【再録】大正浪漫風オメガバース研日小説壁にかかった知らない人の肖像画や、黒々とした目でこちらを見つめてくる鹿の頭の剥製。
豪華だけど、余所者だと自分に告げてくるようなベッド。
ここは親戚の所有している別荘の、翔陽に割り当てられた部屋だ。
どこか威圧するような調度品の数々に、幼い翔陽は辟易していた。
でも、重たいカーテンを開けば、先に広がるのは緑と陽光。
鮮やかな景色は、翔陽の心を弾ませてくれた。
記憶にあるかぎり、はじめての家族旅行だ。
きっと楽しい時間が待っているはず。
そう気を取り直した翔陽は、両親がいる居間へ向かうことにした。
逸る気持ちが抑えきれず、扉を閉める際にうっかり大きな音を立ててしまい、慌てて周りを見渡した。
しんと静まり返った廊下には幸いにも誰もいないようで、ホッと胸をなでおろす。
貞淑に、貞淑に……。
そう自分に言い聞かせながら、きしむ廊下をゆっくりと歩き出した。
迷いながらなんとか居間へ辿り着いた翔陽は、扉を開けようとドアノブに手をかけて――、静かにその手を下した。
扉のむこうからは、父と母が怒鳴りあっている声が聞こえる。
その声に居た堪れなくなって、翔陽はたまらず外へと駆け出した。
二人の諍いはなにも珍しいことではない。ある意味、日常の風景といってもよい。
今回の旅行にしても、非日常に身を置けば二人の心情もなにかしら変わるかもしれぬと、周囲の者たちがお膳立てしたものであった。
残念ながら効果はなかったようだが……。
別荘を出ると、木々の間から吹き込むさらりとした風が翔陽の湿った頬を撫ぜた。
――さて、どうしよう。
あの場所に居たくなくて、勢いで飛び出してしまったが、土地勘はない。
だが、戻ろうとも思えず、翔陽は庭のその先に広がる林地に足を踏み入れた。
木立のなかをしばらく歩く。
積もった木の葉を踏みしめ、背の低い木の枝を払い、やがて開けた場所に出た。
そこには先客がいた。
猫背気味の背中がちょこんと木の幹に座っている。
歳や背は翔陽と変わらないくらいだろうか。
髪の毛を風に揺らしながら、どこか遠くを見つめている。
「何してんの――?」
思わず翔陽が声をかけると、ころんとした丸いおかっぱの頭がびくりとはねた。
【大正ロマン風オメガバース研日】
時は大正。
ある華族の家に翔陽は生まれた。
華族である父と商家の娘であった母は、家同士の婚姻ではあったものの夫婦仲はよく、翔陽の誕生を心から喜んだ。
長梅雨のなか産まれた翔陽は、家族みなを照らすまさに太陽のような存在であった。
しかし翔陽が成長するにつれ、家の中の空気は寒々としたものに変わっていった。
ことのはじまりは翔陽の頭に、ふさふさとした髪が生え揃ってきた頃だ。
両親ともに流れるような黒々とした髪なのに対し、翔陽は熟れた柿のような色で癖の強い髪質であり、まるで異人のようであった。
そして、もう一つ。 翔陽の第二の性が【従種】と判明したからだ。
この時代、男女の性の他に、第二の性とよばれるものがあった。
人口の大部分を占める【凡種】、そして【覇種】と【従種】である。
【覇種】は、人口の割合からしてみれば極少ないが、支配階級においては比較的多い性であり、凡種にくらべ圧倒的に能力や容姿に優れた者が多い。
【従種】は、覇種よりもさらに稀少な存在なれど、発情と揶揄される奇怪な病を抱えており、そのため世の人々から侮蔑されることも多かった。
発情状態に陥った従種は、自らの意志にかかわらず覇種を惑わす匂いを放つ。
その状態の従種と接触した覇種は強制的に激しい発情状態を起こすため、従種を毛嫌いする覇種も存在するほどだ。
その日を暮らすので精一杯の貧しい家庭に生まれると、労働力に欠ける従種の子どもは身売りされることが多く、その多くは花街で管理されていた。
では、翔陽のように裕福な家に生を享けた従種は幸運なのだろうか。
実は覇種同士で子を成しても、覇種が生まれる確率はそれほど高くはない。
しかし覇種と従種が発情期間に交合すれば、ほぼ間違いなく子ができるうえに、覇種が生まれる確率がぐんと跳ねあがると言われていた。
お家繁栄のため、なんとしても跡継ぎに優秀な覇種を据えたいと考える家も多く、家柄の良い従種ともなれば嫁や妾にと求める縁談はひっきりなしにあるという。
実際、華族であり、従種でもある翔陽への縁談は山のように舞い込んでいた。
しかし、一度つがうと他の覇種とは番になれない従種とは違い、覇種は発情期の従種の首筋を噛めば何人もの番を持つことができたため、足入れ期間に覇種を産めない従種は実家に返されることもままあった。
それゆえ、番が決まっていない従種の自衛策として、常に革の首輪をつけること、また首筋を隠すために髪を伸ばすことが推奨されていた。
翔陽の第二の性の診断がおりたのは、従来よりもうんと早い六歳の頃であった。遊びたい盛りの頃から雁字搦めの生活を強いられるのは、決して幸せとはいえないだろう。
命じられたまま切れない髪は、すでに腰まで達していた。
加えて、不幸なのは翔陽だけではない。
息子の第二性が知れた時、冷静でいられなかったのは妻を深く愛していた父親であった。
夫婦ともに第二性は覇種であったこと、また両一族から従種が生まれるのは極めて稀なことであり、容姿のことも相まって妻への不義の疑いはどんどんと深いものになっていった。
深酒をすることが増え、賭博に手を出すこともあった。
そして、酔って帰っては妻に不義を問いただすのだ。
妻がどんなに無実を訴えても、父親の中で妻の不貞は確実なものになっていた。
――華族は社会の模範であれ
数々の特権はあれど、社会の模範であることを強いられる華族にとって、不祥事は何よりも避けるべきことであり、 当主が性に奔放すぎたため爵位を返上する家さえあったほどだ。
日向家当主の妻の不義の疑惑。
そして、それを発端とした自棄になった当主の華族としてふさわしくない振る舞い。
賭博の負けが込んで膨らんでいく借金――。
周囲が積み重なる問題に手を焼いていた頃、屋敷にやってきた遠縁の親族が翔陽をみて溢した言葉によって、また状況が変わった。
翔陽の容姿が、蔵にある古写真の人物にそっくりだというのだ。
慌てて調べたところ、先祖に異国の娘を娶った者がいたということがわかった。
従種でもあった彼女は異国の出身ということもあり冷遇されていたらしく、全く記録に残っていなかった。
心労もあったのだろう、彼女はこどもを産んですぐ亡くなったという。
そののちに生まれた妹の夏が、翔陽と似た容姿をしている覇種だったことで完全に不義の疑いは晴れた。
とはいえ、数年に渡ってぎくしゃくしていた夫婦仲が簡単に修復するわけもなく、屋敷はいつも重苦しい空気が漂っていた。
そんな窒息しそうな屋敷のなかで生きてきた翔陽だったが、十二歳になり入学した貴習院で心躍る出会いがあった。
バレーボールである。
一九〇八年にバスケットボールと共に日本に伝わったバレーボール。
瞬く間に普及したとはいえないが、一九一三年以降、東京YMCAの体育主事によってじわじわと人々に根付いていった。
これからは女性や従種も自己を主張し、封建的な制度や風習を打破して、新たな地位を築いていかなければならない――。
職業婦人であった貴習院学長の掲げる方針もあり、翔陽の通う学校には様々な文化やスポーツが導入されていた。
バレーボールもその一つだ。
テニスや水泳も楽しいものであったが、翔陽はバレーボールに心を奪われた。
小さい躰で翔陽はよく飛んだ。
高く高く飛ぶとき、翔陽はだれよりも自由だった。
横に素早く移動して相手を撹乱するとき、翔陽の心はひどく躍動した。
こんなにも世界は鮮やかで、自分の躰はこれほどまでに軽やかだったのかと。
はじめて、荒い呼吸のなか肺いっぱいに吸い込んだ空気の涼やかさと、口に広がる鉄の匂い。
生を実感したあの瞬間を、翔陽は今でも鮮明に思い出せる。
そうしてバレーボールに翔陽はどんどんのめり込んでいった。
しかし、それを保守的な両親は良しとしなかった。
在学中に縁談をとりまとめたかったこともあったのだろう。
いつもの装いよりも露出度が高い体操着を身にまとい走り飛ぶ様は、翔陽の日本人離れした容姿のせいもあり、特に目を引いた。
また、コートのなかでの翔陽の存在感は圧倒的であり、その姿は両親の求める貞淑さとは懸け離れていた。
縁談が遠のくようなことは避けよと両親から命じられ、翔陽は卒業前にバレーボールを手放さざるを得なかった。
時代や、取り巻く家庭環境や家柄、そして歳を重ねるごとに辛く重いものになっていく発情期。
そのすべてが翔陽の翼を丁寧に手折っていった。
しかし、親の期待に反して卒業までに翔陽の縁談が決まることはなかった。
とかく華族の体面を保つのにも金がかかる。
堂上華族であった日向家は明治維新以降、主に地主業で収入を得ていた。
しかし、日清・日露戦争の後、海外からの安い農産物が増えたことや、めざましく発展した工業化により人手が都市部へながれてしまったことを起因とする農業労働力の低下、また政府による農業よりも工業を優先していくという政策の変化によって、その経済力は陰りを帯びていった。
焦った日向家は、商家である母親の実家に資金援助を頼み、持っている土地で商売を始めたりもしたが悉くうまくいかない。
残ったのは膨大になった借金だけであった。
泣く泣く先祖代々の土地の大部分も手放したが、完済には遠く及ばず。
また運の悪いことに頼みの綱であった母親の実家も、時代の流れに乗り切れず緩やかに傾きつつあり、翔陽の婚姻は家を立て直す大事な「事業」のひとつになっていた。
そんな父親の目論見に反し、卒業してなお嫁ぎ先が見つからなかった翔陽は、学校という束の間の休息地を失い、より息苦しい日々を過ごすことになる。
急な発情発作を懼れた両親は、翔陽がほかの覇種と間違って番わないよう屋敷に閉じ込めた。
発情期には誰の目にも触れぬよう、地下牢に入れるという徹底ぶりであった。
バレーボールに出会ってから屋敷の自室にいる時もボールを触っていた翔陽であったが、なかなか縁談が決まらぬことに苛立った両親から、そのささやかな拠り所さえも取り上げられてしまっていた。
できることといえば、親が許した読書などの数少ない娯楽のみ。
そんな翔陽を不憫に思った仲の良い女中が、時折隠れてバレーボールに関しての切り抜き記事を届けてくれた。
主人の命に逆らってでも、翔陽を元気付けようとしてくれる彼女の気持ち。
それだけが翔陽の心を慰めていた。
自分が嫁がされるのはどんな鳥籠だろうか、 今の状況とどちらの檻が狭いだろう?
窓の外を見やると庭の池で烏が一羽、水浴びをしているのが見えた。
なんとも気持ちよさそうだ。
翔陽は首筋を隠すための首輪の下の汗すら満足にぬぐえないというのに。
そんな自虐的な思いを巡らせていた時だった。
「翔陽、お前の縁談がようやく決まった」
珍しく翔陽の部屋にやってきた父親が、久しぶりの明るい表情で告げた。
もとより翔陽の返事など必要としない会話はそのまま続く。
「相手は生糸貿易で財を成した孤爪研磨という男だ。」
「孤爪…研磨…」
翔陽は夫となる男の名前を舌の上で転がした。
まんまるい響きだと思った。
***
――まんまるい響きだとは思ったけどさぁ。
横目でそっと、夫になる男の猫背気味の背をみて、心の中でひとりごちた。
父親に名前を告げられてからトントン拍子に話は進み、あれよあれよという間に翔陽は祝言の場に居た。
孤爪と父親の間にどんな話がなされたのかは分からない。
結納もなにもかもをすっとばし、朝おきたら 「今日、祝言をとりおこなうことに決まった」というものだから流石の翔陽も驚きで返す言葉を失った。
――まぁ、日向家は厄介払いと資金援助……相手は華族と縁続きになって箔をつけたい……これくらい分かりやすいほうが却っていいか……。
朝食をとりながら、そんなことを翔陽が考えていると、孤爪から遣わされてきた髪結いと着付け師たちがやってきて、大層飾り付けられたと思ったら、次は黒塗りの車に乗せられた。
あまりの目まぐるしさに本当に目を回して、気が付いたらここにいた……といったありさまだ。
祝言の場で初めて見た孤爪研磨という男の印象は、正直良いとも悪いとも言えなかった。
気怠げな様子で背を丸め翔陽の隣にすわっていて、こちらには目もくれず斜め下をずっと眺めている。
肩よりすこし長い髪は艶々とした黒髪だが、毛先の色素が薄くなっているように見える。
自分たちはいわゆる政略結婚だ。
珍しくもないことではあるが、もしかしたら孤爪には他に好いた相手がいて、この婚姻に乗り気ではないのかもしれない。
父曰く、孤爪は生糸貿易で一攫千金の成金だとかなんとか言っていた。結納代わりにと、孤爪が翔陽の父親に支払った金額も大層なものだったらしい。
興奮した使用人が「高尾太夫もかくや」と上擦った声で話しているのを支度の最中に耳にした。
箱入りの翔陽だとて、醜聞の類は貴習院時代から耳にタコができるほど聞いている。
そういう男は往々にしてカヘーの女中や芸者遊びに始まり、愛人がたくさんいるものだ。
嘆く学友を何人みたことか。
翔陽は紅唇を噛み締め、覚悟と共に三々九度の御神酒を飲み込んだ。
略式された祝言を終えた両親はなにやら孤爪と書類を取り交わした後、はやばやと帰っていった。
残された翔陽は、夫婦の寝室だと女中に通された部屋に立っていた。
孤爪の邸宅は、想像していた成金のお屋敷よりも落ち着いた感じの洋館だった。
幼き日、まだ権勢を誇っていた実家の高飛車な雰囲気とも、かつて訪れた親戚の別荘のような威圧的な空気とも違った。
牧歌的な情景が描かれた絵画に、アール・デコ意匠が施されたテーブルセットに天蓋付きのベッド。
すべて豪奢なものではあったが、どこか穏やかさが漂っている。
でも、だからといって、落ち着けるわけもない。
これが和室なら布団の隣で三つ指でもついて座って待っていればいいのだろうが、部屋にあるのはベッドである。
(これはどうするのが正解なんだ……?)
初めての夜でもあることだし、旦那様である孤爪より先に寝具に入るのも憚られ、翔陽は所在なくベッドの横に立ち尽くすほかない。
嫁入りの覚悟は決まっているとはいえ、閨のことになると話はまた別だ。
これから始まるであろう初夜に対して、心はユラユラと不安げに揺れ、毛足の長い絨毯のせいもあるのだろうか、足元もなんだか宙に浮いているような気がして落ち着かない。
孤爪は覇種だが、翔陽の従種の発情期は終わったばかりであるから、今夜すぐに子ができることはないだろう。
それだけが救いだった。
四半刻くらい経っただろうか、キィと静かに扉が開いた。
教えられた作法を思い出し、腰を折るように慌てて勢いよく頭を下げた。
髪の隙間からチラリと盗み見た孤爪は、あいかわらずの猫背気味で、しかし髪を下ろしている姿は祝言でみたよりも幼く見えた。
「……まだ、起きてたの?」
ぽつりと呟いた孤爪の声は、かろうじて聞き取れるくらいの小さなものだった。
疲れ果てたような気だるげな眼差しが、ベッドの横で立ったままの翔陽をじっと見つめる。
「えっと……その……」
さすがに「ベッドでの初夜の作法がわからず立っていました」とは答えられず、翔陽はぎこちなく視線を泳がせた。
「……ここじゃ眠れない?」
研磨はベッドに腰を下ろし、翔陽のほうを見た。
「そういうわけじゃないっていうか……いえ、そうじゃないですが……その……」
顔を真っ赤にして言葉につかえながら狼狽える翔陽に、研磨は目を瞬かせると唇だけで笑った。
「……好きにしていいよ」
「え……?」
好きに……とは、と困惑する翔陽に孤爪は続ける。
「ベッドで寝るのが慣れていないなら布団でも敷いてもらう? もし俺と一緒が嫌なら別の部屋も一応、用意してあるし……」
いきなり提示された選択肢に翔陽は慌てた。まさか初対面の夫にこんな風に尋ねられるとは思わなかったのだ。
研磨はそんな翔陽の狼狽を楽しむでもなく、よほど眠いのだろうか、欠伸を噛み殺しながら続ける。
「別に……俺は無理に番らしいことをするつもりはないから、安心して」
「……え?」
「そういうのって疲れるし、面倒だし……。お互い楽な方がいいでしょ」
「…………」
思わず息を呑む。
まさかこんな形で初夜の話が終わるとは想定していなかった。
覇種である孤爪が自分を娶ったのは、商売のため華族と縁続きになることの他に、従種の自分と番になって子をなすことが目的だと思っていたのだ。
ふと気が抜けるように笑いが零れた。
こんなにあっさりとした結婚生活があるのかと、なんだか拍子抜けしてしまったのだ。
「……なんか、変なの」
「うん、よく言われる」
ぽろりと唇からこぼれた、翔陽の素の言葉を咎めることもなく、孤爪は先に寝台に横になる。
「それでどうする?別の部屋がいいなら人を呼ぶけど……」
「うん……いや、えっと、旦那様がいいなら……」
翔陽がそう返すと、孤爪はいままでの淡々とした様子から一変、心底嫌そうに顔を顰めた。
「それヤメテ、旦那様とか」
そんな柄じゃないとかなんとかブツブツいっている孤爪は照れているとかでなく、本当にそう呼ばれるのが嫌なようだ。
「えっとじゃあ……研磨さま……?」
「さま、いらない……敬語も」
「えっ、でも……」
夫を呼び捨てにするわけにもいかないだろう。 外聞が悪すぎる。
「それでどうするの?俺もう寝るけど……」
そんな翔陽の懊悩を知ってか知らずか、研磨は真っ白な布団にくるまってもう寝る体勢だ。
「研磨……がいいなら、一緒に寝てもいいデスカ」
「もちろん」という返事を聞き、失礼しまーすと遠慮がちに潜り込んだ寝台は、想像よりもフカフカでまるで雲に包まれているかのようだった。
シーツの手触りもよく、ほのかに良い香りもする。
生家では畳の上に布団を敷いていたので、この初めての感覚にうっとりしてしまう。
「こ、これは気持ち良すぎる……」
明日起きれるかな……と思わず呟くと、研磨は「好きなだけ寝てたらいいよ、俺も明日はそうする」と答えた。
今日は本当に疲れたとブツブツ聞こえる念仏のような声とふかふかの気持ちの良い寝具に、実家の自室でも感じたことのない不思議な安心感が翔陽の胸に広がった。
翌日、宣言の通り惰眠を貪った研磨と翔陽が起きたのは昼を大きく過ぎた頃だった。
***
それからの生活は、思ったよりも穏やかに流れていった。
番もちの従種や凡種でかためられた使用人たちも、最初こそ遠慮がちだったものの、持ち前の翔陽の朗らかな性質のおかげですぐに打ち解けることができていたし、研磨は商売で忙しく留守がちだったが、翔陽は自由に屋敷の中を歩き回ることを許されていたので、生家にいるときよりもずっと自由だった。
「でも、なんだか調子くるうんだよな~」
食後の腹ごなしに庭を散歩するのが最近の翔陽の日課だ。
庭師の手によって美しく整えられた庭園は、屋敷と同じく英吉利風になっている。
翔陽がやってきた頃には残念ながら春の薔薇の見ごろが過ぎていたが、夏を越え日毎に秋めいてきた今、庭にはふっくらした大輪の秋薔薇が咲き誇っていた。
コツ、と小さな石を靴の先で弄びながら、今ここにいない研磨のことを考えていた。
華族と縁を結べば商人である研磨も、社交の場に出入りすることができるようになる。
だが、研磨は翔陽を娶ったからといって、社交の場に出ることはなかった。翔陽との婚姻は箔をつけることが目的ではなかったようだ。
ならば子を成すことが目的なのかと思ったりもしたが、それも違ったようだ。
先日翔陽は嫁いでから初めての発情時期を迎えたが、本格的な発情に至る前に、異変を察知した使用人によりすぐさま隔離された。
隔離といっても、実家で地下牢にいれられるようなものではなく、屋敷の最奥にある部屋に籠っていただけであった。
そして、その部屋に研磨が訪れることはなかった。
番どころか、寝所は同じなのに頑なに翔陽とそういった関係を結ぼうとしない研磨に、やはりほかに好いた人がいるのかとも思ったが、仕事以外は家に籠りっきりの姿を見るにそれもなさそうであった。
なにより研磨は足入れ期間を設けることもせず、祝言の後すぐに婚姻届を出してしまっていた。
「やっぱりわからん!」
何度考えても答えらしい答えがでず、もやもやとした気持ちを振り切るように、翔陽は庭の芝生に勢いよく寝ころんだ。
視界いっぱいに広がる青空は、ずいぶんと遠く感じる。
本当になんのために研磨は翔陽を娶ったのだろう? 「好きにしていて」と言うだけで、何を求められるまでもない。
かといって、大切にされていないと感じることもなかった。 いつも素っ気ない態度ではあるが、研磨はいつも翔陽を気にかけてくれているのを感じるし、優しいと思う。
「……おれのこと、好き……とか?」
正直これくらいしか考えつかないが、しかしそうなると手を出してこないことに説明がつかない。
でも、もしそうだったら……? そう思うと頬がどんどんと熱をもってくるのがわかる。
しかしふと、頭によぎった両親の姿にスッと頭が冷えていく。
波立つ心に青空はまぶし過ぎて、目を背けるように視線を芝生に落とすと、白いものが見えた。
なんだろう? 起き上がって近づくと低木の下から薄汚れた革のボールをみつけた。
どこからやってきたのかも分からないそれは、バレーボールより一回りほど小さいただの革のボールだった。
何気なく、馴染みのある動作でボールを弾く。指先に触れる感触が懐かしくて、つい夢中になってしまう。
「……ボール遊び、好きなの?」
ふいにかけられた声に、翔陽はハッとして振り返った。
いつの間に帰ってきていたのだろうか、後ろに研磨が立っていた。
「えっ……あ、うん!」
頭上高くあげたボールを受け止め、胸に隠すように抱きこむ。
いくら自由に過ごしてもいいと言われているにしても、翔陽は研磨の不在の時に屋敷を預かる立場にある。遊んでいたところを見られて少しばかり居心地が悪かった。
そんな翔陽をみても研磨は「へえ……」と、興味がなさそうに呟くだけだったが、その声音とは相反するようにその榛色の瞳はじっと翔陽を見つめていた。
「……やりたい?」
「え?」
「バレー、やりたい?」
急なその問いかけに翔陽は返す言葉を失った。
何故、翔陽がバレーボールをやりたいと知っているのだろう。
研磨にバレーボールについて話した記憶はない。
やめさせた張本人である父親たちが研磨に聞かせたとは考え難かった。
「……でも、そんな場所、ないし……」
学生時代は、体操の授業や部活動時間にバレーボールをすることができた。
だが、今はコートもなければ、チームメイトおろか、翔陽にトスを上げてくれる者すらいないのだ。
「ないなら、作ればいい」
「……え?」
思いがけない返しに翔陽はうつむいていた顔を上げた。
そんな翔陽に、研磨はふっと口元を緩め楽しげな表情を浮かべた。
「翔陽も、楽しく過ごせる環境があったほうがいいでしょ」
「えっ、ええっ!? そ、そんな簡単に……!」
「簡単だよ、場所がないなら作る。人がいないなら集める」
それだけの話だと、研磨はさらりと言ってのけた。
「……どうして……?」
「俺は、ありのままの翔陽が好きだから」
その言葉に翔陽は思わず目を見開いた。
「翔陽が楽しそうにしてるの、見てみたいからね」
研磨の指が、驚きで身動きすらできない翔陽の髪をそっと梳く。
「そうすると髪が邪魔かな? 切りたいなら人を呼ぶから言って」
自然な優しい仕草に、翔陽の胸はじんわりと温かくなっていく。
――研磨は……、もしかして最初から……。
社交にでるわけでもなく、無理に番になることもしない。
自分に都合が良いように結び付けているだけかもしれないが、すべての疑問が繋がった気がした。
心臓がまるで激しく運動したあとのように暴れている。
胸に広がる、この熱さはなんだろう。
「……じゃあさ、研磨もやろうよ!」
頬の熱をごまかすように、数歩さがると翔陽は研磨に大きくカーブを描くようにボールを送った。
「えぇ……、俺、汗かくの好きじゃないんだけど……」
受け取ってくれるだろうと思ってはいたが、驚くことに研磨はそのパスをなめらかなオーバーハンドパスで翔陽の頭上に返した。
きらきらと太陽の光をまとい翔陽の真上にかえってきたボールに、これ以上なく心臓が跳ねる。
「研磨はもっと動いたほうが良いと思う!」
翔陽は喜びをおさえきれぬ満面の笑みで言葉とパスを重ねた。
その言葉に研磨は少しだけ困ったように眉を寄せたが「……ま、翔陽がそんなに言うなら、考えておくよ」と言い、また翔陽のもとへ返球した。
「やった!」
体が沸き立つ心に反応したのだろう。打ち返したボールは、思った以上に高く、研磨を超えて地面を撥ねる。テンテンとバウンドしながら、屋敷の方へ転がっていく。
でも、嬉しさは止まらない。さっきよりも、今よりも。
どんどんと沸き起こる喜び。こらえきれずに勢いのまま研磨に駆け寄り、思わずその手のひらを握った。
記憶の誰とも違うその感触に、翔陽から研磨に触れるのは初めてだということに気がついた。
ふと反応が気になって、研磨の顔を見やると視線がぶつかった。
研磨の榛色の瞳は翔陽だけを写し、まるで琥珀のようにきらめいている。
なぜか、幼い頃に博物館でみた虫入り琥珀を思い出して、一際大きく翔陽の鼓動がはねた。
「……け、んま」
翔陽の唇から溢れおちた声に、研磨のまつげが小さくふるると震えた。
夕風がそよいで、髪が揺れる。
気づいたときには、唇が触れていた。
それは羽根がかすめたような儚いものであったけれど、確かに翔陽の中に甘やかな痕跡を残した。
「……あ」
一呼吸おいて、自覚した翔陽が声を漏らした途端、研磨はふっと視線を落とし、手のひらの感触を確かめるように翔陽の指をぎゅっと握り返した。
胸の奥がじんわりと満たされていく。
子どもの頃からずっと感じていた、自分を縛る鎖が切れていく。
求められないと感じた不安も、何か変えなければならないという焦燥感も、何もかもが新しいものに塗り替えられていく。
それはまるで、いつかの夏の終わりに見上げた青空のように、どこまでも澄み渡っていた。
****
「ていうか!研磨もバレーボールできんの!?」
研磨がバレーボール経験者だと知った翔陽に、毎朝毎晩トスをせがまれるようになるのだが、そうとは知らない研磨はその翌日には庭にコートを設置してしまうのであった。
◆◆◆
研磨が彼を見つけたのは、偶然だった。
幼馴染と共にバレーボールの布教も事業のひとつとして行っていた研磨はその日、裕福層の子女たちが通う学び舎に足を運んでいた。
基本的に研磨は資金提供や人材の手配などを行っていたが、その日は幼馴染になかば引き摺られるようにして、共に視察に訪れていた。
学長室の大きな窓から射す太陽の光があたたかく、昨晩も遅くまで仕事をしていた研磨は強い眠気に襲われ、そっと話の輪から離脱することに成功した。
バレーボールの話題で盛り上がっている学長と幼馴染は、幸いなことに自分が席を離れたことに全く気が付いていないようだ。
窓に背を預けた研磨がなにげなく窓の外を見やると 太陽の光を受けて煌めく柿色が視界の端をよぎった。
「翔陽……?」
高くあげられたボールに向かってまるで鳥のように、青空へと飛ぶ姿に、幼いころの記憶が鮮明に蘇った。
幼い頃、夏の時期に林で出逢った翔陽。
最初、急に声をかけてきて驚いたが、警戒したのは本当に一瞬だけで、翔陽の明るく真っすぐな笑顔と言葉に自然に仲良くなっていた。
翔陽と過ごしたのは数時間だけだった。
お互いの話をしたり、持っていたバレーボールで遊んだり。
そのなかで、研磨は今まで嗅いだこともない芳しい匂いを翔陽の項から感じた。
泣きたくなるような、苦しくなるような、それでいて甘く重い匂い。
それに魅かれるように翔陽の項へと手を伸ばした時、翔陽を探しにきた女中と研磨を探しにきた幼馴染がやってきて、名前以外に情報を交換する暇もなく別れた。
研磨はあの匂いの正体を知りたいのと、単純に翔陽とまた会いたくて何度かあの幹のもとへ通ったが、翔陽と再会することは叶わなかった。
去り際、ふたりの様子をみた幼馴染が「友達か?」と驚いていたっけ。
研磨がバレーボールと今でも関わり続けているのは、バレーボールを教えてくれた幼馴染が要因だが、翔陽との縁がまた繋がるのではないかというささやかな期待があったからだ。
ふと、幼馴染が昔「好きなことなら研磨は一生懸命やるから」と誰かに言っていたのを思い出す。
「もちろん、そのつもりだよ」
さあ、そうと決まれば、大きな大きな鳥籠を用意しよう。
翔陽が飛び回れるくらいの籠を。
自分は青空のなか自由に飛んでいると彼が思えるほど大きな柵で囲うのだ。
授業がおわったのだろうか、翔陽は校舎のなかへ帰っていく。
研磨はすこしの間、名残惜しそうに校庭をみつめていた。