透明な水「あった!」
と、よろこびと安堵の入り混じった声が聞こえた、そのほんの一瞬のちのこと。そちらを振り向くよりも先に、あ、と短い声がつづきました。それとほぼ同時に、みしりというようないやに鈍い音が響き、足元の草花を検分していたアロンディルがようやく振り向いたころには、視線の先にあるべき姿は、もうとっくにそこに無かったのです。あるのは平穏を絵に描いたような、聖域たる谷間の豊かな自然ばかりで、やや遅れて、どぼん、どぼん、ばしゃん!と、派手な水音が、下の方から続けざまに聞こえてきました。
あわてて、崖(というほどの高さもありませんが……)のへりに駆け寄ったアロンディルは、慎重に片膝をついて、下を覗き込みました。この下には、地中から水の湧き出る、水溜りと呼ぶには少し広めの泉があるのです。常ならばそこは、まるで水など無いかのごとくに凪いで、どこまでも透明に澄んでいました。ところが今は、水面に小波が立ち、水を薄茶色に濁らせる土の塊がくずれたり水中へと沈んだりをしていました。そのまんなかに泡がたったと思ったら、やがて先ほどの声の主の黒い頭が浮かび上がってくるのが見えたので、ひとまずの安堵の息がこぼれました。この泉は、場所によってはどうやら少しばかり深くなっていたりする様子でしたから、落ちてしまったひとが心配だったのです。
「大丈夫か?」
と、上から声を掛ければ、そのひとはアロンディルを見上げて、ばつの悪そうな苦笑いを浮かべました。手振りで大丈夫だと伝えてきた様子から、どうやら落水してしまった以外は、本当に無事なようです。ぶるぶると、子犬のような仕草で頭を降って、水気を飛ばしていました。
さて、その手にしっかと草が握られているのが見えたので、そのたくましさに呆れるやら関心するやらで、アロンディルの方もなんとも言えない笑いをついこぼしていました。なにしろ、それが自分達の目当てのものに他ならなかったのですから。
「崩してしまったかな」
そのうえ、このひとときたら、己の身よりも崩落した地面のほうを心配するのです。たしかに、崖のへりは幾許か形を変えてしまったようでしたけれど、足元に目をやれば、それと同じ草がいくらか自生している場所の無事をちゃんと確認できました。
「大丈夫だ、こっちも無事だよ」
「……ああ、よかった」
そう言って長い息を吐いてから、彼はなにを思ったのか立ち泳ぎをすっかりやめてしまって、目蓋を伏せては水面に身を浮かべています。取り巻く濁った水がおもむろに澄んでゆき、元の透明なそれへと戻っていく様を、呆けたように上から眺めていたアロンディルは、背後に聞こえた草を踏む音と、ため息とで、やおら我にかえりました。
振り返りあおぎ見た先にいた男エルフは、目が合うなり軽く肩をすくめています。そのまま傍に片膝をつき、アロンディルにならうようにして下を覗き込みました。まだ少し、半身を庇うような動きでした。
「お戯れもほどほどに、司令官〈コマンダー〉」
そう呼び掛けられた水面をたゆたうひとは、ぱちりと目を開き、そのふしぎに美しい灰色を、ふたたび彼らの前に覗かせました。けれども肝心の視線は、まだどこか遠くへと向けられているようでした。
「僕はもう、きみたちの司令官じゃないよ」
とんと、心持ちを読めない声音でした。それを返された男エルフもまた、形容しがたい表情を浮かべていました。「ヴォロヒル」とアロンディルが男エルフの名を呼び肩を叩くと、少しの間を置いて、彼は僅かばかり口角を上げて、それから目を合わせてくれました。
「探していた残りの薬草は、これだ。いくらか摘んで皆のところに戻ろう」
と、足元の生い茂る草を示せば、ヴォロヒルは静かに頷きました。下の泉へと視線を戻すと、さっきまで水面をたゆたっていたはずのひとは、いつの間にやら、音もなく水中へと潜ってしまっていました。その様子は、泉の水の高い透明度のおかげでよく見えていましたが、彼にすれば、身を隠したつもりだったのかもしれません。
はてさてどうしたものか、と思いましたが、アロンディルは身につけていたいくらかの装備を外して、裸足で地面を軽く蹴り、水面へと身を投じました。寸前、え、というような驚いた声を聞いた気もしましたが、非難であろうと文句であろうと、あるいは賞賛であろうと、あとでまとめて聞いてやれば良いのです。それにはまず、彼がそれを本当に聞かせたい相手を、彼の目前に連れてこなければならないでしょう。
泉は上から見るよりもはるかに深く、身を包む一面の青い世界に驚かされたものですが、はたして、おそらくは特に目的もなく水中へ潜ったひとを、捕まえるのはよほど簡単なことでした。ことに彼は、背丈こそアロンディルと変わらないくらいありましたが、音に聞くノルドールほど(特にあの耀き上級王ほど)偉丈夫ではありませんでしたから、ひとたび腕に捕えてしまえば、あっけなく水面へと引き摺り出すことがかなったのです。まずもって、本人にもそれほど抵抗する意志はないようではありましたが。
何がしたいのかわからないそのひとを、腹いせがてらに両脇に手を差し込んで子供にするように抱え上げてやりましたが、何やらくすくすと笑うばかりで、いっそ気でも触れてしまったのかとさえ思いました。それでも、指先に摘んだ件の薬草は、相変わらず手放していませんでした。よく見ればそれは一房増えているようで、ようやくその目的を窺い知ることができたのです。
命からがらでこの谷間へと辿り着いたあの日よりも、いくらか伸びた様子のうねりのある黒髪は、どことなくあの泥に塗れた人間の若者をアロンディルに思い出させましたが、それもそのはずであった理由を、この時のアロンディルは、まだ知りませんでした。
見るからにほかのエルフとはなにかが異なるこの存在は、この谷へとたどり着いてからというもの、昼夜を問わず、また休むこともなく、傷病者の手当にひたすら奔走していました。ときには傷ついたものの声にじっくりと耳を傾け、彼らの心の傷にすら寄り添っている様子だったのです。
そんな彼は、他者の傷の手当のために手指の清潔を保つことこそすれど、ほかはまるでお構いなしの汚れきった姿でありました。身なりにも構わず、ぼろ布を纏ったかのような有り様でしたから、初めのうちは、高貴な血筋に連なるものであることに気が付けなかったほどです。どころか、アロンディルの目には、彼のその姿がどこか人間であるかのようにも見えていました。
いい加減で見かねたらしいのは、すっかりと元の調子を取り戻した様子のガラドリエルでした。あるとき彼女は、忙しなく行ったり来たりをする彼をむんずと捕まえたかと思ったら、そのまま谷を流れる穏やかな清流へと投げ落としたのです。その暴挙にはさすがの上級王も呆気に取られた様子でしたが、そうして多少の汚れを強引に洗い落とさせたことではじめて、彼のもつ、どこか異質な美しさを知ることになりました。エルロンド、と呼ばれたその名にも、そういえば聞き覚えがあるような気がしました。
なるほど、傷付いたエルフたちに寄り添うのに、彼ほどうってつけの者はいないだろうと合点がいったものです。さしものエルフといえど、心身に負った傷はあまりに深く、治療とともに〝癒し〟を必要としていたのですから。
さて、南方国の人間との長く深い関わりから、アロンディルは大なり小なり医術の知識を得ていました。ですから、ごく必然的に、エルロンドの補佐役を務めることができました。かのブロンウィンやテオの手技は間近に見ていましたし、エルフの薄れない記憶は、しっかりとそれを覚えていたのです。それは、担い手がかの母子であったからこそ、より深く、魂にまで刻まれていたのでしょう。けれども、その技をもってしても、じくじくとした、この胸の奥に巣食う痛みを取り去ることはけしてできないのだと、アロンディルはよく知っているのです。だから、いささか心を砕きすぎる彼の姿勢には、幾許かの不安を覚えもしました。
体制を整えるため、動けるものを連れていちどリンドンへと戻ることを決めた上級王ギル=ガラドやガラドリエルも、エルロンドのその様子については懸念をしていたようで、谷に残ることにしたアロンディルと共に、自分もここに残ると言い出した彼を、どうか気に掛けてやってほしいと、それぞれから密かに耳打ちをされていました。
一行を見送り、残った者たちへのおおかたの応急的処置が済んだのち、もとより自己治癒力の高いエルフの治療にあたっては、アロンディルのもつ薬草への知識が殊更に役立ちました。だから今日のように、患者たちの治療の合間を縫っては、彼や、彼に従うヴォロヒルとともに、谷に自生する薬草を求めてそこら中を歩いているのです。ガザド=ドゥームのドワーフからの救援もありましたが、彼らに頼りきるばかりではなく、自給できるに越したことはありませんでしたし、エルロンドはまた、植生と併せて谷の地形についても把握しておきたい様子でした。
そういえば、彼が常に持ち歩き、なにかと書き留めたりをしていた紙の束などは無事だろうか、と、抱え上げたままの身体を観察してみましたが、いつも肩から下げている布袋は見当たりません。ひとの気配に泉の縁のほうへ目を向けると、さきほどの崖から緩やかに螺旋を描くように下る道を、ゆっくりと下ってくるヴォロヒルの姿がありました。その手には、どうやらエルロンドが放りっぱなしにしたらしい、件の布袋がしっかりと持たれています。ほかにも彼は、アロンディルが外した靴やなにやらの装備も回収してくれたようで、目が合うと、少し笑って、首を動かす仕草で岸へ上がるよう促されました。
捕まえたひとは、いまのところは大人しくしているものの、アロンディルの腕に手をついて身を乗り出し、周囲を伺っている気配がありました。この様子では、ひとたび手を離せばまた逃げ出すでしょうから、肩に担ぐようにして岸に向けて泳ぎ出します。それには少しの抵抗を見せたエルロンドでしたけれど、封じ込めるのはやはり容易なことでした。
岸辺のヴォロヒルに、エルフ語で何やら文句を言っているエルロンドを引き渡し、アロンディルも水から上がりました。正直なところ、泉の透明に澄んだ冷たい水が肌に心地よく、このままついでに水浴びでもしたいくらいでしたので、またいずれ、その心積りで訪れてみるのもよさそうだと思いました。
はてさて、すっかりずぶ濡れになってしまって肌に貼り付く上衣は脱ぎさり、せめてもと両手で絞って水を切りましたが、当たり前に、簡単に乾いてくれそうもありません。
「どうして服を着たまま水に入られるんです? 着替えの準備も無いのに」
呆れた様子のヴォロヒルに顔を覗き込まれたエルロンドは、地べたに座り込んだままで緩く首を振って肩をすくめています。
「わざと入ったわけじゃないよ。たまたま、足元が崩れて、それで下に落ちただけだ。昨日の雨で緩くなっていたんだな」
と言って、先程崩れ落ちた崖を指し示しました。そうは言いますが、こうして、崩れた場所を下から見ればよりよくわかります。薬草を探すのに夢中になるあまり、重さの無いエルフといえど踏み入ってはいけない箇所まで身を乗り出したことは、明白でした。エルロンド、と名を呼んだふたりの声は重なり、不注意を嗜められている気配を察したらしい当の本人は、少しばかり目を泳がせて、それから苦笑いを浮かべました。
「丸洗いできてちょうど良かった、かな?」
などと宣うので、アロンディルはヴォロヒルと目を合わせて、二人がかりで水を含んだエルロンドの上衣を剥ぎ取ってやりました。それからヴォロヒルが、自分の肩に掛けていたマントでさっと彼の身を包みます。エルロンドが、ほかのエルフと違って寒さにその身を震わせるのを知ってのことでしょう。谷の空気はとても澄んでいて、どうやら外よりも、少しばかり気温が低いようでしたから。
自分のものと同じように彼の着ていた服を絞ると、ぼたぼたとたくさんの水が溢れました。それも自分のと同じくですが、透明に澄んではいませんでしたので、彼の言うことも、あながち間違いでは無いかもしれないと思いました。幸い、雨上がりな今日は天気も良いことですし、やはりこのまま、ここで水浴びをしてしまうのも妙案かもしれません。
ばさり、と少し勢いをつけてエルロンドの服を広げて、アロンディルはハッとしました。それから、ヴォロヒルに先ほどの薬草を渡しているエルロンドの、マントの下に隠れた左腕を掴みます。察したエルロンドは咄嗟に腕を引こうとしたようですが、それよりも先に、アロンディルの眼前に白い腕は引き出されていました。
突然の行動にヴォロヒルは少し驚いたようでしたが、エルロンドの腕を見て、その眉根を寄せました。無理もないことでしょう、彼の腕には、血が滴るほどの深い傷があったのです。水に流されて分かりづらかっただけで、服のほうにもわずかに、その赤い滲みが残っていました。なるほど、妙に水から上がろうとしなかったわけです。
今ひとたびのふたりぶんの厳しい視線に、エルロンドはややたじろいだ様子で身を縮めようとしました。
「一緒に落ちた石でぶつけただけだ、これくらいすぐに治る」
言い訳がましくゆるゆると首を振りますが、アロンディルたちが眉を顰めるのは、不注意で怪我を負ったことが理由ではないのです。
「……どうして、自分の傷は治そうとしないんだ」
アロンディルが問えば、今度はエルロンドが眉根を寄せる番でした。捕らえた左腕はアロンディルの手からするりと逃げ出して、またマントの下に隠れてしまいます。前を合わせる右手が、布を強く掴んでいました。
ヴォロヒルも、物言いたげにエルロンドの肩を柔く掴みましたが、エルロンドはまたゆるく首を振ります。
「まだ、〝これ〟が何なのかもよく分からない。限られたものかもしれないのに、もし使い切ってしまったりして、大事な時に役立たなかったら困るだろう?」
俯きがちに言って、エルロンドはマントを掴んでいた右手を外し、緩慢な仕草で眼前に持っていきました。それから、知らないものでも見るかのように、裏に表にと眺めています。そこにはもう、あのエルフの指輪は嵌められておりませんでしたから、彼がそうして不思議そうに眺めているのは、みずからの〝手〟なのです。彼はそれを、どうしてか少し、畏れているようでした。
「だとしても、これっきりで構いませんから、せめて傷は塞いでください。正直、そう血を流されていると見ているこちらが堪える」
肩から滑り落ちたマントを掛け直してやりながらのヴォロヒルからそう嗜められては、少し、言葉に詰まったようでした。
「あいにく俺も、止血用の薬草を持ってきていないし、さっきのも炎症を抑えるためのものだ。おとなしく彼の言うことを聞くことだな」
アロンディルがさらに追い討ちをかければ、エルロンドはまた、鳥の囀りに負けるほど小さな声のエルフ語で何か(おそらくは文句でしょう)を言って、ようやく聞き取れたらしいヴォロヒルは、ぷっと吹き出しました。
背中をとんとんと叩かれる様子が、まるで聞き分けのない子供かのようでしたので、これにはアロンディルも思わずつられて笑ってしまいます。
ちらりと上目遣いに睨まれたようでしたが、ようやく観念したのか、左腕をマントの外に晒したエルロンドは、深く長い息を吐いてから、右の掌を傷の上に翳しました。それから、瞼を伏せた彼が〝言葉〟を唇に乗せると、目には見えない光が、肌では感じない風が、エルロンドの身を包んだように思いました。すると、どうでしょう、掌の下にあったはずの傷は、すっかりとあとかたもなく消えてしまっていたのです。
こうして幾度目にしても、つくづく不思議な光景でありました。いくら治癒力の高いエルフといえど、これほどまでに瞬時に傷を癒してしまうなど、聞いたことがありません。それは、エルフの指輪を嵌めたかの上級王ですら、成し得なかったことなのですから。
エルロンドは複雑そうな表情を浮かべていましたが、ほら、と傷の消えた腕をアロンディルたちに掲げて見せました。
それに二、三度頷いてやれば、彼は安堵するように大きく息を吐いて、上半身を倒し、草の上に寝転がりました。
その隣りに、ヴォロヒルもいよいよしっかり腰を降ろして、空を仰ぎ見ています。つられるように見上げると、青い空で雲が流れ、鳥たちが飛んでいく様が見えました。
谷間を渡る風はとても、静かです。それは穏やかで、それは静かなのです。
近場の岩に二人分の服を広げたアロンディルは、彼らに倣い、並んで草の上に寝転がりました。
風が頬を撫で、緑の香りが鼻腔をくすぐりました。