューの写真を注目してくれた。すかさず距離を詰めて反応を窺う。
「ね、よくない?」
「そうだね〜……オレしばらくちょいちょいテストとかあるからさ、それ終わったら行こっか」
「っしゃ! 気晴らししましょ」
「この辺流し読みしちゃってて気付かなかったかも。キミが見つけてくれてよかった」
そう言ってふわっと笑う顔を向けてくれた。ヤバい超嬉しい。さっき我慢した涙が溢れ出そうになるのをグッと堪える。これだけで全てが報われそうなほど、オレはこの人にベタ惚れだ。
「やっぱカフェとかスイーツで釣られてくれますね」
「パフェ食べてくれる子がいるなら諦めつかないもん……はあ〜お金ないや」
そう言いながら困った顔をしていても、なんだか満足気だ。刺さる提案ができたオレも気分が良くなって、雑誌のパフェの写真をまじまじと眺める。
「じゃあ謎解きの参加費はオレ出しますよ」
「えっ⁉︎ いいって、これ結構するじゃん! 後輩に奢られるとかカッコつかないよ〜」
「オレだって彼氏に奢りたいもん」
「エースちゃんはお小遣いでやりくりしてるんでしょ?」
「……兄貴に借金する」
「絶対ダメ! てか、前にゲーム買う時もしてなかった?」
「アレは対戦モードあるから一緒にやろって言ったら返さなくてよくなった。兄貴オレに甘いから、これも半分でいいよとか言ってくれるって絶対!」
「甘っっっま。そんなことってある?」
「普通っすよ」
「分かんね〜……うちのねーちゃんだったらとんでもない利息付けそう」
呟きながら、みるみる遠い目になっていく。よくない記憶の蓋を開けた気がして、目の前で手を振って呼びかけた。
「せんぱーい? ねえ、お金のやりくりは何とかするとして……行くのは決まりでいいっすよね?」
「もちろん♪ 行き方調べとくね」
「イェーイ! いっぱい写真撮ろ」
浮つく心に任せて身体を強く抱きしめる。そのまま頬擦りをすると、ゆるいパーマのかかったウェーブヘアと暴れる猫っ毛がくしゃくしゃに掻き混ざる。
「ちょ、ふふっ、くすぐったいって……こら」
「そう?」
逃げようとする首筋を追いかけてキスで捕まえ、そのままシャンプーの香りを吸い込んだ。