透明な水 3 それからの谷での暮らしはといえば、つまるところ、それまでの日々とはそれほど大きく変わりありませんでした。
ひとつ変わったことといえば、王の代行として執政の役割を果たすという仕事が、エルロンドにひとつ増えたことくらいです。けれどそれも、元々リンドンでは高官の立場にあったという彼にとっては、むしろお手のものでさえある様子でした。
アロンディルとヴォロヒルにとっては、王とガラドリエルという歯止めが居なくなったことで、ますます献身的に働き出したエルロンドを、あの手この手で倒れる前に寝かしつけるという、やたらに難易度の高い任務との闘いの日々のはじまりでありましたが。
くすくすと笑うヴォロヒルの声にハッとして、アロンディルがそちらを見やると、彼が微笑みを浮かべて見下ろす先では、草の上に寝転がったエルロンドが、目を閉じて穏やかに寝息を立てはじめていました。隣で仰向けに寝転がっていたアロンディルは、身体を横に向け、地面に肘をついて頭を支え、同じく彼の寝顔を見下ろしました。
目蓋を閉じた寝顔や、水気を吸って常よりうねりの強くなった黒髪はやはり、かの人間たちの姿をアロンディルに思い出させます。谷の平穏の中に身を置いていると、どうか彼らも息災であるようにと、強く願わずにいられませんでした。
指の背で頬にそっと触れても、起き出してしまうような気配はありません。水に濡れたせいか、白い肌は少しひんやりとしていました。
「水に落とすのが手っ取り早そうだ」
はだけてしまったマントを直し、前で合わせた布をピンで留めてやりながら、ヴォロヒルがそんな事を言うので、アロンディルはまた少し笑ってしまいます。
「妙案だが、毎回掬い上げる俺の身にもなってくれ」
と返せば、ヴォロヒルは少し肩をすくめました。
「協力できなくて悪いな、泳ぎはあまり得意じゃないんだ」
などと冗談めかすのですが、はたしてそれは本当だろうかとひそかに思います。彼の、オークの弓を受けて負った傷は、時折まだ少し痛むことがある様子でしたから。
エルフはオークの毒を受けたところで、自浄作用により人間のように死に至ってしまうようなことはありませんが、身体の奥深くに入り込んでしまうと、しばらくの間は後遺症の形で痛みや麻痺が残ってしまうことがあるのです。解毒効果のある薬草を谷間で見つけるのが少し遅れてしまったため、彼のように後遺症を抱えてしまったエルフは、他にも多く存在していました。それらも、エルロンドの与える癒しの力で、少しずつ和らいでいる様子ではありましたが。
「……いや、だめだな」
エルロンドの頭の下にあの麻袋を挟みながら、ヴォロヒルは残念そうに嘆息しました。先を促してみると、「ガラドリエル様が川に落とした時は、そういえば眠りはしなかった」と、首を横に振り、彼は答えました。言われてみれば確かにそうでしたから、アロンディルは今度こそ、声を出して笑ってしまいました。それに反応したエルロンドが僅かに身じろぎをしたので、シーッと、柔らかく胸を叩いて落ち着かせてやれば、幸い、まだ目覚めてしまうことはありませんでした。できることならもう少しの間、眠って身体を休めてほしいところです。
「あの時は、むしろスッキリした顔で元気になってた」
起こしてしまわないよう、笑いを堪えたアロンディルはそう言いました。
あの時、少し高さのある場所から川に投げ落とされたエルロンドは、彼女の不意打ちの暴挙に驚いたせいかそのまま下流へ向かって流されていきましたので、傍で見ていたアロンディルが慌ててそれを追いかけ、彼を水流から掬い上げたのです。
ずっと思い詰めたような顔をして汚れにまみれていたエルロンドが、清い水に洗われすっかり綺麗になって、「驚いた」と無邪気な笑顔を浮かべたのには、心を奪われたものでした。思えばあの時も、思い出したのはヌーメノールの青年の笑顔でした。そして、連鎖的に浮かんだのは、ペラルギルに残してきたテオの顔と、それから──。
胸に走った鈍い痛みに耐えかねて、堪えきれなかった涙がひとつぶ溢れてしまったことを覚えています。目の前の人が、共鳴するように美しい顔を歪めたことも。ひんやりとした両手に頬を包まれて、額が合わさり、アロンディルは彼の唇が紡いだ言葉を聞いたのでした。
しまったな、とアロンディルは思いました。そうしてまたひとつ、エルロンドの挙動について、余計なことを思いだしてしまったのです。
そのとき、痛みは去らずとも、胸には温かいものが灯りましたので、彼はきっと、癒しの力を使ったのでしょう。心を癒す効果は無いことを知りながらも、きっと。
<Hannon le>と告げたアロンディルに、エルロンドは花が綻ぶような微笑みを浮かべ、不意に、唇に軽く重なったものがありました。それはほんの一瞬の出来事で、アロンディルはひどく驚いてしまったのですが、一方でエルロンドは、気遣わしげにこそしてはいるものの、まるで意に介した様子も無いのです。だから、抱いた違和感はいったん頭から振り払い、きっと、少しばかり位置を間違えでもしたのだろうと思うことにしました。
──ところがその後、いつものように、まだ継続的な治療を必要としているエルフたちを診ていた際のことです。あの戦火で尊敬する師(それがかのケレブリンボール卿であることは明白でした)を失ってしまったという年若い青年が、涙ながらに苦しい胸の内を話すのを、自身も涙を浮かべながらじっくりと聞いたエルロンドは、あのときアロンディルにしたのと同じに、額を合わせ、言葉を紡ぎ、最後にやはり、彼に口付けを落とそうとしました。当たり前かのように、唇に、です。咄嗟にそれを止めたのは、アロンディルとヴォロヒルと同時の行動でした。
雰囲気に飲まれていたものの、我に返ったその青年は、気の毒に耳まで真っ赤になって顔を覆い疼くまってしまい、口元を手で覆われた当のエルロンドは、不思議そうに瞬きするばかりだったのです。ヴォロヒルが「どうりで」と絞り出すような声で言ったのが、やけに耳に残りました。
天幕から連れ出したエルロンドを二人がかりで問い詰めたところ、触れるだけの口付けは親愛の証だと教わった、と本人も青ざめた顔で語り、誰にと問うたところで「誰だっていいだろう」と答えるばかりで、アロンディルとヴォロヒルの頭を抱えさせました。じゃあ、と震えた声でヴォロヒルに問い掛けたエルロンドは、彼が頷くのを見て、いよいよ膝から崩れ落ちてしまいました。エルフ以外には驚いてしまうからしてはいけないとは聞いていたけれど、と言うので、彼にその入れ知恵をした者はエルフで間違いないでしょう。なんて悪戯をしかけてくれたのかと、その不埒者を糾弾したいところでしたが、アロンディルが真っ先に疑惑の念を向けた人物は、とてもではありませんが楯突くことのできる相手ではないのです。
アロンディルに対しても、エルロンドはしきりに申し訳ないと繰り返しましたが、蒸し返されるとかえって意識してしまうから、もう無かったことにして忘れようと言いました。到底無理であると分かった上で。
だいたい、エルロンドの気掛かりはどうやらもっと別のところにあるようで、ヴォロヒルもその正体には気づいていたようでした。けれど、どうしてか、あの時はそれ以上の追求は憚られるように思えたのでした。
「やっぱり薬草を使うのが一番か?」
記憶に潜り込んでいたアロンディルの意識は、再びヴォロヒルの声によって引き戻されました。もしかすれば、つられて少しばかり眠っていたのかもしれません。
「──ああ、残念だが同じのはもう通用しない。この間は嗅がせようとしてすぐに気付かれた」
ヴォロヒルの言う薬草とは、葉の香りに鎮静の効果があり、揉んで芳香を嗅がせれば、相手を眠りに落とすことのできる類のものです。ただ、効果があるのは人間の、それも成熟していない子供に限りましたし、それもすぐに耐性が付いてしまう程度の効果でしたから、人間たちでさえ、ぐずる幼い子供を眠らせるためにしか使わないような代物なのです。
それを、いつもの薬草探しの最中たまたまアロンディルが見つけ、香りに安らぎの効果があるのだと二人に嗅がせたところ、思いがけずエルロンドをその場で眠りに落としてしまったことがありました。よもやエルフの、それも大人に効果があるとは思ってもみませんでしたので、アロンディルはこの時も冷や汗をかかされたものですが、頑固な主に手を焼いていたヴォロヒルは「使えるな」とその薬草をいくらか摘んでいました。
残念ながら、一度は不意打ちで匂いを嗅がせて眠らせることに成功したものの、その次は保管している袋から葉を取り出した時点で気付かれてしまい、あえなく失敗に終わっているのです。
「……難儀だな」
ほう、と息を吐いたヴォロヒルは、後ろ手を着いてまた空を仰ぎました。エルロンドに視線を戻してみると、どうやらうまいこと深く寝入ってくれた様子で、起きている間は大抵難しい顔で皺の寄せられている眉間も、いまはすっかり脱力しているようでした。
木立の間から鳥の鳴く声が響き、遠くから滝の音が聞こえてくるだけの谷間は、やはり確かに静かで穏やかであるというのに、どうして彼の周りだけ、常に忙しなく時が流れ、絶えず音が鳴り止まぬかのような様子なのだろうと、時折思うことがありました。どこか、彼自身が安らぐことを拒んでいるかのようでさえありましたから。
「色々使わなくても、倒れる前に自分で休んでくれたら、それが一番助かるんだが」
「まったくだ。また怪我でもされたら堪らない」
ヴォロヒルが深く溜め息を吐くのも、無理のないことでしょう。なぜなら、王たちが旅立ったのち、またも体力の限界を迎え昏倒するに至ったエルロンドは、倒れた拍子に頭をぶつけ、これがまた悪いことに打ち所が良くなく、派手な流血をしているのです。癒し手本人は気を失っているうえ、王とガラドリエルも不在とあって、谷間は滞在しているドワーフたちも巻き込んで一時騒然となりました。結局、可哀想に思いつつもどうにか本人を叩き起こすほかに打つ手はなく、朦朧としている彼に自力で傷を塞がせ(大丈夫だと言い張るのをどうにか説き伏せるおまけ付きです)、なんとかかんとか急場を凌いだのでした。できることなら、あのような事態はもう二度と御免被りたいのは、アロンディルとて同じなのです。
「……人間の血、か。どういう感じなんだろう」
南方国に赴任していた八十年近くの間、人間といういきものたちの営みを、アロンディルは彼らの傍でたくさん見てきました。一連の有事を通じて、その弱さも、強さも、より深く知ったように思います。けれど、エルフとしてこの世に生を受けた以上、どれだけ知識を得たとて、その生態を己が身をもって知ることは、たとえ世界が終わろうと決して叶わないことなのです。唯一、目の前で眠る彼を除いては。
「想像もつかないことだな、ただのエルフには」
と、ヴォロヒルは苦笑いを溢したようでした。
身に染みてわかっているだろうに、倒れる限界まで己を顧みないエルロンドの考えることは、人間の生態以上にもっとわかりません。だからこそ、王とガラドリエルが自分たちに託した役割の意味のほうは、よくよく理解することができました。きっとそれはヴォロヒルも同じで、谷での暮らしの中、身に付ける装備を軽くしていってもマントはいつも手放さずにいるのも、おそらく彼自身のためではないのでしょう。
そのマントに包まれて眠る、世話の焼ける半エルフは、呼吸に合わせて上下する胸を注意深く観察していないと、いささか不安を抱いてしまうほどに、じっとしていました。濡れて張り付いた髪を除けても反応は無く、頬に指の背を滑らせてみても、それには変わりありません。指が薄く開いた唇の際にたどり着き、肌でその寝息を感じたことで、ようやくアロンディルは少しの安堵を覚えました。
そういえば、と、ヴォロヒルがふいにぽつりと呟きました。その視線はアロンディルの指を追っていたように思えて、何故だか心当たりのない後ろめたさを感じ、反射的に手を引っ込めたことが少しばかり可笑しくなりました。
「誰だと思う、〝アレ〟の犯人は」
彼が口にしたのは、ふたりにとっての、もうひとつの秘密の共有事項です。これもまた、密かに二人に与えられた、ガラドリエルからの司令でした。すなわち、エルロンドに例の口付けの意味を吹き込んだ不埒者の正体を特定せよ、との命です。──あの事件があった後、エルロンドの様子は少しおかしくなりましたので、どうやらヴォロヒルが彼女に事の顛末を報告したようでした。
密命なだけあり、ふたりは特に表立って行動はしませんでしたが、これまでずっと、エルロンド本人との会話や、あるいは彼を知るエルフやドワーフからどうにか犯人を割り出せないものかと密やかに窺ってきたのです。
「……ああ、やっぱり上級王じゃないのか?」
「いや、どうやらそれは違うらしい」
「そうなのか?」
アロンディルが疑った犯人は、やはり上級王そのひとでしたから、当てが外れたことは意外に思いました。正直なところ、まず間違いないとさえ考えていたのです。(なにせ、彼らの関係を思えば、有り得すぎるほどには有り得る話でしたから)
「最初に言うべきだったな。ガラドリエル様もまず王を問い詰めたらしいが、食い気味に否定なされたそうだ。本当かどうかわからないが」
「嘘なら、ガラドリエル様が見抜くだろうな」
そう思う、とヴォロヒルは数度頷きました。
「ただ、そうなると、悪いが俺にはもう皆目見当がつかない」
なにせ、リンドンで暮らしていたわけでもないアロンディルには、エルロンドの交友関係など知る由もなかったのですから。
「こっちもそう変わらないさ。が、最近気が付いたんだが、ひとりだけ、心当たりがある。……と、思わないか?」
と、ヴォロヒルは人差し指を一本立てました。その指先は、つい、と谷間の拠点の方角へと向けられます。
拠点の風景を頭に描いたアロンディルは、今朝方、ドワーフの一団と居住館の設計図を囲んでいたエルロンドの姿を思い出しました。そうして、なるほど、と思いました。
もしも、大前提である始めの読みが、既に間違っていたのだとしたら──。そう、当たり前に、答えに辿りつけるはずもなかったのです。つまりは、エルフ以外の種族が元凶である可能性でした。
「ドワーフの王子か。聞く限り、有り得ない話じゃないな」
「ああ。一度話を聞いてみる価値はありそうだ。そんな機会があれば、の話だが」
谷にいる複数人から話を聞く限り、エルロンドが古くから懇意にしている相手といえば、カザド=ドゥームの王子ドゥリンが筆頭候補として上がってくるのです。なるほど、それぞれの文化の違いを盾に、間違った知識を刷り込むことも、ある種容易であるのかもしれません。少し疑問も残る推理ではありましたが、あらゆる可能性を探っておくべきだろうと思うことにしました。
そんなことを考えながら、ずいぶんと平和な任務を与えられたものだなと、アロンディルは可笑しくなりました。可笑しくて、いよいよ笑い出してしまうのをもう抑えることができませんでした。
ヴォロヒルははじめ、そんなアロンディルに少し目を丸くしていましたが、やがてつられるように肩を震わせ、同じように笑い出しました。
「なにをやってるんだろうな、俺たちは」
と、アロンディルが言えば、本当に、とヴォロヒルが返しました。
そうして二人でひとしきり笑って、また仰向けに転がると、ヴォロヒルも同じく草の上に上半身を倒しました。それに反応したのか、身じろぎをしたエルロンドが彼の方に寝返りをうって、またなにか呟きながら身体を丸めました。くすりと、ヴォロヒルが笑うのが聞こえます。
「笑ってる」
と言うので、そっと上からエルロンドの顔を覗こんでみれば、たしかに彼の寝顔には、めずらしく微笑みのかたちが浮かんでいました。
「良い夢でも見ていればいいな」
自身も微笑みを浮かべたヴォロヒルの指が、遠慮がちに彼の頬に触れるのを見るうち、どうしてか、鼻の奥がつんと痛みました。
きっと、太陽の光が眩しく、目に染みたせいなのです。だから、もう一度寝転がったアロンディルは、隣の半エルフに倣って目を閉じました。そうするとより鮮明に感じる、背中を直に擽ぐる草の感触は、緑の匂いは、今となっては懐かしくさえある、南方国のあの景色をアロンディルに思い出させます。
目蓋の裏側には、いくつもの顔が浮かんでは消えてを繰り返し、少しばかりアロンディルの呼吸を苦しくさせました。けれど、いちばん最後に浮かんだそのひとの顔は、相変わらずの美しい笑みを湛えて、アロンディルの心に、ひとときの安らぎをあたえてくれたのでした。
end 2024.11.18