──ここは、とある国の、とある街角。古くて大きな木に守られるようにして、ひっそりと佇む、こじんまりとした小さなカフェがありました。
街の人間たちには内緒ですが、そこに暮らしているのは、幾千年の時を今なお生きる、四人の美しいエルフたちです。
これは、そんな隠れ家のようなカフェを営む彼らの、なんてことないけれど、ちょっぴり不思議な日常のお話。
たとえば、バレンタインデー。
「遠いよその国では、今日は女性から男性にチョコレートを贈る日なんだそうですよ、父上」
「このあたりの人間たちの文化とは、やることがまるで逆のようですね」
不意に掛けられた声に、視線を落としていた書物から顔を上げたエルロンドは、そっくりの顔が一対、カウンター越しに自分を覗き込んでいるのを目にしました。
これもまた、ある種の異口同音というのだろうか、と、カウンター内で肩を並べている彼らの、その美しい顔にやや見惚れながら考えていると、一方の手が伸びてきて、指先に摘んだ小さな塊をエルロンドの口内に押し込んできました。舌先に触れた覚えのある甘味につられてついそれに歯を立てれば、途端に、芳醇な香りと程よいほろ苦さを伴った甘さが口いっぱいに広がります。これには思わず、頬も綻んでしまうというものでしょう。なるほど、どうやら件のチョコレートを食べさせられたようでした。
いっそ幸せすら感じるその味を、目を閉じて堪能していれば、くすりと、ふたりが同じように笑うのが聞こえてきました。
そうっと目を開くと、彼らのうちの片方がカウンターに頬杖をついて、美しい顔ににこにこと微笑みを浮かべ、相変わらずエルロンドの顔を見つめています。双子である彼らを、ほかの者たちは「まるで見分けがつかない」などと口を揃えて評するのですが、エルロンドには、一目で彼がどちらであるのか判別できました。彼は、便宜上〝弟〟とされるエルロヒアで、その隣で珈琲豆のキャニスターを見比べているのが〝兄〟とされるエルラダンです(もっとも、彼等自身は、この兄だの弟だのという呼称をそれは露骨に嫌がるのですが)。どうして見分けらるのかと問われれば、どうして見分けられないのかが分からない、というのがエルロンドの率直な答えでした。
「よかった。お気に召されましたね」
まだ何も言っていないのに、表情でしっかりと判断されたことにはいささかの気恥ずかしさを覚えましたが、それも今更というものでしょう。かつて暮らし、愛した谷も、森も、街も、国さえも、今はもうどこにもありませんが、彼らとはもう数えることすら億劫になるほどの時間を、いまだ共に過ごしてきているのですから。
いま彼らと相対する、ここに居る〝エルロンド〟自身の記憶には無いことですが、この世にも美しい双子のエルフは、彼等が彼を父と呼んだように、エルロンドにとっての実の息子なのだというのです。これは、とても不思議な出来事の果てにある『今』であるのですが、それはまた、別の機会に詳しく語られるべきことでしょう。
見たところ歳の頃は同じくらいの者たちに「父」と呼ばれることはなんとも妙な気持ちがするものでしたが、不思議と、血の繋がりというのは肌で感じることができるもののようで、今となってはエルロンドも、この双子のことをすっかり息子として認識しているのです。
さて、彼らは先程なんと言ったのだったか。エルロンドは、今度はエルラダンの口にチョコレートの欠片を押し込むエルロヒアを眺めながら考えを巡らせました。カウンター内でカフェの開店順番をはじめている二人は、いつの頃からか、分担を決めて飲み物や軽食の類いの支度をするようになったようで、それぞれの分野に特化していく様は、見ていて面白いものがありました。そうしてそれを、互いに共有しあうのです。
彼らは容姿から性格まで本当によく似ていましたが、ごく稀に、興味の対象や味の好みなどで、対照的な面を見せることがありました。
──ああ、そうだったか。
「いつか旅したことのある国の話だな、生魚や糸を引く豆の美味い…」
「あっ、父上ちょっと、その豆の話は……」
「ヴッ……」
珈琲豆を取り出していたエルラダンの顔が心なしか青ざめたようだったので、それ以上の話題の深掘りは避けることにしましたが、そういえば件の国を旅した際、その発酵した豆を美味しく戴くことができたのは自分とエルロヒアだけであったことを思い出し、共に旅をしていた残りの二人がえらく渋い顔をしていたことをも思い出してしまい、少し可笑しくなりました。
そう、残りの二人、です。目の前の双子のほかに、もう一人。あの時もっとも渋い顔を見せた彼が、その場にはいました。そして──。
「…………なんだ、朝っぱらからこの甘ったるい匂いは」
カウンター席の奥にある扉から、不機嫌な声と共にのそりと姿を見せたのは、これまたやたらと美しい容姿を持つ、元・森の王です。彼は今も、こうしてエルロンドと双子の息子たちと共に在りました。
「おや、陛下。お早いお目覚めで」
「貴方こそ、酒臭いですよ朝っぱらから」
物怖じしない双子は、顰めっ面の彼にもまるで動じず、小うるさい娘のように口々に畳み掛けます。それにやかましそうに手を緩く振った森の王ことスランドゥイルは、あまり広くは無い室内を長い足でほんの数歩で移動し、エルロンドの横の椅子に、カウンターに背を預けるようにして気だるげに腰掛けました。美しく輝く金の髪は、窓から差す光を浴びてまるで陽光そのものだというのに、彼ときたら、双子の言う通り、見た目の爽やかさといっそ正反対な酒の匂いを纏っていました。
「何か召し上がりますか?」
エルラダンがそう声を掛けるも、スランドゥイルは徐に首を振りました。が、彼が珈琲豆をミルに移すのを目に留めるや、
「……ああ、その珈琲を淹れるなら余も貰おう」
と、長い指でそれを指しました。
「ハイハイ、濃いめですね」
慣れたもので、エルラダンは笑いながらそれに答えます。同じように笑ったエルロヒアは、どうやら今日という日の特別メニューのため、チョコレートを使った焼き菓子の準備をしているようでした。
手回しで挽くミルに凝っているエルラダンが、丁寧に珈琲豆を挽く音に耳を傾け、エルロヒアが焼く菓子やパンの良い匂い感じ、決まって最後にやってくるスランドゥイルと双子たちの軽い言葉の応酬を聞く、こんないつもの朝という時間は、エルロンドにとっては至福ともいえるようなひとときでした。
それにしても、今朝のスランドゥイルは、カウンターテーブルに片肘を付き、酒にはすこぶる強いはずの彼には珍しく、頭を抑えるような仕草をしています。その様子が可笑しいやら呆れるやらで、双子につられるように思わず小さく吹き出したエルロンドは、少し身を屈め、スランドゥイルの顔を下から覗き込みした。
「結局一晩中飲んでいたのですか? スランドゥイル」
声を掛ければ、伏せていた目蓋を億劫そうに開いた彼は目線をエルロンドの方へと向けたのですが、物言いたげな表情をしただけで結局何も言いはせず、子供にするようにエルロンドの首根っこを掴んで身を起こさせ、それから手元に目を向けたようでした。
「……して、お前はさっきから何をしているんだ」
エルロンドが先ほどから目を通していた書物に興味が湧いた様子で、確かに、何千年という時を生きてきた彼らエルフにとっては、かえって珍しいものであるのかもしれません。要は、かなり新しいものであるのです。
「ああ、本屋にやって来る人間の子供が、大人たちに勉強を教えてもらいたかったようなんです。ところが、あそこの人間たち、どうも揃いも揃ってその手のことは不得手なようで……」
エルロンドが日頃通っている、かなり古くからの書物を密かに保管してきた書店は、所有者の血統を辿るとあのヌーメノールまで行き着くという、いわばエルロスの血に連なる人間たちによって繋がれてきた歴史的遺産であるのですが……、これもまた、詳しくは別の機会に語られるべきことでありましょう。
ともかく、彼らには判別さえ出来ないほど古い、けれど大変に貴重な書物の整理を手伝うという名目でその書店で雇われる形になったエルロンドは、時にエルロスの家系の末裔たちを介して、書店を訪れる客と交流する機会などもあったのです。その折りにあった出来事を、エルロンドは手短にスランドゥイルにも伝えました。
「たしかに昔からあの家系は、皆どちらかと言えば武術を得意としていましたからね。なので、代わりにどうにか僕から教えてやれないものかと、彼らに頼まれたんですよ」
「……………こんな太古の生き物に、か?」
と、珍妙なものを観察するかのように顎を捉えてくる手は、やんわりと払いました。
「失礼ですね。……まあ、僕も矛先がこちらに向いたのは正直驚きましたが」
「大丈夫なのか、奴らは」
「多少学が無くとも、あれだけ身体が成熟していればもう大丈夫でしょう。生きていくのに困りはしませんから」
そんなことより、とエルロンドが仕切り直そうとひとつ軽く手を叩けば、何やらスランドゥイルと双子たちが顔を見合わせた様子でした。
「いまの子供たちというのは、なかなか興味深いことを学んでいる様子ですよ。面白かったので読み耽ってしまいました。ほら、この数式なんて……、」
「いや、良い、喋るな」
内容を把握するのに一晩欲しいと伝え、人間の子供たちから借りていた教科書というものの一頁を指し示したところで、やたらと食い気味に、手を翳す形で言葉を遮られてしまいました。
「君たちも彼らと一緒に学んでみるかい?」
ならばと双子の方へ目を向けると、ふたりは同時に妙な声を上げて、また同時に、一歩後退りました。
「ぼ、僕たちは、ほら、仕込みがありますから」
「そう、忙しいんですよ。今日だってもう少しで開店時間ですし」
と、壁掛けの時計の方を示すので、そちらに目を向ければ、なるほど確かに、針が示しているのは、双子の決めたこのカフェの開店時間が近い時刻でした。
「わ、いけない、もうこんな時間か。僕ももう行かなくちゃ」
ほとんど形だけの雇用ではありましたが、形式上の出勤時間は一応決められていて、エルロンドは律儀にそれを守っているのです。
手早く荷物を纏めて、上着を羽織っていれば、カウンターには、見慣れた手提げの紙袋がひとつ、エルラダンの手によって置かれました。中にはこれも見慣れたタンブラーが三つ、綺麗に収まっています。そこから漂う珈琲の匂いだけ、どこかいつもとは違うような気がしました。それから、その横にもう一つ、エルロヒアが紙袋を置きます。こちらも中にはこれもいつものように、具を挟んだパンが三つ入っているのでしょうが、袋の膨らみは、いつもの倍くらいあるように見えました。
「いつもありがとう、ふたりとも。……ああ、そうか、今日は特別仕様なんだね」
不思議に思いながら受け取り、中から覗いたラッピングにようやく合点がいきました。
「貴方のぶんも、ちゃんと入ってますからね、父上」
「一緒に珈琲も、ちゃんと飲んでくださいね」
などと念を押されながら、カウンター越しに、エルロンドは双子とそれぞれ互いに頬にキスをしました。
それから、隣に座るスランドゥイルとも。すると、なにやら片眉を上げた彼は、扉へ向かおうとしたエルロンドの腕をするりと捕らえました。
「ばかもの、忘れ物だ」
不意に腕を引かれたエルロンドはバランスを崩しかけましたが、立ち上がったスランドゥイルの腕にしっかり支えられましたので、倒れてしまうようなことはありませんでした。
何事かと頭一つほど背の高い彼を見上げると、その手に持った眼鏡のつるがエルロンドの耳に掛かりました。カウンターに置いたままにしていたそれは、外へ出掛ける時には必ず身につけておくようにと、彼から言い付けられている物なのです。
「ああ、本当ですね。ありがとう、スランドゥイル」
じっと目を覗き込んでくるのは、本人の視界には影響を与えないレンズが、けれど外から見る者に対して、エルロンドの瞳に宿る光をしっかりと隠しているかを確かめるためでしょう。わかっていても、宝石のような澄んだアイスブルーの瞳に見据えられるのは、あまり心臓に良くありません。
そのまま耳へと滑ってきた手は、四人が揃いでつけている銀の小さな耳飾りに触れ、じんわりとそこが温かくなりました。
スランドゥイルの手が離れていった耳に触れてみると、本来の尖りはすっかり丸くなり、人間のそれと変わらない形になったようでした。
また顎の辺りを掴んで、耳やら目やらと観察したスランドゥイルは、それから満足そうに元の席に腰掛けました。
思わず詰めていた息をエルロンドがようやく吐き出せば、不意に背後から身体を抱きとめられました。
「……エルロヒア?」
少し驚いたものの、すぐに正体は分かりましたから、いつの間にかカウンターから出てきたらしい背後の彼に声を掛ければ、くすくすと笑うのが聞こえました。
「相変わらず、よく顔も見ずに僕が僕だと分かりましたね」
スランドゥイルほどではありませんが、双子たちもまた背が高く、エルロンドの身体はその長い腕ですっぽりと包まれてしまいます。顔を見ようと身を捩ったところ、こめかみのあたりにキスが落とされ、気がつくと、エルロンドの首にはふかふかとした毛糸で編まれたマフラーが巻かれていました。
「今日は随分冷えそうですからね、貴方にはきっと寒いですよ」
と言ったのは、スランドゥイル用のカップに珈琲を注いでいるエルラダンです。確かに、窓から見える外の景色には、この街には珍しい雪が舞い始めていました。なるほど、この腕の中から出てしまうのは、少しばかり惜しいことかもしれません。
「どうぞ」
「……ああ、すまんな」
エルラダンがスランドゥイル差し出したカップから湯気が立ち上る様を見たら、手元の珈琲が冷めてしまわないうちに、と心が決まりました。
少し踵を浮かせなければ届かないのは癪でしたが、エルロヒアの頬にもう一度、ふたつキスをして、エルロンドは扉へと向かいました。
「ああ、そうだ」
そうしてドアノブに手を掛けてから、大事なことを思い出しました。
「スランドゥイル、出掛けるのは結構ですが、ちゃんと帰ってきてくださいね」
そう念押しの声を掛ければ、やっぱり彼は面倒そうに、シッシと手を払います。
対の微笑みを浮かべた双子は、「お気を付けて、父上」と声を揃えて言いました。
扉を開いた途端、顔に当たった風は確かにとても冷たくありましたが、温かいもので身を守られていましたから、いくらでも耐えられてしまいそうに思えました。
「それじゃあ、またあとで」
── For my Valentine. ──
「陛下も、よろしければどうぞ」
「……これはなんだ?」
「あなたにも、チョコレートです。お口に合うか分かりませんが」
「その珈琲ともよく合うはずですよ」
「ほう? …………ふむ、これは、なかなか美味いな」
「でしょう? ウイスキーボンボンというそうです」
「貴方のお酒を少しばかり拝借しましたからね。美味しいはずです」
「なるほどな。……ククッ、それなら、確かに美味いはずだ」
「…………もう」
「お酒もほどほどにされてくださいね?」
おしまい